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清風、余年に寄せて

清風、余年に寄せて

By:  久遠カナタCompleted
Language: Japanese
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御影彰仁(みかげ あきひと)は私の専属執事だった。 何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。 だが、私と御影家の後継者との間に、幼い頃からの許婚があったと知ったとき、彰仁はようやく私の想いを受け入れてくれた。 彼と駆け落ちするため、私は父に婚約解消を申し出た。 いつも利益第一の父が、あっさり承諾したうえに、彼の大事な私生児――白川芹奈(しらかわ せりな)を代わりに嫁がせるつもりだと言い出したのだ。 この朗報を彰仁に伝えようとしたそのとき、街路に停まっていたマイバッハのリムジンの中で、彼を見かけた。 彼は切なげに芹奈の写真へ唇を寄せ、指先でそっとなぞり、瞳いっぱいに愛情を滲ませていた。 あの車のナンバープレートを見た瞬間、私はすべてを悟った。 そう――彰仁こそが、御影家の後継者だったのだ。 私は静かに踵を返し、家へ戻った。 そして父に、もう一つの条件を突きつけた。

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Chapter 1

第1話

御影彰仁(みかげ あきひと)は、私の専属執事だった。

何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。

だが、私と御影家の後継者との間に、幼い頃からの許婚があると知ったとき、彰仁は突然私の想いを受け入れ、さらには「一緒に駆け落ちしよう」とまで言った。

私は喜びに浮かれ、父に婚約解消を申し出た。

これまで政略結婚を命のように扱ってきた父が、あっさり承諾したのだ。

この朗報を彰仁に伝えようとしたそのとき、街路に停まっていたマイバッハのリムジンの中で、彼を見かけた。

彼は切なげに芹奈の写真へ唇を寄せ、指先でそっとなぞり、瞳いっぱいに愛情を滲ませていた。

「芹奈……もうすぐお前は俺の妻になり、御影家の奥さんになる」

その言葉に息が詰まり、視界がぐらりと揺れた。

そう――彰仁こそが御影家の後継者だったのだ。

私と駆け落ちするというのは、私に自ら婚約解消させるための口実にすぎなかった。

そして父があれほどあっさり承諾したのも、彼の私生児である白川芹奈(しらかわ せりな)を送り込むためだったのだ。

私は涙を飲み込み、踵を返して家へ戻り、父に新たな条件を突きつけた。

……

私が戻るのを見るなり、白川靖徳(しらかわ やすのり)の顔色が一気に険しくなった。

彼は気まずげに笑い、指にはめた深緑の翡翠の指輪を弄びながら、私を見つめた。

「沙雪、どうして戻ってきた?」

私は余計な言葉を挟まず、単刀直入に切り出した。

「会社の株の六割を私に譲っていただく」

私が株の話を持ち出した瞬間、靖徳の表情が微妙に歪み、危うく指輪を砕きかけた。

「もし拒んだら?」

「その時は、あなたの私生児が御影家に嫁ぐ道は閉ざされるわ。二度とそんなすり替えは通用しない」

靖徳の指が机をリズムなく叩く。五分後、ようやく彼が口を開いた。

「俺にも条件がある。江原家へ嫁げ。お前が江原家に入れば、俺は彼らの後ろ盾を得て新事業を拓ける」

私は鼻先で笑った。江原家がどれほど扱いにくいか、誰もが知っている。彼は芹奈を南城へやりたくないから、私を差し出すのだ。

親子といえども、最後は取引の駒。

「いいわ、嫁ぐ。七日後に江原家に迎えに来させて」

七日後――それは御影家の婚礼の日でもある。

靖徳の視線が泳ぐ。雷のように決断の早い彼の顔に、初めてそんな表情を見た。

