ログイン「どうして私だと分かったのかしら?」正体を暴かれたことへの疚しさなど、美宜の心には微塵もなかった。むしろ、勝利を確信したかのように、その唇には狂気を孕んだ笑みが刻まれている。三智子と美宜が裏で繋がっていることを楓華から知らされたその瞬間から、祖母を拉致した黒幕が誰なのか、素羽の中ではすでに明白となっていた。素羽は問いには応えず、ただ一点のみを詰問した。「おばあちゃんは、どこ?」美宜は即答せず、独りよがりに言葉を紡ぎだした。「あなたって、本当に身の程知らずで卑しい女。司野さんの前から消えなさいと言ったはずよ。なぜ、たったそれだけのことができないの?命が惜しくないのかしら。せっかくの慈悲も、あなたは自分から溝に捨てたのよ。――何度も、何度も私を挑発して!あなたがそうさせたのよ。そうでなければ、私もこんな真似はしなかったのに!」素羽にとって、そんな恨み言はどうでもよかった。彼女はただ、祈るような、あるいは呪うような重みで繰り返した。「おばあちゃんはどこ、と聞いているの」美宜は口角を歪な形に吊り上げると、含みのある笑みを浮かべて、ゆっくりと上方へ指を向けた。「……あそこを見てごらんなさいな」その仕草に導かれるように素羽が顔を上げると、そこには――倉庫の梁から無残に吊るされた、一つの人影があった。素羽の瞳孔が激しく収縮し、心臓が握り潰されたかのような激痛が走る。息を吸うことさえ忘れ、絶叫に近い声が漏れた。「……おばあちゃん!!」芳枝は必死に「大丈夫だ」と眼差しで訴えかけようとしていたが、その痛々しい姿は、かえって素羽の胸に渦巻く不安を煽るばかりだった。震えを抑えきれない体で、素羽は美宜を激しく睨みつけた。「……一体、何が目的なのよ!」刹那、美宜が一歩踏み出し、素羽の頬を力任せに張り飛ばした。乾いた打撃音が、静まり返った廃倉庫に虚しく、そして鋭く響き渡る。「そんな目で私を見るんじゃないわ!」この一撃を、彼女はずっと見舞ってやりたいと願っていたのだ。「私の前で、よくもあんなにいい気になって振る舞ってくれたわね!」吐き捨てるように言うと、さらにもう一発、掌が素羽の顔を捉えた。「……あんた、何様のつもり!?司野さんを私から奪おうだなんて!」追撃の衝撃が、再び彼女を襲う。美宜は蛇のように
「ゆっくり休め。俺は行く」司野はそう言い残すと、未練など微塵も感じさせない冷淡な足取りで病室を後にした。美宜もそれを引き止めようとはせず、ただ遠ざかっていく彼の背中を、静かに見送っていた。病室を出た司野は、即座に自宅へ電話を入れた。だが、執事の森山によれば、素羽はまだ病院から戻っていないという。通話を終えるのと入れ替わりで、秘書の岩治から着信が入った。「社長、いつ戻られますか?フィット社の代表団がすでに到着しております。そろそろ向かわねばなりません」――美宜も、つくづく手のかかる者だ。体が弱いというのなら、大人しく家で寝ていればいいものを。わざわざ社長の前に現れては倒れ、こうして仕事に支障をきたすのだから。岩治の心中を察してか、司野は短く答えた。「すぐに向かう。先に彼らの対応をしておいてくれ」岩治が承知した、その直後だった。司野のスマートフォンのバッテリーが限界を迎え、画面が暗転して強制的にシャットダウンした。彼は特に気にする様子もなく、車を会社へと走らせた。病院の窓際で、司野の車が遠ざかるのを最後まで見届けた美宜は、ふっと視線を落とすと、自らも音もなく病室を後にした。---楓華は司野のことを蛇蝎のごとく嫌っていたが、その実力と影響力だけは認めざるを得なかった。素羽の安否を最優先に考え、なりふり構わず彼に電話をかけたが、返ってきたのは「電波の届かない場所にあるか、電源が切れている」という無機質なガイダンスのみだった。楓華は諦めきれず、瑞基グループの本社まで乗り込んだ。しかし、アポイントがないという一点張りで受付に阻まれ、司野に会うことすら叶わない。「私は社長夫人の友人なのよ!急ぎの用があるって言ってるじゃない!」楓華が声を荒らげても、受付嬢は鉄面皮な微笑を崩さなかった。「申し訳ございません。あいにく、アポイントのない方はお通しできない決まりとなっておりますので」――「社長夫人の友人」なんて、そんな聞き飽きた口実で誰彼構わず通していたら、とっくにクビにされているわ。焦燥に駆られ、身を焦がすような思いで楓華は次に亘へ電話をかけた。コール音が鳴り、繋がるやいなや、彼女は亘の軽口を封じ込めるように叫んだ。「素羽が事件に巻き込まれたの!司野とは連絡がつかないし、会社の人間が会わせてくれないのよ!」
