Home / ホラー / 桜の生贄 / 第8話 演出の虚構

Share

第8話 演出の虚構

Author: 桜花桜餅
last update publish date: 2026-04-27 17:00:00

視聴覚室の前に辿り着いた時、僕の肺は焼けるような熱を帯び、呼吸のたびに喉の奥が不快感の味を覚えた。

 吸い込む空気は、細かい血の粒を含んでいるかのように重く、肺胞の一つ一つに鉄臭い棘が突き刺さるような錯覚を覚える。

 廊下の角を曲がるたび、視界の端に引き摺られた肉の欠片がこびり付いている。それはまるで、校舎という巨大な怪物が、生徒たちを飲み込んだ後に吐き出した消化不良の残骸のようだった。

 僕は自分の足音が、床に溜まった血がベチャッ、ベチャッという音を立てるたび、自分の存在そのものが汚染されていくような感覚に陥り、激しい吐き気を必死に飲み下した。

 重厚な扉の前に、見慣れたたくましい背中を見つけ、僕は枯れた声を絞り出す。

「大樹。視聴覚室の鍵、見つけたんだ」

 僕は大樹の姿を見るとすぐに駆け寄った。大樹は助かったと言わんばかりに僕の肩に手を置き、深く重いため息をつく。

 どうやら先ほどまで殺人鬼に追われていたらしく、肩が激しく上下し、額からは嫌な汗が滴っていた。

 僕は急いで視聴覚室の扉を開け、大樹を室内の暗がりに引き入れる。椅子に崩れ落ちた彼は、僕が手渡した水を一気に飲み干した。

「……最悪なニュースがある」

 大樹の声は、地底から響くように低かった。

「白井先生が、殺られてた。保健室だ。

  ……俺、一度別れた後、どうしても先生が心配で、確かめに行ったんだ。あそこなら安全だって、先生なら大丈夫だって……縋りたかったのかもしれねぇ…っ。」

 大樹が拳を固く握りしめ、爪が食い込むほどに震わせる。

「でも、俺が見たのは……そんな綺麗なもんじゃなかった。恐らく、先生は、逃げる暇さえ与えられなかったんだ。

 先生の脚を、腹を、……まるで子供がハサミで紙を切り刻むみたいに、何度も、何度も……!」

 大樹の視線が虚空を彷徨う。その瞬間、彼の意識は、あの鉄臭い匂いが立ち込める保健室へと引き戻されていた。

 扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは床を埋め尽くす赤黒い海だった。その中心に、かつて白井先生だったものが、内臓と骨の部位を散らばせて倒れていた。

「俺……先生を、せめてベッドに寝かせてあげようと思った。でも、身体が……バラバラすぎて、どこから持ち上げればいいのか、分からなくて…それで、それで…俺は床に這いつくばって、先生だったものの欠片を一つずつこの手でかき集めたんだよ。

 ぬるりとした生ぬるい肉の塊を、完成することのないパズルみたいに繋ぎ合わせて……。」

 死んでもなお、先生の顔は酷いものだった。

 絶叫を上げたまま固まったような、絶望に歪んだ表情。

 大樹は震える指で、その開いた口を閉じ、剥き出しの眼球を覆い、せめて安らかに見えるように形を整えたのだ。

 人間の尊厳が、ただの物理的な肉のパーツへと分解され、それを友人が泣きながら繋ぎ合わせる。その光景は、どんな凄惨なゲームのCGよりも、僕の精神を深く、鋭く削り取った。

「……それで先生の顔に白い布をかけたその時、気づいたんだ。床に“開かない扉”があっただろ? そこが開いてたんだ。」

「まさか……!」

「恐らく殺人鬼はそこを通ってきた。俺たちはずっと、廊下を追ってくるとばかり思い込んでいたが……違う。あいつは壁の中を自在に移動してやがるんだ。あんなの、不意を突かれたら誰だって終わりだ。」

 背筋が凍る。

 先生ほど警戒していた人でさえ、死角からの襲撃には抗えなかった。この学校そのものが、殺人鬼に有利なように設計されている。

 大樹の話を聞きながら、僕の脳内では不快な、そして謎の違和感のノイズが鳴り止まなかった。………僕は、気づいてしまった。気付きたくなかった。

「……おかしいよ、大樹。おかしい…。」と、僕の声は自分でも驚くほど硬く、震えていた。

「殺人鬼には|1《・》|0《・》|秒《・》|待《・》|つ《・》っていう絶対的なルールがあったはず…なのに、なのに!

