LOGIN有栖は旧理科準備室から体育館の奥へ、奥へと逃げ込むうちに、背後から聞こえていた仲間の叫びは、まるで海底にに沈んだかのように遠のいていった。 かつて歓声が響いたはずの巨大な空間は、今や濃密な死臭と、喉を刺すような冷気だけが支配する底なしの檻のようだった。 有栖は、自分が完全に独りになったことをいやでも悟ってしまう。 体育館の床が、一歩踏み出すたびにギィ……ッと悲鳴のような音を上げる。広い体育館の闇の中で、有栖の存在はあまりにも小さく、無力であった。 その音は高い天井に跳ね返り、まるで何百人もの透明な観客が、有栖自身の死を待ちわびて息を殺しているかのような錯覚を呼び起こした。 「……ッ、はぁ……はぁ……っ!」 自分の荒い呼吸音が、拡声器で流されているみたいにうるさく思える有栖。まるで、追いかけてくる大鎌の引きずる音は、序盤の廊下で聞いていた時よりもずっと重く、有栖の心に不快な振動となって足裏から伝わってきた。 肺が焼けそうだ。吸い込む空気が刃のように肺を削り、足の感覚はとうに麻痺していた。それでも立ち止まることは許されない。立ち止まれば、その瞬間に背後の死が迫ってきてしまうから。 背後で、床の木材を削り取る大鎌の音と、ギリ……ギリ……と、神経を逆撫でする嫌な音が響く。 有栖の視界は、激しい呼吸のせいで白く霞んでいる。 肺が酸素を求めて呼吸するたびに、喉の奥で鉄の味が広がった。彼女にとってこの数分間は、永遠という名の地獄を走らされているのと同じことだったのだ。 そして、地を這う愉快そうな笑い声が、耳元で囁くように届いた。 「へっ……やっと俺と二人きりになれたな。有栖」 ぞくり、と背筋に冷たい氷を流し込まれたような感覚が走る。仲間がいないことをあえて口にしたその声には、逃れられない運命を慈しむような、狂おしい感情がこもっていた。 「怖ぇだろ?でも安心しろよ……俺はな、すぐには殺さねぇ」 大鎌が床をえぐり、暗闇の中に火花が散る。その一瞬の光に、殺人鬼の歪んだ笑みが浮かび上がった。 「お前がどれだけ必死で走るか……どこまで逃げようとすんのか……それを見届けるまで、この舞台は終わらせねぇからよ」 殺人鬼はわざと追いつかず、獲物が絶望を育てるための猶予を与えている。有栖が必死に足を動かすほど、その後ろを死の影
林を抜けた瞬間、僕らの目の前に広がったのは、古びた校舎の別棟だった。使われていない倉庫のような建物で、窓ガラスは割れ、壁には枯れ果てた蔦が不気味に絡みついている。 「……ここなら、隠れられるかもしれない」 大樹が短く言い、僕らは肺を焼くような息を切らしながらその暗闇へ飛び込んだ。内部は埃っぽく、腐食した床がところどころ抜けている。美緒は有栖をそっと床に降ろし、僕らは荒い呼吸を整えた。 「……はぁ……やっと……」 美緒の声が震えて膝を突き、荒い呼吸を繰り返す美緒の横で、僕は自分の心臓が、故障した機械のように不規則に激しく、胸の内側を叩いているのを感じていた。 すると、有栖はかすかに顔を上げ、僕を見つめてそっと唇を開いた。 「……まだ……来る……」 その言葉に僕たちは背筋が凍る。 「時間を稼ぐしかない。奴が来る前に、出口を探そう」 大樹が扉に背を預け、低く構える。僕は周囲を見回し、埃をかぶった棚の間に一冊の新しいノートが落ちているのを見つけた。 拾い上げると、黒く塗りつぶされた名前の欄と、異様なほど精密な地図が描かれている。 拾い上げたノートは、異様に新しく、不気味さを放っている。そこに記された地図は、まるで建築主が設計図を自慢するかのような細かく描かれていた。 ページを進めると、カサリという紙の音がこの静まり返った倉庫では爆音のように響いた。 名前を塗りつぶした黒いインクの塊が、そこだけページを侵食している癌細胞のように見えて、僕は指先に嫌な冷たさを覚えた。 (これはヒントじゃない。……恐らくわざと運営から解答を押し付けられているんだ。) 自分の心の声が、他人のもののように冷たく響く。 僕たちは助かろうとしているんじゃない。運営が用意した最短ルートを、なぞらされているだけなんだ。と考えてしまう。 「これ……さっきの体育館のルートと同じ……でも続きがある!」 美緒が覗き込み、顔を青ざめさせる。赤い線で描かれたルートは、この倉庫からさらに北へ、まるで僕らを意図的に導いているようだった。 「……誰が、なんのために……」 「……迎えに行くって……書いてあった」 有栖の小さな囁きに答えるように建物全体が低く軋んだ。外から、重い金属を引きずる音が近づいてくる。 ギリっ……、ギリっ……と床
