FAZER LOGIN名前が取れたら、次は会社を取れ。
黒瀬さんの言葉を、私は何度も頭の中で繰り返していた。
数日、私はほとんど眠らなかった。
営業が終わってから、事務室にこもって記録を並べ直した。
九条さんが「無理するな」と顔を出したが、私は手を止められなかった。
会社にいた頃、私は何もできなかった。
気づいていたのに、止められなかった。
八十万円が振り込まれるのを、ただ見ていた。
あの無力さを、もう繰り返したくなかった。
今度は、見ているだけでは終わらせない。
苗字は入口にすぎない。一人の名前を
「今日から、これも頼む」 出勤すると、九条さんが一枚の紙を差し出した。業務範囲の追加だった。 これまでの日次確認に加えて、売上回収前の照合。入金封筒の仮集計。翌日繰越分の記録整理。そして、金庫の出入り前後の確認表の作成。 私は、紙を二度読んだ。 それは鍵そのものを持つ仕事ではない。金庫を開けるのは私ではない。けれど鍵の前と後ろで動く、いちばん責任の重い場所だった。 誰がいつ、いくら出し入れしたか。その記録に私の名前が入ることになる。「……いいんですか。私で」「黒瀬さんが、おまえにと言った」 それで終わりだった。理由は、いつも後からしかわからない。 会計担当のスタッフは、露骨に面白くなさそうだった。これまで自分の領分だったところに、新人同然の女が入ってくる。そこまで必要か、という空気が、はっきりと顔に出ていた。 私は反論しなかった。歓迎されていないのは、わかっている。ここで言い返しても、何も得しない。まずは、手順を覚えることだ。 金庫まわりの運用を、私は一つずつ確かめていった。 誰が開けるか。誰が立ち会うか。何を記録に残すか。どこに二重の確認があるか。そして、どこが「慣れ」で飛ばされているか。 ルールはちゃんと文書になっていた。けれど現場は違った。立ち会いが一人で済まされている時間帯がある。出した理由が「いつものやつ」で通っている持ち出しがある。締めの時間が人によって十分も二十分もずれている。 ルールはあるのに、運用が緩い。 その緩さこそが、傷の生まれる場所だった。会社でも同じだった。属人的な処理。確認の省略。そう
「白河オフィス。おまえが送迎表で拾った住所だ。こっちで当たりを取らせた」 私は、身を乗り出した。「高津総合プランニングの登記と、目と鼻の先だ。同じビルに、似たような箱がいくつも入ってる。一つの会社じゃない。箱を並べて、金を回すための部屋だ」 二段底の「もっと大きい何か」が、ようやく、場所を持った。三崎は、その部屋に出入りする、一人にすぎない。あの男の背後に、本当に、もっと深い底があった。「ただ」 黒瀬さんの声が、低くなった。「向こうの片付けは、おまえが思ってるより手が広い。抜かれてるのは、店の控えだけじゃない。白河の箱のほうでも、古い紙が、まとめて消え始めてる」 背筋が、冷えた。 店の棚から一枚ずつ抜かれているのは知っていた。 私は先に写して、なんとか食らいついている。 けれど、向こうが消しているのは、私の手の届かない部屋のぶんもだ。 これは、店の中だけの競争じゃない。 差し替え前の原本に、先に手をかけた方が勝つ。 私が写せる範囲の外で、紙が燃やされていく。 もう、いくらでも待てる戦いじゃない。「白石さんが、珍しく前のめりなのも、それでな」 黒瀬さんは付け足した。「あの人、昔、こういう箱の一つに、知り合いの店を一軒、潰されてる。だから、放っておけないんだとさ。ただで助言してるわけじゃない。あの人なりの、借りの返し方だ」 白石さんの、あの踏み込み方の理由が、少しわかった気がした。急所だ
