Share

第7話

Author: 雨の若君
自分が黙っていたことが、司野にとっては「暗黙の了承」と映ったらしい。

ここ数日、素羽は美宜のことで司野と揉めてばかりいた。今夜も、美宜を火の中に突き落とすような言葉を吐いた素羽に、司野は強い不満を覚えていた。

美宜は泣きじゃくり、司野の胸にすがりついて今にも倒れそうだった。その姿はまるで、この世で一番の悲劇を背負ったかのようだ。

「司野さん、もう家に帰りたい……」

司野は冷たい目で素羽を一瞥しただけで、何も言わずに美宜を車に乗せて先に帰ってしまった。

その一瞥だけで、素羽の胸は締めつけられるように苦しくなった。

離れゆく高級車を見つめていると、広報部の同僚が慌てて駆け寄ってきた。

「素羽さん、社長が社長夫人のことでもう私たち全員クビにしたりしないよね?」

「社長夫人」――その言葉がまた胸に突き刺さる。

この期に及んで、司野は美宜のことをただの妹だと言う。だが、どんな妹が妻よりも大事にされるものだろうか。

「さあ、どうでしょう」と、素羽は淡々と答えた。

いずれにせよ、自分はもうすぐ退職する身だ。クビになろうがなるまいが、もはやどうでもよかった。

レストランの前で同僚たちと別れ、素羽は車で景苑別荘へ帰った。

玄関をくぐると、家政婦の森山と梅田が迎えてくれた。

酒の匂いを嗅ぎつけた森山はすぐに酔い覚ましのお茶を淹れに行き、梅田は呆れ顔で言った。「奥様、どうしてそんなにお酒を飲んだんです?ご存知でしょう、妊活中はお酒は厳禁なんですよ?

そんなに自分を粗末にして、いつになったらに大奥様はお孫さんを抱けるんです?本家の跡継ぎはどうなるんですか?」

梅田のこの態度も、もう慣れっこだ。彼女は琴子の言葉を盾にしているのだから、誰も逆らえない。

素羽は頭痛に耐えながら、余計な言い争いを避けようとした。「もう、これからは飲まない」

そう言って、素羽は階段を上がろうとした。

「奥様、台所に温めてある薬膳スープ、飲んでからお休みくださいね」

もし飲まなかったら、すぐさま琴子に電話されるだろう。

仕方なく一杯飲み干すと、胃が張って苦しくなる。今夜は酒もスープもたっぷりで、お腹はもう水浸しだ。

ようやく解放されて、素羽は階段を上がった。

静まり返った寝室に入ると、美宜と司野が抱き合っていた光景が脳裏に浮かび、胸が締めつけられる。胃が逆流するような感覚に襲われて、トイレに駆け込み、全部吐いてしまった。

洗面台で口をすすぎ、顎の水滴を拭う。鏡に映る自分の目は、生理反応で赤くなっていた。

素羽は本当に美人だ。ぱっと見ただけで誰もが息を呑むような美しさだ。顔立ちだけなら、美宜よりずっと上。ただ、普段の冷ややかな印象と違い、今は涙に濡れた白い頬がかえって哀れを誘う。

でも、そんな美しさに何の意味がある?

