LOGIN安浩は、沙夜の献身的な看病のおかげで著しく回復し、こめかみの傷も瘡蓋ができていた。打撲による痛みもずいぶん和らぎ、病室内をゆっくり歩き回れるようになった。それでも、沙夜は変わらず安浩の傍を離れようとはせず、彼の傷口が痛まないかと、付き添いながら気を揉んでいた。真衣は隣の仮設オフィスで、本社と現地の協力機関との連携業務を引き続き行っていた。彼女は、安浩が持ち帰ったデータを整理し、航空材料や研究開発に関するその後の課題を着実に進めていた。真衣は、毎日礼央にメッセージを送り、無事を伝えていた。礼央もまた返信し、国境での異変には触れず、ただ彼女に安心して仕事に専念し、帰りを待っていることを伝えた。そんな中、慌ただしい足音が、オフィス内の静寂を破った。警備員が足早に近づき、真衣に伝えた。「寺原さん、国内からの増援部隊が空港に到着し、こちらに向かっています。同行者が本部からの最新の指令を持参しているので、至急ご対応下さい」その言葉を聞いて、真衣は安堵し、すぐに立ち上がって机の上の書類を整理した。増援要員が到着したことで、今後の業務にさらなる人手が確保されることになる。安浩が療養中の任務の負担も大幅に軽減されるだろう。さらに、増援部隊がもたらす警備や医療のリソースによって、この不安定な地域における彼らの安全性が大幅に向上する。一時間も経たない内に、三台の車が医療拠点の前に停車した。私服姿で精悍な面持ちの同行者が次々と車から降りてきた。先頭には、本部で長年海外研究の調整を担当している古くからの同僚、兵頭哲也(ひょうどう てつや)が厳しい表情を浮かべて立っていた。「真衣、久しぶりだな」哲也はすぐに本題に入った。「道中の情勢が複雑で、急いで駆けつけたんだ。本部から最新の指令が下りたが、状況は想像以上に深刻だ」一行は迅速にオフィスに入り、ドアと窓を施錠し、セキュリティシステムを作動させた後、哲也がようやく端末と指令文書を取り出した。彼はそれらを真衣の前に差し出した。「本部が複数の情報源から確認したところ、我々が今回調査している新型航空材料は、現地武装勢力だけでなく、海外の複数の勢力からも狙われているらしく、奴らは主要データやサンプル技術を窃取しようとしているようだ。安浩さんが前線で採集したデータは、プロジェクトの核心
調査をすると、海外で使われる特殊な燃料の空容器が見つかり、それはエリアスが以前から常用していたのと同じ物だった。また、長年廃墟となっていた古い家屋で、人の出入りが発覚した。家屋の中から指紋は検出されなかったが、比較的新しいタバコの吸い殻が見つかった。それ以外の痕跡は全く残されておらず、熟練者の手によるものであることが伺えた。その後、山林で夜間に移動する人影を発見したという情報が入ったが、その人物は身軽で、専門的な装備を身に付けており、こちらに気付くとすぐに迂回して撤退したという。一つ、二つ、三つ……気を抜けば見落としてしまうような、わずかな痕跡が、少しずつ水面に浮かび上がってきた。痕跡は、単独で見る限り、何かを断定するには不十分なものばかりだ。だが、ひとたび礼央の手元に集められれば、それらの手がかりは同じ結論を指し示している。エリアスと宗一郎は、出国していない。彼らは、より大きな網を仕掛けるため、国内に潜伏している。さらに礼央が懸念したのは。二人に動きがみられないのは、彼らがこちらを恐れているからではなく、ただ、機会を狙っているためであることだ。二人は、礼央が油断し、注意が逸れるのを待っているのだ。そして、彼の弱点は真衣しかいない。礼央は即座に想いを巡らせた。二人は真衣が国外の情勢の不安定な場所に派遣されたことに気付いているかもしれない。真衣に何かあれば、彼は一切を顧みず駆けつける。そうなれば、国境の防衛線に穴が開く。そう考えると、背筋が凍り付いた。その夜、キャンプの明かりは、夜通し消えることがなかった。礼央は徹夜をして、すべての通信回線を暗号化し、千咲のいる隠れ家の警護レベルを引き上げ、出国経路を監視する人員を増員した。エリアスと宗一郎に関する情報や手がかりは、厳重に保管しなければならない。特に、これらのことを真衣に知られてはならない。彼女に心配をかけるわけにはいかない。真衣は今、情勢の不安定な異国で任務に当たっており、傍には負傷した安浩もいる。もし、エリアスと宗一郎に狙われていることを知れば、彼女はきっと任務に集中できなくなってしまうだろう。そして、彼女が不安でいると思うと、彼の集中力もまた散漫してしまう。だからこそ、礼央は一人ですべてを背負うことを選んだ。毎
