現在の俺は、在宅でライターをしている。結局、書く事からは、離れられなかったのだ。ただ少し休みたい。この仕事を終えたら、暫くの間は、日課となっている『記録』を書く事に専念したい。
ちなみに弟と俺は、五歳ほど年齢が離れている。年の差のせいか、あるいは――お互い小さい頃に、別々の場所に預けられて暮らし、寂しい思いをしていたせいなのか、昔から非常に仲が良い。少なくとも、俺はそう感じている。
俺達は顔を合わせると、酒を飲みながら、必ずと言って良いほど思い出話と――オカルト話に花を咲かせている。俺が学生時代に引き受けた、怖い話のネタ探しが契機だった。
「怖い話を知らないか?」
俺が弟に、最初にそう尋ねたのは、一体いつの事だったのか。
話してみると案外、俺と弟の周囲には、怖い話が溢れていた。二人で思い出を掘り返してみると、不可思議な出来事が思いの外、多かったのだ。例えば俺と弟は、二度ほど『くねくね』らしき存在と遭遇している。
――一度目は、俺が小学三年生の年だった。
この頃は、毎年夏には、母方の実家がある東北地方の小さな村に、弟と共に遊びに出かけていたものである。
この村は、O群の――仮に、椚原村としよう。
山の中にある集落だ。他の集落とは独立した場所にある。別段椚原村が特殊という訳では無くて、町内に独立した集落がいくつもあるという作りは、この界隈では多い。市町村合併の名残だ。その為、公的な町の括りとは別に、『村』と付けられて呼ばれていた。
どんな村かと言えば、それこそ田舎とでも言うしかない……代々の区長様やら庄屋やらその他数人の名家が存在し、古い因習もあり、今でもなお呪術師の末裔が存在している、そのような土地だ。ムシオクリも近年まで存在していた。
ホラー小説を読んでいて、古い村と聞くと、どうしても俺は、あの椚原を連想してしまう。
母方の実家には蔵がある。また居間には、天井の半分を占拠する神棚が存在する。神道の家系だ。寺の住職になっている人間も、家系図を見ると多い。年末年始には、土着した神道の行事をひっそりと行っている。まぁ――ありがちな、嘗ての地主の成れの果てである。長女である母が家を継がなかったので、少なくとも江戸から続く椚原の家が今後どうなるのかは分からない。
こんな風に書いていくと、俺があの村に対して、否定的な見解を持つように思えるかもしれないが、個人的には祖父の家が大好きだ。弟も椚原が大好きらしい。
祖父の家の周囲には、田園風景が広がっている。それこそ俺が小学校を卒業する少し前までは、昔話のアニメに出てくるような、整形されていない田畑が広がっていた。形が四角では無かったのだ。歪みながら辛うじて台形を描いていた事を、鮮明に覚えている。案山子も立っていたはずだ。
だがら最初は――『それ』も、案山子だと思った。
緑色の田の中で、揺ら揺らと動いている白い物。布が風で揺れているのだろうと、俺はあまり気にしなかった。弟の手を握っていた覚えがある。
弟は幼い頃、それこそ天使と見まごうほど可愛く、いやもう本当、俺はその小さな手と温もりが大好きで仕方が無かった。
俺だけの評価ではなく、家族、親戚一同、嫌、近隣住人の皆が口を揃えて讃えるほど、愛らしかったのだ。
俺は勉強が出来るという意味で神童と言われる事はあったが(今思えばただのお世辞である)、弟の顔面は神すら震撼させるくらいの輝きを放っていた。別に今が悪いとは言わないが、幼少時の弟の顔面は、煌めいていたのである。
そんな弟が、俺の手を握り返しながら、コテンと首を傾げた。
「サトぉ、あれ、何?」
「どれ?」弟は俺を、左鳥から取って、『サト』と呼んでいる。俺は弟の右京を見た。すると右京は、田んぼをもう一方の手で指し示す。つられて視線を向け、俺はつい先ほど案山子だと判断した物を、改めて視界に捉えた。