愛される人間の弱さは武器になるけれど、嫌われる人間の弱さは、ただ疎ましさを増すだけ。自分は司野にとって、まさにその後者だ。

シャワーを浴びて、ベッドに潜り込む。

素羽はいつものように体を丸め、布団にくるまった。その姿勢が一番心地よかった。

深夜、司野が帰宅した。家政婦たちの出迎えも無視して、まっすぐ階段を上がる。

カーテンの開いた寝室には、月明かりが差し込んでいた。司野は一目で素羽が眠っている姿を見つけた。

小さな顔の半分は布団に埋もれ、体のラインが薄い布団越しに透けて見える。部屋にはほのかな甘い香り――素羽の匂いが漂っている。

細い腰に視線が止まり、司野の瞳が暗くなった。指先には未だにあの感触が残っている。

この体がどれだけ魅力的か、司野はよく知っている。無意識に手が布団の上に落ちた。

ようやく眠りについた素羽だったが、突然悪夢に襲われた。獣に追われ、鋭い牙が自分を喰い殺そうとする。必死で逃げても、足がもつれて奈落に落ちる瞬間、飛び起きた。

目を開けると、ベッドの傍らに司野が立っていた。咄嗟に飛び起きて、彼にしがみつく。

「あなた、怖い夢を見たの……」

夢の中の獰猛な獣があまりにもリアルで、素羽は本当に恐ろしかった。

司野は一瞬、体を固くしたが、二秒ほどしてから宙に浮いていた手で、素羽の震える背中をそっと叩いてくれた。

時間がたつにつれ、素羽もようやく現実に戻る。自分が本物の司野にしがみついていることに気づき、体がこわばった。

ベッドの中で抱き合うこと以外、二人がこうして触れ合うことはほとんどない。司野が嫌がるからだ。

素羽はそっと身を離し、距離をとった。思わず口をついて出た。「どうして帰ってきたの?」

美宜があれほど傷ついていたのだから、司野はきっと一晩中あちらにいると思っていた。

距離は離れても、布団に残る素羽の柔らかな香りは消えない。しかし、彼女の言葉で司野は自分が帰ってきた理由を思い出した。

「よくそんなに平然と眠れるな」

なぜ眠ってはいけないの?

「お前、知らないのか。美宜は以前、こういうことでひどい目に遭ってるんだ。お前のせいで今夜また発作が起きて、かなり参ってる」

せっかく暖かい腕に包まれた感覚も、司野の冷たい言葉で一気に消えた。

その顔に浮かぶ心配は、どこか他人行儀で、素羽の胸に鋭い痛みが走る。

「それが、あなたの帰ってきた理由?」

司野は眉間に皺を寄せた。「言っただろう、美宜はただの妹のようだ。お前に何の害もないのに、なぜそこまで敵視する?」

素羽は、怒りで生き生きとした司野の表情をじっと見つめた。死人みたいな顔以外にも、感情があるのだと今更知る。

また「妹」だ。

素羽はもう、この「妹」という言葉が嫌でたまらなかった。

「私が何を敵視したの?」と、静かに問い返す。「プロジェクトはあなたが彼女にあげたもの。私の仕事も彼女の指示。前にあなた、職場は遊び場じゃないって言ったよね?彼女が嫌なら、自分で解決すればいいじゃない」

「美宜がお前を呼んだのは、お前の能力を買ってるからだ」

それなら、美宜に感謝しないといけないわね。

司野は続ける。「会社が何年もお前を育ててやったのに、今更こんな簡単な危機も乗り越えられないのか?」

一方的な非難を聞きながら、素羽は鼻の奥がつんと痛んだ。

分かってるの?自分は彼の妻よ?

他の女のために、妻である自分を責める夫。それって、夫としてどうなの?

夜の闇に助けられ、素羽は涙を隠した。喉がつまるのをこらえて言う。「そんなに外で彼女が傷つくのが怖いなら、金の鳥籠でも作って閉じ込めればいいじゃない。そしたら、誰も彼女に手出しできないでしょ」

