LOGIN秋の夜長、東山の麓にひっそりと続くなすありの径。観光客の喧騒はとうに引き潮のように消え去っていて、風の声だけが耳に届いてくる。「ご馳走様でした。京料理というものを…初めて知りました」「口に合ったならええんやが。どうやった?」「あまりに美しくて、食べるのがもったいなかったです。ひと口ごとに、心がすうっと綺麗になるような…そんな感じがしました」鈴華の弾むような声音は、あたかも真新しい玩具を手にした子供の無垢を思わせた。その瑞々しい悦びに触れ、京司の目元は慈しむように、ゆるやかに細められた。「気に入ってくれたら、よかったわ。…少し歩こか」朱色に色づき始めた紅葉の葉が、街灯の淡い光を透かして、道に複雑な影を落としている。京司と鈴華の二人の歩幅は、示し合わせたわけでもないのに自然と重なり、乾いた砂利を踏む音だけが、秋の冷ややかな空気の中に規則正しく響いていた。「……もう、すっかり冬の匂いやな」京司は足を止め、漆黒の闇に沈む白川の流れを見つめた。「為せば成る……」「え?」」「“なすありの径”…この径の由来や」「どういう意味なのでしょうか?」異国から来た彼女の知っている言葉の物差しでは、その言の葉に込められた深い意味を測ることはできなかった。「強い意志を持っていればどんなことでも成し遂げられる…そういう意味やな」京司の落ち着いた声は、夜の静寂を乱すことなく、鈴華の心に深く染み渡っていった。鈴華は、わずかに触れそうな距離にある京司の外套の袖を見つめ、自身の胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じていた。「為せば成る…」「とりあえず行動せなあかんってことやな」京司の語る言葉の端々に、鈴華は自身の影を見た。その遠回しな優しさが、冷え切っていた彼女の胸に、静かな熱を灯していく。彼が差し出した無言の庇護に、鈴華は深く、深く包まれていた。「そろそろ戻ろか」頭上を埋め尽くす紅葉の熱から逃れるように、京司と鈴華は“なすありの径”を抜けた。舗装された道に出ると、乾いた風が吹き抜け、先ほどまで二人の肌を包んでいた密やかな秋の気配が、嘘のように遠のいていった。
“お兄ぃ”という、彼女の唇から放たれるにはあまりに不釣り合いな言の葉に、京司は不意を突かれた。その一言が、彼の中に築かれていた彼女の虚像を、瓦解させていった。「あ……」その言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、鈴華の心臓が大きく跳ね上がった。「君、お兄さんおったんかいな」「外では“若頭”と呼ばないといけないんでした」静止画のように固まっていた京司が、その一言に弾かれたように反応した。「どういう事や」その短い問いかけには、困惑と焦燥が綯い交ぜになっていた。「私の兄槇村宏一は六穣会若頭です」鈴華の淡々とした述懐は、静まり返った室内に無機質な足跡を残していく。そのあまりに苛烈な真実に、京司は肺の空気をすべて奪われたかのように絶句した。「そうやったな……。六穣会の若頭は槇村会長のご子息やったな」ようやく絞り出したその独白は、苦い砂を噛むような響きを帯びていた。「お兄さんも香港から来はったんか?」「いえ。兄は日本人です。大阪で槇村の父に拾われたと聞いています」「…拾われた?」「父も兄も私も皆、私達に血縁はありません」「…でも家族です」「そうか…」「お兄ぃ、なんて呼ぶほどに随分慕っとるんやな」「今現在もですが…私が日本に来たばかりの頃、父の槇村は仕事でほとんど大阪にはいませんでした。そんな私の面倒を見てくれたのが兄の宏一です」運ばれてきた盆の上で、透き通った葛切りが春の柔らかな光を撥ね返している。会話を続けながら鈴華は箸先でそれをそっと持ち上げ、黒蜜の海を泳がせた。「…美味しい」口に含んだ瞬間、驚きに目を細める。ひんやりとした滑らかな舌触りのあと、濃厚な蜜の香りが鼻を抜け、体中の緊張がふわりと解けていく。「キラキラして…宝石みたい」「それはよかったわ。甘いもん好きなんやなぁ」甘味を喜ぶ鈴華のあどけない横顔に、京司はふと眼差しを細めた。知れば知るほど奥行きを増す彼女の魅力に翻弄されながらも、ふいに脳裏をよぎる“宏一”の名に、思考が微かに凍りつく。まだ見ぬその兄への想いは、憧憬とも、嫉妬とも、あるいはもっと冷ややかな峻別ともつかぬ、複雑な澱となって彼の胸に沈殿していった。
