台所から、かすかに湯の沸く音が聞こえていた。笛吹きケトルが低く鳴り始めるその音に、智久は耳を傾けながら、和室の襖を半ば閉じた状態で廊下に腰を下ろしていた。襖の隙間から、七菜の背中が見える。小さな背中が、ピアノの前でじっと座り込んでいるのがわかった。
七菜は、もうしばらくの間、一音も鳴らしていない。それでも椅子から立つことはなく、まるで音が向こうからやって来るのを待っているかのように、静かに身じろぎもしないで座っていた。鍵盤に手を置いているわけでもない。ただ、正面をまっすぐに見つめている。その姿が、妙に痛々しかった。
智久は無言のまま、廊下の柱にもたれかかる。背中にあたる木の感触が冷たくて、少しだけ身を起こした。
そのとき、後ろから足音がして、母・昭江が小さな盆に湯呑を三つ乗せてやって来た。緑茶の香りがふわりと広がる。けれど、なぜかその匂いにも、どこか遠い記憶の湿り気が含まれているように感じた。「熱いから、気をつけて」
昭江が盆を智久の前の畳にそっと置いた。その動作の最中、手が一瞬、小刻みに揺れた。湯呑の縁から、お茶がほんのわずかにこぼれて、受け皿にしみを作る。
「ありがとう」
智久はそれだけ言って、湯呑に指をかける。指先が熱に触れたが、それを感じたのはほんの数秒だった。すぐに手のひらに空虚な感覚だけが残る。
昭江は彼の隣に腰を下ろした。隣にいても、しばらくは何も言わなかった。代わりに、襖の隙間から見える七菜の背中を見つめていた。
「…あの子、前にもピアノ、やってたんでしょう?」
「うん。東京で、少しだけ」
「好きそうね。音を、聴こうとしてるのよ。あの姿勢は…」
そう言って、昭江は一口、お茶をすする。智久も続けて湯呑に口をつけた。舌に広がる温度は心地よいはずなのに、喉を通るたびに、なぜか胸の奥がざらついた。
「もう、しばらく弾いてなかったんだけど」
「そう。……お母さんがいなくなってから?」
その言葉は、あまりにも自然な響きをもっていた。問いかけのようでいて、実際は答えなど必要としていないような口調だった。
智久はうなずこうとして、言葉にならない何かが喉に詰まった。返事をする代わりに、視線を七菜に向ける。「…あの子、強いのか、弱いのか、わからなくなるときがある」
ぽつりとこぼれた言葉は、智久自身の胸から離れた瞬間に、空中で薄く解けていくようだった。
「弱さと、優しさって、きっと重なるものよ」
昭江の声は柔らかかった。でも、その奥にあるものが、彼女自身の過去と折り合いをつけた年月の深さを感じさせた。
「智久。あなた、あの子の前では泣かなかったの?」
「…泣けなかった。葬式のときも、それからも」
「どうして?」
「泣いたら…崩れそうだったから。あの子まで巻き込む気がして」
昭江はそれ以上、何も言わなかった。ただ隣に座ったまま、ゆっくりと湯呑を置いた。静かな仕草だったが、その指先が少し震えているのが智久には見えた。
襖の向こうでは、七菜がまた音を鳴らした。ポン、と低くて柔らかい音だった。それだけで、彼女は満足したように、再び鍵盤から手を離した。
そして、そのまま座って、何かを待っていた。まるで、音の向こうに、誰かの返事が来るのをじっと待っているかのように。智久は娘の背中に向かって、言葉をかけようとした。しかし、何も言えなかった。喉がわずかに動いたきりで、声にならなかった。
娘の肩越しに見えるピアノは、昔と何一つ変わっていなかった。だが、それを囲む空気だけが、もう元には戻らないことを語っているようだった。
時間は確かに過ぎていた。そして、その時間を自分たちはどうにか乗り越えてきた。けれど、失ったものが戻ってくるわけではない。そのことを、七菜はわかっているのだろうか。それとも、まだ知らずに音を探しているのだろうか。
「…調律、お願いしようかと思ってる」
智久はぼそりと呟いた。
昭江は小さく頷いた。
「それがいいわ。あの子の音が、ちゃんと届くようにしてあげて」
それきり、また沈黙が落ちた。だが、先ほどのように苦しい沈黙ではなかった。ただ、言葉にならないものを、互いに抱えていることだけが、同じ温度で伝わる時間だった。
襖の向こうで、七菜が小さくため息をつくのが聞こえた。鍵盤に手を置いたままのその姿勢は、やはりどこか切なかった。まるで誰かの返事を、まだあきらめずに待ち続けているようだった。
