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第6話 届かぬ想い

مؤلف: 桜花桜餅
last update تاريخ النشر: 2026-04-26 17:00:00

「……とにかく、次は体育館だ。あそこに何かあるはずだ。」

 大樹と声を潜め、影に溶け込むように廊下を進む。

 僕の脳裏には、さっき目にした絵本の赤い桜と、被験者という不気味な言葉がこびりついて離れなかった。

 ここは学校の形をした、巨大な胃袋なんじゃないか。そんな妄想に囚われ、足がすくみそうになった、その時だった。

「ねえ……っ!お願い、待って……!」

 背後からの鋭く、震える囁きに、心臓が跳ね上がった。

 反射的に振り向くと、1-C教室の暗がりから二人の小さな人影が、縋るように姿を現した。

 短いボブの髪を揺らした少女、|巴《ともえ》と、怯えた子犬のような瞳の少年、|流星《りゅうせい》。二人とも僕たちの肩にも届かないほど背が低く、まだ幼さが残っている。

「もしかして……お兄ちゃんたちも、ここに閉じ込められたの……?」

 巴が、極限の恐怖のせいか、口角を引きつらせて無理に笑いながら問いかけてきた。

 その隣で、流星が僕のシャツの裾をごくわずかに掴んでくる。指先が、小刻みに震えていた。

「……とりあえず、中で話そう。廊下は危ない。」

 大樹が手短に言い、僕たちは彼らを教室の中へと促した。

 二人は教卓から離れた椅子に並んで腰を下ろしたが、ガタガタと震える膝の音は止まらない。

 巴は頬を痙攣させながら、必死に普通を装おうとしていた。流星は指先を血が滲むほど掻きむしり、掠れた声を漏らす。

「気がついたら、職員室にいて……それから、ここで……っ!お兄ちゃん、僕たち、いつお家に帰れるの……?

 ママが、待ってるんだ……。」

 流星の純粋すぎる問いが、僕の胸を刺した。

 沈黙に耐えかね、僕は二人の安全を思うあまり、一番残酷な警告を口にしてしまう。

「……流星、巴ちゃん。よく聞いて。この学校には、僕たちを狙う“殺人鬼”がいるんだ。だから、絶対に声を出さないで。」

 その瞬間、二人の表情から子供らしさが消え、絶望が塗り潰した。流星の瞳孔が限界まで開き、彼は椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。

「さ、殺人鬼!?な、なんで……っ!嫌だ、嫌だ嫌だ!死にたくないッ!!」

 子供特有の、コントロールの利かない甲高い悲鳴が、密閉された教室に突き抜ける。

「馬鹿、声が大きい!」

 大樹が慌てて流星の口を塞ごうと手を伸ばした、その刹那だった。

 バガァァァンッ!!!!!と、鼓膜を揺らす爆音と共に、教室の入り口の扉が文字通り粉砕された。

 蹴り飛ばされた木製の扉が弾け飛び、最前列の机をなぎ倒して壁に激突する。

 砂埃と木の破片が舞う中、そこには返り血を浴びた軍服の巨躯が、大鎌を肩に担いで立っていた。

「クク……!

 ようやく見つけたぜェ……!柔らかい肉が泣き喚く、極上のメロディをよォッ!!」

 殺人鬼は迷うことなく地を蹴った。逃げようと背を向けた流星の背後に、一瞬で死神が回る。

「あ、ぁ……っ!!!」

 ザシュゥゥゥッ!!と、無慈悲に振り下ろされた大鎌の刃が、流星の小さな背中を斜めに両断した。

 一瞬の空白の後、断ち切られた断面から鮮やかな赤と、まだ温かい内臓が床にどろりと滑り落ちる。

 流星の体はボロ雑巾のように壁に叩きつけられ、ぐしゃりという、潰れるような嫌な音が響いた。

 壁には赤黒い肉片と脳みそがべったりと張り付き、彼は一度だけ指をぴくりと動かして、それきり物言わぬ肉の塊に変わった。

 その光景を、脳が情報の処理を拒否していた。つい数秒前まで、僕のシャツを掴んでいた小さな指。温かかったはずの体温が、今は冷たい床に吸い取られ、急速に失われていく。

 壁に飛び散った赤は、夕焼けのような鮮やかさであり綺麗だった。それが、かえって現実味を奪っていた。

 綺麗?

