Share

12.理性の縁

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-05 09:57:14

雨の気配が漂う午後の書生室は、意識が揺れる場所だった。軒先にしとしとと当たる水滴の音が、濡れた土の匂いとともに空気に満ちている。室内では僅かな灯火が揺れ、壁に映る影を刻みながら、直哉の内面の葛藤を映し出していた。

直哉は机に向かい、授業後の筆写作業に取り組んでいた。だが、その手は滑らかではなかった。紙に刷られた文字は一定のリズムを失い、行間から彼の集中の乱れが透けていた。視界の隅に浮かぶのは、午前中に感じた、彰人の柔らかな息遣いと、白檀の香と混ざり合った髪の匂い。あの瞬間の冷たく澄んだ空気が、胸の奥で揺れていた。

直哉は呼吸を整え、声に出した。

「授業は…教育として、すべて理に基づいて──」

言葉を吐き出した瞬間、自分の声が震えているのを感じて咄嗟に筆を置いた。理性の声を自分に向けて繰り返すほど、心の中ではそれがかすれていくのを覚えた。

午後の日差しは遮られ、部屋は薄暗く湿った空気が立ち込めている。油灯の炎が揺らぎ、文字を書く指先の影が掠れた。その陰影は、直哉の内面の揺らぎそのものだった。

自分が、抑えてきたはずのものに飲まれそうになっている。教育者としての冷静さ、自制心――それを守ろうとする意志が、今まさに崩れかけている。

直哉は、思考の奥へ沈む声を拾った。

「…あれは、ただの教育だった…」

反芻するほどに、その言葉の裏にある感情の重さが増していく。理屈ではなく、身体が反応したあの瞬間。あの指先の温かさが、自分の中に動きをもたらしてしまった。

彼は立ち上がり、窓辺に近づいた。雨粒が軒を打つ音が、湿った風とともに襟元を揺らした。外の庭は見えない。暗く閉ざされた夜のように、視界も心も曇っていた。

直哉は掌で額を押さえた。冷たい木の感触が、ひととき理性を呼び戻すようだった。だが内側では、確かな熱が冷めずに残っている。

「…理を失えば、己を見失う」

その言葉が、わずかに震えながらも口をついて出る。教育者としての矜持を保とうと必死に声を絞り出す。それでも胸の中のざわめきは収まらなかった。

雨は一層強くなり、軒を伝った雫が

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   22.蜜の夜

    夜の静けさが、桂木家の奥座敷にゆるやかに満ちていく。障子の外で虫の声が微かに重なり合い、行灯の灯りが畳の上に淡い金色の輪郭を描く。白檀と椿油の香が室内をくぐもらせ、昼間の理性も社会の名残も、ゆっくりと夜の帳に溶かされていった。彰人の私室には、ふたりだけのための濃密な空気が息づいていた。直哉は障子を閉め、静かに息を整える。彰人は布団の上で膝を抱え、じっと直哉を見つめている。その瞳の奥に、夜の闇を照らす火の粉のような不安と期待が滲んでいた。「今夜も、…ここにいてくださいますか」彰人が低く呟いた。直哉は言葉で答えず、彰人の傍らに膝をつき、そっと肩を抱いた。その腕は、もはや何者からも彰人を守り、隠し、そして支配することだけを求めていた。彰人の細い体を包み込み、静かに唇を寄せる。「…彰人さま」息を重ねるたび、熱が肌から肌へ伝播していく。直哉の手が彰人の首筋をなぞり、肩を伝い、背を撫でる。彰人の体は昨夜よりもさらに柔らかく、指先が触れるたび、微かに震えた。その震えが、直哉の理性を遠くに追いやる。「痛くしない」そう呟く直哉の声は、どこか必死だった。彰人は目を伏せ、頬を赤らめながら、そっと唇を差し出す。その唇を、直哉が覆う。最初はゆっくりと、だが次第に熱を孕み、噛みつくような深さに変わっていく。彰人の息が、唇の隙間から零れた。指先が襦袢の紐をほどき、襟を外していく。肌が露わになるたび、彰人の胸が波立つ。白い肌に直哉の手が這い、胸元に唇を落とす。吐息と指先が乳首に触れ、彰人の身体は痛みに近い感覚に身を委ねていく。恥じらいも、羞恥も、すべてを直哉の求めに差し出した。「直哉さん…」名前を呼ぶ声が、夜気に吸い込まれる。直哉は彰人の太腿に手を滑らせ、膝を開かせた。椿油の瓶が小さく転がる音がした。直哉は自分の指に油を馴染ませ、彰人の秘めた場所にそっと触れる。彰人の身体が跳ねる。「怖くない」直哉は囁く。彰人は頷き、ぎゅっと直哉の手を握る。その後は、言葉も思考も溶けるようだった。直哉の手が、指が、身体の奥を優しく、時に強く攻める。