 脱出ゲームなら…、なんて言うか、ああもう!なのに、白井先生は不意を突かれて殺された……?

 隠し扉を使って、カウントもなしに?

 だって最初大樹言ってたじゃないか、そして初めて僕が殺人鬼と遭遇した時も殺人鬼は10秒数えて待ってた…つ!!」

 ルールが書き換えられている。

 あるいは、最初からそんなものは存在しなかったのか。

 思考の土台が泥のように崩れていく感覚に、僕は吐き気を覚えた。

 ……いや、違う。

 僕が感じているこの吐き気は、恐怖からくるものじゃない。

 まるで|バ《・》|グ《・》を見つけた時の不快感に近いのだ。

 この地獄をゲームだと思わなければ、正気を保てない。だが、そのゲームの根幹であるルールが、制作者の気まぐれで書き換えられている。

 壁から伸びた殺人鬼の刃が、先生の喉を音もなく切り裂き、声が出る前にその存在を無効化したのだ。

 それは、攻略法を確立しようとしていた僕への、制作者からの嘲笑だ。

 「お前の知恵など、この圧倒的な暴力の前では何の意味も持たない」そう突きつけられた気がして、僕は自分の指先が震えるのを隠せなかった。

「ルールなんて……あんな化け物に、そんなもん通用するわけねぇだろ……っ。あの化け物は楽しそうに人間を殺してた………快楽殺人鬼だよ!!」大樹は、震える手で顔を覆ったまま、掠れた声でこぼす。

 理屈が通らない。その事実が、死の恐怖以上に僕の神経を逆撫でしていた。

 (…もしかして最初から、ルールなど…。)と、僕は嫌な予感がした。

 ただプレイヤーである僕たちを絶望させて、次の演出を進めるためだけに、|お役御免《捨て駒》として消去されたような、そんな乾いた感触。

 (まるで……ただの捨て駒じゃないか。)

 先生だけじゃない。

 同級生も、巴も、流星もみんな、彼らが血を流して死んだのは、彼らの人生の終幕ではなく、この|脱《・》|出《・》|ゲ《・》|ー《・》|ム《・》という劇を盛り上げるための、安っぽい演出に過ぎなかったのではないか。

 (……まるで、誰かが途中でプロットを書き換えたみたいだ。それも、僕たちという駒を絶望させて…弄くり回すだけの。)

 白井先生の死もそうだ。ルールに基づいたミスではなく、単に|飽《・》|き《・》|た《・》|か《・》|ら《・》|消《・》|さ《・》|れ《・》|た《・》ような、あまりにも雑な退場。

 知恵を絞る余地さえ奪い、ただ純粋な恐怖と暴力で場を繋ぐ……普通の脱出ゲーム好きなプレイヤーが見たら激怒しそうな内容ばかり。ただ残虐な死で観客を喜ばせるためだけに配置された、使い捨ての肉の塊みたいだ。

  プロット……?いや、そんな都合のいい言葉で片付けていいのか……?ゲームにしてはおかしいどころばかりなのに。僕は拳を握り締める。

 そもそも本当にゲームなのか?

 絶望が室内に満ちようとした時、僕は声を絞り出した。

 感情よりも先に思考が動いたのだ。何よりも先に情報共有が最優先だと…。

「……大樹。僕からも報告があるんだ。有栖に、さっき会った。」

 大樹の肩が、びくりと跳ねた。

「……っ、有栖が?生きてるのか?」

 彼は弾かれたように顔を上げ、僕の制服の袖を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。その瞳には、恐怖を塗りつぶすような、見ていられないほど痛々しい切実な光が宿っている。

「うん。2-Aに隠れてもらってる。無事だったよ……今のところは」

「そうか……よかった、本当によかった……!」

 大樹は、膝から力が抜けたように再び椅子に沈み込んだ。震える手で顔を覆い、何度も深く、嗚咽に近い呼吸を繰り返す。

 白井先生の死で一度は折れかけた彼の心が、有栖の生存という一点だけで、かろうじて繋ぎ止められているのが分かった。

「……いったん別行動にするぞ。、」

 しばらくして顔を上げた大樹の瞳には、無理やり自分を奮い立たせるような鋭さが戻っていた。

「俺は鍵を持って体育館に行く。

 巴たちの……いや、なんでもねぇ。とにかくあそこには何かがあるはずだ。ユーリ、お前は有栖を保護して調理室に向かえ。あそこは構造上、隠し扉を作る隙間がない。……いいな?」

