ANMELDEN「水原さん、大丈夫?」「うん、大丈夫。ありがとう」男性社員が駆け寄ってきた。渉のほうをちらりと見てから、声を落として聞く。「もしかして、彼氏?」「元彼」「……より戻したい系?」「まあ、そんなところ」男性社員は何か言いかけて、そこで口を閉じた。言葉を選んでいるのが分かったので、私は先に言った。「その気があったら、元彼なんて言わないよ」その言葉に、男性社員は少しだけほっとした顔をした。「じゃあ、これから仕事で分からないことがあったら、いつでも聞いて。俺で分かることなら、何でも答えるから」私はうなずいた。振り返ると、渉はまだその場から動けずにいた。肩を落としたまま、すっかり気力をなくしたように立ち尽くしていた。……それから数日、渉はもう私を訪ねてこなかった。おそらく向こうへ戻ったのだろう。私は偶然、茉莉のインスタを目にした。茉莉は高校時代の友人たちとの集合写真を載せ、こう書いていた。【十年以上の付き合いって、後から来た人のひと言ふた言で壊れるものなんだね】詳しいことまでは知らない。ただ聞いた話では、渉は戻ってすぐ、茉莉を問い詰めたらしい。茉莉は、自分はわざとではないと言い張った。恋人だった渉でさえ私の桃アレルギーを忘れていたのに、自分が覚えているわけがない、と。けれど渉は、ケーキ屋の店長に直接話を聞きに行った。店長の話では、桃のミルクレープはあまり注文が入らないらしい。よく出るのは、チョコや抹茶、季節のフルーツだった。それでも茉莉は、ほかの味には目もくれず、桃のミルクレープを選んだ。そのうえ、桃は洗わず、そのまま切って上にのせてほしいとまで頼んでいた。店長は困ったものの、断りきれず、その場で一つ作ることになった。それなのに茉莉は、店に並んでいたものの中から、一番きれいなものを選んだだけだと言っていた。そこで渉は、ようやくすべてを理解した。渉は茉莉と激しく言い争い、それきり連絡を絶つと言った。茉莉には、それが耐えられなかった。小さい頃から周りにちやほやされて育ち、家は裕福で、見た目もよく、愛想もいい。そんなふうに突き放されたことなど、一度もなかったのだ。渉にブロックされてからも、茉莉は何度も電話をかけた。けれど一度もつな
店を出ても、渉はまだあの男性社員のほうを気にしていた。私が名前を呼ぶと、渉は暗い顔のまま、店先から少し離れた場所までついてきた。「俺と別れたのって、あいつが原因なのか?」爪が手のひらをかすめる。私は胸の奥にこみ上げるものを押し込めて、ため息をついた。「渉。今になってもまだ、別れた理由が分からないの?」渉は、何日も髭を剃っていないようだった。あごには無精ひげが伸び、赤く充血した目を見る限り、まともに眠れてもいないのだろう。私にそう聞かれると、渉は足元に目を落とした。声は少しかすれていた。「思い出したんだ。お前が桃アレルギーだったこと。あの日、俺がピーチティーを渡しただろ。もしお前が飲んでたら、病院に運ばれてたかもしれない。そのあとも、茉莉がピーチティーを作ったり、桃のミルクレープを買ってきたりした。高いところが苦手なのに、あんな高層階のレストランまで予約した。そこまでされたら、怒って当然だよな」渉はようやく顔を上げた。「遥那、本当に悪かった」私はしばらく何も言えなかった。こんな遠くまで追いかけてきて、渉がようやく分かったのは、結局そんな上辺だけのことだった。「それを謝りに来たの?謝れば、終わると思った?また忘れたら、そのたびに謝るつもり?それとも、また私に言うの?どうして先に教えてくれなかったんだって」渉がはっと顔を上げた。「違う。今回はたまたまなんだ。最近ずっと忙しくて……」「何に?」渉は言葉を失った。私はそのまま続けた。「幼なじみたちと集まって、バーベキューに行って、茉莉と高校の先生に会いに行って。そうやって忙しかったから、私の桃アレルギーも、高いところが苦手なことも、誕生日も忘れたのね」痛いところを突かれたように、渉の表情がこわばった。それでも彼は一歩近づき、私の手を取ろうとした。私はその手を振り払った。それでも渉は、また距離を詰めてきた。「俺と茉莉は、本当にただの幼なじみなんだ。誤解しないでくれ。それに、茉莉だってわざとじゃない。あいつ、自分なんていないほうがいいって泣くくらい、責任を感じてたんだぞ。遥那、許してくれ。これからは絶対に忘れない。誕生日も、アレルギーも、高いところが苦手なことも、ちゃんと覚えておく。俺は、お前がい