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   21.昼の影、夜の熱

    昼下がりの桂木家は、外の蝉の声が遠く響くほか、ほとんど音のない静けさに包まれていた。廊下を吹き抜ける風は弱く、障子越しの光は緩やかに傾きはじめている。庭の樹々の影が畳に長く伸びるたび、季節の移ろいもゆっくりと流れるように感じられた。私室では、彰人が机に向かい、直哉がその横で教本を指差しながら、淡々と漢文の解釈を語っている。昼の直哉は昨夜の熱とは別人のように冷静で、厳格ですらあった。だが彰人には、直哉が自分の手を導いたときの熱や、唇が額に触れた感触が、指先にまだ微かに残っている気がしてならなかった。直哉は時おり筆の握り方を確かめるように彰人の手に触れ、そのたびに彰人の心臓がひどく騒いだ。夜に触れ合った手のぬくもりが、昼の光の下ではいっそう鮮やかに蘇る。墨の香と、昼下がりの甘い空気。直哉の指が自分の肌をなぞる感覚を思い出しては、彰人は呼吸が浅くなる。「ここは、こう読み下します」直哉が穏やかな声で言葉を繋ぐ。教本に視線を落としながらも、彰人の横顔にときおり目をやっているのが分かった。彰人は小さく頷き、視線を机の上の半紙に落とした。だが、耳の奥では昨夜の囁き声が何度も蘇る。「分かりました」彰人の声は自分でも分かるほど掠れていた。直哉はその声の震えに、わずかに眉を動かす。「疲れましたか」その一言が妙に優しく、彰人の胸の奥をくすぐる。昼間の直哉は、あくまで教師の顔を装うけれど、その眼差しの底に、夜の熱が眠っていることを彰人は感じてしまう。「いいえ、大丈夫です」彰人は微笑んでみせるが、その微笑みにも夜の名残が隠れている。直哉はしばし黙り、彰人の手を包むようにして持ち上げる。「指先が冷えていますね」直哉が、まるで何気ない仕草のように彰人の手を自分の手で包む。だがその手の温度は、昨夜の熱をすぐに蘇らせた。彰人は自分の鼓動が、ふいに速くなるのを感じる。「…昨日、寝冷えしたのかもしれません」彰人の言い訳めいた言葉に、直哉は静かに目を伏せる。だが唇の端が、僅かに揺れていた。その瞬間、二人の間の空気が昼の光のなかで緩やかに色づく。ふと障子の向こうから女

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   20.朝の指先

    障子の向こうに朝靄が溶けていく。桂木家の静かな朝、彰人の私室は、昨夜の余韻をまだ微かに残していた。畳に座るふたりの間に流れる空気は、白檀と墨の香りが静かに混じり合い、淡く甘い。行灯はすでに消され、障子越しのやわらかな光だけが部屋の輪郭を優しく撫でていた。彰人は、机に筆を構えたまま、目の前の白い半紙と、横にいる直哉の横顔を交互に見つめていた。机の上に置かれた硯と墨壺、きれいに揃えられた紙の端…どれも昨日までと何ひとつ変わらないはずなのに、指先から伝わる感触も、紙に落ちる墨の滲みも、どこか鮮烈に思えてならなかった。直哉は、その気配に気づいていた。けれども、何も言わず、いつものように筆の持ち方を静かに直す。「もう少し、手首を柔らかく」彰人の指にそっと自分の指を重ねる。昨夜、何度も肌を重ね、濡れた掌で触れたはずの手のひら。その温度と、いま重なる指の温度が一つになり、彰人の胸に小さな波紋を広げる。筆の軸がわずかに汗ばむ。直哉の手は温かく、しなやかだった。「ここを、少しだけ下げて…そう、そのまま」筆先が紙にすっと触れる。直哉の声は、夜の熱とは異なる、淡く静かな響きをもって彰人の耳に届く。だが、耳の奥が熱くなり、頬の内側まで赤く染まるのを彰人は隠せなかった。昨夜、あれほど熱を交わしながらも、こうして教師としての直哉が傍らにいると、どうしようもなく心がざわめく。彰人は思わず小さく息を吸い込む。白檀の香が喉の奥に落ちていく。その香りが、昨夜の柔らかい肌と唇、畳に転がる汗の感触を鮮やかに蘇らせる。「……筆、重いです」そう呟く彰人の声は、どこか頼りなく、甘い。直哉は微かに眉を動かしたが、すぐに穏やかな声で応える。「慣れるまでは、無理をしなくて大丈夫です。今日は、ゆっくりで」そう言いながら、もう一度、彰人の手を包む。その手つきが妙に優しくて、彰人は思わず目を伏せた。視線の先で、二人の手が重なり合い、墨の色が指先に移る。筆を導かれる感覚と、昨夜導かれた身体の記憶が交錯する。体の奥に熱が残るような錯覚さえ覚えた。ふいに、直哉が彰人の横顔に視線を