「わかった……。」

 立ち上がろうとした僕の肩を、大樹が不意に強く掴んだ。その口元が、場違いにわずかだけ緩む。

「あと……ワンチャン、有栖に告白でもしてみろよ。吊り橋効果ってやつだ。案外いけるかもしれんぞ。死ぬ前に、やりたいことはやっとけ。」

「なっ!?なんてこと言うんだよっ……!」

 僕が声を上げそうになると、大樹は真剣な、どこか寂しげな顔で僕を見た。

「……じゃあな。告白、忘れるなよ」

 大樹は僕の手から体育館の鍵をひったくるように取ると、廊下の闇へと消えていった。

 その直後だった。

「おいおい待てよ!逃げるんじゃねぇ、小柄な体型を利用してんじゃねぇ……ッ!」

 ドタバタと廊下に響く足音。音楽室の方からだ。胸が凍り付く。

 恐る恐る角から覗き込むと、そこには仁王立ちする殺人鬼と、壁際に追い詰められ、肩で息をする本来なら2-Aにいるはずの有栖の姿があった。

「一発殴らせろ!」

 苛立ちを隠さず、獣のような声で怒鳴りつける殺人鬼。その手にある大鎌には、まだ新しい肉片がこびりついている。

 対する有栖は、恐怖に瞳を凍りつかせながらも、掠れた声で言い放つ。

「……死んでしまうから無理よ。そんなの、当たり前でしょう?」

 その瞬間、有栖の体が小刻みに震え出すのを見た殺人鬼の眉間に微かな陰が差した。だが、殺人鬼はすぐにそれを打ち消すように顔を歪め、地面に唾を吐き捨てた。

「……チッ、相変わらず非力だし体力ねぇなお前。避けるだけは一丁前かよ。俺の攻撃を股下くぐってかわすなんて……生意気なんだよ。」

「……っ」

「……今回は見逃してやる!

