LOGIN視聴覚室の前に辿り着いた時、僕の肺は焼けるような熱を帯び、呼吸のたびに喉の奥が不快感の味を覚えた。 吸い込む空気は、細かい血の粒を含んでいるかのように重く、肺胞の一つ一つに鉄臭い棘が突き刺さるような錯覚を覚える。 廊下の角を曲がるたび、視界の端に引き摺られた肉の欠片がこびり付いている。それはまるで、校舎という巨大な怪物が、生徒たちを飲み込んだ後に吐き出した消化不良の残骸のようだった。 僕は自分の足音が、床に溜まった血がベチャッ、ベチャッという音を立てるたび、自分の存在そのものが汚染されていくような感覚に陥り、激しい吐き気を必死に飲み下した。 重厚な扉の前に、見慣れたたくましい背中を見つけ、僕は枯れた声を絞り出す。「大樹。視聴覚室の鍵、見つけたんだ」 僕は大樹の姿を見るとすぐに駆け寄った。大樹は助かったと言わんばかりに僕の肩に手を置き、深く重いため息をつく。 どうやら先ほどまで殺人鬼に追われていたらしく、肩が激しく上下し、額からは嫌な汗が滴っていた。 僕は急いで視聴覚室の扉を開け、大樹を室内の暗がりに引き入れる。椅子に崩れ落ちた彼は、僕が手渡した水を一気に飲み干した。 「……最悪なニュースがある」 大樹の声は、地底から響くように低かった。 「白井先生が、殺られてた。保健室だ。 ……俺、一度別れた後、どうしても先生が心配で、確かめに行ったんだ。あそこなら安全だって、先生なら大丈夫だって……縋りたかったのかもしれねぇ…っ。」 大樹が拳を固く握りしめ、爪が食い込むほどに震わせる。「でも、俺が見たのは……そんな綺麗なもんじゃなかった。恐らく、先生は、逃げる暇さえ与えられなかったんだ。 先生の脚を、腹を、……まるで子供がハサミで紙を切り刻むみたいに、何度も、何度も……!」 大樹の視線が虚空を彷徨う。その瞬間、彼の意識は、あの鉄臭い匂いが立ち込める保健室へと引き戻されていた。 扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは床を埋め尽くす赤黒い
1-C教室の入り口。 流星だった赤黒い肉塊が転がる足元から、僕たちは逃げるように廊下へ出た。 巴を連れ去った殺人鬼が向かった体育館方面からは、いまだにべったりとした死の残響が這い寄ってくる。 あの方角へ行けば、確実にあの殺人鬼が、まだ獲物の肉を刻んでいる最中に出くわすだろう。 「……今は、体育館に行くのは自殺行為だ。」 大樹の声は低く、自分への怒りで震えていた。 「巴ちゃんの悲鳴……あそこには、まだあいつが居座ってる。今行けば、俺たちもまとめて殺されるだけだ。 ……ここは、手分けすべきだと思う。」 この地獄で、一人になる。 呼吸が止まりそうになったが、大樹の返り血に染まった拳を見て、僕は無理やり頷いた。 「……大丈夫。行くよ。効率よく情報を集めないと、全員死ぬ。」 その言葉を最後に、僕たちは左右の闇へと別れた。 大樹の後ろ姿が闇に消えた瞬間、耳鳴りがするほどの静寂が僕を包み込んだ。一歩踏み出すたびに、上履きの裏が廊下にへばりつく。 ぴちゃぴちゃと足元を見なくてもわかる。そこには、さっきまで巴の一部だったものが、点々と道標のように続いているのだ。 ふと視界の隅、1-Bの教室から廊下へとはみ出した赤黒い水たまりが目に入った。そこには、誰かのものだった赤い色ではなく若干桃色の柔らかい肉の塊が、まるで食べ残されたお肉のように転がっている。 それは殺人鬼の鎌で弾け飛んだ、誰かの中身の肉だろうか。 僕はそれを避けて通るべきだった。なのに、僕の脳はそれを回避すべきトラップとして冷めた目でス