形は確かに案山子のようで、人の体を模している。だがよく見てみると、白いワンピースでも着ているのか、全てが真っ白く思えてきた。その上、この時にいた位置からでは、距離があるので、材質なども分かるはずが無いと言うのに、ナメクジのような印象を受けた。
「案山子だよ」
しかし俺は、他に語彙を見つけられなかったので、そう告げた。
この当時、既に『くねくね』という名称が存在していたのか否かは知らないが、少なくとも俺は、『くねくね』などと言う言葉を当時は知らなかった。なので笑顔で言い切り、俺は弟を見る。すると……号泣していた。何があったのか分からず、俺は表情を失くす。すると小さな指で、俺の手を、ギュッと弟が握った。「何してんだ?」
そこへ祖父が声をかけてきた。
――虐めていない、確かに俺は弟の泣き顔が好きだからよく泣かせるけど……と、慄きながら、俺は振り返った。右京が泣き出した事にも狼狽えていた。「案山子が……」
必死で俺が告げた瞬間、祖父が青褪めたのを覚えている。あの顔色の変わりっぷりは、今でも印象的だ。そのまま俺と弟は、急いで歩くように促された。そしてその後、蔵の中へと連れて行かれた。蔵の中は、壁にしめ縄があり、そのそばには獅子舞の首が鎮座していた。その正面に、二人で座るようにと言われた。
「今から、前昭さんを呼ぶから待ってろ」
祖父は深刻そうな声を放つと、蔵の戸を閉めた。当時の俺一人の力では、何をやっても開かない。その上何故、父まで呼ばれる事になったのだろうか……幼い俺にはさっぱり分からなかった。そのまま弟が、泣き疲れたのか眠ってしまった。その内に俺も寝た。
翌朝、両親に泣きながら抱きしめられたのだが、未だにその理由は分からない。
当時の話を何度か尋ねたのだが、両親は『忘れた』と笑うし、祖父は『案山子だ』と言う。結局あれは案山子だったのだろうか。
「あれって、絶対に『くねくね』だったよね」
帰省してきた弟が、缶麦酒を手に取りながら笑った。先程出迎えて、現在は二人で居間にいる。こうして今年も、『くねくね』の話が始まった。
本日は、父は仕事で、母は椚原に出かけている。過去にはこの家に同居していたと言う父方の祖父母は没しているので、今は弟と二人だ。
――さて、『くねくね』には、もう一度遭遇した。
二度目は、一度目の翌年の出来事だった。俺達兄弟と、椚原の祖父宅の近所に住む、晶君という男の子の三人で、肝試しに行った時の記憶である。
晶君は椚原で生まれ育った少年で、同じ年である事も手伝い、俺の幼馴染みだ。丸い鼻が印象的で、とても小柄だった。
椚原は、高い道路から幾重にも連なる曲がり角を下った場所に作られている。竪穴式住居のように、家々が道路の一つ下に並んでいた。時折、道路と同じ高さの家があったりする。俺の祖父の家もその一つだった。これは今も変わらない。
坂道を下から出発し、俺達は上った所にあるお寺を目指した。
一度火災で焼けてしまったそうで、現在では比較的新しい寺が建っているのだが、昔はそこに江戸時代から続く各家の家系図があったらしい。
なお父方の家系図は、ごく普通に実家の抽斗の中にある。
両親共に我が家は農家で、江戸時代くらいには既に現在の土地にいた様子だ。墓石的には、もう少し前から住んでいたらしい。墓地には沢山の、ご先祖様の墓石がある。
さて……寺へ行く最中に、それは起こった。
坂の真正面にお寺が見えた時、街灯の正面に、白とも黒とも判別出来ない、強いて言うなら黒を透過させて白に近づけたような色の、人の形をした何かが現れた。
俺はこんな時間にも、お参りをする人がいるのかと驚いた。人間だと信じて疑わず、見られたら困ると、心配ばかりしていた。