「そのとき、俺はお前を送り出せない。芹奈にはずいぶん負い目があってな、だから――」

私は手を振って言葉を遮った。

「私はひとりで行くわ」

彼が私の結婚式に来るかどうかなんて、もはやどうでもよかった。

母が亡くなったあの日から、私には帰る家などなかったのだから。

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第1話
御影彰仁(みかげ あきひと)は、私の専属執事だった。何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。だが、私と御影家の後継者との間に、幼い頃からの許婚があると知ったとき、彰仁は突然私の想いを受け入れ、さらには「一緒に駆け落ちしよう」とまで言った。私は喜びに浮かれ、父に婚約解消を申し出た。これまで政略結婚を命のように扱ってきた父が、あっさり承諾したのだ。この朗報を彰仁に伝えようとしたそのとき、街路に停まっていたマイバッハのリムジンの中で、彼を見かけた。彼は切なげに芹奈の写真へ唇を寄せ、指先でそっとなぞり、瞳いっぱいに愛情を滲ませていた。「芹奈……もうすぐお前は俺の妻になり、御影家の奥さんになる」その言葉に息が詰まり、視界がぐらりと揺れた。そう――彰仁こそが御影家の後継者だったのだ。私と駆け落ちするというのは、私に自ら婚約解消させるための口実にすぎなかった。そして父があれほどあっさり承諾したのも、彼の私生児である白川芹奈(しらかわ せりな)を送り込むためだったのだ。私は涙を飲み込み、踵を返して家へ戻り、父に新たな条件を突きつけた。……私が戻るのを見るなり、白川靖徳(しらかわ やすのり)の顔色が一気に険しくなった。彼は気まずげに笑い、指にはめた深緑の翡翠の指輪を弄びながら、私を見つめた。「沙雪、どうして戻ってきた?」私は余計な言葉を挟まず、単刀直入に切り出した。「会社の株の六割を私に譲っていただく」私が株の話を持ち出した瞬間、靖徳の表情が微妙に歪み、危うく指輪を砕きかけた。「もし拒んだら?」「その時は、あなたの私生児が御影家に嫁ぐ道は閉ざされるわ。二度とそんなすり替えは通用しない」靖徳の指が机をリズムなく叩く。五分後、ようやく彼が口を開いた。「俺にも条件がある。江原家へ嫁げ。お前が江原家に入れば、俺は彼らの後ろ盾を得て新事業を拓ける」私は鼻先で笑った。江原家がどれほど扱いにくいか、誰もが知っている。彼は芹奈を南城へやりたくないから、私を差し出すのだ。親子といえども、最後は取引の駒。「いいわ、嫁ぐ。七日後に江原家に迎えに来させて」七日後――それは御影家の婚礼の日でもある。靖徳の視線が泳ぐ。雷のように決断の早い彼の顔に、初めてそんな表情を見た。「そのとき、俺はお
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第2話
祖母の口から聞いた話だ。母が妊娠八カ月のとき、靖徳は初恋の女を連れ帰った。しかも二歳になる女の子まで一緒に。「昔は誤解して、彼女を手放してしまった。悲しみのあまり、お前の母と結婚しただけだ」――そう言って、誤解が解け、しかも子どもがいると知ると、彼はその娘を白川家の子として迎え入れようとした。母はその衝撃で早産し、私を産んだ直後に大出血で命を落とした。本来は子を持たないつもりだったのに、それほどまでに靖徳を愛し、子を産むことを選んだのだ。そして最愛の春に、最期を迎えた。母を弔う間もなく、靖徳は初恋の女に盛大な結婚式を挙げた。その日から、誰も私を本当の「お嬢さま」としては扱わなくなった。屋敷の人々の視線は、いつも芹奈の方へ向けられ、私は次女のように扱われるだけになった。誰も母を思い出さず、靖徳の初恋の女を「奥さま」と呼ぶようになった。誰も、靖徳が母の実家の後ろ盾で成り上がったことを口にしない。私は靖徳を心の底から憎んだ。部屋の扉を押し開けて階下へ降りようとしたとき、彰仁が半身を屈め、芹奈の足首を揉んでいるのを目にした。