百合以外にも、花はいくらでもあった。けれど渉は、別の花を選ぶことなど考えようともしなかった。人事部としてもこれ以上は対応できないということで、渉は会社を出るよう促された。外では、まだ雨が降っていた。来たときよりも激しく、視界まで白くにじむほどだった。渉は、遥那のスマホの待ち受けに写っていた袴姿を思い出した。あの袴は、レンタルではなく買ったものだった。いつか結婚するときは、この袴で前撮りしよう。そう言ったのは、たしかに渉だった。けれど、その袴は……袴をしまっていた箱は、渉が捨てた。あの箱には、ほかにもいろいろ入っていたはずだ。大学の卒業写真も、袴一式も、記念日に贈り合ったものも。それから、遥那が手作りしてくれたアルバムも。風にあおられた雨が、車体を強く叩いた。次の瞬間、空を裂くように雷が鳴る。渉は乱暴に車のドアを開けると、ほとんど我を失ったように車を出した。……新しい職場に入ってから、私の毎日は驚くほど穏やかだった。通勤時間が短くなり、満員電車に押し込まれることもない。朝は、そのぶん一時間以上長く眠れるようになった。私が何時に起きても、食卓には両親が用意してくれた朝食がある。冷蔵庫には、昼に持っていくお弁当と、午後に食べる果物が入っていた。中身を一つ一つ確かめなくても、そのまま持って出られる。アレルギーを気にしなくていいだけで、ずいぶん楽だった。そんな穏やかな日が続いていたある日、前の職場の同僚から電話がかかってきた。「遥那、この前、例の彼氏が会社に来たよ。あなたがいつ辞めたかも知らなかったみたい。しかも、百合の花束まで持ってきてたの。正直、見ていてこっちが呆れた」私は少し驚いた。「会社まで来て、何しに?」「人事部で、遥那の書類を見せてほしいって。緊急連絡先を知りたかったみたい。……退職したこと、彼には言ってなかったの?」「言ってない。だから知らないと思う」私は手元のファイルの表紙を、指先で何度かなぞった。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。「だからあんなに焦ってたんだ。喧嘩でもしたの?」「まあ、そんな感じ。もう別れたし――」そこで、新しい職場の同僚が「そろそろ行こう」と声をかけてきた。歓迎会ということで、まず私にメニューが
エレベーターのボタンを何度も押しているあいだも、電話の向こうで茉莉は泣いていた。「遥那さん、本当に行っちゃったの?私のせい……?ごめんね、渉。私、また余計なことしちゃった。ミルクレープも、あのドリンクも、買わなければよかった。もうやだ。私なんて、いないほうがいいのかも……」茉莉は、いつもグループの中心で笑っているような子だった。そんな彼女がここまで弱った声を出すのを、渉は聞いたことがなかった。エレベーターの階数表示が、一階で止まった。遥那はもう下まで降りたのだ。今すぐ追えば、まだ間に合うかもしれない。それなのに、そのとき渉の頭を占めていたのは、電話の向こうで泣き続ける茉莉のことだった。茉莉が本当に何かしたらどうしよう。そう思った瞬間、渉は遥那を追うことを諦め、車の鍵を手に取って茉莉の家へ向かった。茉莉が無事だと分かっても、不安は消えなかった。結局、夜が明けるまでそばにいた。帰り際、茉莉が渉の手をつかんだ。「渉、遥那さん、本当に戻ってこないの?」渉は一度目を伏せてから、答えた。「戻ってくるよ。今は意地になってるだけだ。落ち着けば、きっと帰ってくる」そのときの渉は、本気でそう思っていた。けれど今、テーブルに残されたミルクレープを見ていると、その自信が少しずつ揺らいでいく。もし、本当に戻ってこなかったら。……三日後、雨が降った。渉は朝から窓の外ばかり気にしていた。遥那が帰ってきても、見逃したくなかった。けれど会社から電話が入り、溜まった仕事の件で出社を求められた。仕方なく、渉は隣の部屋の住人に、遥那が戻ったらすぐ連絡してほしいと頼んだ。隣人は不思議そうな顔をした。「喧嘩でもしたんですか?水原さんが帰ってきたら、本人から連絡が来るんじゃないですか?」渉は苦笑した。「ブロックされてるんです」その日、渉は仕事中もずっと落ち着かなかった。何度も隣人にメッセージを送り、そのたびに「まだ帰ってきていません」と返ってくる。窓の外では、雨脚がさらに強くなっていた。遥那は車を運転できない。空港に着いたあと、タクシーがつかまらなかったら。雨の中で、濡れたまま待っていたら。考えれば考えるほど、じっとしていられなくなった。渉は結局、仕事を途中で抜け、