 おい、そこの陰キャクソガキ!さっさとこいつを連れて行け!気配が消えるまでここにいてやるよッ!!」

 殺人鬼はそう叫ぶと、大鎌を肩に担ぎ、僕たちに背を向けてその場にドカッと胡坐をかいた。

 その瞬間、周囲の空気が凍りつき、息苦しくなる。殺人鬼から漂うのは、さっきまで誰かを解体していた生々しい内臓の匂いと、有栖の放つ蜂蜜と百合の香りの、最悪な融合だ。

 股下をくぐってかわす…それは、死を賭した回避行動というより、どこか歪な戯れのように聞こえた。

 有栖を追い詰める殺人鬼の瞳には、白井先生を消去した時の残酷な殺意はなく、代わりに壊れ物を弄ぶ子供のような、身勝手で強烈な執着が渦巻いているように見えた。

 そして殺人鬼は数えない。

 10秒の猶予を与える|遊《・》|戯《・》さえ放棄して、あいつは僕たちを、ゴミでも払うような手つきで追い払った。

 攻略対象が意思を持ち、ルールを私物化している。その事実の不気味さが、背筋をじりじりと這い上がってくる。

 10秒待たずに殺すこともできれば、10秒待たずに逃がすこともできる。

 白井先生の時は、隠し扉を使ってカウントなしに惨殺した。なのに、有栖に対しては10秒数えることさえせず、背中を向けて見逃している。

 結局、僕たちはあいつの手のひらの上で、その日の気分次第で生かされているだけの家畜に過ぎないのか。

「っ……わかった! 行こう、有栖!」

「ユーリくん……うんっ!」

 僕は飛び出し、震える有栖の手を引く。

 震える彼女の手を引く僕の指先は、氷のように冷え切っていた。

 殺人鬼の背中から放たれるおぞましいほどの沈黙が、

ルールを信じていた僕を、嘲笑っているような気がしてならなかった。

 背後で、殺人鬼が低く、地の底から漏れるような声で独り言を吐くのが聞こえた。

「……今度は、離すんじゃねぇぞ。」

 その言葉の意味を考える余裕なんてなかった。

 僕は彼女を連れ、赤い月に支配された闇の中を、狂ったように駆け抜けた。

 物資がある調理室の準備室へ滑り込み、重い扉の鍵を閉めた瞬間、有栖はその場に膝から崩れ落ちた。

「はぁっ……はぁっ……。」

 彼女は自分の肩を抱きしめ、吐き出すような呼吸を繰り返していた。

「……怖かった……。」

 窓から差し込む赤い月光が、彼女の頬を伝う涙を黒く塗り替えていく。

「……有栖。もう、大丈夫だ。僕が守る。絶対に、君をあんな目に遭わせない。」

 巴と流星を見捨てて生き残った僕が、今、目の前の少女を救うことに全てを懸けようとしている。

「……本当に? 捨てないで……くれる?」と、有栖の細い指が、僕の手をぎゅっと握り返す。

 その頼りない冷えた温度が、今の僕にはひどく恐ろしかった。

「ああ、約束だ。命に代えても。」

 有栖は震えながらも、一瞬だけ、消え入りそうなほど微かな笑みを浮かべた。

 巴と流星を見捨て、あの残酷な肉の匂いから逃げ出した僕が今、目の前の少女を救うことに全てを懸けようとしている。

 脳の片隅では、この決意すら、自分の罪悪感を薄めるための|罪《・》|滅《・》|ぼ《・》|し《・》ではないかと冷たく囁く声が聞こえた。

 有栖を守りたいという僕の真心に、どろりとした黒い感情が混ざり込んでいく。けれど、僕はそれを無視して、彼女の冷え切った手を強く握りしめた。

 赤い月光を浴びた彼女は、今にも霧の中に溶けてしまいそうなほど美しく、そして…この世のものとは思えないほど、危うかった。

 目の前の光を見て、僕は…気づかなかったんだ。

 ホラーゲームにおいて今回やってはいけないことをしたということを…。

 調理室の準備室。ステンレスの調理台が赤い月光を反射し、まるで巨大なメスのように光っている。

 有栖を抱きしめた僕の腕には、彼女の震えが伝わってくる。だが、その震えは本当に恐怖からくるものだろうか。

 僕が守ると誓ったその言葉が、この空間に漂う重苦しい雰囲気にどんどん腐敗していくのを感じる。

 ホラーゲームにおける安全地帯の確保。それは、|物語が最大の破滅《クライマックス》を迎えるための、ただの溜めに過ぎない。

 ルールが崩壊したと気づきながら、僕は依然として調理室は安全だという大樹の言葉を信じようとしているのだ。

 殺人鬼が残した「今度は、離すんじゃねぇぞ」という言葉のトゲが、僕の心の中でゆっくりと、確実に、毒を撒き散らし始めていた。

 僕は、一番大切なものを見落としていたのだ。

 脱出ゲームにおいて、最も警戒すべきは開かない扉ではなく、容易に開けられた、優しすぎる結末の方だったのだと。僕は気づかない。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 桜の生贄   第22話 生への渇望 前編

    有栖は旧理科準備室から体育館の奥へ、奥へと逃げ込むうちに、背後から聞こえていた仲間の叫びは、まるで海底にに沈んだかのように遠のいていった。  かつて歓声が響いたはずの巨大な空間は、今や濃密な死臭と、喉を刺すような冷気だけが支配する底なしの檻のようだった。 有栖は、自分が完全に独りになったことをいやでも悟ってしまう。 体育館の床が、一歩踏み出すたびにギィ……ッと悲鳴のような音を上げる。広い体育館の闇の中で、有栖の存在はあまりにも小さく、無力であった。 その音は高い天井に跳ね返り、まるで何百人もの透明な観客が、有栖自身の死を待ちわびて息を殺しているかのような錯覚を呼び起こした。 「……ッ、はぁ……はぁ……っ!」 自分の荒い呼吸音が、拡声器で流されているみたいにうるさく思える有栖。まるで、追いかけてくる大鎌の引きずる音は、序盤の廊下で聞いていた時よりもずっと重く、有栖の心に不快な振動となって足裏から伝わってきた。  肺が焼けそうだ。吸い込む空気が刃のように肺を削り、足の感覚はとうに麻痺していた。それでも立ち止まることは許されない。立ち止まれば、その瞬間に背後の死が迫ってきてしまうから。  背後で、床の木材を削り取る大鎌の音と、ギリ……ギリ……と、神経を逆撫でする嫌な音が響く。 有栖の視界は、激しい呼吸のせいで白く霞んでいる。  肺が酸素を求めて呼吸するたびに、喉の奥で鉄の味が広がった。彼女にとってこの数分間は、永遠という名の地獄を走らされているのと同じことだったのだ。 そして、地を這う愉快そうな笑い声が、耳元で囁くように届いた。 「へっ……やっと俺と二人きりになれたな。有栖」  ぞくり、と背筋に冷たい氷を流し込まれたような感覚が走る。仲間がいないことをあえて口にしたその声には、逃れられない運命を慈しむような、狂おしい感情がこもっていた。 「怖ぇだろ?でも安心しろよ……俺はな、すぐには殺さねぇ」  大鎌が床をえぐり、暗闇の中に火花が散る。その一瞬の光に、殺人鬼の歪んだ笑みが浮かび上がった。 「お前がどれだけ必死で走るか……どこまで逃げようとすんのか……それを見届けるまで、この舞台は終わらせねぇからよ」  殺人鬼はわざと追いつかず、獲物が絶望を育てるための猶予を与えている。有栖が必死に足を動かすほど、その後ろを死の影