安田先生……?素羽の、あのカウンセラーのこと?楓華の脳裏に、かつてレストランで美宜と密会していたあの女の姿が鮮明に蘇った。景苑別荘で見かけた、あの心理カウンセラーだ。楓華の顔色は一変し、肺の空気を奪われたかのように呼吸が乱れる。「素羽!」Bluetoothイヤホンから、素羽の短く不可解そうな声が返ってきた。「……どうしたの?」「今、そのカウンセラーの車に乗っているのね!?」「ええ、そうよ」「降りて!今すぐ、その車から降りなさい!」楓華の悲痛なまでの叫びに、素羽は一瞬呆然と自失した。楓華は畳みかけるように、早口で言葉を投げつける。「その心理カウンセラー、裏で美宜と繋がっているわ!」芳枝の失踪に美宜がどこまで関与しているかは定かではない。だが、この絶妙すぎるタイミングで三智子が現れたことに、説明のつかない違和感がこみ上げる。長年培ってきた職業的な直感が、すべては仕組まれた罠だと警鐘を鳴らしていた。その言葉を聞いた瞬間、素羽の瞳が微かに揺れた。運転席に座る三智子の横顔を、それと悟られぬよう盗み見る。見慣れたはずのその穏やかな横顔が、今は底知れぬ闇に覆われているように見えた。素羽は激しく脈打つ鼓動を必死に抑え込み、努めて平静を装って口を開いた。「……安田先生。すみませんが、あそこの路肩で車を止めていただけますか?」三智子は、意外にも素直に頷いた。「分かりましたわ。ここは危ないから、もう少し先の広い場所で止めますね」車が完全に停止するやいなや、素羽はシートベルトを外すと、逃げるようにドアノブへ手をかけた。しかし、指先が金属に触れた瞬間、背後から鋭い風が迫る。素羽が反射的に振り返った時、三智子の手にはすでに注射器が握られていた。迷いのない動きで、それは素羽の首筋に突き立てられる。刺痛とともに、冷たい液体が体内へと流れ込んだ。素羽の瞳孔が急激に収縮し、視界がぐにゃりと歪んでいく。意識が急速に遠のく中、「……ごめんなさい」という三智子の微かな呟きが、奈落の底から響くように聞こえた気がした。そのまま、彼女は深い闇の中へと堕ちていった。「素羽!聞こえる!?素羽!」楓華は異変を察知し、受話器に向かって何度も叫び続けた。だが、スピーカー越しに聞こえてきたのは、微かな呻き声だけだった。楓華の眉が、苦悶に深
素羽は耳を疑い、茫然と立ち尽くした。「……消えたって、どういうことですか?」「ほんのわずか、電話に出るために席を外した隙に、芳枝さんの姿が見えなくなったんです。周囲をくまなく探しましたがどこにもおられず、スマートフォンも置いたままにされていて……」受話口越しに、介護士の切羽詰まった声が響く。「おばあちゃんのことですもの、ふらりと散歩にでも出たんじゃないかしら」素羽は自分に言い聞かせるように呟いたが、介護士はそれを即座に否定した。「いえ、今の時間は散歩の時間ではありませんし、何よりもうすぐ投薬の時間なんです」芳枝はこの病院に長く通う患者で、ナースステーションのスタッフは誰もが彼女の顔を知っていた。それにもかかわらず、いつ、どのようにして姿を消したのか、気づいた者は一人もいなかった。素羽は病院に掛け合って防犯カメラの映像を確認したが、彼女はまるで煙にでも巻かれたかのように、忽然と姿を消していた。パニックに陥りそうになる心を必死で抑え、素羽は警察に通報した。病院内を狂ったように探し回っていたその時、ふいにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。見覚えのない番号だったが、なぜか彼女は、この電話が祖母の失踪に深く関わっていると直感した。