しとやかな衣擦れの音と共に運ばれてくるのは、涼やかな切子に映える先付。透き通る出汁に浸る車海老の甘みが、舌を優しく撫でる。息を呑む間もなく差し出された漆黒の椀。蓋を撥ねた瞬間に溢れ出したのは、削りたての鰹が放つ、黄金色の薫り。熱を帯びた湯気の中で、澄み渡るような出汁の滋味が、深い余韻となって心に染み渡っていく。どれも鈴華が今までに目にしたこと、無論口にしたこともないような代物ばかりだ。それらを前にして彼女が抱いたのは、好奇心というよりも、自分の世界の狭さを突きつけられたような、静かな戸惑いであった。続いて、皿の絵柄が透けるほど薄く引かれた鯛。 「 まずはそのままで、何もつけんと食べてみぃ」京司が促す。恐る恐る口にすると、淡い甘みの後に、噛むほどに増す力強い旨味に驚きを隠せない様子の鈴華であった。鈴華の横顔に浮かぶ満足げな色を、京司は酒の肴にするかのように愛でた。冷酒が喉を撫でるのと同時に、胸の奥でふつふつと湧き上がるのは、支配にも似た深い安堵。彼女を世界の喧騒から遮断し、その柔らかな表情を独占したいという切実な保護欲が、彼の瞳を熱く湿らせていた。運ばれてきたのは、秋の深まりを感じさせる落ち鮎の塩焼きだった。その錆色の肌に、もうすぐ終わる季節の気配を読み取る。「これが今年の最後の鮎やな」京司は誰にともなく呟き、一気に杯を空にした。喉を通る酒の熱さと、落ち鮎のわずかな苦みが、胸に深く残った出来事を静かに締めくくってくれた。京司は、ふと鈴華の指先に目を奪われた。箸を動かすその仕草は、まるで指先が優雅に踊っているかのように滑らかで、一切の無駄がない。洗練された品格が、卓上の空気を清らかに塗り替えていくようだった。「箸の使い方、上手やなぁ」「日本に来てからテーブルマナーを叩き込まれました。私が無作法だと六穣会が恥をかくのだそうです」鈴華の言葉に、京司の唇から微かな苦笑がこぼれた。「一体誰の吹き込みや?槇村会長か?」「お兄いです」
車を降りれば、そこは石畳の街、祇園だった。連れ立って歩き出した足元には、鈍く光る石畳がどこまでも続いている。街灯が和紙を透かしたような柔らかな光を落とす。この街の呼吸に馴染み、流れるように石畳を闊歩する京司。対して、初めて足を踏み入れた花街の、格式高くも艶やかな気配に圧倒され、鈴華はただ息をひそめるように歩を進める。その対照的な後ろ姿が、夜の祇園に鮮やかに浮かび上がっていた。喧騒を一つ角で曲がれば、そこには静止した時間があった。軒先に吊るされた提灯に、ぽっと温かな灯がともる。その柔らかな光は、打ち水で湿った石段を淡く照らし、訪れる者を無言で招き入れていた。年月を重ねた木目の塀は、雨を吸ってその深みを増している。土壁の落ち着いた黄色と、瓦屋根の重厚な灰色。風が吹けば、柳の細い枝がさらさらと音を立て、提灯がわずかに揺れる。格子の隙間からは、微かに焚きしめられた香の香りと、出汁の芳醇な香りが漂ってくるようだ。一歩足を踏み入れれば、日常を脱ぎ捨て、贅を尽くした静寂の中へと没入していく。通り過ぎる人々は思わず足を止め、その入り口を羨望の眼差しでそっと見つめるのだった。京司は迷いのない所作で、年月に磨かれた格式高い門扉を押し開いた。鈴華は重厚な家屋が放つ威圧感に気圧され、足を止め、一瞬の躊躇の色を見せたが、それを悟られぬよう飲み込むと、京司が揺らした暖簾の残響をくぐるようにして、深閑とした奥へと歩を進めた。玄関を跨ぐと、お香の香りがかすかに鼻腔を突いた。女将は音もなく膝をつき、京司へ向けて柔らかな京言葉を落とす。「おこしやす。どうぞ、こちらへ」気心の知れた間柄特有の、短いやり取り。「女将。急で悪いなぁ」「烏丸の若頭はんの頼みどしたら断れしまへんわ」中庭に面した長い渡り廊下。歩を進めるたび、歴史を吸い込んだ木材がわずかに軋み、時の厚みを物語っていた。やがて、重厚な唐紙の前に辿り着く。女将がしなやかな所作でその扉を開けると、青畳の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。「こちらでございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎやす」雪見障子の向こうには、計算し尽くされた借景が広がっている。手入れの行き届いた苔の緑が、夕闇の中でしっとりと深く沈み込み、配置された庭石が影となって静かに座していた。その目に映るすべてが、鈴華にとっては