エレベーターが下りていく。エントランスを出ると、外はしんと静まり返っていた。タクシーの運転手さんが、スーツケースをトランクに載せてくれる。「忘れ物は大丈夫ですか?こんな時間に空港まで行くなら、戻るのも大変ですからね」私は後部座席に腰を下ろした。「大丈夫です。置いてきたのは、もう要らないものだけなので。お願いします」タクシーがゆっくり走り出した。空港が近づくころになって、ようやく渉から電話がかかってきた。「今の、どういう意味だよ。もう戻らないって。別れるって何だよ。実家に帰るだけじゃないのか」私は窓の外へ目を向けた。人気のない夜道を、街路樹の影が後ろへ流れていく。大学に入ってから、私はこの街で七年暮らした。その七年のほとんどに、渉がいた。それなのに、いざ離れるとなっても、不思議なほど未練はなかった。「渉、私は勢いで言ってるんじゃない」「だったら何だよ。土産のことか?茉莉の分まで頼んだのがそんなに嫌だったのか?嫌なら買ってこなくていいだろ。そんなことで別れるとか言うなよ。俺たち、四年も付き合ってきたんだぞ」「そういうことじゃない」渉の声が、少し焦ったものに変わった。「じゃあ何なんだよ。まさか、まだあのピーチティーのことを気にしてるのか?」返す言葉を探す気力も、もう残っていなかった。私は目を閉じ、シートにもたれて小さく息を吐いた。「さあね」私はそれ以上何も言わず、電話を切った。そのまま渉と、彼の幼なじみたちをまとめてブロックした。運転手さんが、バックミラー越しにちらりと私を見た。「お客さん、彼氏さんと何かあったんですか?」「……別れたんです」「そりゃまた……喧嘩ですか?それとも、浮気とか?」みんな同じことを聞く。どうして別れるのか、と。私は大学時代のたまごサンドと、あのカフェラテを思い出した。渉が買い取ってくれた、袴一式のことも。それから、付き合って初めてのバレンタインに渡した手作りのアルバム。二人で撮った写真を、一枚残らず貼ったアルバムだった。渉はそれを抱きしめたまま、何度も目元を拭っていた。いい大人が子どもみたいに泣いているのがおかしくて、私は笑った。渉は私の手を強く握り、何度か言葉を詰まらせてから言った。「遥那、
「桃アレルギーなの」背後で、フォークの音が止まった。「いつから?」「生まれつき」渉の声が、少し荒くなる。「だったら先に言えよ。茉莉がわざわざ選んでくれたのに、無駄になっただろ」私は振り返り、ケーキフォークを握ったまま不満そうにこちらを見る渉を見た。私の顔色を見て、渉もようやく何かおかしいと気づいたらしい。表情は少し和らいだ。けれど、口を開けばやはり、面倒な相手をなだめるような言い方だった。「分かった、分かった。これからは桃味のものは買わない。それでいいんだろ」そう言って、渉は面倒くさそうに息を吐いた。まるで、自分はもう十分譲ったのだから、私はそれで納得するべきだと言われているようだった。最初から最後まで、渉は私がただ拗ねているだけだと思っている。少し機嫌を取れば、それで済む話なのだと。「うん」私は短く返事をして、必要な書類をバッグに入れた。渉はケーキを食べながら、ちらりとこちらを見た。「出張?」「実家に帰る」渉は軽くうなずいた。「そっか。しばらく帰ってなかったよな」そこで何かを思い出したように、渉は続けた。「あ、そうだ。前にお前が持ってきた飲むヨーグルト、茉莉がうまいって言ってた。辛味噌も気に入ってたし、帰るなら多めに買ってきてやって。辛味噌は原材料見とけよ。茉莉、ピーナッツ入ってるの無理だから」私は返事をしなかった。渉はそれ以上確認もせず、引き出しを開けて透明な袋を取り出した。「これも持ってけ。移動中に食べればいい」中に入っていたのは、食べかけのポテトチップスと、半分だけ残ったチョコレートだった。数日前に茉莉が遊びに来たとき、渉は彼女のために袋いっぱいのお菓子を買い込んでいた。その残りが、これだった。私は渉の横を通り過ぎ、バッグにポケットティッシュを入れた。渉の声が低くなる。「まだ怒ってるのか?だから、もう桃味のものは買わないって言っただろ。これ以上どうしろってんだよ。まあいい。実家で少し頭冷やしてこい。戻ってきたら、昨日言ってたレストランでちゃんと話そう。茉莉が、もう予約してくれてるから」私は背を向けたまま、静かに首を横に振った。「いい。高いところ、苦手だから」次の瞬間、腕をつかまれた。ぐっと引かれて、無