安浩は微笑んだ。「書類より、君を見ている方がいい」-真衣の現在の日々は、まるで見えない手によって、二つに隔たれているようだった。一方は医療拠点と実験室の往復、支援要員との調整、航空材料データの審査、安浩から引き継いだ業務をこなす毎日。もう一方は、国境にいる礼央に結び付いていた。真衣は、彼との約束を守っていた。礼央を心配させないよう、毎日決まった時間に無事を伝える。どれだけ忙しくても、どれだけ困難な事態に遭遇しても。データに異常が見つかり、徹夜をすることになっても、真衣は決まった時間に携帯から、礼央にメッセージを送った。メッセージは決して長くはないが、礼央はきっとそれを見て安心できるだろう。【今日はすべて順調よ。支援チームは到着済みで、業務もうまく引き継げたわ】【先輩の具合も落ち着いてる。少し食事が取れるようになって、元気が出てきたみたい】【この辺りの警備が強化されて、危険な場所へは近づいていないから、安心してね】【今、仕事が終わって、寝る支度をしているところ。あなたも早く休んで】メッセージを送るたび、彼女は彼に、安全に気をつけ、無理をしないよう伝えた。真衣のメッセージははるか遠くにいる礼央の携帯に届いていた。彼にとって、彼女から送られてくるメッセージは何よりの精神安定剤になっていた。彼は変わらず、最前線に留まっており、キャンプ周辺は過酷な状況が続いていた。真衣が去ってからというもの、礼央はほとんどまともに眠れず、夜は一人で見張り台に立ち、彼女が去った方角をじっと見つめていた。礼央は、真衣からの連絡を逃すまいと、携帯は常に最大音量に設定していた。通知音が鳴ると、彼はすぐに携帯を取り出し、彼女の「無事」を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。彼も時間通りに返信し、こちらの深刻な状況を悟られないよう、気軽な文面を心がけた。【知らせてくれてありがとう】【千咲は元気だ。さっきビデオチャットで話したけど、いい子にしていたよ】【こちらも順調だ。心配ない】【身体に気をつけて、ゆっくり休んで】真衣は礼央からのメッセージを見て安心したが、漠然と胸に引っかかるものがあった。前線にいるのに、あまりにも平静すぎる。まるで、何かを隠しているようだ。しかし、彼女が「何かあったの?」と尋ね
「あなたが私を守ってくれるたび、優しく接してくれるたび、私のあなたに対する気持ちは、どんどん大きくなっていった。でも、あなたの心の中には真衣がいて、私たちは仮面夫婦に過ぎないと思っていたから、ずっと本当の気持ちを言えずにいたの。本気になって、傷つくのが怖くて。気持ちを打ち明けることで、パートナーですらいられなくなると思うと、すごく怖かった」沙夜もまた、今までずっと胸に秘めていた思いを、ようやく正直に話すことができた。安浩は胸が痛み、彼女をそっと腕の中に抱き寄せた。「ごめん。こんなに長い間、君を待たせて、不安にさせてしまって。最初からずっと、偽装結婚なんかじゃなかったのに。沙夜、君を愛してる。演技じゃない。心から、君と一緒にいたいと思うよ。これからは、本物の夫婦になろう」-数日後、医療スタッフの手厚い看護のおかげで、安浩は徐々に回復し、当初のような衰弱した様子も見られなくなった。身体が回復した彼は、仕事のことが気になって仕方なかった。真衣が業務を引き次いでくれているとはいえ、ずっとここで寝ているわけにはいかない。ある日の午後、安浩は病室で書類の整理をしている沙夜に言った。「その書類を僕にも見せて。データの照合ぐらいなら、ベッドの上でもできるし、仕事をした方がリハビリにもなる」沙夜はベッドの傍に歩み寄り、眉をひそめて言った。