巨大な石造りの棺桶のような体育館の中、僕たちは足元の感覚だけを頼りに、一歩ずつ死への道を歩んでいた。 床に点々と続く、どす黒く変色した血痕。それはまるで、何者かが僕たちを冥界へと誘うためにあえて残した、不吉な道標のようだった。 倒れた椅子や、無残に引き裂かれた跳び箱の残骸を縫うように進むたび、乾いた木の葉を踏むような不快な音が静寂を削り取っていく。 「……ここ、何か手掛かりがあるかもしれない。」 大樹が地を這うような低い声で呟いた。彼の視線の先には、壁に叩きつけられたような血の手形と、そのすぐ側に落ちている、一枚の古びた紙片があった。 美緒は僕の腕を折れそうなほど強く握りしめ、肩を小刻みに震わせながら、暗闇の奥に潜む何かを怯えた瞳で探っている。 ズ……ズズ……。遠く、舞台の袖か、あるいは天井の上か。 重い何かを引きずるような、あるいは刃物が床を舐めるような微かな音が、体育館の高い天井に反響して降り注ぐ。 僕の胸が、心臓を直接鷲掴みされたかのように締め付けられるように苦しくなった。この暗闇のどこかで、まだ死が呼吸をしている。その確かな気配が、皮膚を突き刺すような悪寒となって全身を駆け抜けた。 「慎重に行こう。殺人鬼の耳は、僕たちの心臓の音さえ拾おうとしている。」 大樹の硬い声に我に返り、僕たちは進み始めた。 床に落ちた衣服の切れ端、砕け散ったパイプ椅子の欠片……。それらはすべて、かつてここで起きた惨劇の、無言の断片だった。 体育館の最奥。光さえも届かない濃厚な闇の中、僕たちは奇妙なものを見つけた。 床一面に、雪のように散らばる破られた新聞の切れ端や、引き裂かれた手帳のページ。それらはどれも黒いインクで塗りつぶされていた。 「……これは……。」 美緒が指差した先。そこには、一つの単語だけを残して完全に塗りつぶされた、週刊誌の切り抜きがあった。 ≪ 凶悪無差別殺人鬼 ―― ■■■■ ≫ その文字列を目にした瞬間、肺の奥が焼けるような圧迫感に襲われた。黒塗りの下に隠された名前が、今もなおこの空間に呪いとして漂っているかのような…。 大樹がその紙片を指でなぞり、苦々しく吐き捨てる。 「血痕とこの紙の端がセットになって配置されてる……。まるで、誰かが俺たちを正しい死に場所へ導いて
長い廊下を抜け、ついに体育館の重厚な扉が目の前に現れた。 もはや外の光は一滴も届かず、巨大な扉は、墓石のように冷たく鈍い光を反射している。 その向こう側から、キィ……キィ……という、わずかな金属音が響いてくる。 大鎌の鋭利な刃先が、ゆっくりと床を撫で回す音だ。 「……ついに、戻ってきてしまったな。」 大樹の声が、初めて弱々しく震えた。僕も美緒も、声にならない声を飲み込み、ただ深くうなずくことしかできない。 扉をそっと、数ミリだけ開くと、体育館の内部は底知れぬ暗闇に支配されていた。 その空間の中央。赤い瞳が、僕たちが来るのを予期していたかのように、ぎらりと光り、こちらを見据えていた。 殺人鬼は、大鎌を杖のように突き、苛立ちを隠しきれずに獣のような足取りで歩き回っていた。 「……あぁ? 何だ、まだくたばってなかったのか。チッ……どこまでも運が良いというか、小癪に頭が回るガキどもだぜ。」 その声には、底なしの怒りと、獲物をいたぶる愉悦が混じり合っていて、聞くだけで五臓六腑が凍りつく。 美緒が、呼吸を忘れたように小さく息を吐き、僕の腕を握る手に力を込めた。 「……ユーリくん、どうすれば……」 僕は答えを探すが、心臓はドクドクと脈が早くなり思考は真っ白に霧散していく。 