「もしもし」応答すると、直後、ボイスチェンジャーを通したような、感情の欠落した不気味な声が聞こえてきた。「祖母に会いたければ、ここへ来い」相手は、とある住所を告げた。「……誰なの?」性別さえ判別できない無機質な電子音が再び響く。「通報すれば、二度と祖母の顔は拝めないと思え。猶予は一時間だ。現れなければ、あの老いぼれに明日の朝日は拝ませない」言い捨てるなり、電話は一方的に切れた。「もしもし!ちょっと、待って……!」素羽は拳を固く握りしめた。直後、メッセージの着信音が鳴り、一枚の写真が送られてきた。そこには、意識を失ってぐったりと横たわる芳枝の姿があった。素羽の全身から血の気が引き、身体が小刻みに震え出した。相手が何者なのか、目的は何なのか、皆目見当もつかない。だが、祖母の命を危険にさらすような真似だけはできなかった。素羽は縋るような思いで司野に電話をかけた。彼の広い人脈と力があれば、自分よりも確実に、そして強引にでも事態を解決してくれるはずだ。震える指
「……これでは、彼を侮辱しているも同然ではないかしら?」美宜は素羽を鋭く睨みつけた。「デタラメを言わないで。私とこの男は何の関係もないわ」素羽は戯れるように肩をすくめた。「金銭のやり取りまでしておいて、関係がないなんて?」その瞬間、美宜の瞳に暗雲が垂れ込める。――聞かれたの?一体どこまで?子供のことまで聞かれたのかしら?素羽にとって、自分はただの見物人にすぎない。美宜が野良犬のような男を囲っていようと、本来なら興味などなかった。ただ、滑稽で仕方がなかったのだ。あれほど司野に執着しているように見えた美宜が、所詮はこの程度だったとは。司野が心から可愛がっていたはずの「妹分」も、結局は心と体をきっちり切り分けていたというわけだ。素羽は、胎教に悪いくだらない痴話喧嘩をこれ以上眺める気にもなれず、視線を外してその場を後にした。美宜は、その背中を射抜くように見つめ続けていた。やがて、司野の「劣化版」である男も視線を素羽へと向ける。「……あれが司野の妻か。なるほどな、お前が選ばれなかったわけだ」その一言で、美宜の陰鬱な瞳はさらに深く沈んだ。彼女は、誰かに「素羽に劣っている」と言われることを、何よりも嫌っている。だが男は、まるで意に介さず言葉を重ねた。「俺はタダ働きはしない主義でね。俺の種を貸してやった代償は高くつくぞ。黙ってほしければ、明日までに口止め料を用意しろ。さもなきゃ司野に教えてやる――あいつはただの『寝取られ野郎』だってな」子供が流れてしまったことだけが惜しかった。あの子さえいれば、もっと大きくゆすれたはずだ――もっと早く知っていれば、と男は舌打ちする。「明日、金が確認できなかったら、予告なしに動くからな。せいぜい気をつけることだ」吐き捨てるように言い残し、男は軽薄な足取りで去っていった。美宜は拳を強く握りしめ、その瞳の奥にはどろりとした殺意が渦巻いていた。――司野さんにだけは、絶対に知られてはいけない……あの子が彼の子ではなかったなんて。---素羽が病室へ戻る途中、彼女を探しに来た司野と鉢合わせた。彼の顔には、いくつもの痣が浮かんでいる。どうやら「喧嘩でも顔だけは殴らない」という不文律は通用しなかったらしい。翔太は意図的に、顔ばかりを狙っていたのだろう。その
「ほら、息子よ。誰が来たか見てごらん。伯父さんだよ。さあ、ご挨拶して」翔太はそう言うと、わざと喉を詰まらせたような裏声で続けた。「『伯父さんなんて嫌いだもん。伯父さんなんて大っ嫌い!』」声を元に戻し、満足げに頷く。「さすがは僕の自慢の息子だ。親子揃って好みまでそっくりだな。嫌いなものまでここまで一致するとは」素羽は絶句した。この男の奇行には、いったい何度驚かされれば気が済むのか。奇人――まさに本物の奇人だった。司野の眼差しは陰惨さを極め、今にも翔太を八つ裂きにしかねない殺気を帯びている。それでも翔太は、両手をポケットに突っ込んだまま、不遜な態度を崩さない。「そんなに睨むなよ。親子仲がいいからって嫉妬か?」素羽は火の粉を浴びるのを御免こうむりたかった。「場所を空けましょうか?」口では問いかけつつ、動きに迷いはない。