黄昏の光に浮かぶ彼の口元には微笑があり、風に揺れる前髪さえ穏やかで美しい光景だった。けれど、私といるときの彰仁は、決してこんな顔を見せたことはない。彼はいつも冷ややかで、「私は執事であって、あなたの召使いではないです」と突き放してきた。私が現れた瞬間、静謐な空気は途切れ、彼は無表情に立ち上がり、淡々とした声に戻った。「お嬢さまが足を挫かれたので、処置をしていただけです」私は手を欄干に置き、目の中の嘲笑を隠さずに吐き捨てた。「家に医者がいないの?それとも、あなたは医者より役に立つとでも?」芹奈がとっさに彰仁の前へ身を差し出す。「沙雪、そんな言い方はやめて。両親はそんなふうに私たちを育ててないでしょ?」私は眉をひそめ、人差し指を唇に添えた。「私の母はもう死んだの。あなたの、あの成金趣味の母親と、人殺しの父親――私には関係ない」芹奈の顔が一瞬にして真っ青になり、彰仁は痛ましげに眉を寄せた。「白川さま!その言葉はお控えください!」その呼び名が、胸を鋭く抉るように響いた。屋敷の者は皆、私を「お嬢さま」とは呼ばない。まるで余分な娘であるかのように、形式ばった呼
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第3話
「ないわ」私の答えに、彰仁の瞳に一瞬、失望の色が走った。「沙雪、お前は御影家との婚約を必ず解消しなければならない」私は問い返した。「私が婚約を解消したら、誰が御影家に嫁ぐの?」彰仁は思わず口を滑らせた。「もちろん芹奈が……お嬢さま」胸の奥に冷たい笑いが広がる。自分の天真爛漫さと愚かさに――彼が私の想いを受け入れたのは、私の粘り強さに心を動かされたからではなかった。すべては、私に婚約を解消させ、芹奈を堂々と送り込むための計算だったのだ。失言に気づいたのか、彰仁は視線を逸らした。「俺たちはすでに一緒にいる。お前が嫁いでしまったら、俺はどうなる?」その声にはかすかな震えが混じっていた。危うく、また騙されるところだった。彼が恐れているのは、芹奈が順調に御影家に入れなくなること。私の存在など関係ない。私は唐突に口にした。「御影家の後継者は、白川芹奈を好きになると思う?」長い沈黙。答えは返ってこないと思ったそのとき、彼は小さく口を開いた。「そう思う」胸を締めつけるはずの苦しさはなく、むしろ淡い解放感があった。「なら、あなたの願いは叶うわ」「……何?」聞き返す彼に、私はもう何も答えなかった。互いに言葉を失っていると、ドアを叩く音が響いた。「沙雪、入ってもいい?」――芹奈の声だ。その声を聞くなり、彰仁はすぐに私の手を放し、恭しく横に控えた。私が黙っていると、芹奈は勝手に扉を開けて入ってきた。「彰仁さんもいたね」彼女は一度も彰仁を「執事」と呼んだことはない。いつも淑やかに、甘やかに「彰仁さん」と呼ぶ。その瞬間、普段は無口な彰仁の頬に、かすかな朱が差した。そして珍しく口を開いた。「白川さまに、オレンジジュースをお届けに」芹奈はにっこりと頷き、嬉しそうに言った。「私ね、もうすぐお嫁に行くの。沙雪、一緒にウェディングドレスを選んでほしくて」彰仁の表情が固まり、朱が一瞬で怒気に変わった。「どうして急に……どこの家に?」我を忘れた彰仁は、自分の立場を越えたことにも気づかない。今度は芹奈が恥じらう番だった。唇を噛みしめ、小さく「秘密」と告げる。彰仁がさらに言葉を重ねようとしたそのとき、芹奈は一本の電話に呼び出されて部屋を出ていった
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第4話
