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死んでも別れない
死んでも別れない
Penulis: 黒い土地

第1話

Penulis: 黒い土地
五年前、藤原真司(ふじわら しんじ)の母親が交通事故で亡くなり、江口橙子(えぐち とうこ)がその罪をかぶった。

出所したとき、婚約者の真司の姿はどこにもなかった。

彼女はぼんやりと、五年前に二人で暮らしていた家へ向かった。

だが、玄関の扉には【江口橙子と犬、立ち入り禁止】と書かれた紙が貼られていた。

一瞬、呆然と立ち尽くし、壊れた身体を引きずりながらその場にしゃがみ込んだ。

真夜中、真司が一人の女と親しげに並んで歩く姿が彼女の視界に入った。

「おや、遠くから見るとどこの大人しい飼い犬かと思ったよ」

真司はうんざりしたように橙子を一瞥し、「よくも来られたものだな!扉に書いてある文字が見えないのか?さっさと失せろ!」と吐き捨てた。

追い出された橙子は、みすぼらしい姿で街をさまよい、電柱に貼られたチラシに目を留めた。【人体提供、年齢問わず!ごまかしなし!お値段は超お得!】

途方に暮れた橙子は、チラシの連絡先に電話をして、直ちに相手の事務所に向かった。

事務所に着いた頃、既に夕日が沈みかけていた。白衣を着た担当者が一連の契約書を目の前に並べたが、くたびれた橙子には読み通す気力もなかった。死んだ体が大金に変わる――それだけ確認すると、彼女は契約することを決めた。

