LOGIN「彰人さん、藤堂先生のほうから何か聞いてない?」紗耶はその人が気になって仕方ない。相手が誰なのか先に分かれば、それだけ早く手を打てる。これほどの人物なら、今のうちに知り合っておいて損はない。彰人は澪の横顔から視線を外し、ようやく口を開いた。「知らない。ばあちゃんはそういうこと、俺には何も話さないから」とはいえ、彰人にも分かっている。千鶴子の立場なら、相手が誰なのか知っていても不思議ではない。何しろ同じ医学界にいる者同士、どこかで接点があってもおかしくない。あの特例で教授に就いた人物に、どうにかして近づく方法を考えたほうがよさそうだと紗耶は思った。二人の会話は、澪の耳には届いていなかった。ちょうど大学の関係者たちが挨拶にやってきたところだったからだ。賢一もその中にいる。K医科大学の上層部ともなれば、外部でも要職を兼ねる者ばかりで、社会的地位も高い。一通り挨拶を済ませると、彼らは最後に澪と征司の前にやってきた。黒川浩之(くろかわ ひろゆき)学長は澪を見ると、感心したように目を細めた。「朝比奈さん、お噂はかねがね伺っていました。ようやくお会いできましたね」澪の経歴については、浩之も十分すぎるほど把握している。だからこそ感嘆せずにはいられない。これほど若くして、すでにここまでの実績を積み上げている。これから先、一体どこまで伸びていくのか——空恐ろしいほどだ。澪は控えめに立ち上がり、差し出された手を握った。「ありがとうございます。まだまだです」浩之は澪としばらく言葉を交わしてから、ようやく征司へ視線を移し、笑みを浮かべた。「森宮社長は、本当に素晴らしい奥様に恵まれましたね」征司はわずかに口元を上げた。「ありがとうございます」後ろでその様子を見ていた彰人は、眉をひそめた。浩之がどれほど高い立場にいる人物か、彰人はよく知っている。それなのに、なぜあれほど澪を高く買うのか。気のせいではない。森宮夫人だから特別に扱っているわけでもなさそうだ。実際、浩之は征司よりも澪のほうに何度も話しかけていた。「彰人さん、どうかしたの?」紗耶が声を潜めながら、ペットボトルの水を差し出した。彰人は我に返った。「いや、何でもない」紗耶には、彰人がまだ自分にすべてを打ち明けているわけではないように思
紗耶は指先にぐっと力を込め、嘲るように澪を見た。森宮奥様って?やはり澪は抜け目のない女だ。普段は何にも興味がないような顔をしているくせに、裏では大学側に身分を明かし、森宮夫人の肩書きを振りかざして、ちゃっかり目立とうとしている。蓮も不快そうに眉をひそめた。まさかこんな展開になるとは思いもしなかったのだろう。最初に気を取り直したのは彰人だ。自分の席に着くと、二人に声をかけた。「大学側の決めた席順に従おう」大学側の判断で席が用意されたことは、もう明らかだ。これ以上食い下がれば、みっともない思いをするのは自分たちだ。そもそも、強引に席札をすり替えた紗耶のほうだ。知之は澪を促し、そのまま椅子に座らせた。「まずは座りなよ。父の隣は、もともと君の席なんだから」澪がこの席に座るのは、征司の妻だからではない。知之は、周囲にもそれを分かってほしくて、あえてそう言った。先ほど職員は、大学側から特に賢一の隣にするよう指示されていたと言った。そこが肝心なのだ。澪はこれから、賢一と同じ職場で働くことになるのだから。澪は席に着くと、隣に座る征司のほうを一切見ようとはしない。征司もゆっくりと視線を戻し、澪と同じように正面を向いた。二人の様子に、夫婦らしい親しさは特に見られない。紗耶は唇を引き結び、澪を一瞥してから後ろの席に座った。蓮が吐き捨てるように囁いた。「今の話でハッキリしたろ。澪が特別扱いされたのは、森宮夫人だからだ。そうでもしなきゃ、あいつにこんな席が用意されるはずないんだよ」「ええ、そうね」紗耶の顔にも、次第にいつもの余裕が戻ってきた。「たかが席のことだもの。気にしてないわ」澪のように何の取り柄もない女だからこそ、「森宮夫人」だと明かし、夫の威光にすがるしかないのだ。自分では何もできず、ただ夫の付属品として扱われることで、わずかな敬意と称賛を得ている。それは澪自身が認められたわけではなく、すべて「森宮夫人」という肩書きのおかげだ。一方、席に着くと、澪は足元の痛みがいくらか和らぐのを感じた。見た目は華やかでも、自分にとってハイヒールは拷問道具のようなものだ。履くたびに靴擦れを起こし、皮膚が擦りむける。それでも、改まった場に出る時は、つい選んでしまう。澪はこっそり身をかがめ、痛む
