ANMELDENスパイの正体がまだ特定できていない中、さらに正体不明の気配を感じる。真衣は直感的に、それがスパイの仲間だと感じていた。そのため彼女は、今まで以上に警戒心を高め、慎重な行動を心がけた。真衣は、まさか礼央が少しの間自分と連絡が取れなくなったことで不安になり、亮太や部下たちに、陰ながら彼女の護衛をさせているとは、思ってもいなかった。彼が密かに、安全な環境を守ってくれていることに、彼女は気付かなかった。増援部隊の到着後、業務は順調に進んでいた。改ざんされたデータの大半が復旧し、スパイに関しては数名の容疑者の名が挙がった。警備が強化され、避難計画は繰り返しシミュレーションされていた。しかし、真衣の心の中にある緊張感は、日増しに強くなっていった。彼女は以前と変わらず、礼央との約束を守り、毎日同じ時間に彼にメッセージを送って安否を知らせた。そして、礼央からもまた、普段通りの返信が届いた――こちらは無事だ、千咲もいい子にしている、と。普段通り、簡潔で無駄のないメッセージだった。真衣は、礼央を疑ったことはなかった。なぜなら、彼女は細かいことを考える余裕がないほど多忙であり、また、彼の言うように、無事でいてほしいと心から願っていたからだ。真衣は礼央をよく理解していた。礼央は自制心が強く、感情を表に出さない。ビジネスの場でも、生死を分けるような局面でも、決して動揺せず冷静な判断を下す。その彼が、声を震わせ、あれほど感情を露にしたのは、単なる「心配」という言葉だけでは説明できない。あの日以来、彼女は注意深くなっていた。日中は業務の統括やデータの照合、警備の手配に追われ、夜は暗号化された回線を使い、国内の信頼できる数人の旧友に連絡を取っていた。旧友の中には、情報機関に所属する者もいれば、関連する協力機関に所属する者もおり、彼女よりもはるかに広い情報網を持っていた。真衣は露骨に探りを入れることはせず、遠回しに、国境の状況や国内の異変について彼らに尋ねた。当初、旧友たちは曖昧な返事をし、安心して任務に当たるように言うだけだった。しかし、そうであるほど、真衣の心の中の疑念は深まっていった。静かすぎる、不自然なほどに。ある日の深夜、真衣は再び国境の協力部門に勤める旧友に電話をかけた。旧友はついに根
「スタッフも、データも無事よ」真衣は、まるで何事もなかったように、淡々とした口調で話した。彼女は礼央に心配をかけたくなかった。衝動的なって、彼に国境を離れてほしくなかった。礼央は携帯を握りしめて言った。「これからは……何かあったら、必ずすぐ俺に連絡してほしい」「わかった」真衣は小さな声で応じた。「無理するな」礼央は、懇願するように言った。「自分の身を守るんだ」「うん」二人はまた数秒間沈黙した。真衣は自分の身に迫る危険を話さず、礼央もまた、エリアスや宗一郎の策略を語らない。彼女は詮索せず、彼は危険が迫っていることを彼女に告げなかった。電話を切り、礼央は呆然とした。副官は息を潜めて、傍に立っていた。しばらく沈黙した後、礼央はゆっくりと口を開いた。「亮太を呼んでくれ」亮太は有能で洞察力があり、潜伏を得意としている。「部下を連れて、真衣のいる国に潜入してくれ。決して表には姿を現すな」礼央は地図を見つめて言った。「彼女の拠点、移動ルート、実験室、すべての場所を二十四時間体制で監視しろ。彼女に近づく人間がいたら、身元を調べろ。怪しい動きがあったら、直接処理して構わん」副官はたじろいだ。「亮太さんが出国したことが知られれば、却って相手側にマークされやすくなるのでは――」「構わん」礼央は彼の言葉を遮った。「彼女に何かあってはならない。全ての痕跡を消せ。俺が手配したことを彼女に気づかせるな」彼は、自分が自制心を失っていることを、真衣に気付かれたくなかった。宗一郎とエリアスが迫っていることを、彼女に知らせたくなかった。彼女を動揺させたり、不安にさせたくない。そのために、彼にできることは、彼女に気付かれず、防御網を張ることだけだった。まさに、影の護衛。音もなく、影も形も残さない。亮太は命令を受けると、その日のうちに出発し、戦地に潜り込んだ。現地では、騒動はひとまず収まっていた。砲撃は止み、妨害による通信は復旧しており、人員点呼も完了し、死傷者は一人も出ていなかった。沙夜は努めて平静を装い、安浩を支えて座らせ、傷口の状態を確認した。真衣は張り詰めた神経を隠しながら、落ち着いた表情で書類を整え直していた。砲撃が怖くないと言えば嘘になる。しかし今、彼女は恐れてはい
