LOGIN氷室様が朝食を食べるようになって、3日が経った。
毎朝7時に、氷室様はリビングに現れる。
黒いスーツに身を包み、髪は完璧に整えられている。
最初の朝は、ただ黙々と食べるだけだった。
しかし、2日目の朝に変化があった。
「……美味い」
小さく呟いた。たった一言だけれど、その言葉が嬉しかった。
そして3日目の朝。
私が洋風のスクランブルエッグを出すと、氷室様は箸を止めた。
「……これは?」
「スクランブルエッグです。チーズとハムを入れて、ふんわりと」
氷室様は、一口食べた。そして、小さく頷いた。
「……美味い。前とは、違う作り方だな」
「はい。少しアレンジしてみました」
私は、手のひらに汗を握っていた。拒絶されなかった。それどころか、違いに気づいてくれた。
「和食も好きだが、こういうのも悪くない」
その言葉だけで、私の胸は春の日のように温かくなった。
それから氷室様は、全て平らげてくれた。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
氷室様は立ち上がり、玄関へと向かった。靴を履きながら、ふと振り返る。
「……ありがとう。また、頼む」
その言葉に、私は深々と頭を下げた。
ドアが閉まった後、私はキッチンに戻った。
空になった皿を見つめながら、自然と笑みがこぼれる。
小さな変化。だけど、確実に氷室様との距離が縮まっている気がした。
◇
それから一週間。氷室様の帰宅時間が、さらに遅くなった。
毎日23時過ぎ。時には、深夜0時を回ることもある。
玄関で出迎えると、疲れ切った表情をしている。
肩が落ち、足取りも重い。スーツは少し乱れ、ネクタイも緩んでいる。目の下の隈が、日に日に濃くなっていく。
「お帰りなさいませ」
「&helli
ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様……最近、本当に変わりましたね」「変わった?」「ええ。毎日、ちゃんとご飯を食べているって聞きました。以前は、朝食なんて絶対に摂らなかったんですから」「……」「朝食は絶対に食べない。昼も会議の合間にコンビニ弁当を掻き込む。夜は栄養ドリンクで済ませることも多かった」「そんなに……」私は胸が痛んだ。深夜、あの社長室で見た彼の疲労が、全て現実の姿だったのだ。「睡眠時間も3時間とか。休日も会社に出て仕事をしている……そんな生活が、何年も続いていた」神崎さんは、コーヒーを一口、口に含む。その目の奥には、長年見守ってきた者だけが持つ、深い疲労の色があった。「でも、あなたが来てから、変わった。毎朝ちゃんと朝食を食べて、夜も少しずつ早く帰るようになった」「そうなんですか?」「ええ。私は氷室様の秘書として、10年以上見てきましたが……こんなに人間らしい彼を見るのは、本当に久しぶりです」神崎さんの目は、どこか遠い過去を見ているようだった。「森川さん、氷室様のことで一つお願いがあります」「はい」神崎さんは、少し間を置いてから、真摯な目で私を見つめ直した。「ここからは、彼の友人としてお話しますが……氷室様
【蓮side】タクシーの後ろ姿を、俺はじっと見つめていた。テールランプが、赤く光っている。やがて、角を曲がり、完全に視界から見えなくなった。冷たい夜風が、頬を撫でる。12月の深夜。冬の冷たさが、体に染みる。しかし、心臓のあたりは、彼女の温もりで熱を持っていた。「……ありがとう、咲希」その言葉は、冬の夜風に一瞬で溶けた。自分の口からついて出た「咲希」という名前に、俺自身が一番驚いていた。ずっと「森川」という記号でしか見ていなかったはずなのに。いつの間にか彼女は、俺の生活の、いや、心の一部にまで入り込んでいたらしい。部屋に戻ると、さっきまで彼女がいた余韻が残っていた。デスクには、空になった保温容器が置かれたまま。温かい味噌汁の、微かな匂いがまだ残っていた。俺はそれを見つめ、無意識に笑みがこぼれるのを感じた。