何せ……俺達は子供だけで肝試しに行く事が露見しないように、嘘をついて出てきていたのだ。
「すぐそばで花火をしてくる」
「お母さんが、近くにいるから平気だよ」このように、お互いの家族に言って出てきたのである。
夜の八時くらいだっただろうか。十時だったかもしれない。忘れてしまった。「なに!? あれ!?」
俺とほぼ同時に、蠢くものを視界に入れたようで、晶君が叫んだ。目を見開いていたのを覚えている。弟は俺の手を握りしめた。
「見に行ってみよう」
何せ『肝試し』だ――と、俺は宣言した。率直に言って俺は当時、怖い話は好きだったが、お化けというものを信じてはいなかった。信じていないから好きだったのだ。
「駄目だよ、お母さんを呼んでくる!」
晶君はそう言うと、逆走を開始した。弟は、暫く俺と晶君の姿を見比べた後、泣き出した。
「僕も、お母さんを呼んでくる!」
そして弟も走り出した。取り残された俺は……『ま、肝試しだしな』と、思いながら、お寺へと向かった。正直、こんな時間に寺に行く人物に興味があったのだ。どうせ怒られるならば、見に行ってから怒られても構わないだろう。それに、晶君ですら知らない人間がそこにいるらしいのだ。この村は、全員が顔見知りだと聞いた事があったので、逆に興味が惹かれた。大方村への帰省客だろうが――帰省しているのは俺達だけだと昼に聞いていたから、不思議だったというのもある。
俺が歩いていくと、『くねくね』としたものがそこにいた。しかし俺が進むと、それもまた後退るように動く。結果、俺が寺の石段の前に立った時には、それは寺の壁の後ろへと行ってしまった。どこか不思議な動きで、浮かぶようにフワフワと遠ざかっていったのだ。
さて、石段を登るかと、好奇心と恐怖が綯交ぜの状態のままで考える。
すると――ガシッと手首を掴まれた。……祖父だった。
そちらの方に、余程心臓が止まるかと思った。俺の祖父は、晶君の祖父と、更にもう一軒の隣家のお爺ちゃんを連れて、鉈を持って立っていた。俺はその場で激怒され、怒鳴られながら、他の二人が寺の周囲を、一周するのを見ていた。結局そのまま、『何もいなかった』と言う事で事態は収まった。
個人的な見解を言えば、『くねくね』らしき存在を見たが、俺も弟も、特に異常をきたしてはいないと思う。何でも、『くねくね』を見ると、人間は異常をきたすらしい。
「あれ、絶対、『くねくね』だよね」
弟が、再び言った。スマホで、オカルト系のまとめブログを見ている。
俺は麦酒を弟のグラスへと注ぎながら、深く考え込んだ。俺は――時島達とつるむようになってからは、二人から怖い話を聞いた事もあるし、実際に体験した事もあるが……あの二人と深く関わる以前の、自分個人の体験談はさして怖いとは思わない。
たった一つだけ例外はあるのだが。それは俺が高校を中退する契機となった一件だが、俺は思い出さない事に決めている。意識して記憶に蓋をしているのだ。
弟がグラスを受け取った。
そこから怖い話を、互いに挙げるのも、いつもの流れだった。そんなわけで――俺個人の、数少ないオカルト体験を、この日も回想した。
折角なので、それらもまた、『記録』に残そうと考える。これは、小説でも仕事の記事でも無く、ただの『記録』だ。本格的に、時島達と関わるようになる前の、即ち非日常が日常になる以前の、平々凡々な俺の毎日の断片であると言える。
書く事で、それらの思い出を昇華出来ると良いなと、俺は願っている。
仮名にしている人々や土地は、この『記録』の中において、一度しか名前が出てこない場合もあるが、一人一人が大切な俺の思い出の欠片でもある。なお、現実の舞台が推測出来た場合でも、心の中に留めておいて欲しい。あくまでも、フィクションとして捉えて頂きたい。