その後の三日間、彰仁は一度も私の前に姿を見せなかった。「最近は忙しい」とだけ言い、私にかまう暇すらないと。だが忘れているのだろうか。彼は私の専属執事であり、白川家の雑務など本来関係ないはずだ。最初に数多の候補から彼を選んだのは、八カ国語を操り、あらゆる礼儀作法に通じ、さらには宝飾や金融にも精通していたから。そして――何よりも、容姿が際立っていたからだ。これほどの経歴を持ちながら、なぜ執事に甘んじているのか。その疑問を口にしたとき、彼は笑って答えなかった。「それでも、私を選びますか?」とだけ言った。自分でも理由が分からぬまま、気づけば頷いていた。思えば、そのときからすでに不審な点はあったのだ。けれど、私は見ようとしなかった。考え込んでいると、メールボックスに一通の招待状が届いた。オークションへの招待状――私は彰仁に連絡し、【一緒に行って】と頼んだ。返事は、ほとんど即座に返ってきた。【最近忙しくて、抜けられない】問い詰めに行こうとした矢先、再びメッセージが届いた。【行く】二日後、私は彼と共にオークション会場へ足を運んだ。そして理由を悟った。そこに――芹奈が現れていたからだ。前半の出品物に私はまるで興味を示せなかったが、芹奈は意気込んで競り合い、まるで嫁入り道具でも選んでいるかのようだった。そして彰仁の視線もまた、彼女に釘付けのまま動かなかった。後半が始まったとき――私は言葉を失った。展示台に並んでいたのは、あの「陽緑の翡翠のブレスレット」だった。それは母の形見。祖母から託され、私は金庫にしまっていた。だが、靖徳が金庫を破壊し、会社の危機を凌ぐために担保として差し出したのだ。――今度こそ、母の遺品を取り戻す。私は迷いなく札を掲げた。「二十億!」会場の視線が一斉に私に集まった。芹奈の瞳もすぐさまブレスレットに注がれる。二秒後、彼女も札を掲げた。「三十億!」そして、私に向かって作り笑いを浮かべる。「ごめんなさいね。このブレスレット、私も欲しくて」私はこれ以上言葉を費やさず、きっぱりと再び札を上げた。「六十億!」私は心の中で冷静に弾いていた。白川家の流動資金など、四十億を超えるはずがない。六十億――靖徳がどう足掻
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第5話
声のする方へ目を向ける。そこに立っていたのは、深灰のスーツを完璧に着こなした男だった。高く通った鼻筋、奥行きのある眼差し。仮面をつけていても隠しきれない、圧倒的な気品が漂っていた。男はポケットから一枚の翡翠の牌を取り出した――御影家の象徴。「白川家の令嬢、白川芹奈が望むものは、すべて俺が落札する」会場にざわめきが広がる。仮面の男こそ、これまで姿を見せたことのない御影家の後継者ではないかと。私は冷ややかにこの茶番を見ていた。――よくもまあ、短期間で体格の似た男を用意し、代理を立たせたものだ。私は彰仁へ振り返った。「このブレスレットは私にとって大切なもの。必ず落とさなければならない」彼は一瞬息を呑み、すぐに目を逸らした。「俺はただの執事だ。御影家の跡取りと競うなど、到底できない」涙が込み上げ、天井を仰いでようやく零れ落ちるのを堪えた。オークションが終わったあと、私は駐車場で芹奈を呼び止めた。「あなたの欲しいものなら、何でも差し出すわ。でも、このブレスレットだけは譲ってほしい。いくらでも払う」その瞬間、彼女は上品な仮面を捨て、傲慢な笑みを浮かべた。「誰のものか、私が知らないとでも?たとえ捨てても、あなたには渡さない!」次の瞬間、彼女は手を放ち、翡翠のブレスレットは床に叩きつけられ、四散した。私は抑えきれず、芹奈の頬を打った。彼女は悲鳴を上げて倒れ込み、顔を覆って泣き出す。そこへ、どこからともなく彰仁が現れ、芹奈を抱き起こす。私を見据える目は、まるで人を喰らう鬼のように鋭かった。「彰仁さん……このブレスレットは確かに私が落札したもの。ただ、うっかり落としてしまって……どうして沙雪が私を叩くのか分からない」彰仁は芹奈をそっと落ち着かせると、勢いよく立ち上がった。「白川沙雪(しらかわ さゆき)!所詮ただの物じゃないか!お前は一体何を学んできたんだ?母親から、人としての礼儀さえ教わらなかったのか!」涙が止まらなかった。靖徳は外には「母は療養で海外にいる」と言いふらしていた。誰も知らない。母が難産で命を落としたことを。生まれたときから母の顔を知らず、父は芹奈母娘に心血を注いできた。誰も、私に生き方を教えてはくれなかった。私は背を向け、涙を拭い、散らばった破
