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Penulis: 酔夫人
last update Tanggal publikasi: 2026-03-04 10:01:30

(……最悪)

駅の改札口を、いつもと同じリズムで抜けようとした瞬間、美咲は足を止めた。バッグに手を入れたまま固まり、指先が空を切る。ない。定期券が、ない。

数秒遅れて、その事実がじわじわと現実味を帯びる。

頭の中で、玄関の光景が浮かんだ。トレーの上、鍵の隣に置いてある定期券と腕時計。

(ああ……)

思い出した瞬間、同時にため息が漏れそうになる。

定期券を取った覚えがない。恐らく、忘れた。腕時計もないから、ほぼ確実。どちらも致命的ではない。切符を買えばいいし、時間だってスマートフォンで確認できる。ほんの少し手間が増えるだけ。

それだけのことなのに、胸の奥に溜まっている何かが、じわりと重みを増した。

(気が晴れない)

理由は分かっているはずなのに、認めたくないから、別の小さな不具合に苛立ちを押し付けている。そんな自分に気づきながらも、どうにもならない。

仕事に行く気力が、薄く削がれている。

鏡の前で仕上げたはずのメイクも、今となってはどこか手を抜いたように思えてならない。

胸の奥に、鈍い石が沈んでいるようだった。重くて、冷たくて、取り出せない。気づけば呼吸が浅くなっていて、美咲は慌てて大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで空気を押し込み、ゆっくりと吐き出す。

(今朝は、何もなかった)

そう、何も起きていない。少なくとも、自分の身に直接降りかかった出来事は一つもない。ただ、ニュースを見ただけだ。ただ、名前を聞いただけだ。ただ、それだけなのに。

もう会えない。

もう話せない。

その事実を頭の中で反芻しても、どこか実感が伴わない。

最後に岡本蒼太に会ったのは一年前。それからの一年間、会いたいとも、話したいとも思わなかった。思い出すことすら、ほとんどなかった。

(それがただ“絶対”になっただけ)

偶然、どこかで再会する可能性も、街中で似た背中を見かけて振り返ることも、すべて消えた。

ただ、それだけの変化。

そう言い聞かせるしかない。

「……バカみたい」

小さく呟き、美咲は首を振る。意識的に思考を切り替え、足を切符売り場へと向けた。いつもと違う動線が、やけに遠く感じる。

.

.

「疲れた……」

パソコンの電源を落とし、画面が暗転したのを確認してから、美咲はようやく大きく息を吐いた。肩の力が抜けると同時に、どっと疲労感が押し寄せてくる。

今日は一日、どこか集中しきれなかった。ミスはしていないはずなのに、終始、薄い膜を一枚隔てたような感覚がつきまとっていた。

美咲は立ち上がり、バッグの中身を確認する。癖のような動作の中で、ふと朝のことを思い出す。

(そういえば、定期を忘れたんだっけ)

帰りもまた切符を買わなければならない。その一手間が、途端に面倒に感じられる。

(でも、帰らないって選択はない)

当たり前のことを、わざわざ心の中で確認する。今日の仕事は終わったが、明日の仕事は残っている。

(休めば、その仕事は次の日に……だめだわ、一日の仕事量ノルマが増えるだけ)

美咲の会社は、いわゆるブラックではない。上司も理解があり、相談すれば業務の調整くらいはしてくれるだろう。

だが、それを選ばないのは美咲自身だった。

他人に自分の分を預けることに、どこか抵抗がある。

(蒼太にもよく頼れって言われたっけ)

ふと浮かんだ記憶に、美咲は小さく苦笑する。

心配と、じれったさと、ほんの少しの苛立ちを含んだ表情で「大丈夫か?」と繰り返していた岡本蒼太。別れた直後から今朝までは、意識的に思い出さないようにしていたし、思い出したとしても浮かぶのは裏切りの場面ばかりだった。

それなのに、今日に限って浮かんでくるのは、どうでもいいような断片ばかりだ。

肉と魚なら肉が好きだったこと。炭酸飲料を飲むたびに、必ず一度はむせていたこと。笑うほどでもない、怒るほどでもない、ただそこにあっただけの些細な癖。

(思い出はこうして風化していくのかしら)

鋭い痛みを伴う記憶よりも、こうした曖昧な断片のほうが、むしろ長く残るのかもしれない。恨みや憎しみとして固めてしまうより、ずっと曖昧で、輪郭のぼやけた形で。

美咲は、わずかに肩の力が抜けたことに気づく。それを「前向き」と呼んでいいのかは分からないが、少なくとも朝のような息苦しさは薄れていた。

鞄を肩にかけ、「お先に失礼します」と声をかけてオフィスを出る。外に出ると、人の流れが一気に身体を包み込む。

帰宅ラッシュの波に乗りながら、美咲はふと過去の一瞬を思い出した。

(そういえば……)

岡本蒼太と別れた直後、フリーになった一日目に感じたのは、「東京はやっぱり人が多い」という、妙に現実的な感想だった。

恋人を失った喪失感よりも先に、街の密度に圧倒された記憶。当時の美咲は、この人の多さならすぐに次の相手も見つかるだろう、と半ば意地のように考えていた。

(でも……)

今なら分かる。岡本蒼太と一緒にいた頃、自分が感じていた「人の多さ」は、どこか和らいでいたことを。彼が無意識に、周囲との距離を取ってくれていたのだ。

人混みの中でも、安心していられた理由。『大丈夫か?』と何度も確認してくる、その過剰なほどの気遣い。鬱陶しいと感じたこともあったが、大人になってから、自分自身ですら自分を気遣う余裕を失っていた美咲にとって、その過保護さは確かに甘さだった。

(ああ、もう、だめだ)

思考が、意図せず彼に収束していく。

「……飲みにいこう」

気づけば、言葉が口から零れていた。理屈ではなく、衝動に近い選択だった。

酔えば、少しは眠れるかもしれない。余計なことを考えずに済むかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、美咲は人の流れからわずかに外れ、駅前の明かりへと視線を向けた。

そこには、いつもと変わらない夜が広がっているはずなのに、どこかだけ、ほんの少し違って見えた。

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