数字が、合わない気がした。 閉店後の事務室で、私はここまで集めたものを並べていた。高津総合プランニング。宛名の揺れ。裏口での接触。同席者の線。 一つひとつは、確かに三崎へ向かっている。けれど、並べてみて、別の違和感が湧いた。 足りないのだ。 三崎は綾月をよく使う。来店の頻度も、一晩で動く金も、私が見てきた範囲では小さくない。 それなのに、私が掴んでいる「傷」は、八十万円の一件と、その周辺だけ。これだけでは、彼の使い方の濃さに、まるで釣り合わない。 一本の線では、説明がつかない。 私は古いメモを引き出した。会社にいた頃の手帳だ。横領犯にされる前、ただ気持ち悪いから書き残していた断片。捨てずに、ずっと持っていた。 ページをめくる。「説明の薄い少額外注」。「月末に急いで落ちた交際費」。「請求内容不明の分割支払い」。 当時は、それぞれ単発だと思っていた。たまたま雑な処理が重なっただけ、と。だから深く追わなかった。追える立場でもなかった。 でも今は違う。 綾月という現場を知った。接待の金がどう動くか、宛名がどう逃げるか、裏口で何が起きるか。それを見たあとで読み返すと、ばらばらだった断片が、同じ匂いを持っていた。同じ手つきの跡だった。 私は手帳の断片と、綾月の記録を、机の上で突き合わせた。 時期がずれている案件もある。金額も科目も違う。けれど、共通しているものがあった。宛名が曖昧。決裁の主体が見えない。請求の中身が薄い。そして、いつも少しだけ、急いでいる。 杜撰なのではない。慣れているの
店の女に手を出されて、黙ってる店だと思われたら終わりだ――ひなのを探った相手に、黒瀬さんはもう人をつけていた。そう言い切る声を、私は事務室で聞いていた。 理屈は、商売の理屈だった。けれど、その声には、理屈だけでは説明のつかない熱があった。この人は、ひなのを――たぶん、この店の人間を、ただの駒だとは思っていない。 初めて、この冷たい男の奥に、別の温度を見た気がした。 綾月は秘密が集まる場所だ。だが、漏れる場所でもある。会社のときも、八十万円を畑中課長に確かめた、あの一回が始まりだった。 気づいたと知らせた瞬間、私の閲覧権限は消えた。同じ過ちを、私はここで繰り返しかけていた。「おまえの仕事は、俺が決める」 それは支配的な言葉だった。普通なら、苛立って当然の。 けれど、その響きの底に、別のものが混じっている気がした。聞き方を間違えれば、お前が危ない。だから俺が決める。そう聞こえてしまう自分が、危うかった。「私は、駒じゃありません」 私は言った。ここで黙ったら、また与えられるだけの人間に戻る。会社で、上の都合で動かされ、都合よく切られた。あの感覚にだけは、二度と戻りたくなかった。 黒瀬さんは少しだけ目を細めた。「駒なら、わざわざ席を置かない」 短い言葉だった。 完全な対等ではない。それははっきりしている。けれど、消耗品ではないとも言っている。使い捨てる相手のために、鍵付きの席は用意しない。その理屈が、妙に静かに胸に落ちた。「役割を決める」 黒瀬さんは続けた。指を一本ずつ折るように。&nbs
席を持ったことで、私は少し前のめりになっていたと思う。 その前のめりを、一つの出来事が、冷や水のように冷ました。 開店前、ひなのが私の席まで来た。顔色が、悪い。「あのね……変な人に、聞かれたの」 昨夜、フロアに着かない客がいたという。一杯だけ頼んで、ひなのを指名して、世間話のふりで聞いてきた。 ――最近、奥の事務を新しい子がやってるんだって? 経理に強い子だとか。前は、どこで働いてた子なの。名前、なんていうの。「あたし、何も言ってないよ。でも、なんか……あの人、あたしのことを調べてから来てる感じがして。怖くて」 指先が、冷たくなった。 それは、私の手口の、裏返しだった。私が三崎を数えるように、向こうも、綾月の中の「数える女」を数え始めている。 そして、最初に手を伸ばした先は、私じゃない。私を助けてくれた、一番優しい子だった。 私のせいだ。ひなのを巻き込んだのは、私だ。 三崎関連の記録を整理していて、どうしても確かめたいことが出てきた。裏口で会った男の送迎を、誰が手配したのか。 その夜のシフトに入っていたスタッフに、直接聞けばすぐにわかる。私は席を立った。「勝手に動くな」 低い声に、足が止まった。 事務室の入口に、黒瀬さんが立っていた。怒鳴ってはいない。けれど、冷たい制止だった。閉店後の店は静かで、その静けさが声をいっそう重くしていた。「情報がいるなら、動いた方が早いです」