  • 桜の生贄   第21話 残酷な舞踏会

     林を抜けた瞬間、僕らの目の前に広がったのは、古びた校舎の別棟だった。使われていない倉庫のような建物で、窓ガラスは割れ、壁には枯れ果てた蔦が不気味に絡みついている。 「……ここなら、隠れられるかもしれない」  大樹が短く言い、僕らは肺を焼くような息を切らしながらその暗闇へ飛び込んだ。内部は埃っぽく、腐食した床がところどころ抜けている。美緒は有栖をそっと床に降ろし、僕らは荒い呼吸を整えた。 「……はぁ……やっと……」  美緒の声が震えて膝を突き、荒い呼吸を繰り返す美緒の横で、僕は自分の心臓が、故障した機械のように不規則に激しく、胸の内側を叩いているのを感じていた。 すると、有栖はかすかに顔を上げ、僕を見つめてそっと唇を開いた。 「……まだ……来る……」  その言葉に僕たちは背筋が凍る。 「時間を稼ぐしかない。奴が来る前に、出口を探そう」  大樹が扉に背を預け、低く構える。僕は周囲を見回し、埃をかぶった棚の間に一冊の新しいノートが落ちているのを見つけた。 拾い上げると、黒く塗りつぶされた名前の欄と、異様なほど精密な地図が描かれている。 拾い上げたノートは、異様に新しく、不気味さを放っている。そこに記された地図は、まるで建築主が設計図を自慢するかのような細かく描かれていた。 ページを進めると、カサリという紙の音がこの静まり返った倉庫では爆音のように響いた。 名前を塗りつぶした黒いインクの塊が、そこだけページを侵食している癌細胞のように見えて、僕は指先に嫌な冷たさを覚えた。 (これはヒントじゃない。……恐らくわざと運営から解答を押し付けられているんだ。) 自分の心の声が、他人のもののように冷たく響く。  僕たちは助かろうとしているんじゃない。運営が用意した最短ルートを、なぞらされているだけなんだ。と考えてしまう。 「これ……さっきの体育館のルートと同じ……でも続きがある!」  美緒が覗き込み、顔を青ざめさせる。赤い線で描かれたルートは、この倉庫からさらに北へ、まるで僕らを意図的に導いているようだった。 「……誰が、なんのために……」 「……迎えに行くって……書いてあった」  有栖の小さな囁きに答えるように建物全体が低く軋んだ。外から、重い金属を引きずる音が近づいてくる。 ギリっ……、ギリっ……と床