紙屋川を離れる頃には、空はすでに色の境界を失い、濃密な夕景に支配されていた。夕刻の帳が、古都の輪郭をゆっくりと、そして深々と塗り潰していく。「飯でも食べに行こか」京司の唐突な言葉をどう受け止め、どんな言葉で返すべきか。戸惑いの沈黙が流れるなか、彼女が最適解を探しあぐねていると、それを遮るように京司の唇が再び動いた。「何か食べたいもん、あるか?」「い、いえ特には」淀みなく答えを返すその横顔は、一見すれば平穏そのものだった。しかし、わずかに震える語尾が鈴華の戸惑いを露呈させて心音だけが、メトロノームのような音を刻んでいた。「香港ではどんなもん食べてたんや?やっぱ中華料理かいな?」鈴華は視線を落とし、言葉を選ぶようにしてわずかな沈黙を差し挟んだ。京司の問いに対し、彼女は感情の起伏を削ぎ落とした、平熱のトーンで淡々と答えを返した。「食べていたものですか…。そうですね、その日に手に入れられたものを食べていたので、決まったものはありませんでしたが…古くなって廃棄されたフィッシュボールや、堅くて食べられなくなって捨ててあるパンなんかをよく食べてました。時々、端に肉が残ったチキンが残飯に捨ててあって…それが手に入った日はご馳走でした」鈴華の言葉を耳にした瞬間、京司の眉間に深い皺が刻まれた。「…君の親は何しとったんや?」「親はいません。物心ついた頃には、九龍城塞の中で浮浪孤児として生きていましたから」鈴華の口から零れ落ちる凄惨な記憶には、感情の色彩が一切欠落していた。過去の痛みに無感覚であるという、残酷なまでの肯定。その異質な潔白さを前にして、京司は言葉を失い、ただ圧倒されるばかりであった。そこには湿った悲哀も、誰かをなじるような棘も一切ない。ただ、自分という存在をどこか遠い場所から眺めているような、奇妙なほど透き通った無関心があるだけだった。京司は、彼女の背後に広がる底なしの虚無に触れた気がして、思わず身震いした。「君は…」「はい?」「…いや、何でもあらへん。京料理は好きなんか?」「食べた事ありません」「ほな美味い京料理食べさせたるわ」追憶を塗りつぶすように夜の帳が降りる。京司はアクセルを踏み込み、加速する光の粒とともに、華やかな喧騒が潜む路地の奥へと切り込んでいった。
車内に戻った鈴華を包み込んだのは,行き場を失い沈殿した落胆の影だった。彼女へ辿り着くための、たった一本の、蜘蛛の糸よりも細い希望。その脆い蔦は、手繰り寄せる間もなく指をすり抜け、永遠に千切れ去った。京司は沈黙をまとったまま、滑らかに車を走らせ始めた。京司は慣れた手つきで胸元から一本の煙草を 選び取ると、静かに火を点けた。淡い光に照らされた彼の指先と、紫煙の揺らぎが、車内の静寂をよりいっそう深いものへと変えていく。「そんなに落ち込まんでもええで」「…えっ?」「“マコト”なんて名、本名かどうかは、さして重要とちがう。あの手の商売に手ぇ染める連中の面なんて、この界隈じゃすぐに割れる。ましてや夜の世界の話やったら、組の情報網に引っかかるんは時間の問題やろう」鈴華は虚を突かれたように目を見開いた。京司を見つめるその眼差しは、言葉の真意を測りかねて彷徨いつつもわずかな希望を宿していた。「探して…頂けるのですか?」京司は眼差しを一点に縫い留めたまま、淡々とした響きで言葉を紡いでいく。「ここで君の事、放り出しても、後味悪いさかいなぁ…。それに君、探すの諦めてへんのやろ?」彼の言葉が胸の奥を突き刺しても、鈴華は口を閉ざしたままだった。溢れ出す感情をすべて飲み込むようにして、彼女は己の唇を強く噛みしめ、ただ独りの孤独な戦いに耐えていた。友の消息という断ちがたい未練と、独りよがりの義理立てで、他組織の人間を巻き込むまいとする理性。その板挟みのなかで、鈴華の心は音を立てて摩耗していくようだった。「そんなに難しゅう考えんでもええんちゃうか?使えるもんは使えばええんや」京司の唇から零れ落ちたのは、拍子抜けするほど柔らかな響きだった。裏社会の重鎮たる若頭の威厳など微塵も感じさせぬその軽薄さは、彼なりの精一杯の憐憫だったのかもしれない。