もし仮に、この『記録』を、目にした『誰か』――即ち、『貴方』が、そこにいるのならば。
以降、二週間ほど時島は俺の実家のそばにいた。俺は近くの温泉に時島を連れて行ったり、椚原に時島を連れて行ったり――正確には、時島に車で連れて行ってもらったのだが、とにかく出かけ回った。出かける度に、酷く息切れがして、俺は相当体力が落ちているのだと気づいた。何だろう、歳だろうか? ――ちなみに椚原では、祖父が家に入れてくれなかった。しかし、庵に立ち寄れたので良かったという事にしておく。 そんな時島が、二週間目に言った。「左鳥、戻ろうかと思うんだ」「実家に? 東京に?」「……取り敢えず、東京に」「良いんじゃないか?」「一緒に来て欲しい」「え、それは……そのほら、俺は家も引き払っちゃったし……」「嫌なら、はっきりと言ってくれ」「そういうわけじゃないんだけど……」「その場合は、こちらに新しく家を借りないとならないからな」「え?」「なんだ?」「帰らなくて良いのか?」「――俺の帰る場所は、左鳥の隣だ。左鳥の帰る場所も、俺の隣であって欲しい」「時島、何言ってるんだよ。お酒も入ってないのに」「本気だからな」「本気って……」「嫌か?」「……」 俺は、嫌じゃない。嫌だと思わない自分に、少しだけ悲しくなった。 そして、時島がそばにいてくれるだけで満たされる自分に気がついていた。「もう目の届かない所に左鳥を置きたくない」「それって蛇の執着?」「蛇なんて関係ない。俺の嫉妬だ」「嫉妬……っ……」「寂しい思いをさせたんなら――もし俺の不在を寂しいと思ってくれたのであれば、謝る」「あたりまえだろ。寂しいに決まって……そんなの。連絡も無いし、会いにも来ないし
なおこの時の事は、後になってもまとめる事は決して出来無い。何故ならもう俺は、何も書く必要が無くなったからでもあったし――三人が決して俺に話してくれないという理由もある。不思議なものだ。書く事が存在証明だとあれほど思っていたはずなのに、憑き物が落ちたかのように俺は書かなくなった。 時島達が来てから、もう三日が経過していたらしかった。 俺はその間、眠っていたのだと繰り返された。 寺の誰に聞いてもそれしか話してはくれなかった。けれど俺は、鎌の生々しい感触を覚えている。 五日目――時島と紫野が帰る日になった。 そこには、右京の姿があった。「帰ろう、左鳥」「ああ……」「紫野さん、それで良いですよね?」「まぁ、俺としては良いってわけでもないけどな。東京にはいつ戻ってくるんだ?」「未定です」 どうして右京は、紫野に確認を求めているんだろうか。そう考えていると、右京が続いて泰雅を見た。「泰雅さん、お世話になりました」「俺は良いとは言ってないぞ?」「それじゃあお寺に監禁されているって噂立てちゃいますよ。警察沙汰だ」「やめろ」 三人が冗談めかしたそんなやり取りをしている所から、少し離れた場所に、俺は立っていた。 俺の隣には時島がいる。 その時、人目があるにも関わらず、時島が俺の手を静かに握った。 狼狽えて、手と、時島の顔を交互に見る。「これからは、ずっと俺が左鳥を守る」「ずっとって……」 俺はそんな曖昧な言葉は、もう信じたくはない。それに縋って生きる事は辛すぎた。「そばに居させて欲しいんだ」「いられないだろ。実家、大変なんだろ?」「――出てきた」「え?」「しばらくは姉さんに頼んである。確かにいつかは戻らなければならないのかもしれない。ただな、俺は、俺だから。左鳥に会いたくて、触れていたくて――ああ、遅いな、どうして今まで言えなかったんだろう。頼む左鳥