  • 桜の生贄   20話 未完の脱出

     巨大な石造りの棺桶のような体育館の中、僕たちは足元の感覚だけを頼りに、一歩ずつ死への道を歩んでいた。  床に点々と続く、どす黒く変色した血痕。それはまるで、何者かが僕たちを冥界へと誘うためにあえて残した、不吉な道標のようだった。 倒れた椅子や、無残に引き裂かれた跳び箱の残骸を縫うように進むたび、乾いた木の葉を踏むような不快な音が静寂を削り取っていく。 「……ここ、何か手掛かりがあるかもしれない。」  大樹が地を這うような低い声で呟いた。彼の視線の先には、壁に叩きつけられたような血の手形と、そのすぐ側に落ちている、一枚の古びた紙片があった。  美緒は僕の腕を折れそうなほど強く握りしめ、肩を小刻みに震わせながら、暗闇の奥に潜む何かを怯えた瞳で探っている。 ズ……ズズ……。遠く、舞台の袖か、あるいは天井の上か。 重い何かを引きずるような、あるいは刃物が床を舐めるような微かな音が、体育館の高い天井に反響して降り注ぐ。  僕の胸が、心臓を直接鷲掴みされたかのように締め付けられるように苦しくなった。この暗闇のどこかで、まだ死が呼吸をしている。その確かな気配が、皮膚を突き刺すような悪寒となって全身を駆け抜けた。 「慎重に行こう。殺人鬼の耳は、僕たちの心臓の音さえ拾おうとしている。」  大樹の硬い声に我に返り、僕たちは進み始めた。  床に落ちた衣服の切れ端、砕け散ったパイプ椅子の欠片……。それらはすべて、かつてここで起きた惨劇の、無言の断片だった。  体育館の最奥。光さえも届かない濃厚な闇の中、僕たちは奇妙なものを見つけた。  床一面に、雪のように散らばる破られた新聞の切れ端や、引き裂かれた手帳のページ。それらはどれも黒いインクで塗りつぶされていた。 「……これは……。」  美緒が指差した先。そこには、一つの単語だけを残して完全に塗りつぶされた、週刊誌の切り抜きがあった。  ≪ 凶悪無差別殺人鬼 ―― ■■■■ ≫  その文字列を目にした瞬間、肺の奥が焼けるような圧迫感に襲われた。黒塗りの下に隠された名前が、今もなおこの空間に呪いとして漂っているかのような…。  大樹がその紙片を指でなぞり、苦々しく吐き捨てる。 「血痕とこの紙の端がセットになって配置されてる……。まるで、誰かが俺たちを正しい死に場所へ導いて

  • 桜の生贄   第19話 生贄の舞台裏

    長い廊下を抜け、ついに体育館の重厚な扉が目の前に現れた。  もはや外の光は一滴も届かず、巨大な扉は、墓石のように冷たく鈍い光を反射している。 その向こう側から、キィ……キィ……という、わずかな金属音が響いてくる。 大鎌の鋭利な刃先が、ゆっくりと床を撫で回す音だ。 「……ついに、戻ってきてしまったな。」  大樹の声が、初めて弱々しく震えた。僕も美緒も、声にならない声を飲み込み、ただ深くうなずくことしかできない。 扉をそっと、数ミリだけ開くと、体育館の内部は底知れぬ暗闇に支配されていた。  その空間の中央。赤い瞳が、僕たちが来るのを予期していたかのように、ぎらりと光り、こちらを見据えていた。  殺人鬼は、大鎌を杖のように突き、苛立ちを隠しきれずに獣のような足取りで歩き回っていた。 「……あぁ? 何だ、まだくたばってなかったのか。チッ……どこまでも運が良いというか、小癪に頭が回るガキどもだぜ。」  その声には、底なしの怒りと、獲物をいたぶる愉悦が混じり合っていて、聞くだけで五臓六腑が凍りつく。  美緒が、呼吸を忘れたように小さく息を吐き、僕の腕を握る手に力を込めた。 「……ユーリくん、どうすれば……」  僕は答えを探すが、心臓はドクドクと脈が早くなり思考は真っ白に霧散していく。  殺人鬼は、ゆっくりと、そして優雅にさえ見える所作で大鎌を振り上げた。  その一挙手一投足が、僕たちの反応を愉しむための残虐な誘いのように見える。 「……今だ、走れっ!!」  大樹が僕たちの肩を力任せに押し、合図を送る。  僕たちは死の影に飛び込むように、一斉に体育館の暗がりへと滑り込んだ。  その瞬間、殺人鬼の狂った咆哮が体育館の隅々にまで反響した。 「どこへ消えた……!? チッ……俺を舐めるのも大概にしろよ、あの女もろとも、細切れにしてやるッ!!」  赤い瞳が暗闇を鋭く切り裂き、僕たちが潜んだわずかな影を暴き出そうと、血に飢えた視線を走らせる。  逃げる、ただそれだけが唯一の生存戦略だった。体育館はあまりにも広く、隠れる場所はあまりに脆い。  だが、この極限の恐怖の渦中で、僕たちは確かに、明日を掴み取るための決死の一歩を踏み出したのだ。  床に散らばる、かつての犠牲者のものと思われる血痕を踏まぬよう、