礼央は、もう一度かけた。しかし、結果は同じだった。専用回線、予備の番号、衛星回線……彼女に連絡を取る手段を、彼はすべて試した。だが、すべて繋がらなかった。「技術班!」礼央は猛然と顔を上げて叫んだ。「真衣の拠点の通信状況を調べろ!今すぐだ!」技術者たちは慌てて、画面上のデータをスクロールした。「現地で強力な電磁妨害が発生したようです。砲撃による連鎖的な妨害の可能性もありますが、人為的な妨害である可能性も――」「位置はどこだ!」彼は言葉を遮って尋ねた。「彼女のいる位置が知りたい!」「位置情報を受信できません。最後に更新された情報しか……」礼央は猛然と机を殴りつけ、その衝撃でデスクの上のグラスが倒れ、水がこぼれた。司令部は、水を打ったように静まり返った。皆が呆然と立ち尽くしていた。彼らは、長年礼央に仕える中で、彼が襲撃され、包囲され、全面的な敗北を喫するのを見てきたが、彼は常に動じず、いつも冷静だった。誰も、このように焦燥する彼の姿を目にしたことがなかった。礼央は目を真っ赤にし、呼吸は荒く、周囲には異様な雰囲気が漂っていた。制御不能。彼は完全に自制心を失った。「車を出せ」彼はかすれた声で言った。「最寄りの出国ゲートに連絡しろ。今すぐ向かう」副官が青ざめた顔で言った。「いけません!これは罠です。エリアスはあなたを国境から遠ざけようと――」「いいんだ」礼央は鋭い目で言った。「真衣を置いて、じっとしているわけにはいかない。彼女は怪我をしているかもしれないし、監禁されているかもしれない、或いは――」その先の言葉を、彼は口にできなかった。最悪の結末が頭の中をよぎり、彼は完全に混乱していた。礼央は今までずっと、自制心を持って、真衣の帰りを待とうと心に決めていた。しかし突如、「彼女が事故に遭ったかもしれない」という状況に陥り、彼の心はたちまち不安で満たされた。一分一秒が、とてつもなく長く感じられた。時間が経つたびに、心がえぐられるような感覚に襲われた。彼は生まれて初めて、どうしようもない焦燥感や無力感を、身をもって知った。彼女が傷つき、怯え、一人きりで砲火に晒されることを、礼央は心から恐れた。彼が外に出ようとしたその時、携帯が振動した。見ると、テキストメッセージが
簡潔な文面を心がけ、こちらの危険について多くを語らず、彼の実情についても詮索しない。二人は、「あなたが無事で、私は安心」という言葉で互いの平穏を保っていた。礼央は、司令部をほとんど離れず、任務に没頭していた。エリアスと宗一郎が出国し、真衣のいる国へ向かったことは、ほぼ確実だった。礼央は平静を装い、人員の配置や監視など、すべてにおいて冷静に振る舞ったが、副官は彼が精神的に崩壊寸前であることに気付いていた。タバコの量は明らかに増え、彼は画面に映る衛星画像を、目が痛くなるまでじっと見つめた。携帯は手放さず、音量を最大に設定し、手の届くところに置いた。それは、真衣からの連絡を逃さないためだ。しばしば、副官が休息を勧めたが、彼はそのたびに、「必要ない」と言うだけだった。何事も恐れず、銃弾の飛び交う中を進み、幾度も生死を分かつ局面を乗り越えてきた礼央は今、戦場にいる一人の女性に心奪われている。この日の午後、拠点周辺の空気は、普段より重く沈んでいた。武装勢力間の衝突が突然激化し、砲弾が市街地の中心部にも着弾するようになった。警備班長が何度も入ってきて、全員に即時移動の準備をするよう促した。真衣は画面に映る操作ログを前に、哲也とスパイに関する最新の情報を確認していた。傍では、沙夜が安浩を休ませていた。傷口はまだ鈍く痛んだが、彼は部屋に戻ることを頑なに拒み、現場に残ると言った。