Share

和室の風景

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-31 10:14:58

廊下に漂う畳のにおいが、懐かしさよりも湿り気のある重さとして胸に残った。

智久は居間の座卓に腰を下ろし、形式的なやりとりを交わす父と母の言葉に、ただ頷くばかりだった。久しぶりの帰郷とはいえ、再就職の話や娘の転校先についての会話は必要最低限に留まり、沈黙が早々に訪れた。七菜は話に加わることもなく、隣でお茶を持つ手を静かに膝に乗せていた。

「疲れたでしょう。七菜ちゃん、ちょっと休んでおいで」

昭江が優しく声をかけると、七菜は小さく「はい」と頷いて、椅子からそっと立ち上がった。廊下に出てからも、その足取りは音を立てないように気を遣っているようだった。

智久はその後ろ姿を目で追いながら、自分がこの家にいたころのことを朧げに思い出していた。子ども部屋、縁側、夕飯の支度の匂い。そして、和室の隅に置かれていたあのピアノ。

戸の向こうで、ぴたりと足音が止まった。わずかに開いた襖の隙間から、七菜がそっと覗き込むようにして中を覗いている。

「パパ、これ…ピアノ?」

遠慮がちにかけられた声に、智久は立ち上がった。

「そうだよ。おばあちゃんが昔使ってたんだ」

和室の戸を静かに開けると、部屋には午後の光が斜めに差し込み、淡く埃を照らしていた。障子の向こうから差し込む光が、畳の上に柔らかな格子模様を落としている。

部屋の隅、壁際に置かれたアップライトピアノは、長い間使われていなかったことを示すように、鍵盤の蓋がうっすらと開きかけたままになっていた。木目の表面には細かい傷があり、時間の経過がそのまま刻まれていた。だが、どこか静かな品格を保っていた。

七菜は戸口で立ち止まっていたが、やがて恐る恐る一歩、また一歩と畳を踏みしめて近づいた。小さな指先が、ためらうように白鍵の一つに触れた。

かすかに、ぽつん、と音が鳴る。湿気を含んだ音は、軽く鳴っただけで消えていった。

七菜は驚いたように手を引っ込め、智久の方を振り返った。

「音、鳴った…」

「うん、鳴ったね」

智久はそれ以上の言葉を探せず、ただ笑おうとした。しかし頬は引きつり、声はかすれた。

七菜は再び鍵盤に手を伸ばし、今度は人差し指と中指を使って二つの鍵を押した。和音にはならず、濁ったような不安定な音が部屋に残る。

「このピアノ、調律してないんだ」

ぽつりと智久が言うと、七菜は眉をひそめてもう一度、今度は白鍵と黒鍵を組み合わせて押してみた。少しずつ、探るように音を出すたび、彼女の肩の力が抜けていくのがわかった。最初の緊張が和らぎ、純粋な興味に変わっていく。

智久はその様子を、襖のそばに立ったまま見ていた。七菜の背中が、どこか小さく見えた。都会のマンションで妻が弾かせていた電子ピアノでは、こんなふうに音の重みや、鍵盤の肌触りまでは伝わってこなかったはずだ。

あのときの七菜は、譜面どおりに音を並べることはできても、そこに意味を込めることはまだ知らなかった。

そして今、意味も理屈もなく、音を鳴らしている。誰に教わるでもなく、自分の耳と手で確かめながら音を見つけている。

智久は、ほんの少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。それは懐かしさでもなく、誇らしさでもなく、どこか不安定な感情だった。

気がつけば、自分もそのピアノの前に座っていた記憶が蘇っていた。母のレッスン室。椅子に座った春樹の隣で、必死に真似をして鍵盤に手を置いた小さな自分。指が思うように動かなくて、途中で泣きそうになったこと。

でも、春樹は何も言わず、ただ黙って隣で弾いてくれていた。彼の指は細くて長く、力強いのにどこか繊細だった。音の粒が、自分とはまるで違った。

「パパ、これ…ひけるの?」

七菜の声が現実に引き戻した。智久は視線を娘に向ける。

「少しだけ、昔に。すぐやめたけどね」

「でも、なんか知ってるみたいだった」

そう言って、七菜は笑った。やわらかく、遠慮のない子どもの笑顔だった。その表情に、智久は少し戸惑ったように目を伏せた。

「パパ、またひいてみたら?」

「いや…もう無理だよ」

「ほんと?」

七菜は小首をかしげて、それ以上は何も言わなかった。そのしぐさが、亡くなった妻に似ていた。いや、似ていたのは、静かに人を見つめるそのまなざしの質かもしれない。

智久はピアノの横に立ち、軽く鍵盤に触れてみた。音は鳴らなかった。そっと押し込むと、やや遅れて音がこもったように響いた。響きは浅く、やや低く、どこか戸惑ったような音だった。