温かい。こんな感覚は、いつ以来だろうか。おにぎりの塩気が、これほどまでに沁みるとは思わなかった。俺が求めていたのは、高級ホテルのディナーでも、効率重視のサプリメントでもなかった。誰かが俺のために握ってくれた、歪なほどに温かい、あの「塊」だったんだ。いつから俺は、こんな生活を続けていたのだろう。朝は、コンビニのサンドイッチ。昼は、会議室で弁当を掻き込む。夜は外食か、栄養ドリンク。家に帰っても、誰もいない。冷たい部屋。真っ暗な部屋。そんな日々が、俺にとっての『普通』だと思っていた。でも、咲希が来てから、変わった。朝は温かい食事。「いただきます」と言える相手がいる。夜は、「お帰りなさいませ」と言ってくれる声がある。そして今夜は、夜食を届けに来てくれた。こんな深夜に、たった一人で。危ないだろう、と言ったけれど。本当は、とても嬉しかった。心配してくれる人がいる。それだけで、こんなにも胸が温かくなるなんて。俺は、パソコンの画面に向き直
「……っ」あまりの距離の近さに、私は息を呑んだ。心臓が、激しく脈打つ。氷室様が、こんなふうに笑うなんて……。氷室様も、感情を持つ一人の人間なんだ。当たり前のことなのに、彼の完璧な冷徹さに慣れていた私は今、初めてその事実に気づいた気がした。「来てくれてありがとう」氷室様は、デスクの上の山積みの資料を少し寄せ、スペースを作ってくれた。「ここに置いてくれ」私は、胸の奥で温かさを感じながら、バッグから夜食を取り出した。おにぎり3個。鮭、梅、昆布。温かい味噌汁を入れた保温ジャー。小さなタッパーに入れた、故郷の母の味を真似た漬物。「おにぎりなら、キーボードを叩きながらでも片手で食べられると思って。スープは、体を温めてくれるように具沢山の味噌汁にしました」「助かる」氷室様はおにぎりを手に取った。真っ先に、梅を選んだ。一口、頬張る。「……梅か。疲れているときは、この酸味が一番効く」そう言って、彼はまた一口、大切そうにおにぎりを口に運んだ。咀嚼する音が、静かな部屋に響く。私は、息を詰めて見守る。美味しいかな?氷室様は、黙々と食べている。そして、わずかに目尻を緩めて──。「……美味い」ぽつりと、小さく呟いた。飾り気のないその言葉が、何よりも嬉しかった。まるで、一番のご褒美をもらったような気持ち。私は、隣のソファにそっと腰をおろした。窓の外は、都心が一望できる。この高さから見る景色は、まるで宝石箱のようだ。氷室様はおにぎりを食べながらも、視線は資料から離さない。時折、キーボードを叩くカチャカチャという乾いた音が聞こえる。「スープは熱いので、気をつけてください」「ああ」静かな社長室。時計の秒針の音だけが響いている。不思議な時間だった。こんなに静かで、
深夜1時。私は、氷室コーポレーション本社ビルの前に立っていた。都心の一等地に建つ、ガラス張りの高層ビル。見上げるほど高く、夜でも煌々と明かりが灯っている。周囲のビル群の中でも、最上階だけが特別な光を放っているように見えた。「何か御用ですか?」警備員が、怪訝な表情で私に声をかけた。こんな時間に、部外者の女性が訪れるのは異例なのだろう。「あの、氷室蓮様の家政婦をしている森川咲希と申します。夜食をお届けに参りました」警備員は少し驚いた表情をしたが、内線で確認してくれた。「……どうぞ。最上階、社長室です」「ありがとうございます」エレベーターに乗り込む。カードキーをかざし、最上階のボタンを押す。上昇していくエレベーター。最上階へ向かうにつれて、気圧の変化で耳の奥がツンとした。怒られるかもしれない。勝手に来て、迷惑かもしれない。心臓が、激しくドキドキしていた。でも、引き返すという選択肢はなかった。冷たい栄養ドリンクではなく、氷室様には温かいものを食べてほしい。その一心だった。チーン、という電子音。扉が開くと、そこは静寂に包まれた廊下だった。カーペットが敷き詰められ、間接照明が柔らかく照らしている。歩く音すら吸い込まれるような静けさだ。