「……違う」

 違う違う違う違う。なんで今、そんなこと思った。

 視線を落とすと、流星の遺体から数センチ離れた場所に、彼が握りしめていたキーホルダーが落ちていた。人気アニメのキャラクターが、血だまりの中で無邪気に笑っている。

 そのプラスチックの瞳だけが、この凄惨な教室で唯一損なわれていないことが、耐え難いほど不気味だった。

 流星の開いたままの瞳には、もう光はない。そこにあるのは、ただ自分の死を理解することさえ許されなかった、押し付けられた虚無だけだ。

 鼻を突くのは、鉄の匂いだけではない。溢れ出した胃の内容物と、失禁の臭いが混じり合い、むせ返るような死の悪臭となって僕の肺を侵食していく。

「りゅ……流星ッ!!!」

 巴の絶叫が教室を裂く。

 殺人鬼はその悲鳴をまるで素晴らしい音楽を聞くようにして、うっとりと目を細めていた。

「ククク……!いい声だァ……!もっと、もっと泣き叫べェ!!」

殺人鬼は、返り血を浴びた舌で唇を舐め回し、逃げる巴を愉しむように、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めていく。

 親友の死は巴自身の理性を一瞬で焼き切った。

 彼女は引きつった笑顔を張り付かせたまま、殺人鬼の脇をすり抜け、狂ったように廊下へ飛び出した。

「いやだぁぁぁぁあああああッ!!!ママぁぁぁぁ!! 助けてママ!!!怖いよ、痛いよぉ!!!」

 廊下に響き渡る、幼い命の切実な叫び。

 殺人鬼は逃げる巴を愉しむように、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めていく。

「クハハハハッ!!鳴けッ!もっと呼べよォ、来もしねぇ母親をよォ!!」

 廊下の突き当たり、巴が角を曲がろうとした瞬間、殺人鬼の腕が伸びた。

 彼女のボブの髪を乱暴に掴み上げ、壁へと叩きつける。

「いっ、あ……ガハッ!!」

 巴の顔面が壁に激突し、鼻骨が砕ける。それでも彼女は、血の混じった涙を流しながら叫び続けた。

「まま……っ、たすけ……て……。」

 それは、夜泣きをする子供が母の温もりを求めるような、あまりにも無防備で純粋な声。…だが、その声に応えたのは母の優しい手ではなく、冷たく鋭利な鋼の刃だった。

 殺人鬼は、巴の小さな両足を大鎌で|刈《・》|り《・》|取《・》|っ《・》|た《・》。膝から下を失い、切断面から噴き出す血の海に沈みながら、彼女はなおも床を掻いて這い進もうとする。