「データ復旧は七割程度まで進んでいます。あと二時間ほどで――」技術班の担当者の言葉が終わらないうちに、建物全体が突然激しく揺れた。「ドォーン――」轟音がすぐ近くで響き、衝撃波で壁や窓が激しく震え、埃がサラサラと落ちた。デスクの上の水筒が倒れ、書類が床一面に散乱し、皆身をかがめて頭を覆った。「砲撃だ!近いぞ!急いで隠れるんだ!」当初、現場は混乱したが、全員が訓練を受けていたため、皆落ち着いて素早く対応した。警備隊員が状況確認に向かい、技術班は慌てて機器を保護し、沙夜は真っ先に安浩を庇いながら部屋の隅へ連れて行った。真衣は机の下にしゃがみ、揺れが収まるのを待ちながら、携帯を取り出した。電波は途絶えていた。「通信が妨害されている!」誰かが叫んだ。「短波も途絶えた!」砲撃は物理的な衝撃をもたらしただけでなく、辺り
しかし、真衣は忙しい毎日の中、いつも心のどこかで、遠く離れた場所にいる千咲や礼央のことを想っていた。彼女は毎日、決まった時間に礼央にメッセージを送り、無事を告げていた。そして彼からは、いつも簡潔で落ち着いた返信が送られてくる。だが、真衣は漠然と違和感を感じていた。彼の文面はあまりにも落ち着いていて、わざと平静を装っているかのように思えた。しかし真衣は、深く詮索しなかった。尋ねれば、彼が保ってきた平穏を壊してしまうかもしれない。そして何より、自分の知らないところで何かが起きているのではないかと思うと怖かった。真衣は携帯に彼から届いた【すべて順調】【千咲はいい子にしている】【心配しないで】というメッセージを見つめ、胸が苦しくなった。彼女は、千咲が恋しくてたまらなかった。自分に抱きついてくる手の感触や、「ママ」と甘えたように呼ぶ声が懐かしかった。そして礼央が、彼が言うように、本当に無事でいるかどうかも気がかりだった。しかし、オフィスで気を抜くことはできない。オフィスには仲間がいて、重要な研究の成果がある。そして、いつ迫って来るか分からない危険もある。心配事、悩み、想いは心の奥に押し込め、冷静な仮面の下に隠しておくしかなかった。-一方、その頃。ある夜。司令部の明かりは一晩中灯り続けていた。礼央は窓辺に立ち、まだ火をつけていないタバコを指に挟んでいた。机の上に山積みになった資料が、息の詰まるような結論を指し示していた。エリアスと宗一郎はすでに出国して真衣がいる国へ向かい、航空材料を狙っている。危険が迫っていると知りながら、何もできずにいる無力感に、礼央は正気を失いかけていた。周囲のスタッフは何度も交代し、入れ替わっていたが、彼だけは変わらずそこに立ち続けていた。その日は静かな夜で、風の音さえも鮮明に聞こえた。礼央はゆっくりと携帯を取り出し、親指で画面をスワイプしてロックを解除した。彼は、こっそり撮った真衣の写真を壁紙に設定していた。その写真は絵画のようで、真衣は優しい笑みを浮かべながら胸に千咲を抱き、庭の籐椅子に腰かけていた。何気なく撮ったものだが、壁紙はずっと、その写真だった。礼央は指先で、画面の中で笑う彼女の顔をそっとなぞった。ここ数日、彼はほとんど眠れていなか
「大丈夫」安浩はそっと沙夜の手を軽く叩いた。「心配ないよ、無理はしないから」彼は壁に手をつき、一歩一歩ゆっくりと歩いた。沙夜は緊張して彼の傍を離れず、片手で彼の腰を支え、もう片方の手でしっかりと彼の肘を支えた。一歩、二歩、三歩……ベッドから窓辺まで、ほんの数メートルの距離を歩くのに、まだかなりの体力を要した。ちょうど振り返って戻ろうとした時、安浩は激しいめまいに襲われ、足元がふらつき、思わずよろめいてしまった。「危ない!」沙夜は胸が締め付けられる思いで、反射的に手を伸ばして安浩を抱き寄せた。安浩は、引き締まった胸板を沙夜の肩に寄せ、無意識の内に腕を彼女の腰に回して、優しく抱き寄せた。二人の距離が近くなった。互いの息遣いを感じるほど近く――安浩からは消毒液の香りがほのかに漂い、沙夜からは爽やかな石鹸の香りがした。互いの鼓動が聞こえる。