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Author: 酔夫人
last update publish date: 2026-03-04 10:01:35

その男の年齢は、美咲よりも少し上に見えた。

黒いロングコートに、白いニットとジーンズというラフな装いは、会社帰りの自分とは明らかに違う温度をまとっている。きちんと整えられているのに、どこか肩の力が抜けているような雰囲気。落ち着いているのに、視線だけが鋭い。けれど、その鋭さは威圧ではなく、どこか観察するような、そして美咲に向けられるときには柔らかさを含んでいた。

「え……」

戸惑う美咲に、男は軽く笑う。その笑い方に、説明のつかない懐かしさが混じっていて、美咲の胸の奥をかすかに揺らした。

誰に似ているのかは分からない。ただ、どこかで知っているような感覚だけが残った。

「スプモーニ」

男は迷いなくバーテンダーに告げた。

その言葉が酒の名前だということくらいは分かるが、それがどんな味で、どれくらいの強さなのか、美咲には見当もつかない。自分がこの場に不慣れであることは、もう十分すぎるほど自覚している。そして同時に、女が一人でこういう場所にいることの、ぼんやりとした危うさも。

「どう? 初心者でも飲みやすいよ。強くないし」

誘うような、しかし押しつけがましくない声音。その距離感に、美咲の胸の奥がわずかに騒いだ。

居心地の悪さを紛らわせるように、美咲は視線をバーテンダーへと向ける。この男の言葉を裏付ける何かを求めるように。

「カンパリをグレープフルーツジュースとトニックウォーターで割ったものです。甘いものがお好みなら、カシスオレンジもおすすめですよ」

丁寧な説明に、美咲は小さく頷く。

(カシスオレンジは……アレか)

以前、居酒屋で飲んだとき、思ったほど美味しく感じなかった記憶が蘇る。

(カンパリが何かは分からないけれど)

知らないものに手を伸ばすことへのためらいと、ここまで来て引き返せないという気持ちがせめぎ合う。

「いいえ……同じので」

結局、美咲は曖昧な逃げ方を選んだ。

男が口にした名前を思い出せなかったから、「同じの」で済ませるしかなかった。

バーテンダーは静かに頷き、タンブラーを二つ取り出す。氷がグラスに落ちると、カラン、と軽やかな音が響いた。

琥珀色の照明が氷に反射して、グラスの中で細かく揺れる。その様子を見ているだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。

(あれが、カンパリかな?)

洒落た瓶から注がれた紅い液体が、二つのグラスに同じ分量で満たされる。対になるように並べられたその光景に、美咲は妙な落ち着かなさを覚えた。

まるで、自分と隣の男が、最初から一組として用意されていたかのような錯覚をした。

「変だよな」

不意に投げられた言葉に、美咲ははっとする。横を見ると、男は自分ではなく、バーテンダーの持つ紙パックに視線を向けていた。

ラベルにはグレープフルーツの文字。

「なんでこういうところで見るジュースって、高級そうに見えるんだろう」

心底不思議そうに言うその様子が、あまりにも素直で、美咲は思わず小さく笑った。

肩の力が抜けた。

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