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第6話
私は痛みに耐えながら、割れた欠片を一つ残らず拾い集めた。けれど手から流れる血は止まらず、ますます増えていく。必死に立ち上がり、車で病院へ行こうとしたが、車はすでに彰仁に乗って行かれていた。残り1%だった携帯も電源が落ちてしまい、それが私の心を押し潰す最後の一撃となった。積み上がった破片を見つめたまま、声をあげて泣いてしまう。「ごめんなさい、お母さん。あなたが最後に遺してくれたものさえ、私は守れなかった……」朦朧とした意識のまま家へ向かって歩いた。指先から滴る血が道に落ち、その一滴一滴が心臓を槌で打つように響いた。扉を押し開けると、そこに立っていたのは少し罪悪感を帯びた表情の彰仁だった。「すまない、沙雪……あのとき俺は取り乱していて……」彼の横をすれ違いざま、乾いた唇を開くと裂けるように痛んだ。「御影彰仁、私たち……別れましょう。私は嫁ぐの。もう、終わりにするときだわ」あまりにも小さな声。まるで幻聴のように彼には聞こえたかもしれない。だが彼は一瞬の迷いもなく頷いた。私の予想どおり。きっと彼は、私が嫁ぐ相手も結局は自分だと思っているのだろう。立場を変えて傍にいるだけだと。階段を上ろうとしたとき、背後から呼び止められた。「沙雪……あの家に嫁いでも、お前は決して幸せになれない」「いいえ、幸せになれる」私の確信めいた言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。「聞いたよ。御影家の跡取りは善良な人だって。たとえ愛がなくても、きっとお前を大事にして、残りの人生を共に過ごしてくれるだろう」彼の声は静かにそう告げた。私は応えず、部屋に戻って荷物をまとめ始めた。母の写真と、砕け散った翡翠のブレスレット――それだけを持っていく。白川家からは、母に属していた六割の株式を持ち出すだけだった。荷物を整えたところで、江原尚紀(えはら なおき)から電話がかかってきた。弾んだ声で「沙雪、本当に俺と結婚する決心をしたのか?」と訊かれる。「ええ」ただ一言。それだけで彼は抑えきれぬほど喜んでいた。彼は興奮気味に次々と語り続けた。なぜだろう、私の口元には自然と笑みが浮かんでいた。電話を切ったとき、入口には彰仁が立っていた。その瞳にはどこか不安の色が混じっている。「誰からの電話だ?」「
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第7話
尚紀の屋敷に着いたとき、彼はすでに門の前で私を待っていた。八月の空気は重く、額には細かな汗が光っている。「わざわざ迎えに出なくてもよかったのに」彼は全身から明るい空気を放ち、そのせいか私の気持ちまで少し和らいだ。私の後ろに誰もいないのを確認すると、尚紀はそっと私の手を握り締めた。「沙雪に会えるのなら、もちろん迎えに出るさ。自分で迎えに行けなかったことだけが悔しい」その言葉に思わず笑ってしまう。私の笑顔を見て、尚紀は目に見えてほっとしたものの、次の瞬間、再び表情を引き締めた。「沙雪……俺と結婚して、後悔していないか?今ならまだ間に合う」私は首を横に振り、優しくも揺るぎない声で答えた。「後悔していないわ」結婚式は盛大だった。花も食材もすべてフランスから空輸され、国内屈指のヴァイオリン・アンサンブルまで招かれていた。私の気持ちを考えて、尚紀は両親絡みの多くの儀式を取りやめてくれた。白いドレスに身を包み、私はステージの端で彼がゆっくり歩み寄ってくるのを待った。片膝をついたその瞬間、尚紀の瞳に光る涙を見た。彼は私を強く抱きしめた。「沙雪、七年……ようやくお前を迎えられた」問いかける間もなく、やわらかく重なる唇の感触に私は少し目眩を覚えた。花びらが舞い、拍手が響く中、式は幕を閉じた。招待客を見送ったあと、胸の奥の疑問をようやく口にした。「七年って、どういう意味?」