「せっかく良くなってきたのに、もう仕事のことを考えてるの?先生が、しばらく安静にしているようにって仰っていたでしょう?」沙夜は心配そうに言った。彼女は、仕事によるストレスで傷が悪化しないか、書類を見てめまいを起こさないか、何か問題が起きないか、心配でたまらなかった。「ただ書類に目を通すだけだよ」安浩は沙夜の手を取って、甘えるように言った。「お願いだよ。ずっと横になっていると、退屈で仕方ないんだ。ほんの少しだけ。気分が悪くなったらすぐにやめるから、ね?」安浩にせがまれ、沙夜は結局折れてしまった。彼女は仕方なく、ベッドの角度を調整し、書類を手に取ると、オーバーテーブルの上にそっと置いた。「じゃあ少しだけね。具合が悪くなったらすぐに言って。無理しちゃダメよ」「うん、わかった」安浩は笑って承諾し、視線を書類に落として、データを照合し始めた。しかし、しばらくすると、安浩
「傷が痛むのね?先生を呼んで来ようか?」沙夜の眠りは浅く、薄暗い灯りの下、目の下の隈がことさら目立って見えた。安浩は胸が締め付けられる思いで、そっと彼女の手首を握った。「平気だよ。少し身体がだるいだけ。君は気にせず休んで」「眠くないから大丈夫」沙夜は首を振り、安浩の肩を揉んだ。「痛かったら言ってね。すぐに治まるといいんだけど」その夜、二人は眠らず、小さな灯りのともる病室で、とりとめのない話や、今まで口にしなかった心の内を語り合った。二人は初めて出会った時のことを話した。当時の彼らは、単なる同僚であり、互いに距離感と警戒心を持って接していた。その後、二人は互いの目的のために、偽装結婚することに決め、仲睦まじい夫婦を演じながら、実際には適度な距離を保っていた。さらに二人は、今までの出来事や思い出を語り合い、仲の良い夫婦を演じてはいても、互いの心に高い壁が築かれていると感じていることを素直に打ち明け合った。「今までずっと、私たちの関係は、表向きの演技に過ぎないと思ってた」沙夜は続けた。「だから、こんな日が来るなんて思わなかった。あなたの傍にいて、演技したり嘘ついたりせず、ただ純粋にあなたを心配して、世話することができるなんて」安浩は沙夜の瞳を見つめ、心が温まっていくのを感じ、彼女の手を取って真剣な口調で言った。「実は僕も、いつも演技をしていたわけじゃないんだ」沙夜は、驚いて顔を上げた。「ずいぶん前から、君に対する気持ちは変わっていた」安浩は沙夜の瞳を見つめて続けた。「君は僕が真衣を気にかけていると思っていただろうけど、僕の真衣に対する気持ちは――後になって気づいたんだ。僕は彼女に対して恋愛感情を抱いているわけではないって」彼は続けた。「僕の真衣に対する気持ちは、いつしか変わっていたんだ。というより、今まで彼女に恋愛感情を抱いたこと自体なかった。君と暮らすようになって、僕は君に惹かれていった。でも、偽装結婚や任務が邪魔をして、気持ちを打ち明けられなかった。君を驚かせたり、僕たちの関係が壊れると思うと怖くて」安浩は、生死を彷徨った末、ようやく、ずっと胸に温めてきた言葉を、沙夜に伝えることができた。沙夜は彼の言葉を聞いて、目を赤くしながら、ぼんやりと彼を見つめた。今までずっと、彼女は片思いだと思い、とき
「沙夜が付き添っているので、何かあればいつでも呼んで下さい」沙夜も真衣のことばに同調した。「ちゃんと聞こえた?真衣が対応してくれるから、心配しないで。お水を入れるから、飲んだらもう少し眠って。眠ればきっと、身体も楽になるわ」そう言って、沙夜はそっと安浩の口元に湯呑みを運んだ。安浩は二人を見てすっかり安心し、心に残っていた最後の気掛かりもすっかり消え、差し出された水を数口飲んだ。病室は再び静けさを取り戻した。しばらくして、真衣は二人の邪魔にならないように、そっと病室を後にした。ドアの外の廊下は相変わらず静かで、遠くから時折、医療スタッフの足音が聞こえた。室内では、沙夜がベッドの傍で、静かに寄り添っていた。沙夜は、朝から深夜までずっと、ベッドの傍を離れず、安浩を見守り続けた。普段は有能で決断力があり、何事にも冷静な彼女だが、今は必死に安浩の看病に心を傾けていた。