Masuk「現にあいつの頭をかち割った私が、ナイフで刺す度胸がないとでも思ってるの!?昔みたいに、ただ怯えて言いなりになるだけの珠里はもういないわ。無理強いするなら、やってみなさいよ!」それでも佳乃は引き下がらなかった。「今日は絶対に行ってもらうわ。深田家に嫁いで瑞貴さんの子供さえ産めば、全て丸く収まるのよ。子供ができれば、あなただってそんな無茶な真似はできなくなるでしょう」珠里は氷のように冷たく笑った。「私をそこまで馬鹿だと思っているの?あんな卑劣な男の子供なんて、死んでも産まないわ」佳乃は制止する家政婦を力任せに押しのけ、珠里の腕を掴もうと、爪を立てんばかりに手を伸ばした。だが、珠里はすっと身を引き、隠しようのない憎悪を剥き出しにした瞳で佳乃を睨みつける。その凄絶な眼差しを向けられ、佳乃は胸の奥がざわつくのを感じた。あんなに従順で大人しかった娘が、一体いつからこんな風に変わってしまったのだろうか。「あなたが心の中で何を思っていようと関係ないわ。広瀬家が養ってやったんだから、家のために身を粉にして尽くしなさい。今日は絶対に一緒に来るのよ!」激昂する態度とは裏腹に、珠里は内心で極めて冷静に状況を判断していた。このまま深田家へ行かなければ、母はいつまでも岡田家で喚き散らし、暴れ続けるに決まっている。これ以上、恩ある岡田家に迷惑をかけるわけにはいかない。そして何より――この忌まわしい問題に、自分の力で完全な決着をつけたい。そう決意した瞬間、珠里の中で覚悟が決まった。「……わかったわ。深田家に行けばいいんでしょう。今日は一緒に行ってあげる」どうせ力ずくで連れて行かれるのなら、向こうで思い切り暴れてやればいい。娘がふいに素直に頷いたことで、佳乃は露骨にほっと胸を撫で下ろした。やっぱりこの娘は扱いやすい――そう高を括ったのか、自然と声のトーンも柔らかくなる。「珠里、それでいいのよ。お母さんがあなたを傷つけるわけないじゃないの」背後から、美穂が心配そうに声をかけてきた。「珠里ちゃん、本当に行くつもりなの?」珠里は振り返り、安心させるように穏やかな微笑みを作った。「大丈夫よ、美穂お姉ちゃん。自分のことは、自分でちゃんと決着をつけるから」すると、智美がすっと口を開いた。「私も一緒に行くわ」すかさず悠人も続く。「俺も行こう」
悠人は智美をかばうように言い放った。「佳乃さんは利益のことしか頭にないから、人の善意すら理解できないのか?広瀬の本家が事態を収拾できないと言うなら、俺が片をつける」「あなたが?どうやって?」佳乃は鼻で笑った。「法的手段に訴える。深田瑞貴には、珠里を傷つけた責任をきっちり取ってもらう」「悠人さん、わざわざ火に油を注ぐつもりかしら?」佳乃の表情がみるみる険しくなった。彼女は典子をねめつけた。「あなたも広瀬の人間でしょう。うちと深田家が揉めるのを、ただ黙って見過ごす気なの?」「私は、悠人のおっしゃる通りだと思うわ」典子は静かに答えた。これ以上は話の通じない相手だと悟り、佳乃は苛立ち紛れに吐き捨てた。「とにかく珠里を呼んでちょうだい。この騒ぎを起こしたのはあの子なんだから、自ら深田家へ出向いて謝罪させるべきよ!」言うが早いか、彼女は強引に階段へと向かった。明日香が冷ややかな声でたしなめた。「珠里だって、もう立派な大人よ。嫌がる娘を力ずくで連れて行く気?」だが佳乃は何を言われようと聞く耳を持たず、足早に二階へ上がろうとする。二階でそのやり取りを聞いていた珠里は、もう限界だった。立ち上がると、まっすぐに階段へと足を向ける。すかさず美穂がその腕を掴んだ。「どこへ行くの?お母さんたちが下で引き止めてくれているわよ」「自分でお母さんに話をつけてくる。謝りにだけは絶対に行かないって、はっきりさせてくるわ」美穂は痛ましそうに眉をひそめた。「伯母さんが話のわかる人なら、今まであなたをあんな風に扱わなかったはずよ。実の娘を敵みたいに扱うなんて、どう考えても普通じゃないわ」「美穂お姉ちゃんの言う通りだと思う。みんなが私の味方でいてくれることも、ちゃんと分かってる。でも、逃げてばかりもいられないの。私が出て行かない限り、お母さんは絶対に諦めないから」そう言い残し、部屋を出ようとしたちょうどその時、階下からヒステリックな声が響いてきた。「何をするの、どうして邪魔ばかりするの!私は自分の娘に会いに来ただけよ。広瀬家の問題に、部外者が口出ししないでちょうだい!」珠里の手には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。母である佳乃のことが、心底恐ろしかった。それでも――怖いからこそ、自分で向き合わなければならないのだ。部屋を飛び出した珠里は、階
