LOGIN肺に突き刺さるような土の匂いと、腐朽した木材の湿り気が立ち込める通路。 僕たちは、ただ生き延びるためだけに、獣のように四つん這いになって闇を這い進んだ。 背後で遠ざかる殺人鬼の笑い声が、地底を伝う振動となって鼓膜を震わせるたび、腕に抱えた美緒がすすり泣く。 「……もういや……もう、ここから出して……」 消え入りそうなその声に、僕は自分自身に言い聞かせるように必死で説得するように耳の良い殺人鬼に聞こえないように囁く。 「大丈夫だ、美緒ちゃん。絶対に……絶対に出口を見つけてみせるから……!」 先頭を進む大樹が、泥にまみれた手で壁をまさぐりながら、狂ったように出口を探す。やがて彼の指先が、鈍い音を立てて硬い金属に触れた。 「ここだ……何かあるぞ。」 彼が力任せに古びた木板を押し上げると、ぎいぃぃ……と地獄の蓋が開くような嫌な音が響く。 その隙間から、淀んだ地下の空気とは対照的な、刃物のように鋭く冷たい外気が流れ込む。 辿り着いたのは、図書館裏の打ち捨てられた資材置き場のようなスペースだった。 月光に照らされて白く浮かび上がるのは、カビに侵食され、巨大な墓標のように積み上がった古い書籍の山。 そして、誰かが使っていたであろう古いオイルランプが不気味に転がっている。 壁際には、まるで奈落へと通じているかのように闇が続く細い階段が口を開けていた。 「……舞台の下が、こんな場所に繋がっていたなんてな……。」 大樹が眉をひそめ、刺すような警戒心を周囲に張り巡らせる。 背後からは、まだ殺人鬼の獣じみた怒声が、体育館の反響を伴って遠く、低く響いていた。だが、ここに出られたのは、死神が獲物を見失ったわずかな空白の時間に過ぎない。 僕は美緒の震える肩を抱き寄せ、有栖を一人、あの地獄に置いてきてしまったという、心臓を抉られるような自責の念を必死に押し殺す。 「……進むしかない。どんな先が待っていても、彼女が繋いでくれたこの命を、ここで終わらせるわけにはいかないんだ。」 僕たちは互いに血の気の引いた顔を見合わせ、地下へと続く未知の階段を見下ろした。 その暗闇の奥底からは、風の鳴る音とは明らかに違う、何者かが苦痛に悶えるような、かすかな呻き声がじわじわと、せり上がってきていていた。 薄暗く、埃が雪の
せり上がった暗幕の奥、光さえ届かぬ闇から、床板をきしませる重い足音が響き渡った。 ドン……ドン……ドン……。それは心臓の鼓動を外側から無理やり同期させるような、不吉なリズム。 広い体育館の空間で増幅され、鼓膜を震えさせた。 やがて、舞台の中央に血のような赤い光がぽつりと灯った。逆光に照らされ、ゆらゆらと陽炎のように揺れる巨大な影………大鎌。 身の丈を超えるほどの凶器、鈍い銀光を放ちながら、舞台の床を擦って火花を散らす。 ギギ……ギィィン……と、鉄と木が削り合うその音は、黒板を爪で立てる音よりも不快で、美緒は歯をガタガタと震わせる。 幕の闇の中から、爛々と輝く二つの赤い瞳が僕らを射抜く。 それはもはや人間の瞳ではない。獲物の急所を品定めする飢えた獣の瞳だ。その粘りつくような視線が僕ら三人を舐め回し、逃げ道をじわじわと、物理的な質量を持って奪っていく。 「……来た、のか……」 大樹が喉の奥で唸るように絞り出したその次の瞬間、殺人鬼は咆哮とともに大鎌を頭上高く振り上げ、高さのある舞台から、迷いなく飛び降りた。 ドォォォンッ!!凄まじい衝撃に床が波打ち、蓄積した埃が視界を真っ白に染め上げる。 僕は反射的に、恐怖で硬直した有栖と美緒を背中に隠すように庇った。けれど、埃の霧の向こう側で、赤い瞳はすでに僕らの死を完璧に確定させるかのように舐めるように僕たちを見た。 「チッ……やっぱりここへ逃げ込んだか。クソガキの分際で、頭が回るじゃねぇか、テメェら!」 鼓膜を震わせる怒声。それと同時に、大鎌の刃が空気を裂く凄まじい風切り音を立てて横に振るわれた。 ガガァァンッ!!僕らのわずか数センチ横、頑丈な床板がまるで紙細工のように容易く引き裂かれ、鋭い木の破片が|礫《つぶて》となって僕らの頬を掠める。 飛び散る木片、耳をつんざく破壊音。 僕らはあまりの圧力に呼吸を忘れ、ただ本能のままに後ずさるしかなかった。 「今度は……容赦しねぇぞ。一人残らず、その喉笛を掻っ切ってやる!」 血の池のような赤い瞳が、確実に僕らの終焉を見据えていた。 殺人鬼が力任せに大鎌を引き抜くと、抉られた床の裂け目からさらなる木片が舞い上がり、体育館全体が、殺人鬼の殺意に当てられて激しく揺れているような錯覚に陥る。