そのまま病室を出ると、気を利かせて外から扉を閉めた。ドアが閉まった直後、室内から激しい物音が響き渡る。素羽は足を止めることなく、その場を離れた。野次馬になるつもりもなければ、どちらが勝とうと知ったことではない。階下の庭に降りると、木陰を見つけて腰を下ろす。ようやく一息ついた――その時だった。背後から聞こえてきた声が、素羽の意識を鋭く引き寄せる。「金をよこせ。さもなきゃ今すぐ司野のところへ行くぞ」司野の名を耳にした瞬間、素羽は反射的に振り返った。そこにいたのは一人の若い男で、誰かに向かって話している。その横顔にはどこか見覚えがあった。だが、見知った顔というよりも、貼り付いたような強欲な表情の方が強く印象に残る。対峙している相手は一本の木に隠れて見えない。だが次の瞬間、その正体は声で知れた。木陰から、美宜の冷ややかな声が響く。「行けるものなら行ってみなさい」男がさらに脅しを重ねた。「払わないなら、あんたが司野に隠れて何をしてたか、全部ぶちまけてやる。どっちが損するか、見ものだな」「よくもそんなことを!」男は美宜を、都合のいい金づるか何かのようにしか見ていなかった。――まさか、自分が抱いた女がこれほどの金づるだったとはな。天が俺に金を運んできたってわけだ。その時、横向きの姿勢が窮屈で、素羽が体勢を変えようとした拍子に、足元の枯れ枝を踏んでしま
そちらに手があるというのなら、こちらにも打つ手はある。素羽の通報によって警察署へと連行された司野だったが、彼はすぐさま報復に出た。警察を素羽の許へと向かわせたのだ。ドアスコープを覗き込んだ素羽の目に、管理人の背後に続く二人の制服警官の姿が映った。てっきり、連行された司野の処遇について報告に来たのだと素羽は思った。だが、まさか自分が逮捕される側になろうとは。窃盗容疑――それが、彼女に突きつけられた罪状だった。あの司野が、家宝のアクセサリーを盗んだなどという偽りの罪で自分を警察に突き出すとは、素羽には想像もつかないことだった。司野は自らの身分を明かすことで、その訴えに重みを持た
結婚生活が破綻しているなどという現実を、素羽は受け入れられなかった。ましてや夫を他の女と分かち合うなど、断じて許せるはずもなかった。ぴたりと足を止め、司野はゆっくりと振り返った。「美宜とは、清い付き合いだ。やましいことなど何もない。それに、素羽と離婚するつもりはない」私に弁解されても困る。説明すべきは奥様だろうに……森山は心の中で毒づいた。その奥様が、あなたとの離婚を望んでおられるのだ。遠ざかる司野の背を見送りながらも、森山は心のどこかで、旦那様が奥様を宥め、連れ戻してくれることを願わずにはいられなかった。司野が素羽を深く愛し、思いやっていることは分かっている。それ
素羽は人垣を押し分け、その先に、路地の入り口に立つ一人の少年を見つけた。司野だった。逆光の中に佇む彼は、まるで一筋の光となって、彼女の真っ暗な世界を切り裂き、周囲に渦巻く邪悪を払いのけるかのようだった。陽だまりの匂いを残した上着が、そっと素羽の肩にかけられる。それは素羽に守られているという威厳を与え、同時に、胸の奥まで染み渡る温もりをもたらした。若き日の司野は、素羽に向かって静かに手を差し出した。その顔には、疑いのない柔らかな笑みが浮かんでいる。素羽はその清潔な手を見つめながら、自分の乱れた服の裾をそっと握りしめた。胸いっぱいに広がるのは、臆病さと劣等感だった。言葉なき
あの時の素羽は、たとえ司野が死んだとしても、一生彼のために貞節を守るだろうとさえ思っていた。けれど今は違う。司野は生きている。彼にとって唯一無二の存在になれないのなら、身を引くまでだ。それのどこに問題があるというのだろう。素羽「……だって、もう好きでいたくないから」その言葉が落ちた瞬間、病室はまた静まり返った。まるで長いあいだ封じられていた秘密が、いま陽の下にさらされたかのように、二人は息を潜めた。「お前……俺のことが好きなのか?」司野の顔に、驚愕の色が露わになる。素羽はその変化を見届け、胸の内で静かに苦笑した。司野の周りにいる人間は皆、素羽が彼を好きだと知