典子は皮肉な笑みを浮かべた。「よく言えるわね。珠里ちゃんが生まれたとき、女の子だったうえに産後の肥立ちが悪かったのを口実に、あの子を疎んじてきたじゃない。ほとんど家政婦が育てたようなものよ。あなたが珠里ちゃんを抱いた回数より、私の方が多いくらいよ。珠里ちゃんが熱を出したとき、家政婦はいつも私に連絡してきた。汐里が幼い頃に珠里ちゃんをいじめても放っておいて、あの子が怖くて、こっそりうちに逃げてきて美穂と遊んでいたのよ。どの面下げて、母親を気取っているの?」佳乃は言葉に詰まり、言い返せなかった。典子はなおも続けた。「今回も深田瑞貴のことを頭ごなしに珠里ちゃんのせいにして、何があったかも聞こうとしない。あの子がどれだけ聞き分けのいい、優しい子か、あなたは知っているの?誰かが手を出さなければ、珠里ちゃんが人を傷つけるはずがないでしょう。実の親でありながら、赤の他人の私以上に娘を理解しようとしないなんて」「それでもあの子にも悪いところはあるわ。いくら揉めたからといって、人を傷つけていいはずがない。縁談どころか、深田家まで怒らせてしまって」そこへ、明日香、智美、悠人が揃って出てきた。佳乃は智美と悠人の顔を見た瞬間、怒りが再燃した。明日香に向き直って言った。「明日香、二家は親戚同士でしょう。責任取ってもらわなきゃ困るわ。珠里は私の娘なのに、あなたたちがそそのかしてあんなことをさせて、深田家との関係を台無しにした。この落とし前をつけてもらわなきゃ。今すぐ一緒に深田家へ謝りに行ってちょうだい」明日香はとうに事情を把握していた。毅然とした態度で言い切った。「珠里からすべて聞いています。深田瑞貴の方が先に手を出したそうよ。珠里は自分の身を守っただけ。たとえ法廷で争うことになっても、珠里に非はありません」佳乃はせせら笑った。「証拠もないのに、あの子の言い分一つで済むと思っているの?」智美は佳乃を静かに見つめた。「あなたは珠里のお母さんなのに、どうして自分の娘の言葉を信じずに、深田家の言い分を信じるの?」佳乃は歯を食いしばった。「珠里がどんな子かはわかってる。あの子は深田瑞貴と結婚したくなくて、わざとやったのよ。あの子は厄介者よ、家の中を掻き乱すだけの、忌々しい疫病神なのよ!」その場にいた全員が、胸を締めつけられるような思い
「大騒ぎになれば、広瀬家と深田家の縁談は破談になる。それだけじゃなく、羽弥市の名家たちも広瀬家との縁談を避けるようになるだろう。広瀬佳乃の目論みが崩れるわけだ。今やるべきことは、珠里の気持ちを落ち着かせて、これから起こる騒動に備えることだ」二人が今後の対応を話し合っていると、勝也が申し訳なさそうに部屋に入ってきた。「珠里さんが無事保護されたと聞いて……私の不注意で守り切れず、申し訳ありません。悠人様、どうか私を任務から外してください」悠人は黙って勝也を見つめた。その目に、静かな疑問の色があった。「本当に、珠里の護衛を外れたいのか?」百八十センチを超える勝也の体が、一瞬ぴくりと強張った。目の光が少し揺らいでから、硬い表情で頷いた。「はい」悠人は少し間を置いてから言った。「ならば、代わりの人間を選ばなければならない。福岡(ふくおか)はどうだ?」勝也は真剣に考えてから答えた。「福岡は独断専行の気があり、配慮に欠けます。珠里さんの護衛には向いていないかと」「では、比嘉(ひが)は?」勝也はしばらく沈黙してから答えた。「比嘉は女性が苦手で、側についての護衛は難しいかと思います」悠人はもう一人の名前を出した。「徳井(とくい)は?」勝也が眉を寄せた。「徳井は実力が、先の二人に一歩及ばないので……」悠人は呆れたような、それでいてすべてを看破したような眼差しで、勝也を見た。「誰を挙げても自分より劣ると言いながら、なぜ外れたいと言う。わかった、その提案は考えておく。ただし、適任者を推薦してもらってからの話だ」勝也は内心で葛藤してから、しぶしぶ頷いた。「……わかりました。先に珠里さんの様子を見てきてもよいでしょうか」「ああ」勝也が足早に階段を上っていく。智美は不思議そうに小首をかしげて、悠人に小声で言った。「珠里への態度、なんかおかしくない?」悠人は智美の鼻先を指で軽く弾いた。「今頃気づいたのか?」智美は、あっと目を見開いた。「やっぱりそうなの?珠里がどう思ってるかはわからないけど……もし両思いだったとしても、広瀬家が首を縦に振るはずがないわ」智美はまた珠里のことが心配になってきた。寝室に戻りながら、悠人は続けた。「珠里はかつて美穂さんを救った。典子さんはずっと珠里を自分の娘のように思っている。もし珠里