「痛い……痛いよぉ……!まま……あし、あしが……ッ!!」

「ああ……あ、あああああああッ!!!」と、ちぎれた足を見て絶望の表情浮かべる巴に、殺人鬼は狂ったように笑い声を上げている。

 巴の悲鳴は、もはや人間の言葉としてなしてなかった。

 両足を失った彼女の断面から、ポンプのように血が噴き出し、廊下の床を真っ赤な海に変えていく。

 巴は反射的に自分の脚があった場所へ手を伸ばすが、そこには自身の肉の感触と、剥き出しになった骨の断面があるだけだった。

 殺人鬼は、そのパニックをじっくりと観察するように、鎌の刃先を彼女の腹部にそっと当てた。

「ほら、ママを呼べよ。お前が泣けば泣くほど、ママは遠ざかるぜ……?」

 僕は気づく、わざと殺人鬼は急所を外している。

 巴は、指先で血に塗れた床を掻きむしり、逃げようともがく。爪が剥がれ、指先がボロボロになっても、彼女は本能だけで動いていた。

 殺人鬼は、這い進む彼女の背中に、軍靴をゆっくりと沈めた。

 メキメキ、ゴリッと、肋骨が無惨にも折れていく音が、静まり返った廊下に異様に響く。巴の口から、ドロリとした赤黒い塊が吐き出された。それは、潰れた内臓の欠片だった。

「ハハハハハッ!!最高だァ!!死ぬ瞬間まで、その無様な絶望を見せてくれェ!!」

「ま、ま……いた、い……いたい、よ…。

 いいこ、…するから……おうちに……かえっ…し……。」

 視界が白濁し、意識が遠のく中で漏れる、子供らしい最期の謝罪。だが、殺人鬼は冷酷に彼女の背中を軍靴で踏みつけ、大鎌を振り上げた。

 その瞬間、ミチィッ、ブチリッ……ゴリィィィッ!!と、背骨を断つ凄まじい音が響き、巴の悲鳴は泡立った血の音へと変わった。

 何度も、何度も、肉体を叩き潰すような蹂躙。

 最後には、かつて巴という少女だったものは、原型を留めない赤黒い染みと、壁にぶちまけられた腸へと成り果てた。

 殺人鬼が去った後、静まり返った廊下。

そこには、ちぎれた巴の足から床へ滴り落ちるピチャっ…ピチャっ…という音だけが、無機質に響いていた。

「……ひっ、う……あ……。」

 教室の入り口で、僕は膝をつき、胃液がせり上がるのを必死に堪えた。

 鼻腔を突き刺すのは、つい数十秒前まで生きていた巴と流星の、甘ったるい内臓の匂いだ。

 耳の奥では、巴が最後に喉を鳴らして叫んだママという声が、呪いのようにループして止まらない。

 どうして、あんな言い方をしたんだ。

 管理者の日誌には、また新しい評価が書き込まれるはずだ。

《年少の被験者二名、パニックにより死亡。絶望の質:極上。ユーリによる間接的な誘導を確認》と…。

 なぜ、もっと言葉を選べなかった?

 脳裏に、巴の引きつった笑顔と、僕の裾を掴んでいた流星の震える指先が浮かぶ。

 あの時の僕は、どこか狂っていたんだ。極限の緊張状態で、頭の中は生存という目的だけに特化したゲーム脳になっていた。

「ここに殺人鬼がいる。だから、絶対に声を出さないで」とは、僕にとっては、それが最善の警告であり、最短の攻略法を提示したつもりだった。

 事実を伝え、危機感を共有し、生存率を上げる。画面の向こう側のキャラクターを操作するような感覚で、僕はあの無垢な子供たちに、一番劇薬となる真実をストレートにぶつけてしまった。

 彼らはゲームの駒じゃない。

 ただの、怖がりで、お母さんに会いたくてたまらない、生身の子供だったのに。

 僕の放った殺人鬼という言葉が、彼らの細い理性の糸を断ち切り、あのパニックを引き起こした。

 僕の言葉が引き金となって、彼らは死神を呼び寄せる悲鳴を上げてしまったんだ。

 僕が、あの二人を殺したんだ。また人を間接的に殺した。

 罪悪感が鉄の杭のように喉を貫き、酸素がうまく吸い込めない。視界が激しく点滅し、胃が裏返りそうになって気持ち悪い。

 吐き気がするのに、思考が止まらない。

 脳の隅で、残酷な僕がささやき続ける。

(巴の悲鳴が続いている間に、反対側の廊下へ回れば、殺人鬼の視界を確実に外せる。流星の死体が入り口を塞いでいるから、扉を閉めれば数秒の時間を稼げる……)

 自分の醜悪さに、叫び出したかった。

 二人の子供が、獣に蹂躙され、肉を削られ、絶叫を上げている最中に、僕は彼らの死をリソースとして計算している。

 彼らが死ぬことで、殺人鬼の興奮は満たされるのか?

 それとも、この殺戮が終わった後には、一定時間のクールダウンが存在するのか?