それでも、その鍵盤の冷たさと重みは、確かに自分の手に残った。

音は、確かにそこにあった。

それがどういう意味を持つのか、まだわからなかったが…胸の奥に、ほこりをかぶって眠っていた何かが、かすかに目を覚ました気がした。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   音のない会話

    春樹が静かに手を伸ばし、ピアノの蓋に指先を添えた。指先はまだ微かにあたたかかった。鍵盤の感触がそこに残っていたのか、それとも朝の空気が、春樹の中に滞っていた何かをほどいたのかはわからない。ただ、動作のひとつひとつが、どこか名残惜しく、けれど確信を持っていた。蓋がゆっくりと閉じられる。カチリという音も立てず、まるで音楽の続きを邪魔しないように、そっと、音の気配が途切れた。それでも、誰も動かなかった。智久は入り口近くの畳の上に腰を下ろしたまま、膝に置いた手を組んでいた。まるで何かをこらえるように、指先にわずかな力がこもっている。その眼差しはすでにピアノを離れ、春樹の背中をゆっくりとなぞっていた。けれどそこに言葉はなかった。七菜は、春樹の隣で静かに座っていた。さっきまでかかっていた髪の一房が、彼女の頬をかすめて揺れている。それを払おうともせず、ただ、じっと正面を見つめていた。表情に特別な意味はない。ただ、朝の光が射し込むたびに、子どもの横顔はそのまま小さな命の輝きを帯びていた。春樹はもうピアノには触れていなかったが、その姿勢はまだ演奏を終えた直後の静けさを纏っていた。指先は膝の上に戻っていたが、ほんの少しだけ丸められているのは、まだどこかで余韻を掴もうとしているかのようだった。障子の外から、細い朝日が部屋の中へと差し込む。その光は、春樹の肩から、七菜の頬へ、そして智久の膝元へと移っていく。冬の終わりを思わせる、かすかに冷たいけれど柔らかな光だった。季節の移り変わりが、光のかたちで告げられるのだとしたら、それは今、確かに春へと傾き始めている。三人の影が、光のなかで重なる。動いていない。けれど、その静けさのなかにある何かが、たしかに三人をつないでいた。たとえばそれは、言葉にしようとすると消えてしまう種類の感情。もしくは、誰にも気づかれないまま、長い時間をかけて築かれていくもの。あるいは、家族という名の、まだかたちを持たない響きだったのかもしれない。春樹の指が、自分の膝の上でゆっくりほどけていく。その動作ひとつとっても、そこにはもう“距離”というものは感じられなかった。七菜はその気配をまるご

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   音で話す朝

    ピアノの音が、ふっと空気からすべり落ちるように消えた。最後の和音が静かに尾を引き、部屋の隅々まで染み渡っていくのが、肌でわかる気がした。春樹の指が鍵盤から離れ、手のひらが膝の上に戻る。もう弾いていないのに、部屋にはまだ音の残り香があった。三人のあいだに、しばらく沈黙が流れた。智久は座ったまま、その余韻のただ中に身を置いていた。何かを言いたくて口を開きかけたが、喉の奥で息がからまった。言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまうような気がした。だから、ただ唇がわずかに開いて、閉じられた。春樹は鍵盤を見つめたまま、一度深く息を吐いた。肩が少し上下し、それがようやくひと区切りついた合図のようだった。そしてゆっくりと身体をひねり、後ろを振り返った。視線が交わる。春樹と、智久と、七菜の三人。それぞれに、言葉を持たないまま、目が合った。その瞬間、七菜が、ぽつりと声を落とした。「それ…なまえ、あるの?」春樹の目がすこし見開かれたように見えた。だが驚きというよりも、自分の内側に深く触れられたような、そんな静かな反応だった。数秒の間、視線が宙を彷徨い、やがて、春樹は微笑みながら答えた。「まだ。でも…そうだな。未明のソナタ、って呼ぼうかな」その声には、ほんの少しだけ照れが混じっていた。けれど、それ以上に深いところに確信のような静けさがあった。たしかな響きだった。迷いを含んだままでも、どこかに根を下ろすような強さを持った声だった。智久のまぶたが、その瞬間、ふっと閉じられた。一瞬だけ、きつく。それは涙ではなかった。ただ、何かを押しとどめるように、あるいは言葉のかわりに全身で納得するように、深く、静かに目を閉じたのだった。七菜はというと、両手をきちんと膝の上で組んだまま、目を細めて笑った。その微笑みは、朝の光を受けた花のように、かすかに揺れながらも、確かなあたたかさを宿していた。障子の外では、日がゆっくりと昇りはじめていた。冬の空気の中に、かすかな春の匂いが混じっている。朝というにはまだ早い、けれど夜とはもう言えない、曖昧で、だからこそ愛おしいその時間に、三