  • 桜の生贄   第18話 赤い導線

    肺に突き刺さるような土の匂いと、腐朽した木材の湿り気が立ち込める通路。 僕たちは、ただ生き延びるためだけに、獣のように四つん這いになって闇を這い進んだ。  背後で遠ざかる殺人鬼の笑い声が、地底を伝う振動となって鼓膜を震わせるたび、腕に抱えた美緒がすすり泣く。 「……もういや……もう、ここから出して……」  消え入りそうなその声に、僕は自分自身に言い聞かせるように必死で説得するように耳の良い殺人鬼に聞こえないように囁く。 「大丈夫だ、美緒ちゃん。絶対に……絶対に出口を見つけてみせるから……!」  先頭を進む大樹が、泥にまみれた手で壁をまさぐりながら、狂ったように出口を探す。やがて彼の指先が、鈍い音を立てて硬い金属に触れた。 「ここだ……何かあるぞ。」  彼が力任せに古びた木板を押し上げると、ぎいぃぃ……と地獄の蓋が開くような嫌な音が響く。 その隙間から、淀んだ地下の空気とは対照的な、刃物のように鋭く冷たい外気が流れ込む。 辿り着いたのは、図書館裏の打ち捨てられた資材置き場のようなスペースだった。  月光に照らされて白く浮かび上がるのは、カビに侵食され、巨大な墓標のように積み上がった古い書籍の山。 そして、誰かが使っていたであろう古いオイルランプが不気味に転がっている。  壁際には、まるで奈落へと通じているかのように闇が続く細い階段が口を開けていた。 「……舞台の下が、こんな場所に繋がっていたなんてな……。」  大樹が眉をひそめ、刺すような警戒心を周囲に張り巡らせる。 背後からは、まだ殺人鬼の獣じみた怒声が、体育館の反響を伴って遠く、低く響いていた。だが、ここに出られたのは、死神が獲物を見失ったわずかな空白の時間に過ぎない。  僕は美緒の震える肩を抱き寄せ、有栖を一人、あの地獄に置いてきてしまったという、心臓を抉られるような自責の念を必死に押し殺す。 「……進むしかない。どんな先が待っていても、彼女が繋いでくれたこの命を、ここで終わらせるわけにはいかないんだ。」  僕たちは互いに血の気の引いた顔を見合わせ、地下へと続く未知の階段を見下ろした。  その暗闇の奥底からは、風の鳴る音とは明らかに違う、何者かが苦痛に悶えるような、かすかな呻き声がじわじわと、せり上がってきていていた。  薄暗く、埃が雪の

  • 桜の生贄   第17話 生贄の挨拶

     せり上がった暗幕の奥、光さえ届かぬ闇から、床板をきしませる重い足音が響き渡った。  ドン……ドン……ドン……。それは心臓の鼓動を外側から無理やり同期させるような、不吉なリズム。 広い体育館の空間で増幅され、鼓膜を震えさせた。  やがて、舞台の中央に血のような赤い光がぽつりと灯った。逆光に照らされ、ゆらゆらと陽炎のように揺れる巨大な影………大鎌。  身の丈を超えるほどの凶器、鈍い銀光を放ちながら、舞台の床を擦って火花を散らす。 ギギ……ギィィン……と、鉄と木が削り合うその音は、黒板を爪で立てる音よりも不快で、美緒は歯をガタガタと震わせる。  幕の闇の中から、爛々と輝く二つの赤い瞳が僕らを射抜く。  それはもはや人間の瞳ではない。獲物の急所を品定めする飢えた獣の瞳だ。その粘りつくような視線が僕ら三人を舐め回し、逃げ道をじわじわと、物理的な質量を持って奪っていく。 「……来た、のか……」  大樹が喉の奥で唸るように絞り出したその次の瞬間、殺人鬼は咆哮とともに大鎌を頭上高く振り上げ、高さのある舞台から、迷いなく飛び降りた。  ドォォォンッ!!凄まじい衝撃に床が波打ち、蓄積した埃が視界を真っ白に染め上げる。  僕は反射的に、恐怖で硬直した有栖と美緒を背中に隠すように庇った。けれど、埃の霧の向こう側で、赤い瞳はすでに僕らの死を完璧に確定させるかのように舐めるように僕たちを見た。 「チッ……やっぱりここへ逃げ込んだか。クソガキの分際で、頭が回るじゃねぇか、テメェら!」  鼓膜を震わせる怒声。それと同時に、大鎌の刃が空気を裂く凄まじい風切り音を立てて横に振るわれた。  ガガァァンッ!!僕らのわずか数センチ横、頑丈な床板がまるで紙細工のように容易く引き裂かれ、鋭い木の破片が|礫《つぶて》となって僕らの頬を掠める。  飛び散る木片、耳をつんざく破壊音。  僕らはあまりの圧力に呼吸を忘れ、ただ本能のままに後ずさるしかなかった。 「今度は……容赦しねぇぞ。一人残らず、その喉笛を掻っ切ってやる!」  血の池のような赤い瞳が、確実に僕らの終焉を見据えていた。  殺人鬼が力任せに大鎌を引き抜くと、抉られた床の裂け目からさらなる木片が舞い上がり、体育館全体が、殺人鬼の殺意に当てられて激しく揺れているような錯覚に陥る。 