「……あれ?」 次に気づいた時、俺は一人寺の蔵に立っていた。 まだ夜だった。 左手も右手もぬめる感触がしたから、持ち上げてみる。壁の明かりが灯っていた。 見れば、俺の手は鮮血に濡れていた。 瞬きをして、何度も確認して、そして臭気から血だと再認識する。 俺は右手に、鎌を持っていた。 何故こんな物を俺は持っているのだろう――? 嫌な予感がした。それは、被害者になる恐怖では無かった。俺はこの感覚を知っている。加害者になる恐怖だ。 強姦被害に遭った時、自分は被害者なのだからと、そう……過去にもずっと『被害者』だったではないかと、記憶に鍵をかけて忘れた感覚だ。違う、本当は違う、俺は加害者なのかもしれなかった。冬だというのに裸足の俺は、足の裏にも、土でも木でもなく血の感触を覚えていた。恐る恐る視線を下げれば、その血溜まりには、数珠の玉がいくつも転がり、白い紙人形が沢山落ちていた。そして、寺で飼育されていた鶏が死んでいた。何羽も、そう何羽も。冬の寒さとは異なる、恐怖から、俺の背筋は寒くなったのに、なのに体は熱に浮かされたように熱い。ああ、ああ、嗚呼嗚呼嗚呼、あああああああああああ。俺は、俺は何をした? 時島は? 紫野は? 泰雅は? すべてを殺してしまったイメージに襲われる。残虐な光景が、脳裏を過ぎっては消えていく。 その時、何かを踏む音がした。 しかし俺の体は、俺の自由にはならず、俺は鎌を握ったまま、振り返りざまに横に払った。 肉を裂く嫌な感触がした。「左鳥、ずっと会いたかったんだ。こんな事を今更言うのは、遅いかもしれないけどな。でもな、言いたいんだ。何度でも言う。俺はお前に会いたかった。ずっと会いたかったんだ。顔を見られて、それだけで良いなんてもう言えない」 俺は時島の肩を抉っていた。背中には鎌の刃が突き立てられている。誰でもなく、俺の手によって。 肉や骨の感触よりも、溢れ出てくる赤に、一歩乖離した理性が何かを叫んだ。 多分俺は、泣き叫んでいたのだと思う。 しかし耳に入
「あがったのか。思ったより長かったな」「いつもよりは早い」 座敷に戻ると、日本酒の猪口を持った時島が振り返り、その正面では一升瓶を持った泰雅が笑っていた。「――いつも?」「いつも一緒だったからな。それが何か?」「緋堂さん、左鳥は――」「左鳥の事を、今一番よく知っているのは俺だ」 どこか喧嘩腰の時島と泰雅の姿に首を傾げながら、俺は二人の間に座った。 紫野はといえば、時島の隣、俺と時島の中間に座った。 長方形の机の上には、様々な来客用の料理が並んでいる。 食欲をそそる。思わず手を合わせてから箸を取ると、紫野に苦笑された。「食欲はあるのか」「何言ってんだよ紫野。まるで人をさっきから病人みたいに」 ――忘れていた鐘の音が響いてきたのは、その時の事だった。「!」 直後に停電した。 ああ、やめてくれ、もうやめてくれ、東京の友人達には――時島と紫野には……頼むから……時島にだけは知られたくない。知られたくなかった。 俺は両手で耳を覆いながら、この場から逃げ出したくなった。その思いに素直に立ち上がり、部屋の襖に手をかける。 俺はここにいてはいけない。 時島を巻き込んではいけない。 勿論紫野なら良いわけでは無かった。そもそも本来であれば、泰雅の優しさに甘える事もいけなかった事なのだ。そう考える間も高い鐘の音が響き続ける。俺の頭を侵食し、何も考えられなくさせていく。だから無我夢中で戸を開け、外へと出ようとした。その時だった。「左鳥」 誰か――だなんて、分かりきっていた、俺はその温度を知っていた。時島が、俺を抱きしめた。なだめるように、あやすように、耳元で名を呼ばれた。その声は決して大きいものでは無かったが、俺にはそれ以外の音の何もかもが消えて無くなったように感じた。勿論錯覚だ。ああ、ああ、鐘の音がする。鐘の音だ。鐘だ。鐘が追いか