病人の世話をするのが初めての沙夜は、不器用ながらも丁寧に一つ一つの動作をこなした。毎朝、スタッフが回診に来る前に、彼女は起床し、温かいタオルを絞って安浩の顔や手の甲を丁寧に拭いた。「これで少しは楽になる?」そのたびに彼女は安浩に尋ねた。水を飲ませる際も、沙夜は細心の注意を払った。水の温度を確かめ、片手でそっと彼の背中を起こし、もう一方の手で湯呑みを持ち、ゆっくりと口元へ運び、彼がむせないように、ゆっくりと少しずつ飲ませてやった。安浩にとって、沙夜との時間は心地よく、次第に胸が温まり、彼は心の中に溜まっていた焦燥感や不快感が消えていくのを感じていた。包帯の交換時間になると、沙夜はスタッフを手伝ってガーゼや軟膏を準備した。治療中、彼女の目は安浩の傷口に釘付けになり、医師に炎症を起こしていないか尋ね、順調に回復していると聞くと、安堵の息をついた。医療スタッフが去った後も、彼女はベッドの傍で、こまめに彼の様子を確認した。全身に複数の打撲傷を負っていた安浩は、長時間同じ姿勢を保つと身体が痛むため、定期的に体位を変える必要があった。身体の小さな沙夜にとって、安浩の体位を変えることは容易なことではなかったが、彼女は弱音を吐かず、彼が快適に過ごせるように、歯を食いしばって懸命に支えた。「痛かったら我慢しないで言ってね」彼女は繰り返し念を押した
「?」真衣は眉をひそめた。彼女は自分の耳を疑った。「何だって?」礼央は落ち着いた口調で言った。「お前はいつも彼女に冷たい態度を取っている。そのせいで彼女はひどく落ち込んでいる。少しは態度を改めて、謝るべきだ」真衣は思わず息が詰まりそうになった。まるで途方もない冗談を聞かされたようだった。「私を呼び出したのは、こんな話をするため?」彼女は冷ややかに笑った。「あの人が死にかけでもしない限り、私に関わらないでもらえる?」礼央は気にした様子もなく続けた。「それと、お前の娘のしつけもちゃんとしろ」真衣は嘲るように唇を引きつらせた。お前の娘?自分ひとりの娘だとでも?なん
彼は彼女と協力したいとは思っていないようだった。萌寧はこめかみを押さえながら、少し頭痛を感じていた。今の自分の能力と経歴があれば、九空のような企業を一から立ち上げることだってできる。それなのに、安浩が協力を断る理由が見当たらない。彼女が望んでいるのは、安浩という人脈につながることだけだった。「きっと沙夜と真衣が常陸社長に何か吹き込んだんだ。お前の悪口でも言ったんじゃないか?」高史がそう言うと、「いいのよ」萌寧は微笑んだ。「礼央に電話して、この状況を話せばいい。あの人なら、きっと何とかしてくれるから」萌寧は研究に没頭するのは得意でも、対外的なやり取りや連絡には、やはり礼央
礼央は無表情のまま真衣に目を向けたが、その眼差しの奥にはどこか可笑しさを含んでいるようだった。きっと礼央自身も、こんな茶番を続けることに嫌気が差しているのだろう。だが、真衣はそんな礼央の態度など気にも留めなかった。すっと立ち上がり、千咲の手を取って、その場を後にする。事前に手配しておいたタクシーがすでに待っていた。礼央と同じ車で帰るなんて、真衣にとっては屈辱以外の何物でもなかった。「ママ、どうしちゃったの?そんなに怒っていて……」翔太はきょとんとした顔で、去っていく真衣の背中を見つめながら首を傾げた。礼央は何も答えず、淡々と視線を逸らしただけだった。「パパ、放課後に萌寧
「君は間違っている」礼央は言った。「俺と君は、同じ種類の人間ではない」礼央が求めてきたものは、名誉や地位、権力などではなかった。彼が望んだのは、真衣と千咲の無事と、かつて埋もれていた真実、そして高瀬グループが正しい道を歩み続けることだけだった。宗一郎の表情が険しくなった。「つまり、私の申し出を断るということか?」「ああ」礼央はきっぱりと言った。「君と手を組むことはない」宗一郎は礼央の言った言葉の真偽を探るように、彼の顔をじっと見つめた。やがて、彼は口角を吊り上げ、冷笑して言った。「そうか、それはいい選択だ」「さすがは高瀬社長、やはりガッツのある男だ」宗一郎は小銭