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   19.夜明けの影

    夜明けは静かに、誰にも気づかれぬほど慎ましくやってきた。行灯の火はとうに尽き、畳の上には昨夜の熱と香りだけが、かすかな余韻として漂っていた。障子越しに差し込む光は、まだ白く淡く、夜の名残を払うには力が弱かった。それでも、部屋の片隅には新しい朝の気配が確かに芽吹きはじめていた。直哉は、仰向けになったまま、隣に眠る彰人を見つめていた。彰人の頬は、眠りのなかでうっすら紅潮し、唇は微かに開かれている。まだ少年の面影を残すまつげが、閉じた瞳の上で静かに震えている。肩口には自分の手の跡が淡く残っていて、夜の交わりが夢ではなかったことを、その痕跡が生々しく証していた。畳に広がる椿油と白檀の匂い、汗と体温の混じった残り香。それらすべてが直哉の身体と意識を朝の現実へとつなぎとめている。だが、胸の奥では静かな嵐が渦を巻いていた。あれほど強く誓った自制も、倫理も、昨夜のあの一瞬で崩れ去った。自分がどこで境界を越えたのか、もう思い出せない。ただ、彰人の体温を感じた時、心が抗えぬほどの渇きに染め抜かれていたのだと、今になって思い知る。拳が、しっかりと握られているのに気づく。緩めようとしたが、指は固くこわばったまま動かなかった。心のなかでは、無数の声が錯綜している。なぜ、あんなにも欲望に呑まれてしまったのか。どうして最後まで拒めなかったのか。自分の浅ましさと、理性のもろさと、そして…それでも胸の奥から滲み上がってくる、どうしようもない幸福のような熱。彰人の寝息は静かで、呼吸に合わせて白い胸が上下している。肌には、自分が残した痕が薄く点在していた。頬に触れた跡、首筋にかじりついた跡、そして太腿に指を食い込ませた紅い筋。すべてが昨夜の証であり、罪そのものであり、それなのに、ひどく愛おしいものに見えた。直哉は、そっと彰人の頬に指先を伸ばしかけて、思いとどまった。もうこれ以上、彼に触れてはいけないような気がした。昨夜の行為が、どれほど自分たちの関係を変えてしまったのかを、いま改めて噛み締める。師でも、家の書生でもなく、ただ一人の男として彼を抱いた。それは許されぬ越境であり、もはや引き返すことのできない場所まで来てしまったという実感だった。けれども、胸の底には甘美な満足がじっとりと残ってい