七菜が「ちょっとお水取ってくる」と立ち上がり、廊下の方へと小走りで姿を消したあと、和室にはふいに静寂が降りた。障子の向こうからは、台所で湯を注ぐ昭江の気配が、かすかに届くのみ。遠くからは風に揺れる木の葉の音がまばらに混じる。だが、部屋の中だけは時間が止まったように静かだった。智久は、まだ鍵盤の前に腰かけたまま動かなかった。春樹もまた隣に座っていたが、互いに視線を交わすことも言葉を発することもなく、そこに並んでいた。薄曇りの空を透かした淡い光が障子越しに差し込み、ピアノの黒く光る面に淡く映り込んでいる。沈黙の中、智久は自分の呼吸が浅くなっているのを意識した。何気なく両手を膝に置き、指先に少しだけ力を込めてみる。けれど、落ち着こうとする意識とは裏腹に、胸の奥が静かにざわついていた。春樹の手が、ほんの数分前に自分の指に重なっていたことが、皮膚の感覚としてまだ消えていない。その触れ方はあくまで教師としてのものだった。七菜の奏法を直すための、理にかなった自然な動き。それなのに、あの瞬間に感じた温度や、微かに響いた和音が、智久の中のなにかを揺さぶって離さなかった。ふと、隣にいる春樹の指先が視界に入った。細く、長い指だった。鍵盤に触れていたときの動きが、まだ残像として頭の中に浮かんでいる。その指が、鍵を押すときの微かな沈み。音が鳴る寸前の緊張と解放。すべてが、静かで、丁寧で、あたたかかった。智久は息を飲んだ。息苦しいほどではない。けれど、確かに胸が波立っていた。手のひらの下、膝の筋肉がじんわりと熱を持っている。「……また音に触れてくれて、うれしい」ぽつりと、春樹が言った。その声はまるで、光の届かない水面の底から立ち上ってきたように静かだった。余計な抑揚もなく、ただそこに在るものとして言葉が置かれた。春樹は鍵盤の向こうを見ていた。智久を見てはいなかった。それなのに、声の熱はまっすぐ胸の奥に届いてきた。智久は答えるまでに少し間を置いた。「……俺は、音楽をやめたから」自分の口から出たその言葉を聞いて、智久は心のどこかが少
午後の光は、少し湿り気を帯びて和室の障子を透かしていた。春を過ぎたばかりの初夏、外ではまだ花の香りが残っているが、部屋の中は少しだけ涼しく、畳の匂いが空気をしっとりと包んでいた。七菜は、真新しい楽譜を前にピアノの椅子に座っていた。小さな背中はまっすぐで、膝の上に揃えられた手が緊張の輪郭を描いていた。視線は譜面ではなく、鍵盤の白と黒の間に注がれている。音を追うというより、まだ“位置”を探すような指の動きだった。智久は、そのすぐ後ろに膝を折って座っていた。和室の古いアップライトピアノ。母が昔使っていたその楽器には、時折きしむような音が混じる。それでも、今こうして音が鳴ると、どこか遠くで記憶が微かに波立った。「…ド、レ、ミ、ミ、ミ…?」七菜が鍵盤に指を置きながら、低い声で数える。右手の中指が思いのほか勢いよくミの鍵盤を叩いてしまい、音が少しだけ鋭く跳ねた。「あっ…」小さく声を上げて指を引く七菜。気まずさと戸惑いが混ざった顔をして、ちらりと智久の方を振り返った。智久は、軽く笑って首を横に振った。「うん、大丈夫。少しだけ、リズムが急ぎすぎたかもな」七菜は黙ったまま頷いて、再び前を向いた。その眉のあたりが、わずかにきゅっと寄っている。次こそ、という意志のある目をしていた。春樹は部屋の隅、障子の向こうに近い位置で静かに見守っていた。腕を組んだまま、姿勢は崩さず、ただ優しくその様子を見ている。彼のまなざしは、どこまでも穏やかで、干渉せず、しかし決して離れない。七菜が再び鍵盤に手を置いた。けれど、リズムを刻もうとする手が、また同じ位置でつかえてしまう。ミ、ミ、ミ…の反復で、どうしても速度が揃わなかった。「うーん…」小さく唸ったあと、彼女は口を尖らせて、もう一度鍵盤に手を置く。その様子を見て、智久はふと手を伸ばした。「ちょっと、貸してみ」七菜が小さく頷いたのを確認してから、彼はゆっくりと娘の右手の上に自分の手を重ねた。指が鍵盤に触れた瞬