「トクン、トクン、トクン――」静まり返った病室に、二人の鼓動がひときわ鮮明に響き、鼓動は次第に速く、激しくなっていった。沙夜は、耳の付け根から首筋まで真っ赤になり、その場に立ち尽くすと、無意識の内に息を潜めた。彼女は安浩の胸に抱かれながら、彼の視線を感じた。安浩も呆気に取られていたが、しばらくするとめまいが収まった。彼は、沙夜の赤くなった頬と、微かに震えるまつ毛を見つめた。沙夜の身体は温かくて柔らかく、安浩は思わず手を離すのを忘れてしまった。「安浩さん……」沙夜は震える声で言った。「大丈夫?」安浩は、ようやくゆっくりと手を離して言った。「すまない、さっき少しめまいがしたんだ。ありがとう、助かったよ」「私に気を遣ったりしないで」沙夜は慌てて少し距離を置いた。「だから言ったのよ。無理しちゃダメだって」咎めるように言ったが、彼女は優しく安浩の腕を支えた。さきほどの、ほんの一瞬の出来事が頭から離れず、胸の高鳴りがずっと収まらなかった。突然の抱擁によって、互いに秘めてきた想いが、溢れ出しそうだった。同刻、仮設オフィスには、全く異なる緊張感が漂っていた。増援部隊が全員到着し、設備の設置も完了していた。スパイの調査班は、主要データに接触した可能性のあるスタッフの経歴の再確認や、操作ログの追跡を行っていた。技術チームは、改ざんされた航空材料
「安浩さんが嫌だと言っているんだから、無理強いする必要はないと思いますよ」「あなたは誰?あなたに口を挟む権利があるの?」瑞希は軽蔑と敵意を浮かべた目で沙夜を睨みつけた。瑞希はさきほどから沙夜が安浩と親密に並んで座っていることを不快に思っていたが、今沙夜に口を挟まれたことで、さらに苛立った。「私は彼の友人です」沙夜は怯まず瑞希の視線を受け止めて言った。「友人として、彼が嫌がることを強要されるのを見ていられないだけです。本郷さん、ここでしつこく話すより、この縁談が双方の合意によるものなのかを、お父様に聞いてみたらどうですか」瑞希の顔が青ざめた。彼女はまさかここまで安浩に
その時、湊が真衣に用事があると言って呼びに来た。入札会場の喧騒が微かにドア越しに聞こえる中、真衣は湊について廊下を進んだ。湊は黙って歩き、目立たない休憩室の前で立ち止まった。湊は軽くドアをノックすると、その場を離れた。真衣は深く息を吸い、ドアを開けて中に入った。薄暗い部屋の中、窓際のソファに礼央が座っているのが見えた。昨日の食事で見た礼央とは違い、まるで一晩で別人になったかのように、彼の顔は青白く、目の下には濃いクマがあった。真衣は胸が突然締め付けられたように苦しくなり、言葉を詰まらせた。真衣は彼を見て、唇を動かしたが、言葉が思うようにうまく出てこなかった。「礼
真衣は頭を切り換え、クライアントとの話に意識を集中させた。クライアントが席を立つと、真衣は笑顔で別れを告げて見送った。その後すぐ、真衣の顔から笑みが消えた。真衣は再び席に座り直したが、目の前のコーヒーはとっくに冷めてしまっていた。少し離れた席には、礼央と留美がまだ座っており、二人は何かを話し合っているようだった。真衣は、留美が時折手を振りながら熱心に話しいたり、礼央が落ち着いた態度で机を軽く叩き、時折頷いて返事をする様子を見つめていた。留美が礼央の腕を組んで、親密に寄り添う様子は、事情を知らない人が見れば、実際に結婚間近のカップルだと思うだろう。真衣は携帯を取り出し
留美は唇を噛みながら、小声で言った。「礼央、やめて。彼と争っちゃダメ。私が我慢すればいいから」安浩の家柄や経歴を知る留美は、一時的に屈服するしかなかった。礼央は店員に言った。「この料理は残しておいてくれ。それから彼女にレモン水をもう一杯持ってきてやってくれ」店員は慌てて頷きし、背を向けて退出した。個室は再び静まり返り、気まずい雰囲気が流れた。真衣はお箸を取り、豚の角煮を一口つまんでそっとかじると、口の中に懐かしい味が広がった。心は不思議と穏やかなままだった――先ほどのやり取りを通して、真衣ははっきりと悟った。自分と礼央との関係は、本当に過去のものになったのだと。安浩