「……とにかく、次は体育館だ。あそこに何かあるはずだ。」 大樹と声を潜め、影に溶け込むように廊下を進む。 僕の脳裏には、さっき目にした絵本の赤い桜と、被験者という不気味な言葉がこびりついて離れなかった。 ここは学校の形をした、巨大な胃袋なんじゃないか。そんな妄想に囚われ、足がすくみそうになった、その時だった。 「ねえ……っ!お願い、待って……!」 背後からの鋭く、震える囁きに、心臓が跳ね上がった。 反射的に振り向くと、1-C教室の暗がりから二人の小さな人影が、縋るように姿を現した。 短いボブの髪を揺らした少女、|巴《ともえ》と、怯えた子犬のような瞳の少年、|流星《りゅうせい》。二人とも僕たちの肩にも届かないほど背が低く、まだ幼さが残っている。 「もしかして……お兄ちゃんたちも、ここに閉じ込められたの……?」 巴が、極限の恐怖のせいか、口角を引きつらせて無理に笑いながら問いかけてきた。 その隣で、流星が僕のシャツの裾をごくわずかに掴んでくる。指先が、小刻みに震えていた。 「……とりあえず、中で話そう。廊下は危ない。」 大樹が手短に言い、僕たちは彼らを教室の中へと促した。 二人は教卓から離れた椅子に並んで腰を下ろしたが、ガタガタと震える膝の音は止まらない。 巴は頬を痙攣させながら、必死に普通を装おうとしていた。流星は指先を血が滲むほど掻きむしり、掠れた声を漏らす。「気がついたら、職員室にいて……それから、ここで……っ!お兄ちゃん、僕たち、いつお家に帰れるの……? ママが、待ってるんだ……。」 流星の純粋すぎる問いが、僕の胸を刺した。 沈黙に耐えかね、僕は二人の安全を思うあまり、一番残酷な警告を口にしてしまう。 「……流星、巴ちゃん。よく聞いて。この学校には、僕たちを狙う“殺人鬼”がいるんだ。だから、絶対に声を出さないで。」 その瞬間、二人の表情から子供らしさが消え、絶
「……大樹、待って。一階へ下りる前に、図書室に寄りたい。」 階段の踊り場で、僕は大樹のシャツの袖を掴んで引き止めた。暗闇の中、大樹が怪訝そうに眉を寄せるのがわかる。 「図書室?」 「調理室の物資が新しすぎたのが気になるんだ。 ここがもし、僕の知ってる脱出ホラーと同じ構造なら、管理者の意図がどこかに残ってるはずなんだよ。 図書室なら、この場所の成り立ち……攻略本みたいなものがあるかもしれない。」 僕の必死な目つきに、大樹は短く鼻から息を抜いた。 「……分かった。 お前の勘に賭ける。スポーツマンはデータに弱いからな、分析は任せた。」 僕たちは音を殺し、一歩ずつ慎重に階段を下りた。 一段踏みしめるたびに床がミシィと、微かな悲鳴を上げる。階段を下りる際、手すりに触れた指先がわずかに滑った。 校舎の他の場所は、壁紙が剥がれ落ち、窓ガラスには長年の泥がこびりついていた。だが、一階に近づくにつれ、空気の質が変わっていく。 カビ臭さが薄れ、代わりに無機質な消毒液のような匂いが鼻を突くようになった。 (おかしい……やっぱり、誰かがここを手入れしている) 図書室の扉の前に立ったとき、その違和感は頂点に達した。扉の取っ手は、鈍い光を放つほどに磨き上げられている。まるで、今からここを訪れる特別な役者を歓迎する楽屋かのように。 ガラス窓から覗く室内の棚は、一ミリのズレもなく整列し、まるで巨大な墓標が立ち並んでいるような、死んだ静寂を保っていたのだった。 図書室の扉のガラス窓から中を覗き込むと、そこは外の腐敗した廊下とは対照的に、寒気がしてしまう。 扉に手をかけ、そっと押し開ける。 ギィ。と静寂を切り裂く微かな軋みが、心臓を直接掴まれたように響いた。幸い、あの忌まわしい大鎌を引きずる音は聞こえてこない。 中に入ると、空気の密度が一段と重くなった気がした。 棚の本を一目見て、僕の確信は深まる。 背表紙は古びたデザインを装っているが、鼻をつくのは数十年経った古書の埃臭さではなく、刷り上がったばかりのインクの生臭い匂いだ。 「ここは廃校なんかじゃない……廃校に見せかけた飼育箱だ。」 棚の奥から抜き取った一冊の分厚い日誌。 背表