夜がゆっくりと家の輪郭を包んでいた。外はすっかり暗くなり、窓の外に見える庭木は輪郭だけを残して沈黙している。風はなく、静かな晩だった。台所では、昭江がゆっくりと食器を布巾で拭いていた。湿った音も立てず、手際よく淡々と動くその指先は、まるでずっと昔からそうしているかのように迷いがなかった。そのときだった。奥の和室から、ふいにピアノの音が聴こえてきた。はじめの音は、探るようにぽつりと鳴った。続く音は、ほんの少し間を置いて重なった。ゆっくりと音が連なっていく。音量は控えめで、誰かに聴かれることを前提としない、内緒のような響きだった。昭江はふと手を止めた。拭いていた茶碗を布巾の上にそっと置き、音の方へ顔を向けた。目元にうっすらと笑みが浮かぶ。「七菜かしらね」呟くように言ってから、彼女はまたゆっくりと動き出す。けれど、その背筋はどこか嬉しそうに伸びていた。智久は洗面所の鏡の前で、手を拭いていた。娘を寝かせるつもりで、そろそろ布団の準備をしようとしていたところだった。けれど、その音が耳に届いたとき、無意識のうちに手の動きを止めていた。和室に向かう廊下の途中で足を止め、音のする方に顔を向ける。開け放たれた障子の隙間から、淡く灯る明かりが覗いていた。ピアノの音が、少し変わっていた。昼間に弾いていた曲と、旋律は同じなのに、運びに違和感があった。いや、違和感というには繊細すぎる変化だった。リズムの揺らぎ、指が滑るように抜けていくポイント、それがどこか柔らかく、大人びているように聴こえた。音を構成するものは、指だけじゃない。そのときの呼吸、心拍、身体の重さ。七菜がさっきまでとは違う音を出しているのは、明らかだった。智久は歩き出さず、その場でじっと耳を澄ませていた。廊下の壁にもたれるようにして、ただ、音の波に身を浸す。鍵盤の震えが、扉越しに、耳の奥の奥まで染み込んでくる。昼間、春樹が添えた指の運びを、七菜が覚えていたのだと思った。その使い方は、あのとき春樹が示したものと、まるきり同じだった。そのとき、胸の奥に妙な震えが生まれた。痛みではなかった。熱でもなかった。何かもっと、淡くて切実なもの。指ではなく、音に触れ
ふいに、畳の向こうから小さな音が聞こえた。チリチリと湯が沸き始める音だった。金属の急須が温まり、やかんの口から静かな湯気が立ち昇る音が、障子越しに淡く伝わってくる。音量はごくわずかで、日常の中に溶け込むようなものだったのに、それが不意に、部屋の空気を変えた。智久は、肩をわずかに揺らした。何かから解放されたような、あるいは、自分でも意識していなかった緊張の糸が、ぷつんと切れたような感覚があった。音が空気の膜を割り、そこに溜まっていた沈黙や熱がふっと逃げていく。視線を下ろすと、自分の膝に置かれた両手がかすかに震えていた。指先はもう春樹に触れていないのに、皮膚の奥に残った感触だけがそこにあった。あたたかく、柔らかく、けれど確かに、余韻を残すものだった。音ではなく、感触のほうが、むしろ記憶に近いところを撫でてくる。それがこわかった。春樹は何も言わず、隣で静かに座っていた。その横顔を見てはいけないと思った。見たらきっと、何かが決定的に変わってしまう。視線を交わすだけで、自分の中にしまっていた何かが、言葉になって漏れてしまう。そんな気がしていた。立ち上がろうとして、足元が一瞬だけふらついた。それに自分で驚いて、舌先が乾いた上顎に触れた。「七菜、迎えに行ってくる」声に出した瞬間、自分の声がわずかに掠れているのに気づいた。いつもの調子よりもわずかに高く、不自然な間がある。そのことを春樹に悟られたくなくて、言い終わると同時にその場を立ち上がった。腰を上げると、空気がゆっくりと肌から離れていくようだった。そこに残っていた温度が、一気に引いていく。春樹の視線を感じながらも、目を合わせることはできなかった。まっすぐ障子の方へ向き、歩き出す。歩幅が速くなるのを抑えようとするのに、身体は思うように言うことを聞かなかった。襖に手をかけて開けたとき、背中で気配が動いた。けれど、追ってくる足音はなかった。ただ、春樹はそこにいて、黙って見送っている。何も言わず、何も求めず。ただ、すべてを見届けるようなまなざしで。智久は、振り返らなかった。和室の外に出ると、台所の方から湯の沸く