橙子は機械的にペンを手に取った。彼女が署名した瞬間、ペン先が紙の上でかすかに震えた。

白い紙に黒々と記された文字――【プラスティネーションのための人体提供同意書】

署名を終えたその刹那、彼女は自分が値札を貼られた商品になったように感じた。

死後の身体すべてを、人体プラスティネーション機関に先行予約販売したのだ。

機関の責任者が一枚のキャッシュカードを彼女の前に差し出し、事務的な口調で言った。

「江口さん、同意書はこれで有効です。このお金で、当面の問題は解決できるでしょう。我々の唯一の条件は、ご逝去された後、2時間以内に当方の者が接触できることです」

「問題」という言葉は、あまりにも軽く響いた。

その「問題」とは、藤原家から背負った巨額の借金だ。それは彼女に息の根を止めるような重圧としてのしかかっていた。

橙子はカードをしまい、「ありがとうございます」とだけ言って、背を向けた。

この金で、藤原家への穴はなんとか塞がる。

だが、彼女自身の治療費は、いまだ底の見えない沼のようなものだ。

末期の胃がん――医者には、余命はあと数か月と宣告された。

死ぬ前に痛みに屈して尊厳を失わないためには、高価な鎮痛剤が欠かせない。

すると、橙子はムーンライトクラブへ向かった。京西市で最も豪奢な歓楽の世界。

彼女はそこで清掃員としての求人に応募した。

前科のある人間が、まともな職を得るのは夢のような話だ。

しかし、ここは給料が高い。身元調査も厳しくない。彼女には、そこにすがるしか道は残されていない。

作業着に着替えると、橙子はフロアマネージャーに三階の展示ホールを任された。

展示室には光が揺れ、並ぶ美術品のすべてがため息が出るほど高価なものだ。

橙子は布巾でクリスタルの彫刻を丁寧に拭いていたが、そのとき、胃の奥がきりきりと締めつけられ、額にじっとりと汗が滲んだ。

彼女は必死にこらえ、押し寄せる痛みを無視しようとした。そのとき、少し離れた場所から聞き覚えのある声が響く。

「真司、これ見て。私たちの結婚後の新居に合うと思わない?」

橙子の全身が硬直し、手にしていた布巾が危うく滑り落ちそうになる。

顔を上げると、そこに真司がいた。

黒いスーツをぴったりと着こなした彼のそばには、シャンパンカラーのドレスをまとった美しい女性が、親しげに寄り添っていた。

その女性は夏目晴子(なつめ はるこ)――彼の婚約者だ。

五年が過ぎた今も、彼は依然として高い存在であり続けている。

逃げ出したいと思った。しかし、足が言うことを聞かず、動かなかった。

その瞬間、真司の視線がこちらをかすめ、橙子とぶつかった。

彼の瞳に一瞬、信じられないという色を浮かべると、たちまち嫌悪と軽蔑に曇った。

その眼差しが胸を鋭く刺し、橙子の手が思わず震えた。

ガシャン――

そばの座卓に置いてあった赤ワインのボトルが、彼女の手元に触れてごろんと倒れ、つるつると磨かれた大理石の床に叩きつけられた。

ボトルは粉々に砕け、深紅の液体がガラスの破片と混ざり合い、床一面に広がる。

その場の視線が一斉に彼女へと向けられた。

「ご、ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

橙子は慌てて謝る。病の痛みと恐怖で、顔色はさらに青ざめていった。

晴子は甘えたように真司の胸元へ身を寄せながらも、その声にはトゲが立っていた。

「ねえ、真司、この人は誰?ちょっと酷くない?せっかく私のために落札してくれたワインなのに」

真司は冷ややかに笑い、橙子の前まで歩み寄ると、見下ろすようにして言った。

「橙子、五年ぶりだな。ずいぶん腕を上げたじゃないか」声は氷のように冷たい。「なんだ!刑務所暮らしは、まだ懲り足りないってか?次はその哀れな芝居で、誰を誘惑するつもり?」

「誘惑」という二文字の響きが、橙子の心にまっすぐに刺さり、頬を火照らせた。

彼女はわかっている。真司は誤解している。

きっと、ここで体を売っているとでも思っているのだろう。

「わ、私は……ここで清掃の仕事をしているだけです」必死に弁解するが、その声はか細く、消え入りそうだった。

「清掃の仕事?」

真司が身をかがめ、彼女の耳元に唇を寄せる。「水商売で癖になったのか?そうだよな、お前は自分の身体さえ売れる女だ」

橙子の瞳が大きく見開かれた。

……知ったのか?まさか、そんなはずはない。

あの同意書のことは、彼女と医学機関以外、誰も知らない。

彼の言う「体を売る」は、体で金を稼ぐという意味。

だが彼女の本当の「体を売る」は――死後の遺体を売ること。

彼との認識の食い違いが、毒の棘のように彼女の心に刺さった。

彼に真実を知られるわけにはいかない。

藤原家への巨額の借金。死後、この身を捧げて清算すること――それが、彼女の思い至った最善の結末だ。

もし真司に知られたら、あの誇り高い男は、それを侮辱としか感じないでしょ。

この仕事を守るために、そして、せめて誇りを持って死ねるだけの金を得るために、彼女は沈黙を選んだ。

彼女は膝をつき、床に散らばったガラスの破片を拾い上げようと手を伸ばした。

鋭い破片があっさりと指先を裂き、血があふれ出る。

赤ワインと混じり合い、鮮やかで、どこか妖しい色を放っている。

だが彼女は痛みを感じていないかのように、ただ無表情に、一片一片拾い続ける。

指先を刺すような痛みなど、この心を貫く痛みに比べれば、取るに足らない。

周囲はその屈辱の場面を囲み、嘲りの声をあげた。

真司は、膝をつき血を流す彼女の姿を見下ろし、胸のざわつきが収まるどころか、さらに募っていくのを感じていた。

「その汚い手で俺のカーペットに触るな」彼は冷たく言い放った。「服を脱げ。その服で拭け」

橙子の身体が一瞬こわばった。

彼女は顔を上げ、真司の目をまっすぐ見つめると、作業着を脱ぎ、少しずつ床にこぼれたワインを拭き取っていった。

血と赤ワイン、そして彼女の尊厳までもが、泥の中に踏みにじられていく。

この屈辱がようやく終わると思ったその時、クラブのマネージャーが小走りで駆け寄ってきた。

床の惨状を一瞥し、次に真司の表情を見て、顔いっぱいに媚びた笑みを浮かべる。

「藤原社長、お怒りにならないでください。うちの従業員が無作法でして、すぐに対処いたします!」

彼は少し離れた場所にある長いバーカウンターを指差した。そこには、客が使い終えた口紅の跡と酒のしみが残るグラスがずらりと並んでいた。

「お前!」彼は橙子の鼻先を指さし、怒鳴りつけた。「あのグラスを全部、素手で磨き上げろ!

鏡のようにピカピカ光るまで磨け!指紋ひとつ残すな!藤原社長が少しでも不満が出たら、今月の給料は一円たりとも渡さないぞ!」

橙子は黙って立ち上がり、果てしなく並ぶグラスの列へと歩み寄る。

洗剤の刺激臭とアルコールの匂いが混ざり合い、指先の傷口に沁みていく。

痛みは次第に麻痺し、屈辱も遠のいていった。

彼女に必要なのはただお金なのだ。

生きるために――そして、静かに死ぬために。
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