血と内臓の匂いを全身に纏ったまま、僕はふらつく足で調理室へ向かった。唐辛子の補充もしないといけない。 唐辛子の瓶を握りしめる手は死人のように冷たく、脂汗で濡れている。視界の端には、まだ床一面を赤黒く汚した山寺さんの無惨な残骸と、虚空を睨んだまま転がった川村の頭部が、脳内に焼き付いた呪いのように離れなかった。 「……大樹……。」 調理室の更に奥にある準備室の重い扉を震える指で押し開けると、闇の中から大樹が弾かれたように立ち上がった。 「ユーリ!お前、生きてたのか……!」 駆け寄ってきた大樹の表情は、心底ホッとしたものだった。だが、僕の唇は自分でも制御できないほどに震え、言葉が形をなさない。 「……僕のせいだ……。僕があいつを怒らせたから……。」 「は?何言ってんだよ……。」 「さっき、廊下で……山寺さんと、川村が……。僕が、唐辛子なんて投げて余計に殺人鬼を刺激したから……! あいつ、狂ったみたいになって八つ当たりで二人を……っ!」 震える声で、見てしまった惨劇を絞り出す。 肉を断つ音、床にぶちまけられた温かい腸。自分たちの代わりに解体された同級生たちの最期。 この前まで普通の日常を過ごしていた。 山寺さんは、昨日「今度の日曜、有栖も誘うから一緒にカラオケ行こうよ!」って、僕にまで声をかけてくれた。川村さんだって、数学の宿題を写させてくれって、あんなに情けない顔で笑っていたのに。 あんなに鮮やかだった彼らの未来が、今はもう、殺人鬼に残虐に殺され、赤黒い肉の塊でしかない。 名前も、声も、思い出も。すべてが解体されて、ただのゴミみたいに廊下にぶちまけられたんだ。 僕は堪え切れず、喉の奥から嗚咽が漏れた。 大樹は目を見開き、次の瞬間、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。 大樹も知っているのだ。 山寺さんが文化祭で一生懸命ダンスの練習をしていたことも、川村さんが部活の帰りに「腹減
廊下を駆け抜ける。 月明かりの射さない闇の中で、僕と大樹の足音だけが異様に響き渡っていた。 いや。違う。 背後からも確かに、逃れようのない死の音が追ってきている。 壁を耳障りにこする金属音。地を割るような重苦しい足音。 巨躯が愉悦に肩を揺らし、大鎌を引きずりながら迫る音だ。 「はっ、はっ……大樹……どっちに逃げる!?」 「いいかユーリ、二手に分かれるぞ! 俺は野球部で鍛えてるから俺が囮になって引きつける!お前はその隙に逃げろ!!」 大樹は叫び、僕を突き飛ばすようにして反対の階段へと駆け出そうとした。 だがその瞬間、殺人鬼の呪詛のような数え声が重なった。 「……はぁぁーち、きゅうぅぅぅ……。」 長く引き延ばされた粘りつく声が、廊下中に反響する。すぐ後ろにいるはずなのに、まるで耳元で直接囁かれているように感じる。 「じゅうぅぅぅ……。」 刹那。 背後で空気が裂ける轟音がした。 大鎌の刃が壁ごと床を叩き割り、砕け散ったコンクリートの礫が背中に突き刺さる。 「っくそっ! 行け、ユーリ、走れッ!!!」 大樹が必死に囮となって逆方向に走る。 だが…その時、僕は心臓が凍りつくような事実に気づいた。 赤い瞳は、足の速い大樹には目もくれず、明確な殺意を持って、足の遅い僕だけを執拗に追っている。 「なんで……!? なんで大樹を追わないんだ……!」 喉が焼けるほど叫びたいのに、肺が酸素を拒絶して声が出ない。 殺人鬼は捕まえやすい方から確実に狩りに来ている。効率的に、一匹ずつ、絶望を刈り取るために…….大樹が導き出した囮作戦という甘い期待を、殺人鬼は無言の足取りで踏みにじった。 図書室へ行けば勝てる?本棚を盾にする? そんな数秒前の論理的な思考は、