「七年前、俺は白川家の晩餐会に出ていた。お前は正統な令嬢なのに、誰にも顧みられず隅に座っていたね。泣きもせず、騒ぎもせず、ただ清らかに、そして頑なに――あの姿を見て、俺はお前を守り、一生そばにいようと思ったんだ。だが、お前が御影家と婚約していると聞いて、その気持ちを胸に閉じ込めた。もしお前が御影家で幸せに暮らせないなら、必ず連れ出そうと決めていた。それが後に、お前と御影家の結婚が破談になったと知ったとき、七年間でいちばん嬉しかった。沙雪、やっとお前を迎えられた」胸が熱くなる。こんなにも深く愛してくれる人がいるなんて知らなかった。尚紀のスマホには、この七年間の私の姿が写った写真がぎっしり詰まっていた。彼はずっと、私の見えないところから静かに見守っていたのだ。感動に浸っていたそのとき、扉口に見覚えのある影
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第8話
彰仁の視線は、まっすぐ私の手元に注がれていた。しばらくの沈黙のあと、彼はかすれた声を絞り出した。「沙雪……二人きりで話せないか」今日は私の結婚式。まだ会場には完全に人が引けておらず、ちらほら視線がこちらに集まっていた。私は尚紀の手を軽く引いた。「彼ときちんと話してくるわ。あなたは招待客の対応をお願いできる?」尚紀は拒むかと思ったが、意外にも頷いた。「わかった」私が安心させるように微笑むと、尚紀も理解したようにうなずいた。そして私の額に軽く口づけを落とし、彰仁には一瞥もくれずに踵を返した。「こっちへ来い」かつては私が彼の後ろを追っていたのに、いまや立場が逆転している――そう思うと笑えてきた。応接室に入るなり、私は少し苛立ちを滲ませて口を開いた。「何のつもり?」彰仁は正面から答えず、勝手に話し始めた。「まさかこの結婚式に期待するとは思わなかった……でも、招待客が次々入ってくるのを見ていたら、不思議と胸が高鳴ったんだ。これまでの出来事を思い返すと、俺は決してお前を嫌っていたわけじゃない。でも、ドレス姿で現れたのが芹奈だと知ったとき、頭が真っ白になった。『彰仁さんが御影家の跡取りだったなんて』と笑う彼女を見て、喜ぶべきなのに、なぜか脳裏に浮かぶのはずっとお前の姿だった。お前がいつも俺の背中にくっついて『この一生はあなただけに嫁ぐ』と言っていたこと……跡取りなんて気にしないと言っていたこと……その全部が頭を離れない。俺は彼女に、お前はどこにいるのかと訊いた。芹奈が涙ぐんでも、俺の心は痛まなかった。頭の中はお前を探すことでいっぱいだった。そして知ったんだ。同じ日に、お前が江原尚紀と結婚することを。沙雪、もう拗ねるのはやめてくれ。全部俺が悪かった。自分の心を見誤っていた。一緒に帰ろう、頼む」最後には声が詰まり、彼は頭を両膝に埋め、肩を震わせた。私は右手を掲げ、その薬指に光る大きなダイヤモンドを見せた。「御影彰仁、私はもう結婚したの。昔、あなたに『自分の立場をわきまえて』と言ったわね。いまこそ、あなたが自分の立場をわきまえるときよ」彰仁は勢いよく立ち上がり、苛立ちを歩みににじませた。「でも、お前が愛しているのは俺だろう?何年も俺を愛してきたじゃない
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第9話
「もう話は終わり?終わったなら出て行って。尚紀と一緒に片づけなきゃならないことがまだ山ほどあるの。あなたに付き合っている時間なんてない」扉に手をかけた瞬間、彰仁が私の手首を強く掴んだ。きゅっと唇を噛みしめ、澄んでいたはずの瞳は真っ赤に染まっている。「沙雪、どうして俺を許してくれないんだ!俺は芹奈に騙されていただけで、心の中にはずっとお前がいた。やっと自分の気持ちに気づいたのに、なぜお前は変わってしまったんだ」私は彼の手を思い切り振り払った。視線には冷たさだけが宿っている。「そう、そんなに知りたいなら教えてあげる。あなた、白川芹奈のためにオークションで落札したあの翡翠のブレスレット、覚えてる?」