露骨な皮肉に、司野はすぐさま怒鳴った。「素羽!」

「私の提案、悪くないでしょ?」

それが彼の望みじゃないの?大事な宝物を守りたいなら、そうすればいい。

司野の目が険しくなる。「お前がこんなに陰湿だったとはな、前は気づかなかった」

素羽は力なく笑った。自分も、この人がこんなに最低だとは思わなかった。

「もういい?用がないなら、寝るから」

そう言って、返事も待たずに布団を引き寄せて背を向けた。

司野はまだ何か言おうとしたが、スマホが鳴った。画面を一瞥し、電話を取りながらクローゼットに着替えを取りに行った。

美宜は今夜のことで情緒不安定になり、病院に運ばれていた。司野も着替えを取りに来ただけだった。

目を閉じると、他の感覚が研ぎ澄まされる。司野が電話越しに、誰かを優しく慰める声が聞こえた。言うまでもない、相手は美宜だろう。

もう離婚を決意していたけれど、夫が自分の目の前で他の女に優しい言葉をかけているのを見ると、素羽の胸はどうしようもなく苦くなった。

この五年間の結婚生活は、結局はただの笑い話だったのだ。そう思わずにはいられなかった。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第20話

    楓華も気づいた。二人がイチャついているのを見て、酒も入った勢いで、思わず手が出そうになる。素羽は彼女の腕をそっと押さえた。「やめて」彼女は、どうしても自分のプライドを守りたかったのだ。その潤んだ瞳を見て、楓華は心の中で舌打ちした。素羽は杯を一気に飲み干し、「もう、行こう」と静かに言った。彼女はこの場を離れようとしたが、どうしてもそうさせたくない者がいた。「あら、素羽さん、ここにいたんですね?」後ろから美宜の驚いた声が響き、瞬時に周囲の視線が集まる。もちろん、司野もその一人だ。司野が眉をひそめて尋ねる。「素羽?なんでここに?」素羽が答える前に、利津が茶化すように言った。「もしかして、浮気現場を押さえに来たのか?」本来なら、素羽は司野の妻だ。司野の友人たちも、少なくとも表面上は敬意を払うべきだろう。だが、現実は違った。彼女は、彼らが自分を見下しているのを肌で感じていた。きっと、素羽が司野には不釣り合いだと思っているのだろう。利津の言葉に、司野は眉をひそめた。美宜が慌てて、「谷川さん、素羽さんはそんな人じゃないです。そんなこと言わないでください」と庇う。だが利津は嘲りを隠さず、「そうは言っても、これが初めてじゃないだろ」と笑う。彼らの中で、素羽はすっかり「常習犯」扱いだった。半年前、急に寒くなった夜、司野が薄着でいるのを気にした素羽は、わざわざ彼に上着を届けに行った。だがその優しさも、彼らの目には「言い訳」にしか映らなかった。あんな身分の人たちが、寒いからって自分を寒さにさらすなんてあり得る?どれだけ説明しても、彼らにとっては言い逃れに過ぎないのだった。素羽は静かに言った。「私が先に来てたの」その言葉に、司野はようやく素羽のグラスの酒が半分になっているのに気づいた。素羽はパーティードレスのままだ。普段より艶やかで、酔いのせいか頬もほんのり赤い。周囲の男たちの視線も気になるくらいだ。司野は険しい顔で言った。「ここは、お前が来るような場所じゃない」彼女の存在が、彼らの楽しい時間を邪魔した、そう言いたいのだろうか。楓華は我慢できずに言った。「普通にお金払って飲んでるだけよ。何がいけないの?」美宜も続く。「誤解しないで、司野さんは素羽さんのこと心配してるだけです。ナイトクラ