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   18.絶頂と余韻

    行灯の火はかすかに揺れながら、もうすぐ尽きる油を惜しむように細い灯を保っていた。室内は白檀の香と熱気に満たされ、畳の上で絡み合うふたりの身体が、そのすべてを吸い込んでいた。直哉の動きは荒く、必死で、だが最後にはどこか祈るように静けさを孕んでいた。彰人の内側は、痛みと甘さ、切なさと熱でどろどろに溶けている。足首が畳を擦る音、汗の粒が胸を這う感覚。指先がどこかを掴み、もつれ、乱れた息が唇から零れていく。直哉はひたすらに奥へ、奥へと求め、彰人の体を両腕で包み込む。息が絡み、肌が擦れる音が、白檀の匂いのなかで際立った。「…彰人さま…」呼吸の合間、途切れた声で名を呼ぶ。その声に応えるように、彰人の身体が僅かに跳ね、熱い何かが奥で弾けた。直哉の動きがさらに深く強くなり、彰人は瞳を閉じて、頭の奥まで焼き尽くされるような快楽に呑まれていく。「…あ…だめ、もう…っ」声はかすれ、涙の滲んだ視界に、行灯の揺らめきが滲んでいた。奥に充満する熱、前の昂ぶりを直哉の手でしごかれ、呼吸と心臓の鼓動が一つになっていく。自分が今どこにいて、誰と繋がっているのか、もう何も分からない。ただ快感の波が、深く、重く、全身を飲み込んでいく。直哉の身体が震えた瞬間、彰人の奥に灼けつくような熱が迸った。同時に彰人も、前を強くしごかれて果てる。体の奥と前、二つの場所から快感が溢れ、全ての力が抜け落ちていった。二人の叫びが夜の空気に重なり、行灯の灯が大きく揺れる。「…っ、彰人さま…」「…直哉さま…」呼吸も、鼓動も、全てがほどけていく。ふたりは畳に倒れ込むように重なり合い、汗と油に濡れた肌を、互いに必死で抱きしめた。直哉は、彰人の髪に額を埋め、熱い吐息を繰り返す。彰人は、ただ黙って目を閉じ、直哉の重みを全身で受け止めた。何も言葉はなかった。すべての音が遠ざかり、ふたりの間にだけ、静かな熱が残る。白檀の香がより濃くなり、椿油の残り香が肌と肌の間に留まる。汗のしずくが首筋から胸へと滑り、畳の上に小さな染みを作る。それさえも、いまは美しい

  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   17.崩れる声

    行灯の火は深夜の底で呼吸し、ふいに強まり、また細く揺れる。障子越しに降り注ぐ夜気は湿り、畳は汗と油を滲ませてひっそりと濃密な匂いを放っていた。桂木彰人の体は、裸のまま直哉の腕の中に包まれ、油と汗が交じりあう温度に焼かれていた。直哉は激しさと必死さの狭間で、まるで己の全てを賭けるように彰人の体を求め続けた。重なる肌と肌、熱い掌が髪や頬、細い肩や背中を這い、膝の裏まで撫で尽くす。そのたび、油を塗った滑らかな皮膚が直哉の指を受け入れ、粘度のある音を立てた。彰人は目尻を赤く染め、唇を噛みしめ、時折呻きのような声を喉の奥で震わせた。痛みも、熱も、甘さも、すべてが一つに溶けてゆく。「…彰人さま…」直哉は呼吸を荒くしながら、名前をかすれるように呼ぶ。その声はもう師でも書生でもなく、ただ一人の男の欲望そのものだった。唇が彰人の首筋を這い、耳朶を噛み、耳の奥に熱い息を流し込む。彰人は無意識に首を反らし、細い指先が直哉の背を掴む。「やめ…ないで…」その声は震えている。恐れと快楽と羞恥が入り交じり、言葉の奥に滲む甘やかな哀願。それを聞いた直哉の目に、光が宿る。体がますます深く、奥へと沈んでゆく。彰人の内壁は熱くきゅっと締め付け、直哉の昂ぶりを深く受け入れて離さない。二人の呼吸が部屋の空気を震わせ、白檀と椿油と汗の香りが一層濃くなった。「…痛く…ないですか」直哉が、額にかかった髪をかきあげながら、囁くように問いかける。その手が彰人の涙に触れる。彰人は小さく首を振り、荒い息のまま直哉の手のひらに頬をすり寄せた。頬は火が入ったように熱く、涙の跡が光っている。「大丈夫…もっと…」唇が、言葉を探しながら震える。身体の奥で、何かがはじける音がした。快楽と痛みはもはや同じ線上にあり、どちらとも名付けられない熱に変わっていた。直哉はそのすべてを、抱きしめる腕で、ぶつかる腰で、貪る唇で確かめる。掌が彰人の胸を優しく撫で、立った乳首を親指で転がす。彰人の体は跳ね、喉の奥から低い呻きが漏れる。唇が鎖骨から胸元、乳首へと這い降り、舌が湿っ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status