正式な式典ともなれば、席順がそのまま立場や地位を映す。たかが席のことと、軽く済ませられるものではない。蓮にしてみれば、澪はこの席に座る資格がない。澪のことなら、自分たちが一番よく知っている。名も知られていない彼女が、一体どんな肩書でここに座るというのか。蓮が自分を見下していることなど、澪にはとっくに分かっていた。彼は、澪がここに座るにはふさわしくないと言っているのだ。「紗耶のほうなら――」蓮は澪をちらりと見てから、知之に向き直った。「K医科大学の卒業生ですし、今や大学にとっても誇れる存在でしょう。それに今日は、征司のパートナーとして来ているんです。二人が隣同士なのは当然じゃないですか。澪の席札は、何かの手違いでここに置かれたんでしょう」蓮には、それ以外の理由など考えられない。その言葉を聞き、気まずそうにしている紗耶も表情を和らげた。知之は先ほどから席順にこだわっているが、そもそも大学側の手違いなのかもしれない。彰人は黙ったまま口を開かなかった。彼自身、席の配置などどうでもよかった。ただ、一つだけ引っかかることがある。澪がここまで席にこだわるのは、結局、征司が気になるからではないのか。だとしたら、宇一に対する彼女の感情は本物なのか、と。「もうすぐ始まりますし、席の話はこのくらいにしませんか?征司も、私が隣に座るのを拒んでいるわけではありませんし、そこまでおっしゃらなくても」紗耶は知之に微笑んだ。彼女は今、席札が間違って置かれているに違いないと思っている。自分は征司のパートナーとして来ている。大学側だって、当然自分たちを隣同士にするはずだ。あるいは、自分が来る前に澪が席札を入れ替えた可能性だってある。一方の澪は、もはや怒る気力すら湧かなかった。こちらの言い分に耳を貸す気もなければ、事実を確かめようともしない。彼らはただ、凝り固まった偏見というフィルターを通してしか自分を見ようとしないのだから。ただ、紗耶は何年も前から、たびたびメディアに顔を出している。先ほど紗耶のもとへ集まってきた学生たちも、怪訝そうに澪を見ている。中には、小声で囁き合う者もいる。「あの人、誰?なんで白石先輩と席を争ってるの?」「知らない。でも、さっき転んだのも、わざとらしいよね。森宮社長って、先輩の彼氏なん
救急医として働いていた頃、澪はいつもペタンコ靴を履いていた。どうしても必要な時以外はハイヒールを履かないため、何年たっても慣れないままだ。そして今、征司のその一言には、別の意味が込められていると澪は気づいた。――こんな風に彼の膝の上にいるのは不適切だ、と。もちろん、征司が澪を突き放すはずもない。彼はどんなに冷酷な態度をとっている時でさえ、そういう無礼な真似だけはしない男だ。冷たい男ではあるが、紳士としてのマナーだけは決して崩さない。そういう、最低な男なのだ。身内にも他人にも礼儀を欠かさないから、つい自分だけが特別扱いされていると勘違いしてしまう。だが実際には、そこには何の感情もこもっていないのだ。つまり征司は、膝に座るのは馴れ馴れしすぎると、澪に釘を刺しているのだ。大切な紗耶を不快にさせたから。澪は口元に皮肉な笑みを浮かべると、まだ手首をつかんでいる征司の手を振りほどいた。「そうね。靴も、今の状況も慣れていないわ。でも、わざとじゃないの」そう言うと、彼女はテーブルに手を突き、身体を起こした。紗耶は険しい顔のまま言った。「もう少し気をつけたら?」その声に滲む苛立ちを、澪は見逃さなかった。征司は自分のものだという独占欲から、「彼に触れるな」と責め立てているのだ。「ええ、わざとじゃないわよ。紗耶さんみたいに、人の席札を投げ捨てて勝手に席をすり替えるような真似とは違ってね」澪が言い返すと、紗耶はさらに不機嫌になった。そこへ、知之が戻ってきた。何が起きたのかは知らないが、後ろの列に澪の席札が放り出されていることには気づいた。澪が自分で席札を替えたわけではないとすぐに分かった。自分の席札をゴミのように扱い、テーブルに放り投げておく人間などいるはずがない。知之は紗耶を一目見て、誰の仕業か察すると、すぐに会場の設営を担当した職員を呼び止めて言った。「すみません。この席順、間違いないですか?朝比奈先生の席は後ろなんですか?」たかが席のことで、知之がわざわざ職員を呼び止めるとは、紗耶も思っていなかった。彼女は唇を引き結んだものの、どうにか笑みを保った。「席くらいのことで、そこまで大袈裟にしなくてもいいんじゃないですか?」瑞穂メディカルからの独立も決まり、紗耶は上機嫌で会場に来てい