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第19話

    素羽が姿を現しても、祐佳はまったく動じなかった。しかし、美宜の登場にはさすがに少し表情を引き締める。外で他人の目がある以上、体面は保たねばならない。美宜は言う。「素羽さんの妹さんでしょう?なんで司野さんに抱きついてるの?」祐佳は平然と答えた。「さっき足を滑らせて、立ち上がれなかっただけよ」美宜はあどけない顔で、とても無邪気そうに、でも相手に恥をかかせる言葉を口にした。「そうなんだ。てっきり、お姉さんの旦那さんに気があるのかと思っちゃった」「素羽さん、ごめんなさいね、妹さんを誤解しちゃって。だって、素羽さんみたいな人の妹が、そんな裏切りするはずないものですね」美宜は一見申し訳なさそうに謝っているが、その言葉の裏にはしっかりとした皮肉と軽蔑がにじんでいた。素羽は、その瞬間連座制ってこういう気持ちなんだ、と痛感した。悪いことをしたのは自分じゃないのに、恥をかくときは自分も一緒だ。結局、祐佳は司野を誘惑するのに失敗し、その場からそそくさと消えていった。司野はまだ付き合いがあるらしく、美宜と連れだって再び会場へと戻っていく。「素羽さん、私と司野さんはこれからちょっと用事があるので、また今度お話しましょう」最初から最後まで、司野は素羽に一言も声をかけなかった。素羽は、二人の背中をただじっと見送るしかなかった。離婚の決意はすでに固めていた。それなのに、こんな光景を見せつけられると、やっぱり胸が痛む。冷たい風が吹き抜け、素羽は肩にかけたショールをぎゅっと引き寄せた。このあたりはみんな自家用車で来ているらしく、タクシーを拾うのも難しい。そこで、素羽は楓華に連絡した。楓華が到着するまで、冷たい風が骨まで染みて、素羽はすっかり体が固まってしまった。車に乗り込むなり、素羽はぶるっと震える。楓華が離婚のことを尋ねると、素羽は正直に答えた。「彼、ケチの極みだよね。まるで小銭一枚も出したくないって感じ」楓華は言う。「そんなに高い慰謝料をふっかけてくるなら、離婚なんてやめな。思いっきり使えばいい」大なり小なりいろんな離婚劇を見てきた楓華は、素羽よりずっと冷静だった。恋愛よりも、お金の方が現実的だとよく知っている。「もう損してるんだから、これ以上被害を広げないで。早めに見切りをつけなきゃ」素羽の実家のことも、

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第18話

    司野が皮肉を言うまでもなく、素羽自身だって自分を嫌悪したくなる。さっきまで「離婚する」と大見得を切っておきながら、また彼にすがろうとするなんて、なんて情けない女なんだろう。「これは私には関係ない」と言ったところで、司野が信じるはずもない。だって、これまで何度も同じことを繰り返してきたのだから。司野は松信の嘘を、容赦なく暴いた。「騙されてるよ。俺は了承なんてしていない」その言葉が落ちた瞬間、素羽も松信も、顔を引き攣らせた。素羽は居たたまれず、松信は一瞬凍りつく。松信にとって、今回ばかりは司野がこんなに冷酷になるとは思っていなかったのだろう。素羽はその時、美宜の、こちらを嘲笑うような目を見逃さなかった。手が震える。司野は、もう自分に一片の情すら残していないのか?松信もさすが老獪ですぐに取り繕った。「何か、誤解があるのかもしれないね」だが司野は冷たく切り捨てる。「誤解なんてない。この案件は、江原家には渡さない」松信は思わず問う。「なぜだ?」司野は素羽をじっと見つめ、深く言い放つ。「それは、お娘さんに聞くといい」そう言って司野は、美宜を連れて、その場を離れた。人が去ると、松信の顔からへつらいが消え、すぐに陰鬱な表情に変わった。「今の発言、どういう意味なんだ?」素羽は悟った。司野は「離婚したいなら、今まで巻き上げたものも全部返してくれ」と言いたいのだろう。何年も共に過ごしたというのに、彼の冷たさは骨身に染みる。もちろん、離婚の話など口には出さない。美宜がいると知った以上、全部彼女のせいにしておけばいい。「きっと、私が彼の好きな女を怒らせたのでしょう」松信は怒鳴る。「役立たずめ!なぜ彼を怒らせるんだ?男ってのは、持ち上げてやらなきゃ駄目だろうが。愛人ぐらいで騒ぐな。江原家のためになるなら、彼の好きな女も一緒に世話してやればいいだろうが!」素羽の心は冷たく、痛んだ。親が娘に「夫の浮気は我慢しろ」と言うだけでなく、愛人の世話までしろとは……こんな人でなしの真似、他に誰ができるだろう。思わず聞きたくなった。もし祐佳が同じことされたら、どうするつもり?でも、聞くだけ無駄だと、口にしなかった。松信は言う。「どうやったっていい。とにかくこの案件、江原家が食い込めなきゃ話にならん」素羽は静かに