奥に、大きな扉が見えた。「社長室」と書かれたプレートが、重厚な光を放っている。私は、深呼吸をして、ドアをノックした。──コンコン。数秒後、中から声が聞こえた。冷たい、いつも通りの声。「入れ」ドアを開ける。部屋は想像以上に広大だった。高級な革張りのソファ、大きなデスク、壁一面の書棚。そして、何よりも目を奪われるのは、手前に広がる東京の夜景だ。宝石箱のように輝く街の明かりが、この部屋の主の地位を物語っている。その壮麗な景色と、デスクの上の山積みの資料が、氷室様の背負っている重圧を同時に示していた。氷室様は、デスクの前に座っていた。パソコン
氷室様が朝食を食べるようになって、3日が経った。毎朝7時に、氷室様はリビングに現れる。黒いスーツに身を包み、髪は完璧に整えられている。最初の朝は、ただ黙々と食べるだけだった。しかし、2日目の朝に変化があった。「……美味い」小さく呟いた。たった一言だけれど、その言葉が嬉しかった。そして3日目の朝。私が洋風のスクランブルエッグを出すと、氷室様は箸を止めた。「……これは?」「スクランブルエッグです。チーズとハムを入れて、ふんわりと」氷室様は、一口食べた。そして、小さく頷いた。「……美味い。前とは、違う作り方だな」「はい。少しアレンジしてみました」私は、手のひらに汗を握っていた。拒絶されなかった。それどころか、違いに気づいてくれた。「和食も好きだが、こういうのも悪くない」その言葉だけで、私の胸は春の日のように温かくなった。それから氷室様は、全て平らげてくれた。「ごちそうさま」「お粗末さまでした」氷室様は立ち上がり、玄関へと向かった。靴を履きながら、ふと振り返る。「……ありがとう。また、頼む」その言葉に、私は深々と頭を下げた。ドアが閉まった後、私はキッチンに戻った。空になった皿を見つめながら、自然と笑みがこぼれる。小さな変化。だけど、確実に氷室様との距離が縮まっている気がした。◇それから一週間。氷室様の帰宅時間が、さらに遅くなった。毎日23時過ぎ。時には、深夜0時を回ることもある。玄関で出迎えると、疲れ切った表情をしている。肩が落ち、足取りも重い。スーツは少し乱れ、ネクタイも緩んでいる。目の下の隈が、日に日に濃くなっていく。「お帰りなさいませ」「&helli
「……明日も、頼む」そう言って──彼は、私に向かって初めて笑った。あまりに不意打ちで、心臓が跳ねるのを通り越して、一瞬止まった気がした。ほんの一瞬。口角がわずかに、本当にわずかに上がっただけ。それは、まるで冬の朝日のような、儚い笑顔だった。ドアが閉まり、私はその場に立ち尽くす。そして──堪えていた涙が一筋、頬を伝った。「……ありがとうございます」誰もいない部屋で、私は呟いた。食べてくれた。全部、食べてくれた。そして、笑ってくれた。「嬉しい」これが、私の最初の勝利だった。小さな、けれどとても大切な一歩。彼の心を溶かすための、確かな一歩だ。私は、空になった皿を持ってキッチンに向かった。食器を洗いながら、自然と笑みがこぼれる。明日も、美味しい朝食を作ろう。氷室様が喜んでくれる料理を。そう、心に誓った。窓の外、冬の朝日が東京の街を照らしている。新しい一日が、始まろうとしていた。◇午後。インターホンが鳴った。「森川さん、突然すみません」やって来たのは、神崎さんだった。「少し、お時間よろしいですか?」その真剣な表情からは、緊急性を感じた。彼をリビングに通し、私たちは向かい合ってソファに座った。神崎さんは、少し迷うような表情をしてから口を開いた。「森川さん、氷室様のことで……お話があります」「はい」私は身を乗り出す。「実は……氷室様には、過去に──」神崎さんが何かを言いかけた、その時……。ガチャンという、玄関のドアが開く音がした。え?こんな時間に?氷室様が、予定よりも遥かに早く帰ってきた。「ただいま」低い声がリビングに届き、神崎さんはピタリと口を閉ざした。氷室様がリビングに入ってくる。私と神崎







