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深き夢、儚き花
深き夢、儚き花
Author: チョウドイイ

第1話

Author: チョウドイイ
「栗原さん、今回のプロジェクトのテスターになるということでよろしいでしょうか?

念のため申し上げておきますが、このプロジェクトへの参加がもたらす結果はただ一つです。

つまり、あなたはいずれかの時空へ転送され、この世界から姿を消すことになります。

会社の上層部としましては、やはり慎重にお考えいただきたいと……」

担当者の話が終わる前に、私は静かに口を挟んだ。「考える必要はありません。消えることこそが、私の一番望んでいる結果です」

電話の向こうは明らかに驚いた気配を見せたが、それでもプロとして淡々と告げた。

「もう一点、ご説明しなければならないことがあります。

あなたが消えた後、この世界であなたを愛している人と憎んでいる人を除き、それ以外の人々はあなたのことを記憶しなくなります。

それでもよろしいでしょうか?」

この世界に、まだ私を愛してくれる人なんているのだろうか。憎む人なら……まあ、いるかもしれない。

私は乾いた笑みを浮かべた。「構いません」

「承知いたしました、栗原さん。プロジェクトは十日後に正式に始動いたします。当日はお待ちしております」

電話が切れた直後、先方から生命免責同意書の電子版が送られてきた。転送中に不慮の事故で死んだとしても、会社は一切責任を負わない。家族も追及できない。すべては双方の合意のもと、そう記されている。

一瞬ためらいがよぎったが、私は迷わず自分の名前を書き込んだ。

プロジェクトが始動すれば、私は横山雅紀(よこやま まさのり)親子と二度と会わずに済む。それこそが、私の切実な願いだった。

物思いに沈みながらベランダから寝室へ戻ると、雅紀に腰を抱き寄せられ、そのままベッドへ押し倒された。彼の瞳には濃い情欲が宿っており、これから何が始まるのか言うまでもない。

胸の奥に吐き気が込み上げる。「疲れたから、早く寝たい」

結婚して十年、私は一度として雅紀を拒んだことがなかった。だが今回は、彼の驚いたような表情を背に、そっぽを向いて横になった。

「本当に怒ってる?悪かったよ。ちょっとした仕事くらいで、稔ちゃんとの映画を断るべきじゃなかった。

お詫びにさ、明日、君の好きなブランドの新作バッグを届けさせるから。許してくれるだろ?」

その声はどこまでも優しく、機嫌を取るようだった。私は気のない「ええ」とだけ返した。

「稔ちゃんは、本当に機嫌が直るのが早いな」

雅紀は優しい眼差しで私の腰を抱き寄せ、首筋に顔を埋めて眠りについた。

彼は知らない。女がすぐに機嫌を直すのは、男への愛情がまだ残っているからだということを。だが今の雅紀は、私をなだめる範囲をとうに逸脱し、侵してはならない一線を越えてしまっていた。

三日前の深夜。寝ぼけて目を覚ました私は、自分が苦労して産んだ息子・横山七生(よこやま ななお)が、とある女性の写真を抱き締め、恋い慕うような眼差しでその人を「ママ」と呼ぶ姿を目にした。

その女性は、私ではない。

そして、夫は満ち足りた顔で言った。「七生くんも大きくなったな。ナナちゃんの良さが分かるようになったか」

「パパからナナさんの話を聞くたびに、すごく幸せな気持ちになるんだ。あの女と違ってさ。勉強しろってうるさく言うだけで、ほんとウザい!」

全身の血が凍りつき、胸が締め付けられるように痛んだ。

この耳で直接聞かなければ、素直で優しい息子が、裏では私を心底嫌っているなんて信じられなかっただろう。

夫が分厚いドイツ語の本を開き、息子がその中に写真をそっと挟み込むのを見て、私は理解した。なぜその本がいつも本棚の一番高いところに置かれていたのか。なぜ二人が何度も「ドイツ語は嫌いだ」と言っていたのか。

二人が嫌うものには、私は触れようともしない――そのことを、彼らは知っていたからだ。

私の愛情を利用して私を傷つける。それが、最も親しいはずの者たちからの罰なのだろうか。涙は途切れることなく頬を伝ったが、私は問い詰める言葉すら発せなかった。

夫と息子が熟睡した後、私はようやく勇気を奮い、あの写真を本から取り出してまじまじと見つめた。

見慣れているはずの顔に、私の瞳孔は思わず大きく開いた。

結婚式の日、夫の友人が放ったひと言が、まるで耳元で反響するかのようによみがえった。

「生きている憧れの相手より、死んで『生ける伝説』になった者のほうが、よほど手強い」

なるほど。あれは私に向けられた言葉だったのだ。そして今日、その意味が痛いほど証明された。なぜなら、写真に写っていた女性こそ、夫が手の届かないまま憧れ続け、今は亡き水野七海(みずの ななみ)その人だったのだから。

私は口元にかすかな苦笑を浮かべた。もはや分からないことなどひとつもない。

ナナ――それは七海の愛称ではなかったか。

この名前は、いつの間にか私の生活の隅々にまで浸透していた。息子の名は七生、夫のパソコンのパスワードは「nana」。そして私たちの結婚指輪には、あの「ナナ」という二文字が刻まれている。

私はずっと、夫が息子を――私たちの愛の結晶を――深く愛しているからだと信じていた。何度も、幸せだと思った。しかしそのすべては、憧れの女性を記念するためだったとは。私が抱いていた幸福感は、ただの思い込みに過ぎなかったのだ。

雅紀と顔を合わせる前から、彼に憧れの女性がいたことは知っていた。

自分でも分かっていた。本来なら、そんな男には関わるべきではなかった。

七海が交通事故で亡くなるまでは。

私は大きな契約を成立させて部門マネージャーに昇進し、社長の随行として数々のビジネス提携の場に出向いていた。提携先の一つに横山家があり、往来が重なるうちに、私は若き当主・雅紀と親しくなった。

雅紀が本格的に私へアプローチを始めたのは、その一年後のことだった。宝飾品だけでなく、ビジネス契約までも私への贈り物にし、私が担当する案件には書類をろくに確認もせず、即座にサインした。

彼に諦めさせようと、私はわざと厳しい条件ばかり提示したが、雅紀はすべて受け入れた。本来なら大きな利益を生むはずのプロジェクトは軒並み赤字となり、ついには彼の両親から「家を出ろ」と言われる始末だった。

雅紀が追い込まれていることを知りながら、私は知らぬふりをした。それでも彼は変わらなかった。いつも優しい言葉をかけ、決して声を荒らげることなく、ビジネスの場で私がたとえ無茶をしても許容してくれた。そのおかげで私は、数ヶ月でマネージャーから会社の副社長へと駆け上がり、地位はうなぎ登りだった。

私が彼に警戒していると気づくと、雅紀は公のインタビューで「稔以外とは結婚しない」と言い放ち、瞬く間に多くのネットユーザーが私たちを応援し始めた。もはや曖昧な態度は取れず、私はついに雅紀を断った。彼は必死に理由を求めてきた。

「あなたの昔の恋愛は、あまりにも劇的だったから。未来の夫の心に、いつまでも憧れの女性が居座り続けるなんて、私には耐えられないの」

「過去の事実は否定できない。でも、稔ちゃんが僕の生涯唯一の最愛の人になることは、保証できる」

「じゃあ……本当に彼女を忘れられるの?」

「ああ。稔ちゃんのためなら、何だってできる」

この誠実で熱のこもった誓いを、彼は何度口にしただろう。

私の心が本当に揺れ動いたのは、ある事故がきっかけだった。
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