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第17話

    闇の中で生きる者は、いつだって光を渇望している。たとえ一瞬でも、その光が差し込むことを。光の方を向いて立つ司野の姿を見つめながら、素羽もかつては同じ気持ちだったことを思い出す。司野が冷ややかに言う。「へえ……お前に英雄気取りの夢があったなんてな」その皮肉に、素羽は静かに応じる。「それは、あなたが私のことを知らないだけ」そう言い残し、素羽は先にその場を後にした。食事会が終わり、それぞれが車で屋敷を後にする。そのあと、司野はすぐに出張へ赴いた。その間、素羽も引き継ぎ作業を進めていた。特に問題がなければ、月末には会社を辞められるはずだった。だが、松信からは返事を急かす電話が入る。「おい素羽、どういうつもりだ。頼んだこと、まだ済んでないじゃないか」素羽は適当に理由をつける。「司野は最近仕事が忙しくて……なかなか話すタイミングがありません」松信は言う。「だったら、今夜一緒にビジネスの晩餐会に来なさい」素羽にはなぜ自分が呼ばれたのか分からないが、松信の口調が命令であることは理解していた。夜が訪れ、ネオンがきらめく。素羽は指定された場所に足を運んだ。会場で、祐佳の姿も見つける。松信が声を低くして警告する。「お前を司野の嫁にやったのは、江原家のためだ。気まぐれを許すつもりはない。須藤家の嫁の座にふさわしくないなら、祐佳に代わらせるぞ」その言葉に、素羽は信じられない思いで二人を見つめた。彼が、こんなことを平然と言うなんて。もともと善人ではないと思っていたが、ここまでとは思わなかった。松信は続ける。「須藤家との縁談は、絶対に切らせない。お前が司野を繋ぎとめられず、他の女に奪われるくらいなら、最初から祐佳に譲った方がマシだ」祐佳は背筋をピンと伸ばし、まるで戦いに赴く武士のような表情をしている。素羽は心の中で呟く。彼らは本当に自分を買いかぶっているみたいだけど、自分にそんな仲介役ができるはずがない。松信が段取りを指示する。「司野は中にいる。祐佳を連れて顔を出せ」なるほど、これが今日呼ばれた理由か。会場にはグラスが行き交い、酒の匂いが漂う。どこにいても、司野は群衆の中で際立っていた。そんな司野の隣には、美しい女性――美宜が腕を組んでいた。二人は色調を合わせた服を身にまとい、まるで理想のカッ