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   そっと座る場所

    廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。乾いたスリッパの音。規則的ではなく、どこか寝起きの身体がまだ夢を引きずるような、控えめな足取りだった。智久はその音に気づき、襖に添えていた手をそっと離した。指先に残る木の感触が、ほんの一瞬だけ現実に戻る手助けをする。和室の中ではまだ春樹が弾いていた。旋律は静かに続いており、まるで呼吸のように一定で、けれどどこか深く揺れていた。足音は止まり、襖の向こうで一拍、間が空いた。障子の端がわずかに動き、そこに小さな影がのぞく。七菜だった。まだ眠たげな顔のまま、髪は寝癖であちらこちらに跳ねている。一房が頬にかかり、まつげの先に触れそうなほど垂れていたが、彼女はそれを気にする素振りもなく、ただ前を見つめていた。開いた隙間から中を見渡すと、七菜はすぐに戸を大きく開けた。その仕草に、躊躇はなかった。静かに、けれど確かな足取りで和室に入り、春樹の背中に向かって歩いていく。春樹は視線を向けない。だが、彼の指先が一瞬だけ鍵盤の上で緩んだのを、智久は見逃さなかった。微細な揺れだった。けれど、それは確かに、彼が七菜の存在に気づいている証だった。七菜は、春樹の横に並ぶようにして、畳の上に膝を折った。何も言わず、ただ座り、視線をまっすぐにピアノの鍵盤へ向けていた。さっきまで眠っていたとは思えないほど、目は真っ直ぐにひらいていて、まだかすかに夢の残り香を帯びた空気のなかで、彼女の存在がただ穏やかにそこにあった。髪の一房が顔にかかったまま。それを払いもせず、七菜はじっと春樹の弾く手元を見つめていた。智久はその横顔を見て、少しだけ微笑みたくなった。けれど、彼自身もまだ余韻のなかにいた。言葉を発するには、少しだけ呼吸が整っていない。春樹の顔が、わずかに七菜のほうを向く。その横顔に、一瞬だけ、やわらかな笑みが浮かんだ。声には出さず、表情にも出しすぎない。それでも、春樹の表情の輪郭がわずかに緩んでいくのが見えた。智久もまた、和室の入り口近くに腰を下ろした。襖の枠にもたれかかることなく、背筋を伸ばして座った。春樹と七菜の様子を、少し離れた場所から見つめながら、音に耳を傾ける。けれど、彼の視線はただ鍵盤だけを追ってはいなかった。春

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   目覚めの廊下

    廊下はまだ、夜の名残を引きずっていた。薄明かりに照らされる床板には、かすかな光の線が走り、廊下の端に置かれた傘立ての影が長く伸びていた。外では鳥が鳴きはじめていたが、その声もまだ眠たげで、静けさを破るには至らない。智久は裸足のまま、その廊下を歩いていた。足音はなく、歩幅もいつもより狭い。まるで、音そのものを避けるように、慎重に畳に足を運ぶ。髪は乱れ、シャツの胸元にはわずかに寝癖の皺が残っていたが、それに気づく余裕はなかった。意識のほとんどが、先にある「音」に引き寄せられていた。和室のほうから、小さな旋律が漏れていた。鍵盤が奏でる音は、完全な楽曲ではなかった。むしろ、探るように重ねられる音たちが、ゆっくりと呼吸をしているように聞こえた。その響きに、足が止まる。智久は襖の前で立ち尽くし、しばらく身動きをとらなかった。そこには、踏み込んではいけないような、ひどく静かな領域が広がっている気がした。けれど、それを遠くで聴いていることも、彼にはもうできなかった。左手が自然と襖の縁に伸びる。指先がふれると、その冷たさにわずかに身体がこわばった。襖の木枠は朝の湿気を帯びていて、ぬるく、硬く、そしてどこか懐かしい。その手が、ほんの少し震えを見せた。深く息を吸い込むこともできず、智久は指先だけで、障子を数センチほど滑らせた。開かれた隙間から、視界が広がる。そこには、春樹がいた。ピアノの前に座る背中は、すっかり音に浸っていた。痩せた肩がゆっくりと上下しており、音とともに呼吸しているのがわかる。春樹は気づいていない。あるいは、気づいているのに、気づかないふりをしている。どちらにしても、その背中には、ひとつの穏やかさがあった。智久は思わず、襖の縁を少しだけ強く握った。胸の奥に溜めていたものが、形を失っていくのを感じた。迷い、恐れ、諦め。そういった曖昧な輪郭のまま残っていた感情が、目の前の旋律によって、音もなく溶けていくようだった。音は、静かだった。けれど、ただの静けさではない。そこには確かに「希望」の響きが含まれていた。誰かのために弾く音ではない。けれど、聴く誰かを拒むわけでもない。無理に伝えようとすることも、媚びることもなく、ただ「ここにいる