  • 桜の生贄   第16話 カーテンコール

     体育館のスピーカーから、鼓膜を突き刺すような最後のノイズが消えると、そこには凍りつくような沈黙が降りた。  だがその静寂は、けして安堵を与えるものではない。むしろ、獲物が罠にかかるのを息を潜めて待つ、捕食者の気配そのものだった。  有栖は青ざめた顔で唇を強く噛み、血の記録が刻まれたノートを、壊れものを扱うように胸に抱きしめた。 「……ここにいたら、だめ。絶対に……飲み込まれるわ。」  僕は短く頷き、大樹の湿った袖を強く掴んだ。 「……戻ろう。ここは罠だ。奴はわざと、俺たちの良心や好奇心を餌に、この地獄へ引き寄せているんだ。」  大樹は険しい顔で、月光すら届かない体育

  • 桜の生贄   第15話 死への胎動

     ギリ、ギリ……。死を宣告する金属音が、一歩、また一歩と確実に背後の闇を削り取ってくる。逃げ場のない廊下の突き当たり、古びた扉の前で、僕たちは凍りついた。 「来てるっ……!」  有栖が掠れた悲鳴を上げ、美緒の肩を壊れそうなほど強く抱き寄せた。美緒の体は氷のように冷たく、小刻みな震えが僕の腕にも伝わってくる。  大樹が扉に肩をぶつけ、渾身の力で押し込んだ。だが、扉は沈黙を貫き、びくともしない。 「くそっ、開け……ッ! 開けよッ!!」  焦燥が、肺を焼くような熱さとなって競り上がってくる。  その時だった。  僕の指先から、血に汚れた古い生徒手帳が滑り落ちた。それが硬

  • 桜の生贄   第14話 管理番号:サクラダアリス

    体育館へと続く大扉の前。逃げ場を断たれた行き止まりの廊下で、死神がその巨大な鎌を頭上高く振り上げた、その瞬間。 「っ……!」  横にいた有栖が、僕の腕を振り払って前に出た。  彼女がポケットから取り出したのは、小さな銀色の音叉だった。 音楽室の隠し扉の不気味な隠し通路を、死に物狂いで彷徨っていた時に瓦礫の山に半ば埋もれていたのを彼女がいつの間にか密かに拾い上げていたものだ。  有栖はそれを、渾身の力で叩きつけた。 キィィィンッ……!!鼓膜を直接針で刺し貫くよう

  • 桜の生贄   第13話 絶望の蓋

    あの封じられた鉄扉の先は、生きながらにして埋葬されたような、濃密な死の気配に満ちていた。  無数に枝分かれした隠し通路を抜け、肺が焼けるほど激しい呼吸を押し殺し、ようやく見覚えのある壁の隙間から這い出した先に。 「……戻って、きたの……?」  有栖の声は、震える赤い月光よりも脆く響いた。そこは、先ほどまでいた音楽室だった。 静まり返った室内には、不自然なほど濃厚な桜の香りと、それを塗りつぶすような時間が経った後のような血の錆びた匂いが混ざり合い、鼻の奥を不快感で支配していた。  だが、安堵はどこにもない。慌てて大樹が隠し扉を閉めると、中から響いていた殺人鬼の足音が慌ただしく

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status