 僕が警告した殺人鬼という言葉。それは、彼らにとっては逃げ場のない死の宣告であり、僕にとってはリスク管理のための情報共有でしかなかった。そう僕は自身を正当化する。

 この温度差が、二人を死に追いやったのに…。

 僕が彼らを、一人の人間としてではなく、この理不尽なゲームを構成する動く障害物として扱ってしまった報いだ。

 僕が、あの二人を殺した。……違う。いや、違わない違う、はずだ。

 僕はただただ、最善を。最善を選択しただけだ。

 廊下に広がる血の海は、僕の靴底を濡らし、呪いのように足跡を刻んでいく。どこまで逃げても、この残酷な舞台からは一生逃げられないのだと、本能が悟っていた。

 …けれど、涙は一滴も出なかった。ここで泣き喚けば、今度は僕たちが巴のように処理される。感情を殺すことすら、このクソゲーの強制イベントなのか。

「……ユーリ。」

 肩に置かれた手の重みで、辛うじて意識を繋ぎ止める。

 大樹の手は、流星の小さな体を助けようとして浴びた返り血で、ぬらぬらと真っ赤に染まっていた。

 大樹の顎からも、一筋の血が滴っている。声を漏らさないために、自分の唇を肉が千切れるほど噛み切った跡だ。

「……立て。ここで死んだら……あいつらが、本当にただのゴミになっちまう。」

 嗚咽を無理やり飲み込み、血を吐き出すような掠れ声。

 大樹の瞳には、僕のような自己嫌悪ではなく、地獄の業火のように煮えたぎる憎悪の火が灯っていた。

「立て、ユーリ!……立てよッ!!」

 大樹の声は、低く、重く、僕の胸に響いた。

 彼の制服は、流星を抱き上げようとしたときに浴びた返り血で、もとの色が判別できないほどに染まっている。

 彼の目を見て、僕は息を呑んだ。そこにあるのは、恐怖ではない。底なしの、純粋な殺意だ。

 僕が効率で世界を見ているのに対し、大樹は痛みで世界を見ていた。奪われた命の重さを、そのまま自分の拳に込める。

 彼が大鎌の去った闇を睨みつける横顔は、もはや一人の高校生のものではなかった。それは、この狂った箱庭の中で、唯一人間としての誇りを捨てずに、怪物へ立ち向かおうとする修羅の顔だった。

 僕たちは、同じ地獄に立ちながら、全く別の絶望を見ていた。

 大樹は、あの子たちの無念を背負うことで立ち上がり、僕は、あの子たちを見捨てた罪から逃げるために走り出す。

 廊下の突き当たりから、巴の最後の音が途切れる。

 代わりになだれ込んできたのは、殺人鬼の、満足げな、鼻歌のような溜息だった。

 大樹は僕を立ちあがらせたが、その瞳は一度も僕と合わない。彼が見つめているのは、僕ではなく、血の海の向こう側……殺人鬼が消えた闇の奥だ。

 僕は「ああ…」と、残酷なほど鮮明に自覚した。

 大切なものを奪われ、その痛みすらも力に変えて怒りを燃やせる大樹こそが、この物語の主人公なんだ。

 それに対して僕は、効率や理屈を優先して他人を死に追いやり、その罪の重さに耐えきれず友の背中に隠れるだけの、臆病で無力な観客に過ぎない。

 足元では、流星だったはずの赤い染みが、じわじわと僕の靴の裏まで侵食してきている。

 僕は視線を逸らし、肺を汚す死の匂いに吐き気を覚えながら、血に濡れた大樹の背中を追って、死の静寂が戻った廊下へと一歩を踏み出した。

 最悪なのは、この状況ですら、僕の脳が勝手に次の生存ルートを計算し始めていることだ。

二人が犠牲になったおかげで、殺人鬼の注意が逸れた今のうちに体育館へ行けると。

そんな、血も涙もない効率的な思考が、2人の肉片を見つめる僕の意識の裏側で、冷たく、淡々と、パズルを組み立てていたのだった。

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