出勤すると、私の席があった。 これまで使っていたのは、フロアの端の仮置きの机だった。誰のものでもなく、空いている時だけ借りる席。荷物は毎晩持ち帰り、朝にまた広げる。そういう、根のない場所だった。 それが今朝は、事務室の奥に移っていた。小さな机に、パソコン、計算機、ファイル棚。引き出しには鍵がついている。 完全な責任者の席ではない。けれど、置きっぱなしにしていい席だ。明日もここに来る人間のための席だった。 私はしばらく、座らずに立っていた。「その方が効率いいから」 九条さんが、湯気の立つカップを置きながら言った。それ以上の説明はない。けれど、説明がないことのほうが、かえって重く感じた。「片付けは終わってるよ。鍵は二本。一本は君が持って」 私は鍵を受け取った。手のひらの中で、思ったより冷たくて、思ったより小さい。「席をもらうって、思ってるより重いのよ」 着替えを終えた沙耶さんが、通りすがりに言った。からかう調子ではなかった。「ここで席を持つってことはね、いつでも辞められない側に回るってこと。あんた、それわかってる?」 わかっているとは言えなかった。けれど嫌だとも思わなかった。 少し離れたところで、ひなのが私を見ていた。いつもの、人懐こい目とは違う。裏方の地味な人、ではなく、店の勘定に関わる人。そういう距離の取り方に変わっていた。 視線が、私の立場を測り直している。 私は椅子を引いて、座った。 机に手を置いた瞬間、会社の机を思い出した。あそこにも席はあった。名前の
その夜、店の売上にズレが出た。 数万円。大きな額じゃない。会計担当のスタッフは「入力ミスかも」と軽く流そうとした。閉店後の事務室は疲れた空気で、誰もが早く帰りたがっていた。 私は横で見ていた。そして引っかかった。 金額のズレより、ズレ方が気になった。整いすぎている。 偶然のミスなら誤差は散らばるはずだ。 ここが多くて、あそこが少なくて。
だったら、消えない。 私は、もう一度モニターを見た。三崎の笑顔を、目に焼きつける。今度は、私が観察する側だ。 そのとき、視界の端で、空気が動いた。 奥の通路に、黒瀬が立っていた。 いつからそこにいたのか、わからない。けれど、見られていた。私の白くなった顔も、三崎を見る目も、震える指で控えに書きつける動きも。全部。 黒瀬は何も言わなかった。
予約名を聞いた瞬間、息が止まった。 三崎清隆。 最初は同姓同名だと思おうとした。よくある名前だ。そう言い聞かせた。けれど、九条さんが読み上げた来店時間と人数を聞いて、私の指先が冷たくなった。 会社の社長。私を横領犯にした男。 扉が開いた。 現れたのは、間違いなく本人だった。 質のいいスーツ。柔らかい笑み。会社の朝礼で「誠実な仕
それは、誰かの受け売りだった。「感情で動くな。記録しろ」。あの男の言葉が、もう私の中に住み着いている。 黒瀬の口元が、ほんのわずかに動いた。笑った、とは言えない。けれど、何かが緩んだ。「明日、もう一度、最初から見ろ」 事実上の、実務参加命令だった。 九条さんが、驚いた顔をした。新人同然の女に店の売上を触らせる。異例だ。会計担当のスタッフは露骨に不満そうな顔をしていた。それでも黒瀬は撤回しなかった。