和室の障子越しに、淡い陽射しが差し込んでいた。外はうっすらと曇っていて、庭の草木はじっと気配を潜めている。初夏の湿り気を含んだ空気が、畳の上にゆるやかに広がっていた。七菜が小さな背を伸ばしながら、ピアノの前に座っている。背筋をぴんと張ったその姿は、どこかぎこちないが、一生懸命さが伝わってくる。智久は彼女の右隣に座り、少し斜めからその様子を見つめていた。「もう一回、やってみる」七菜は自分に言い聞かせるように呟いて、指先を鍵盤に置いた。まなざしが真っ直ぐに音符カードへ向けられ、その視線の強さに、智久は少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。小さな指が、黒鍵と白鍵の境を慎重に辿るように動いていく。ひとつ、またひとつ、音が鳴る。だがそのリズムはどこか不安定で、曲の流れがふとよろけたように揺れる。「うまくいかない…」七菜が、唇をきゅっと結んだ。智久は少し身体を傾けた。左手で譜面台に置かれたカードを支えながら、右手をそっと七菜の手の上に添えた。「こうかな。リズムは、こことここの間が…もうちょっと、空けていいかも」言いながらも、自分の声が思っていたより低く柔らかいことに、智久自身が少し驚いた。娘の小さな手の上に、自分の指を重ねる。その温度は思っていたより細く、そして繊細だった。「ここから、こう動かす。……一緒にやってみようか」言ってから、指を鍵盤へと運ぶ。ド、レ、ミ。音が並ぶたび、少しずつ七菜の肩の力が抜けていくのがわかった。ふと、和室の反対側から視線を感じた。春樹が、少し離れた場所からこちらを見ていた。彼は正座を崩し、静かに膝を抱えるようにして座っていた。その眼差しは、優しくて、どこか遠くを見つめているようでもあった。春樹は何も言わない。ただ、表情ひとつ変えず、三人の間に流れる静かな空気を壊さないように、そっと佇んでいた。智久は視線を戻し、もう一度七菜の指に自分の指を重ねた。白鍵の上に、影が落ちていた。午後の淡い光が、障子越しにまどろむように注いでいて、その光が、ふたりの手を包んでいた。「少しずつでい
昭江の寝室には、静けさだけがあった。家中の明かりが落ち、風の音さえ遠のいた深夜。壁にかかる古い時計の針の音が、唯一時間の流れを伝えていた。布団に入ってしばらく目を閉じていたが、眠りは訪れそうにないと感じた昭江は、ふと身体を起こした。年季の入った押入れの襖をそっと開ける。中には、整然と並んだ衣装ケースや古いアルバムが詰め込まれていた。その奥に、小ぶりな箱が一つある。昭江はそれを手に取って、布団の脇に座り直す。蓋を開けると、そこには黄ばんだ紙の束が詰まっていた。昔のレッスン帳。子どもたちの名前が書かれた出席表や、個別の記録、練習内容と一言コメントのメモ。手書きの文字は、かつての自分の筆跡のはずなのに、どこか他人のように感じられる。「春樹くん…変わらないのね」昭江はぽつりとつぶやいた。思わず漏れたその声が、部屋の中で吸い込まれるように消えていく。ページをめくると、「三輪春樹」の名が幾度も現れる。出席はほとんど皆勤。小さな丸印の横には、「表現力に伸び」「左手のリズムが自然に」などのメモが並ぶ。まだ子どもだった彼が、一心に鍵盤に向かっていた姿が、まざまざと蘇った。その名前の少し下に、「長谷智久」の欄も見つけた。最初の数ヶ月は並んでいた記録が、ある時期から突然、ぴたりと止まっている。その空白が、なによりも記憶を強く引き戻してくる。あの日のことは、はっきり覚えている。智久が、ふいに「やめたい」と言ったのだ。理由を尋ねても、「もういい」としか返ってこなかった。反抗期に差しかかったばかりの年頃、だがそれだけではない痛みが、あのときの声には混じっていた。春樹は、そのあとも黙って通い続けた。誰にも文句を言わず、淡々と、ひとつひとつの音に向き合っていた。隣にいた智久がいなくなったあとも、ピアノの前では変わらず真剣だった。昭江は、彼のその姿勢に、何度も励まされた記憶がある。月の光が障子越しに入ってきて、床の上に淡い影をつくっていた。譜面の紙にもうっすら光が乗り、インクの跡を際立たせる。記録された文字が、まるで呼吸を始めたかのように、昭江の記憶を刺激していく。「音楽はね、人のなかに残るのよ。形がなくても、思い出がなく