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第16話

    叩いたのは幸雄の次男一家の娘で、叩かれたのもまたその分家の血を引く者だった。だが、一人は正妻の子、一人は愛人との子だった。須藤莉央(すどう りお)は振り返り、来た人物に気づくと、冷たい怒りの表情が一瞬止まり、すぐに嘲るような笑みに変わった。そして、掴まれていた手を振り払う。「触らないでよ!」素羽は地面に倒れている須藤佳奈(すどう かな)に手を差し伸べた。少女の幼さが残る頬には、はっきりと平手打ちの痕が残っている。佳奈は自分の手を頬に当てようとしたが、素羽がそれをそっと握り、そのまま立ち上がらせた。莉央の目には嘲弄が浮かぶ。「買われてきた縁起直しの小娘が、本家長男の嫁の肩書きをもらったぐらいで、まるで自分が須藤家の一員にでもなったつもり?卵も産めない鶏なんて、いずれ叩き出されるのがオチよ」そう言い放つと、今度は佳奈を睨みつける。「このクソガキ、こっちに来なさい!」佳奈はうつむき、思わず素羽の背中に隠れる。素羽は前に立ちはだかり、侮辱の言葉など全く気にする様子もない。こんな罵倒、今さら珍しくもない。「私の身の上なんて、あなたに評価される筋合いはないわ。それよりも……あなたを見ていると、無能な人間がどれだけ苛立つものか、よく分かる」莉央は顔を歪め、指を突きつける。「今なんて言った?」素羽はその怒りをまるで意に介さず、淡々と切り返す。「おじいさんは家族円満を何より大事にしているもの。もしもあなたが退屈なら、代わりに報告して差し上げてもいいわよ?」莉央は目を見開いて叫んだ。「恥ずかしくないの?いい歳して告げ口なんて!」告げ口に年齢なんて関係ない。効果があればそれでいい。親世代ですら幸雄の前で揉め事を起こさないのに、莉央がそんなことをするはずもない。「おじいさんを持ち出せば勝てると思ってるんでしょ?覚えてなさい!」そう吐き捨て、鋭い視線を残して去っていった。「お義姉さん……」佳奈がおずおずと声をかける。素羽は優しい声で尋ねる。「またテストで一番取ったの?」佳奈はコクリとうなずいた。素羽は微笑みながら褒める。「偉いわ、よく頑張ったね」子どもらしい誇らしさが表情に浮かび上がる。褒められて嬉しくない子なんていない。素羽は続ける。「莉央の言うことなんて気にしないで。佳奈はしっかり勉強して、自分を

  • 流産の日、夫は愛人の元へ   第15話

    須藤家の月一回の食事会は、当主である幸雄の強い要望で、決まって行われている。親族が一堂に会せば、当然ながら賑やかになる。司野は本家の長男であり、その妻である素羽は、自然と食事会の準備や進行に気を配る役目を担うことになる。そして、子どもの話題がどうしても素羽の肩にのしかかるのだった。司野の祖母――須藤七恵(すどう ななえ)は優しく彼女の手を取って訊ねてくる。「最近、なにか変化はあったかい?」須藤家の中で、素羽に本当に優しく接してくれる数少ない年長者が、この七恵だった。素羽は静かに首を振る。「おばあさん、特に何も……」この先も、きっと何も起きないだろう、と心の中で呟いた。七恵は彼女の手をぽんぽんと優しく叩く。「大丈夫さ、焦ることはないよ。子どもなんてものは縁なんだから」「お義母さん、私が思うに、素羽と司野は運命的に相性が悪いんじゃないですか?もう五年ですよ、普通なら鶏だって卵を何度も孵してる頃。なのに、素羽は全く兆しもないなんて」そう言い放ったのは、幸雄の三男の嫁にあたる須藤絹谷(すどう きぬや)という女。七恵は眉をひそめてたしなめる。「くだらないことを言うんじゃない」年配者というのは、実のところ若者以上にこうしたことに敏感で迷信深いものだ。家の跡継ぎを望む気持ちは、ことに強い。当初、司野が父親の康平とともに大事故に遭ったとき、七恵は本当に泣き暮らした。だからこそ、素羽を縁起直しの嫁として迎え入れることになった。この話を最初に言い出したのも、七恵だった。けれど、絹谷は自分の夫が七恵に気に入られているのをいいことに、さらに言葉を重ねた。「ねえお義姉さん。今や本家は司野だけが跡取りですよ。もし子どもができなかったら、この家の血筋もそこで途切れるじゃありませんか」もはや「子孫断絶」と言いかけるような勢いだ。琴子は顔色を曇らせながらも、家長らしく毅然とした態度で言い返す。「うちのことを気にするよりも、自分の息子の心配をした方がいいんじゃない?聞いてたよ、潤一(じゅんいち)、また賭け事に手を出したんでしょう?司野が同じくらいの年の時は、もう父親の代わりに商談に出ていたものよ。うちは代々、正道を歩んできた家なのよ。母親のあなたが、どうしてあの子をそんな道に進ませるの」「な、何よ……」両者ともに、相手の痛

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status