体育館のスピーカーから、鼓膜を突き刺すような最後のノイズが消えると、そこには凍りつくような沈黙が降りた。 だがその静寂は、けして安堵を与えるものではない。むしろ、獲物が罠にかかるのを息を潜めて待つ、捕食者の気配そのものだった。 有栖は青ざめた顔で唇を強く噛み、血の記録が刻まれたノートを、壊れものを扱うように胸に抱きしめた。 「……ここにいたら、だめ。絶対に……飲み込まれるわ。」 僕は短く頷き、大樹の湿った袖を強く掴んだ。 「……戻ろう。ここは罠だ。奴はわざと、俺たちの良心や好奇心を餌に、この地獄へ引き寄せているんだ。」 大樹は険しい顔で、月光すら届かない体育館の奥の闇をじっと睨みつけていたが、やがて肺の奥にある重苦しい空気を吐き出した。 「……あぁ。これ以上深追いは危険だ。一旦、仕切り直す。」 振り返ると、入り口の闇が不自然なほど濃く、粘り気を持ってうねっているように見えた。背後から無数の視線が突き刺さる感覚を振り払うように、僕たちはその呪われた空間を後にした。 校舎の外、隙間からながれる夜風に触れた瞬間、肺の奥に溜まっていた空気を一気に吐き出す。 それでも胸の鼓動は速く、汗ばむ指先は制御できないほどに震えていた。 大樹が低く、自分に言い聞かせるように言った。 「次は……奴の用意した道じゃない、別の痕跡を追うしかない。殺人鬼の思惑の、その裏をかくんだ。」 有栖は依然としてノートを抱きしめたままだった。 その表情は恐怖に染まってはいたが、瞳の奥には死者の無念を背負った者特有の、鋭く、悲痛な光が宿っていた。 「……誰かの最期の声を、無駄にしたくない。これ以上、この場所で文字を途絶えさせちゃいけないの。」 その言葉が、震える足に次の一歩を踏み出させる微かな、だが確かな力となった。「ここ…講堂?…あ、ユーリ、そこに地下へと続く道がある」 そう大樹は発見すると僕たちは、講堂の地下へと足を踏み入れた。 急な階段を一段降りるごとに、空気が目に見えて変質していくのがわかる。 じめじめとした死の湿気が肌にまとわりつき、鼻を突くのは地下室特有の臭いと、空気に溶け出した吐き気を催すような異臭。 「講堂の地下って、こんな場所だったんだ……。」 僕が絞り出した呟きに、有栖が幽霊
ギリ、ギリ……。死を宣告する金属音が、一歩、また一歩と確実に背後の闇を削り取ってくる。逃げ場のない廊下の突き当たり、古びた扉の前で、僕たちは凍りついた。 「来てるっ……!」 有栖が掠れた悲鳴を上げ、美緒の肩を壊れそうなほど強く抱き寄せた。美緒の体は氷のように冷たく、小刻みな震えが僕の腕にも伝わってくる。 大樹が扉に肩をぶつけ、渾身の力で押し込んだ。だが、扉は沈黙を貫き、びくともしない。 「くそっ、開け……ッ! 開けよッ!!」 焦燥が、肺を焼くような熱さとなって競り上がってくる。 その時だった。 僕の指先から、血に汚れた古い生徒手帳が滑り落ちた。それが硬い床に叩きつけられた、その瞬間。 カチリ。と、静寂を裂く機械音。 まるで、僕たちが来るのを、あるいはその手帳が届くのをずっと待っていたかのように、扉の隙間に埋め込まれた重厚な錠前がひとりでに回転した。 鍵など持っていないはずなのに。なぜ、今、開いたのか。 得体の知れない違和感が胸を刺したが、背後の死神は待ってはくれない。 「……え?」 古びた扉が、重い溜息をつくようにゆっくりと、自ら口を開けた。 中から吹き出したのは、数十年もの間、光を拒み続けてきた場所特有の、腐りかけた湿気と死の抱擁。闇が巨大な喉を広げ、僕らを深淵へと誘っていた。 「……仕掛け、なのか……?」 大樹が短く、警戒を孕んだ声で呟く。 「早く入って!」 僕は美緒の冷え切った手を掴み、有栖と共にその底知れぬ暗黒へと飛び込んだ。 ガシャンッ!!扉が閉まると同時、外側から大鎌が叩きつけられる凄まじい衝撃音が響いた。扉が悲鳴を上げ、天井から積年の埃が雪のように舞い落ちる。 「……クソガキども!また逃げやがったかぁッ!!」 扉の向こうで殺人鬼の怒号がこだまする。だが、分厚いこの扉は今度こそ絶対的な沈黙を守り、僕らを異界の奥底へと隔離した。 足元には、かすかなランプの光が道標のように揺れていた。 石造りの壁はぬめり、地下通路のように細く長く続いている。有栖が乱れた息を整えながら、震える声で呟いた。 「……この奥に、なにがあるの?」 美緒は青ざめた顔で、何かに取り憑かれたように通路の先を凝視していた。 「……ここに連れて行かれ