征司の隣こそが自分の居場所だと見せつけたいのか。それとも、澪への当てつけか。澪は思わず、紗耶のすぐ後ろに立っている征司を見た。征司は当然、すべてを見ていたはずだ。なのに、まるで他人事のように、止めようともしなかった。黙って認める――それが、彼の答えなのだろう。たいていのことは気にしないで済ませてきた澪も、これには呆れて冷笑を漏らさずにはいられなかった。澪の視線がよほど鋭いのか、征司は席に着くと、何気ない様子でこちらを振り返った。まるで今になって、ようやく澪の存在に気づいたかのようだ。こんな屈辱、黙って呑み込むつもりはない。征司と人前で仲のいい夫婦を演じたくはない。しかしだからといって、自分の席札をゴミのように扱われて黙っている筋合いもない。澪はまっすぐに、二人のもとへ歩み寄った。だが、口を開くより先に、背後から弾んだ声が響いてきた。「白石先輩?本物だ!番組見ました!家族みんなで応援してます!」と、何人もの学生が、口々に声を上げながら押し寄せてきた。特集番組や医療番組、医学知識を紹介する動画などでおなじみの紗耶に気づくと、学生たちは芸能人でも見たようにはしゃぎながら、わっと集まってきた。その騒ぎの中、澪は学生たちと紗耶の間に挟まれてしまう。さらには、勢い余った学生の一人に押され、人の輪の外へ弾き飛ばされてしまった。その様子を、紗耶は冷ややかな目で眺めている。自分と征司の世界から弾き出され、その輪にすら入れない澪の姿が、よほど滑稽でたまらないのだろう。紗耶の瞳には隠しきれない笑みが浮かんでいる。「皆さん、お気をつけてくださいね」彼女は優しく声をかけたが、それがかえって学生たちを喜ばせた。誰もが一番に紗耶と写真を撮ろうと、いっそう前へ詰め寄ってくる。ようやく体勢を立て直そうとした澪の背中に、今度は別の学生のリュックが強く当たった。今日は改まった場だからと、普段は絶対に履かないハイヒールを履いている。澪はよろめき、足元のバランスを崩した。――その瞬間、手首をぐっとつかまれた。とっさにそこへ体重を預けると、そのまま軽く引き寄せられた。体勢を立て直す間もなく、澪はそのまま男の膝の上に腰を落としていた。硬い太腿とじんわりとした体温が、スカート越しにじかに伝わってくる。澪は一瞬にして
「そうだよ。君だって榊院長の門下に入れば、あの先生方とは自然につながるだろう」蓮の言葉を聞き、張り詰めていた紗耶の気持ちはたちまち緩んだ。確かに、蓮の言うとおりかもしれない。だが――「知之が自分の父に澪を紹介したところで、何になるんだ?救急医を数年やっただけで、これといった実績もない澪が、榊院長に本気で目をかけてもらえるはずがない。いくら人脈を広げても、肝心の実力が伴っていなければ何の意味もないだろ」蓮は肩をすくめた。彼としては、ただ事実を口にしただけだ。確かに、先ほどあの光景を目にした時、彼らも驚いた。だが少し考えれば、澪が人に取り入るのがうまいから、ああして紹介してもらえたにすぎないと気づいたのだ。紗耶は口元を手で隠し、くすくすと笑い声を漏らした。それもそうだ。ここへ来てすぐ、澪があの重鎮たちと話している姿を目にした時は、紗耶もひどく驚き、心を乱された。だが、理由が分かってしまえば、気にするほどのことではない。「別にどうでもいいわ」紗耶はわずかに顎を上げ、親しみやすい笑みを浮かべた。「口先だけで将来が開けるなら、実力なんて必要ないもの。みんなコミュニケーション講座でも受ければいいんじゃない?」澪の名こそ出さなかったが、誰に向けた皮肉かは明らかだ。あれほどの重鎮たちが、澪のことを本気で覚えているとは思えない。せいぜい「榊院長の息子と親しい女性」という印象が残る程度だろう。澪には、自分自身の能力や実績で彼らの記憶に刻まれるようなものは何もないのだから。蓮は紗耶に親指を立ててみせた。一方、征司は二人の会話には加わっていなかった。すでに業界関係者が次々と挨拶に訪れており、そちらの応対に追われていたからだ。その頃、澪は挨拶を終え、関係者席へ移るよう案内されていた。少し離れた場所に征司たちがいることにはまったく気づいていない。並んで歩きながら、知之が声を潜めて言った。「たった今入ったばかりの情報なんだけど、征司も今日の式典に出席するらしい。森創は、K医科大学のような優秀な人材が集まる大学にとって、就職先として申し分のない企業だからな。当然、大学側も最重要ゲストの一人として扱う。ただ……」知之は少し間を置いてから続けた。「大学の上層部には、君と征司が夫婦だということも伝わっ
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