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声にならない時間

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-07-31 10:15:17

台所から、かすかに湯の沸く音が聞こえていた。笛吹きケトルが低く鳴り始めるその音に、智久は耳を傾けながら、和室の襖を半ば閉じた状態で廊下に腰を下ろしていた。襖の隙間から、七菜の背中が見える。小さな背中が、ピアノの前でじっと座り込んでいるのがわかった。

七菜は、もうしばらくの間、一音も鳴らしていない。それでも椅子から立つことはなく、まるで音が向こうからやって来るのを待っているかのように、静かに身じろぎもしないで座っていた。鍵盤に手を置いているわけでもない。ただ、正面をまっすぐに見つめている。その姿が、妙に痛々しかった。

智久は無言のまま、廊下の柱にもたれかかる。背中にあたる木の感触が冷たくて、少しだけ身を起こした。

そのとき、後ろから足音がして、母・昭江が小さな盆に湯呑を三つ乗せてやって来た。緑茶の香りがふわりと広がる。けれど、なぜかその匂いにも、どこか遠い記憶の湿り気が含まれているように感じた。

「熱いから、気をつけて」

昭江が盆を智久の前の畳にそっと置いた。その動作の最中、手が一瞬、小刻みに揺れた。湯呑の縁から、お茶がほんのわずかにこぼれて、受け皿にしみを作る。

「ありがとう」

智久はそれだけ言って、湯呑に指をかける。指先が熱に触れたが、それを感じたのはほんの数秒だった。すぐに手のひらに空虚な感覚だけが残る。

昭江は彼の隣に腰を下ろした。隣にいても、しばらくは何も言わなかった。代わりに、襖の隙間から見える七菜の背中を見つめていた。

「…あの子、前にもピアノ、やってたんでしょう?」

「うん。東京で、少しだけ」

「好きそうね。音を、聴こうとしてるのよ。あの姿勢は…」

そう言って、昭江は一口、お茶をすする。智久も続けて湯呑に口をつけた。舌に広がる温度は心地よいはずなのに、喉を通るたびに、なぜか胸の奥がざらついた。

「もう、しばらく弾いてなかったんだけど」

「そう。……お母さんがいなくなってから?」

その言葉は、あまりにも自然な響きをもっていた。問いかけのようでいて、実際は答えなど必要としていないような口調だった。

智久はうなずこうとして、言葉にならない何かが喉に詰まった。返事をする代わりに、視線を七菜に向ける。

「…あの子、強いのか、弱いのか、わからなくなるときがある」

ぽつりとこぼれた言葉は、智久自身の胸から離れた瞬間に、空中で薄く解けていくようだった。

「弱さと、優しさって、きっと重なるものよ」

昭江の声は柔らかかった。でも、その奥にあるものが、彼女自身の過去と折り合いをつけた年月の深さを感じさせた。

「智久。あなた、あの子の前では泣かなかったの?」

「…泣けなかった。葬式のときも、それからも」

「どうして?」

「泣いたら…崩れそうだったから。あの子まで巻き込む気がして」

昭江はそれ以上、何も言わなかった。ただ隣に座ったまま、ゆっくりと湯呑を置いた。静かな仕草だったが、その指先が少し震えているのが智久には見えた。

襖の向こうでは、七菜がまた音を鳴らした。ポン、と低くて柔らかい音だった。それだけで、彼女は満足したように、再び鍵盤から手を離した。

そして、そのまま座って、何かを待っていた。まるで、音の向こうに、誰かの返事が来るのをじっと待っているかのように。

智久は娘の背中に向かって、言葉をかけようとした。しかし、何も言えなかった。喉がわずかに動いたきりで、声にならなかった。

娘の肩越しに見えるピアノは、昔と何一つ変わっていなかった。だが、それを囲む空気だけが、もう元には戻らないことを語っているようだった。

時間は確かに過ぎていた。そして、その時間を自分たちはどうにか乗り越えてきた。けれど、失ったものが戻ってくるわけではない。

そのことを、七菜はわかっているのだろうか。それとも、まだ知らずに音を探しているのだろうか。

「…調律、お願いしようかと思ってる」

智久はぼそりと呟いた。

昭江は小さく頷いた。

「それがいいわ。あの子の音が、ちゃんと届くようにしてあげて」

それきり、また沈黙が落ちた。だが、先ほどのように苦しい沈黙ではなかった。ただ、言葉にならないものを、互いに抱えていることだけが、同じ温度で伝わる時間だった。

襖の向こうで、七菜が小さくため息をつくのが聞こえた。鍵盤に手を置いたままのその姿勢は、やはりどこか切なかった。まるで誰かの返事を、まだあきらめずに待ち続けているようだった。

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