殺人鬼は、ゆっくりと、そして優雅にさえ見える所作で大鎌を振り上げた。 その一挙手一投足が、僕たちの反応を愉しむための残虐な誘いのように見える。 「……今だ、走れっ!!」 大樹が僕たちの肩を力任せに押し、合図を送る。 僕たちは死の影に飛び込むように、一斉に体育館の暗がりへと滑り込んだ。 その瞬間、殺人鬼の狂った咆哮が体育館の隅々にまで反響した。 「どこへ消えた……!? チッ……俺を舐めるのも大概にしろよ、あの女もろとも、細切れにしてやるッ!!」 赤い瞳が暗闇を鋭く切り裂き、僕たちが潜んだわずかな影を暴き出そうと、血に飢えた視線を走らせる。 逃げる、ただそれだけが唯一の生存戦略だった。体育館はあまりにも広く、隠れる場所はあまりに脆い。 だが、この極限の恐怖の渦中で、僕たちは確かに、明日を掴み取るための決死の一歩を踏み出したのだ。 床に散らばる、かつての犠牲者のものと思われる血痕を踏まぬよう、
肺に突き刺さるような土の匂いと、腐朽した木材の湿り気が立ち込める通路。 僕たちは、ただ生き延びるためだけに、獣のように四つん這いになって闇を這い進んだ。 背後で遠ざかる殺人鬼の笑い声が、地底を伝う振動となって鼓膜を震わせるたび、腕に抱えた美緒がすすり泣く。 「……もういや……もう、ここから出して……」 消え入りそうなその声に、僕は自分自身に言い聞かせるように必死で説得するように耳の良い殺人鬼に聞こえないように囁く。 「大丈夫だ、美緒ちゃん。絶対に……絶対に出口を見つけてみせるから……!」 先頭を進む大樹が、泥にまみれた手で壁をまさぐりながら、狂ったように出口を探す。やがて彼の指先が、鈍い音を立てて硬い金属に触れた。 「ここだ……何かあるぞ。」 彼が力任せに古びた木板を押し上げると、ぎいぃぃ……と地獄の蓋が開くような嫌な音が響く。 その隙間から、淀んだ地下の空気とは対照的な、刃物のように鋭く冷たい外気が流れ込む。 辿り着いたのは、図書館裏の打ち捨てられた資材置き場のようなスペースだった。 月光に照らされて白く浮かび上がるのは、カビに侵食され、巨大な墓標のように積み上がった古い書籍の山。 そして、誰かが使っていたであろう古いオイルランプが不気味に転がっている。 壁際には、まるで奈落へと通じているかのように闇が続く細い階段が口を開けていた。 「……舞台の下が、こんな場所に繋がっていたなんてな……。」 大樹が眉をひそめ、刺すような警戒心を周囲に張り巡らせる。 背後からは、まだ殺人鬼の獣じみた怒声が、体育館の反響を伴って遠く、低く響いていた。だが、ここに出られたのは、死神が獲物を見失ったわずかな空白の時間に過ぎない。 僕は美緒の震える肩を抱き寄せ、有栖を一人、あの地獄に置いてきてしまったという、心臓を抉られるような自責の念を必死に押し殺す。 「……進むしかない。どんな先が待っていても、彼女が繋いでくれたこの命を、ここで終わらせるわけにはいかないんだ。」 僕たちは互いに血の気の引いた顔を見合わせ、地下へと続く未知の階段を見下ろした。 その暗闇の奥底からは、風の鳴る音とは明らかに違う、何者かが苦痛に悶えるような、かすかな呻き声がじわじわと、せり上がってきていていた。 薄暗く、埃が雪の
せり上がった暗幕の奥、光さえ届かぬ闇から、床板をきしませる重い足音が響き渡った。 ドン……ドン……ドン……。それは心臓の鼓動を外側から無理やり同期させるような、不吉なリズム。 広い体育館の空間で増幅され、鼓膜を震えさせた。 やがて、舞台の中央に血のような赤い光がぽつりと灯った。逆光に照らされ、ゆらゆらと陽炎のように揺れる巨大な影………大鎌。 身の丈を超えるほどの凶器、鈍い銀光を放ちながら、舞台の床を擦って火花を散らす。 ギギ……ギィィン……と、鉄と木が削り合うその音は、黒板を爪で立てる音よりも不快で、美緒は歯をガタガタと震わせる。 幕の闇の中から、爛々と輝く二つの赤い瞳が僕らを射抜く。 それはもはや人間の瞳ではない。獲物の急所を品定めする飢えた獣の瞳だ。