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   未明の光

    障子の向こうには、まだ夜の名残が揺れていた。空は深い群青色に沈んでいたが、東の端だけがかすかに明るみはじめている。冬の息が残る空気は、しんと冷えきっていて、吐いた息が薄白く漂った。和室には、まだ誰もいない。畳の上に差し込む光は淡く、まるでまだ夢と現実の境界が曖昧な時間を、そっと包んでいるかのようだった。春樹は黙ったまま、静かにその空間に身を置いていた。ピアノの前に座り、深く呼吸をひとつ落とす。薄手のカーディガン越しにも伝わる冷たさに、首元を少しすくめながら、鍵盤の蓋に手をかけた。指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が肌を刺す。乾いた冬の空気にさらされていたその木の表面は、どこかよそよそしい温度を持っていた。蓋を静かに開ける音が、和室にやわらかく響いた。響いたというより、そこに沈んだ。日常の音ではなかった。久しぶりに開かれた鍵盤が、空気の中に居場所をつくっていく。そのまま、春樹は手を止めずに、白と黒の鍵の上へと、慎重に指を這わせた。震えていた。指先はわずかにかじかみ、肌は少し赤くなっていた。それでも、鍵盤に触れた瞬間、ふっと熱が戻ってくるようだった。まるでピアノの側が先に春樹を思い出したかのように、指先はそれに応えるようにして、自然と動きはじめた。和音をひとつ、置く。それだけで、空気の密度が変わった。畳の上を包んでいた冷たさが、わずかに和らいだ気がした。肩の力が抜けていくのが、自分でもわかった。張りつめていた呼吸が、胸の奥で小さく解かれていく。音は低く、やわらかく、どこか懐かしい気配を纏っていた。まるで、ずっと前にこの部屋で鳴らしていた音を、そっと呼び戻すように。旋律はまだ輪郭を持っていなかった。春樹自身にも、どこへ向かっているかはわからない。ただ、音が導くままに、指を走らせる。旋律の端はほつれていて、まだ繋がらない。だけど、そのほつれのなかには、確かな温度があった。響きのひとつひとつが、どこかで見た笑顔や、交わしたまなざしの記憶に重なっていく。障子の隙間から、わずかに朝の光が伸びはじめていた。その光はまだ細く、畳の上にほの白く筋を描いている。音は、その筋を縫うようにして漂った。春樹はただ弾きながら、その光の動きを目で追った。旋律のなかに、夜と朝の境目を

  • 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。   三人の手のひら

    廊下に射す冬の午後の光は、柔らかく、しかしどこか冷ややかでもあった。レッスンが終わり、和室から出てきた春樹が、ゆっくりと玄関へと向かう。その足取りは軽くもなく、重くもなく、ただ時間に丁寧に触れているような静けさをまとっていた。「先生、靴…履かせてあげる」七菜が背後から小さく声をかけた。床に膝をつきかけて、玄関の敷居に手を伸ばす。だが、その手より先に、春樹がそっと声を発した。「いいよ。自分で履くよ」声は穏やかだったが、どこか余韻を含んでいた。七菜の動きが止まり、脱ぎかけたスリッパの足がぴたりと止まる。スカートの裾がわずかに揺れて、彼女の目が春樹の背中を追ったまま、何も言わずに動かなくなる。玄関の木枠に片手を添えて、春樹がしゃがむ。左足から先に靴を差し込み、もう片方のかかとを軽く押して収める。その仕草の途中、首に巻いたマフラーの先がふと揺れて、春樹の頬にかすかに触れる。そのとき、背後で気配が動いた。「じゃあ、また来週」智久の声だった。振り返らずともわかる、真っ直ぐな声。春樹は靴紐を整える手を止め、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、後ろを振り返った。ほんの一歩だけ下がった位置に、智久が立っている。目が合った。玄関の小さな空間に、二人の間だけに流れる、静かな時間が生まれる。春樹の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。かわりに、右手がふっと持ち上がり、智久の肩に触れようとする。けれど、その動きは途中で止まった。触れる寸前の空気に、わずかに指先が震え、そして手はそのまま引き下ろされる。触れなかった。しかし、その未完の仕草は、何よりも多くを伝えていた。智久の眼差しは変わらなかった。ただ、真っ直ぐに、春樹を見つめていた。その視線が、あまりにまっすぐで、春樹は思わず口元を緩める。「…うん」小さく、けれど深く響く、ひとことだった。春樹が玄関の戸を開ける。冷たい外気が、わずかに家のなかへと流れ込む。その風に、春樹のマフラーの端がふわりと舞い上がり、また肩へ落ちる。背を向けて歩き

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status