――泰雅の家のお風呂は、温泉だ。といってもごくごく小さなものだから、せいぜい二人、基本的には一人で入る代物だ。 俺は今、そこに紫野と入っている。 時島は泰雅と先に飲んでいると言っていた。「それにしても紫野、久しぶりだなぁ」「それ俺が言っても良いか? みずくさいってやつだろ、いきなり帰るなんて」「悪い。なんだか、ちょっとな――それより、どうして二人はここに?」「来ちゃダメだったか?」「そういうわけじゃないし、そういう意味じゃなくて――なんで泰雅の家に?」 純粋に疑問に思って俺が問うと、紫野が微笑した。「お前、寺生まれのTさんって知ってる?」「は?」「や。緋堂さんもイニシャルTだよな」「何の話だ?」「怖い話」「ああ、右京が好きな、寺生まれの話か」「右京君に聞いたんだよ。ここにいるって」「右京に?」「そ。それで左鳥の顔でも見に行くかっていう話になったんだ」 そういうものなのかと俺は考えた。その時、まじまじと紫野が俺を見た。正確には俺の体だ。「痩せたな」「そう?」「ああ。あー、キスマーク」「嘘だろ?」「うん、嘘」 自覚が無かったから、俺は自分の胸の下に触れ、そして驚いた。 肋骨が浮いていた。 元々そう太っていたわけでは無かったが、ここまで痩せていた記憶も無い。「そろそろ出るぞ、左鳥」「え、もう?」「のぼせたら困る。お前、最後に一人で入った時も、のぼせて倒れたんだろ?」「は?」「目が離せないって緋堂さんが嘆いてたぞ」「嘘だよな?」 果たしてそうだっただろうか。確かに記憶を掘り返してみると、最近は泰雅と一緒に風呂に入った記憶しか無かった。その記憶も、昨日や一昨日の事であるはずなのに、何故なのか霞がかかっている。言われてみれば、頬が火照っているような気もした。こんな時には、風呂上がりの麦酒が飲みたい。 上がろうとした時、俺は立ちくら
――左鳥は、綺麗だ。 時島は、待ち合わせをしている東京駅のホームに降りた時、改めて思った。 物憂げな表情を俯きがちにしていた左鳥は、それから我に返ったように視線を彷徨わせている。それが、己の到着を待っていたから、自分の姿を探していたからのものである事を実感し、時島は喜ばずにはいられなかった。 大学時代は、左鳥の顔を見ると、ホッとしている自身が確かにいたのに。 距離が遠くなると、安堵とは異なる――会う度に胸が高鳴る現実を、時島は自覚させられていった。 視線が合うと、左鳥が微笑した。その笑みに心が疼いたけれど、それを押し殺すように時島もまた小さく笑った。 実家に戻り、数ヶ月が過ぎようとしていた。ここの所は、あまり東京に足を運んでいない。 理由が無いわけでは無かった。いくらでも作り出せる。けれど、不思議と左鳥に言い訳をする気持ちは起きなかった。ただ、足が自然と遠のいただけだったからだ。理由は分からない。ただ、左鳥に嫌われる事が怖かった。左鳥に会って、二度と手放せなくなる自分も怖かったのかもしれない。「左鳥」 名を呼ぶだけで生まれる透明感。氷のような左鳥の気配が、硝子のように変わるひと時。 それだけで、時島の胸には満足感が満ちる。ああ、左鳥は自分の声で、表情を明るく変えてくれる――今は、まだ。左鳥の事を考えると、自分が自分ではなくなりそうで、時島は怖かった。「時島、元気にしてたか?」「左鳥、すぐにホテルに行きたいんだ」「あ、ああ」 そして、『抱きしめたいんだ』と続けようとして……それが出来無かった。 ただ左鳥は時島の言葉に、微笑しただけだった。けれどその表情が、どうしようもなく寂しそうで、悲しそうで。時島にはそう見えた。「ン、ぁあっ、あ……や、あ」「左鳥」「時島っ、時島、ああ、もう、俺」 左鳥の中を暴きながら、ホテルの一室で時島は痛む胸を押さえた。瞬きをする度に、蛇の瞳が映っている気がする。けれど蛇にすら、神にすら、