その粘りつくような視線が僕ら三人を舐め回し、逃げ道をじわじわと、物理的な質量を持って奪っていく。 「……来た、のか……」 大樹が喉の奥で唸るように絞り出したその次の瞬間、殺人鬼は咆哮とともに大鎌を頭上高く振り上げ、高さのある舞台から、迷いなく飛び降りた。 ドォォォンッ!!凄まじい衝撃に床が波打ち、蓄積した埃が視界を真っ白に染め上げる。 僕は反射的に、恐怖で硬直した有栖と美緒を背中に隠すように庇った。けれど、埃の霧の向こう側で、赤い瞳はすでに僕らの死を完璧に確定させるかのように舐めるように僕たちを見た。 「チッ……やっぱりここへ逃げ込んだか。クソガキの分際で、頭が回るじゃねぇか、テメェら!」 鼓膜を震わせる怒声。それと同時に、大鎌の刃が空気を裂く凄まじい風切り音を立てて横に振るわれた。 ガガァァンッ!!僕らのわずか数センチ横、頑丈な床板がまるで紙細工のように容易く引き裂かれ、鋭い木の破片が|礫《つぶて》となって僕らの頬を掠める。 飛び散る木片、耳をつんざく破壊音。 僕らはあまりの圧力に呼吸を忘れ、ただ本能のままに後ずさるしかなかった。 「今度は……容赦しねぇぞ。一人残らず、その喉笛を掻っ切ってやる!」 血の池のような赤い瞳が、確実に僕らの終焉を見据えていた。 殺人鬼が力任せに大鎌を引き抜くと、抉られた床の裂け目からさらなる木片が舞い上がり、体育館全体が、殺人鬼の殺意に当てられて激しく揺れているような錯覚に陥る。
体育館のスピーカーから、鼓膜を突き刺すような最後のノイズが消えると、そこには凍りつくような沈黙が降りた。 だがその静寂は、けして安堵を与えるものではない。むしろ、獲物が罠にかかるのを息を潜めて待つ、捕食者の気配そのものだった。 有栖は青ざめた顔で唇を強く噛み、血の記録が刻まれたノートを、壊れものを扱うように胸に抱きしめた。 「……ここにいたら、だめ。絶対に……飲み込まれるわ。」 僕は短く頷き、大樹の湿った袖を強く掴んだ。 「……戻ろう。ここは罠だ。奴はわざと、俺たちの良心や好奇心を餌に、この地獄へ引き寄せているんだ。」 大樹は険しい顔で、月光すら届かない体育
ギリ、ギリ……。死を宣告する金属音が、一歩、また一歩と確実に背後の闇を削り取ってくる。逃げ場のない廊下の突き当たり、古びた扉の前で、僕たちは凍りついた。 「来てるっ……!」 有栖が掠れた悲鳴を上げ、美緒の肩を壊れそうなほど強く抱き寄せた。美緒の体は氷のように冷たく、小刻みな震えが僕の腕にも伝わってくる。 大樹が扉に肩をぶつけ、渾身の力で押し込んだ。だが、扉は沈黙を貫き、びくともしない。 「くそっ、開け……ッ! 開けよッ!!」 焦燥が、肺を焼くような熱さとなって競り上がってくる。 その時だった。 僕の指先から、血に汚れた古い生徒手帳が滑り落ちた。それが硬
体育館へと続く大扉の前。逃げ場を断たれた行き止まりの廊下で、死神がその巨大な鎌を頭上高く振り上げた、その瞬間。 「っ……!」 横にいた有栖が、僕の腕を振り払って前に出た。 彼女がポケットから取り出したのは、小さな銀色の音叉だった。 音楽室の隠し扉の不気味な隠し通路を、死に物狂いで彷徨っていた時に瓦礫の山に半ば埋もれていたのを彼女がいつの間にか密かに拾い上げていたものだ。 有栖はそれを、渾身の力で叩きつけた。 キィィィンッ……!!鼓膜を直接針で刺し貫くよう
あの封じられた鉄扉の先は、生きながらにして埋葬されたような、濃密な死の気配に満ちていた。 無数に枝分かれした隠し通路を抜け、肺が焼けるほど激しい呼吸を押し殺し、ようやく見覚えのある壁の隙間から這い出した先に。 「……戻って、きたの……?」 有栖の声は、震える赤い月光よりも脆く響いた。そこは、先ほどまでいた音楽室だった。 静まり返った室内には、不自然なほど濃厚な桜の香りと、それを塗りつぶすような時間が経った後のような血の錆びた匂いが混ざり合い、鼻の奥を不快感で支配していた。 だが、安堵はどこにもない。慌てて大樹が隠し扉を閉めると、中から響いていた殺人鬼の足音が慌ただしく