蓉子は瑞貴を休憩室に押し込んでドアを閉めると、満足げな足取りで、その場を後にした。さて、と智美が様子を見に動こうとした瞬間、背後からぐっと腕を引かれた。振り返ると、悠人だった。「いつの間に来たの?」智美が小声で聞くと、悠人は上着の下から紙袋を取り出した。「智美がこちらへ向かうのが見えたから、後を追ってきたんだ。珠里にこれを着替えさせて外へ連れ出せ。外にはボディガードを待機させてある」「わかった」智美はふと不安になって聞いた。「でも、深田瑞貴が中にいるのよ。出てくるまで待ってから珠里を連れ出す?それまでの間、珠里に何かしなければいいけど」悠人は少し考えてから言った。「今夜は深田家のパーティで人が大勢いる。これほど人目の多い場で、分をわきまえぬ暴挙に出るとは考えにくい。もう少し待とう」「……ええ」悠人がそう言いかけた、その時だった。休憩室の中から珠里の鋭い悲鳴が上がった。続いて椅子が倒れる音、磁器の割れる音が響く。智美と悠人は顔を見合わせ、同時に駆け出した。ドアが内側から乱暴に開き、なりふり構わず、珠里が部屋から飛び出してきた。智美の姿を見た途端、そのまま胸に飛び込んでくる。「珠里、大丈夫!?何があったの」珠里は全身を震わせたまま、言葉が出てこなかった。悠人は素早く周囲を確認し、三人を人目のつかない別の部屋へ連れ込み、珠里にすぐ着替えるよう促した。珠里は震える手で家政婦の制服に着替えると、深く俯いたまま智美と悠人の後について出口へ向かった。廊下で、一人の家政婦がすれ違いざまに怪訝そうに声をかけてきた。「あら、あなた、どこの派遣?見ない顔ね」珠里がびくっと身をすくませたその瞬間、横から声がかかった。「二階でちょっと取ってきてほしいものがあるんだが」崇樹だった。智美と悠人が同時に視線を向けると、崇樹は三人へ、微かに合図を送るように目配せした。家政婦は若様の言葉に素直に従い、珠里のことなど忘れてさっさと駆けていった。三人は無事にパーティの会場を後にした。車の中で、智美は聞かずにいられなかった。「さっき、何があったの?珠里、怪我はない?」珠里は地獄を見たような顔をして、ガチガチと歯の根が合わないほど、震えが止まらなかった。智美が水を差し出すと、珠里はひと口飲んでから、少しずつ
一瞬、汐里の顔に動揺がよぎった。しかしすぐに開き直った様子で、鼻で笑って言い返した。「私は会社の仕事があって忙しいの。結婚している暇なんてないわ。もし誰かが縁談を引き受けなきゃいけないなら、毎日暇を持て余してるあなたじゃないの?」佳乃もすかさず同意した。「汐里の言う通りよ」それから珠里の乱れた毛先をさりげなく整えながら、宥めるように続けた。「もういいわ、そんなお通夜のような顔をするのはおよしなさい。女の子はにっこりしていなきゃ。おとなしくして、愛嬌よく振る舞えば、みんな好きになってくれるから。あなたは口下手なんだから、彼が何を言っても、とにかく頷いて笑っていなさい。あとは少し褒めてあげれば十分よ。男というのはそういうものなんだから。わかった?」珠里は黙ったまま、無表情に母を見つめていた。その虚ろな視線を受けて、佳乃の胸にじくりとした何かが刺さった。しかし、すぐに心の中でかき消した。娘の将来のために、衣食住に不自由しない人生を用意してやろうとしているのに、何が不満なのか。佳乃と汐里が出てきそうな気配を察して、智美は近くの階段の陰にさっと身を隠した。二人の足音が遠ざかるのを確認してから、そっと出ようとした次の瞬間、廊下の奥から別の足音が近づいてくるのが聞こえた。智美はもう一度壁に張りついて、やり過ごすことにした。やってきたのは二人連れだった。瑞貴と、その母・蓉子だ。蓉子が瑞貴に声を潜めながらも、鋭い口調でまくし立てている。「お兄さんの真似だけはしないでよ。離婚した女を連れ回して、見苦しいこと、この上ないわ。あの子のことはお父さんに一任するから私は関知しない。あなたはね、結婚したらちゃんと落ち着くこと。いつまでもお父さんに怒られっぱなしでいいの?広瀬の次女は大人しい子らしいから、あなたにはちょうどいいじゃない。今夜ちゃんとお話しして、できれば今年中に話をまとめなさいよ」瑞貴は口をへの字に曲げた。「写真で見たけど、あの子、ちょっと地味すぎない?今日も遠目に見たけど、あんな厚化粧しても、あのアレだろ?姉も従姉も美人なのに、どうしてあの子だけ、あんな『不作』なんだよ」「美人はもう散々遊んだでしょ。お嫁さんに美人を求めてどうするの。広瀬家は岡田家と縁戚関係があるのよ。そこと縁を結べば、うちにとっても大きなメリットがあ