体育館へと続く大扉の前。逃げ場を断たれた行き止まりの廊下で、死神がその巨大な鎌を頭上高く振り上げた、その瞬間。 「っ……!」 横にいた有栖が、僕の腕を振り払って前に出た。 彼女がポケットから取り出したのは、小さな銀色の音叉だった。 音楽室の隠し扉の不気味な隠し通路を、死に物狂いで彷徨っていた時に瓦礫の山に半ば埋もれていたのを彼女がいつの間にか密かに拾い上げていたものだ。 有栖はそれを、渾身の力で叩きつけた。 キィィィンッ……!!鼓膜を直接針で刺し貫くような、甲高い共鳴音が廊下全体に炸裂した。停滞していた空気が激しく波打ち、鼓膜を震わせる。 殺人鬼の眉間がぴくりと歪み、大鎌を振り下ろそうとした腕が、岩のように硬直した。 「……ッ、チッ……!」 血のような赤い瞳が不快そうに細められ、殺人鬼は顔をしかめて呻く。 「耳障りな真似しやがって……!そういう小細工だけは頭が回るんだよなぁ、有栖……ッ!」 怒号とともに振るわれた刃が、僕らのいた場所の壁を深く裂き、砕け散った破片が礫となって頬を掠めた。 その光景を見て、僕は背筋に冷たい氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。 (……間違いない。こいつ、さっきの歌声といい、今の音叉といい……異常なほど音に反応している。人間離れした聴覚で、僕らの呼吸音一つさえ聞き逃さず追ってきているんだ……!) だが、その鋭すぎる聴覚こそが、今は唯一の隙となった。 「……走って!」 有栖の鋭い声に、美緒が弾かれたように顔を上げる。 我に返った僕は美緒を抱え直し、地を蹴った。背後では、殺人鬼がすでに大鎌を引き抜き、地を這うような動作で構え直している。 赤い瞳が、逃がさぬ獲物をむさぼる肉食獣の輝きを帯びて、再び僕らを射抜いている。 「今度は容赦しねぇぞ……!」 僕らは廊下を一気に駆け抜けた。 美緒を抱えた腕
あの封じられた鉄扉の先は、生きながらにして埋葬されたような、濃密な死の気配に満ちていた。 無数に枝分かれした隠し通路を抜け、肺が焼けるほど激しい呼吸を押し殺し、ようやく見覚えのある壁の隙間から這い出した先に。 「……戻って、きたの……?」 有栖の声は、震える赤い月光よりも脆く響いた。そこは、先ほどまでいた音楽室だった。 静まり返った室内には、不自然なほど濃厚な桜の香りと、それを塗りつぶすような時間が経った後のような血の錆びた匂いが混ざり合い、鼻の奥を不快感で支配していた。 だが、安堵はどこにもない。慌てて大樹が隠し扉を閉めると、中から響いていた殺人鬼の足音が慌ただしく別の方向へ遠ざかっていった。 その時、音楽室の隅にある古いスピーカーから、ざらついたノイズと共に歌声が流れ始めた。 それは歌というより、喉を切り裂かれた動物が最期に振り絞るような叫びに近しいものだった。ノイズの隙間から、誰かの咀嚼音のような生々しい音が混じり込み、鼓膜を汚していく。 「待って……この歌声……。」 有栖の瞳が鋭く光る。ただの音階ではない。 「ただの声じゃない。音階に合わせて、肖像画の目が動いてる……。」 並ぶ音楽家たちの瞳は、ただの絵の具ではなかった。 「見て、ユーリ……。あの瞳、濡れているわ。」と、指摘する有栖の震える声に僕が目を凝らすと、バッハやベートーヴェンの肖像画の眼球部分だけが、まるで本物の人間の眼球のように、生々しい光沢を放ってこちらを凝視していた。 旋律が「ド・ファ・ド・ソ」と繰り返されるたびに、並ぶ肖像画の瞳がギチギチと音を立て、一点を指し示している。 並ぶ音楽家たちの肖像画は剥き出しの眼が裏返るような鈍い音を立て、その視線はジッと一点に絡みついている。まるで、死者たちが僕たちの処刑を特等席で待ち構えているかのようだ。 死者たちの視線が一点に絡みつくたびに、僕たちのプライバシーという概念が、ナイフで薄く剥ぎ取られていくような不快感が全身を走る。 「……あそこだ!! 肖像画の視線が交差するスピーカーの中。大樹、あの中に僕たちの居場所を伝える何かがある!歌声が最大になる瞬間に叩き壊して!」 僕の指示が飛ぶ。 大樹は迷いなく黒板の裏のスピーカーへと足を振り上げた。 「三、二、一……今だッ!!」