彰仁は何も考えずに頷いた。「そのブレスレットが私にとって何を意味するか知ってる?あれは母が遺した、たった一つの形見だったのよ」彼が私を突き放したときも、私は泣かなかった。彼が御影家の跡取りで、私の想いを受け入れたのもただ縁談を壊すためだと知ったときでさえ、私は泣かなかった。けれど今、豆粒のような涙が頬を伝い、止めどなく溢れていく。拭おうとしても、勝手に零れ続けるばかりだった。私の姿を見て、彰仁は言葉を失い、口を開いたり閉じたりしては後悔の色を顔に浮かべていた。「俺……知らなかった、本当に知らなかったんだ」「私は言ったわよ、あのブレスレットがどれだけ大切かって。でもあなたはどう言った?『御影家の跡取りと競うなど、到底できない』って、笑って見せたじゃない。御影彰仁、私を弄ぶのはそんなに楽しかった?」彼は答えず、やがて私の言葉の裏に何かを感じ取った。「お母さんは海外で療養しているんじゃなかったのか?形見ってどういうことだ」私はひきつった笑みを浮かべた。「彼女は私を産むときに大出血で亡くなったわ。私は生まれたときから母がいない」彰仁の顔色が一変し、力なく扉にもたれかかった。「だから、あなたの言うとおりよ。両親は、私に人としての礼儀なんて教えられなかった」彰仁は拳で壁を何度も叩き、血がにじむまで止まらなかった。「沙雪、ごめん、本当にごめん。俺は、口がすべって……俺は――」「そんな謝罪、もう聞きたくない」私は手を伸ばして彼の言葉を遮った。「もう二度と、あなたに会いたくない」
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第10話
数歩も歩かないうちに、尚紀が心配そうな顔で階段脇に寄りかかっているのが目に入った。「沙雪……泣いていたな。俺があのクソ野郎にケリをつけてくる!」私は尚紀の手をぎゅっと握った。「大丈夫よ。無関係な人のことで、あなたが怒る必要はないわ」彼はそっと私の涙を拭い、そして強く抱きしめた。「沙雪……お前はずっと耐えてきたんだな」返事をする間もなく、鋭い女の声が響いた。「白川沙雪!あんた、随分と上手なやり口ね!後退るふりして江原家に嫁ぎ込むなんて。彰仁さんは?さっきまでここに来てたでしょ!そんなに下劣だなんて思わなかった。男がいないと生きられないの?江原尚紀と結婚したのに、まだ彰仁を引きずってるなんて!」尚紀が怒鳴ろうとしたのを、私は制した。――私と白川芹奈の問題は、私自身で決着をつけるべきだ。静まり返ったホールに、乾いた音が響いた。芹奈は信じられないという顔で頬を押さえた。「あんた……あんたなんかが私を叩くなんて!この私に逆らうなんて!分際をわきまえなさい!」もう一度、鋭い音が鳴った。だが、それは私の手ではなかった。彰仁の掌が彼女の頬を打っていた。彼の姿を認めた途端、芹奈はたちまち態度を変え、縋るように声を上げた。「彰仁さん!沙雪が私を叩いたの……!私は正妻の娘じゃないって分かってるから、ずっと妹に譲ってきたのに、どうして……」「いい加減にしろ!」彼女の言葉は彰仁の一喝に遮られた。「芹奈、お前には徹底的に騙されたよ!俺は調べた。全部、あの通りじゃなかった!優遇されていたのはお前だ。小学校の参観日にはおじさんが必ず顔を出していたのに、沙雪の隣にはいつも乳母しかいなかった。成人の祝いでは、おじさんとお前の母が揃って壇上に立ったが、沙雪はひとりきりだった。留学だって――お前が『沙雪と同じ国は嫌だ』と駄々をこねたせいで、彼女は二か月も自宅に閉じ込められ、進学の道を断たれた。白川芹奈……俺は、こんなにも狡猾なお前を今まで見抜けなかったのか!」すべてを暴かれ、芹奈の顔は蒼白になった。それでもなお言い訳を叫ぶ。「でも……でも、彼女はずっと私のものを奪ってきた!最初の誤解さえなければ、彼女なんて現れる余地なかった!何をしても、罰が当たって当然よ!本当なら、白川家の正妻の座は私の母
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