LOGIN紅茶店の午後。 窓から差し込む光が、 二人のカップを静かに照らしていた。 テオドールは手の中の花を見つめ、 小さく息を吐いた。 (今日こそ、言う。 もう逃げない) 「マリーさん。 私は――あなたに、伝えたいことがあります」 彼女は首をかしげた。 「はい?」 「あなたを……ずっと探していました」 「……?」 「マリーさん。 本当の名前は――マルグリットですよね」 「……何を、言ってるの」 「私は――あなたの夫でした」 静寂。 次の瞬間、 椅子が音を立てて引かれた。 ⸻ 「はぁっ⁉︎」 店中が一瞬静まり返る。 マルグリットは立ち上がり、 信じられないものを見るような目で彼を見た。 「あなたが、あの――!」 「……テオドール・ド・リュミエールです」 マルグリット 「そう。思い出したわ。 三年! 三年も一度も顔を出さず、 手紙のひとつもよこさず、 “王命の結婚だから仕方ない”って人形みたいに黙ってた、あの!」 店の客たちが息を呑む。 マルグリットは頬を紅潮させ、 震える声で続けた。 「何が“探していました”よ! 私、探されるような妻でした!? あなた、戦地で勝手に結婚の書類に署名しただけでしょ!?」 テオドール 「……そうです。 あなたを守るつもりで、 結果的に、いちばん傷つけた」 マルグリット 「“つもり”!?」 その声に、店の外まで響くほどの怒気が混じった。 マルグリット 「“つもり”で三年も放っておいて、 今さら“探してました”なんて言ったら、 笑われるわよ!」 ⸻ テオドールは、それでも席を立たなかった。 「笑われてもいい。 あなたにだけは、本当のことを言いたかった」 「……ふざけないで」 マルグリットの目に、 涙がにじんだ。 「もう、あなたの“奥様”じゃないのよ」 テオドール 「それでも、俺にとっては――」 マルグリット 「黙って!!」 彼女の手が震える。 カップの中で紅茶が波打った。 店主がそっと遠くでため息をつく。 マルグリットは、 何かを言いかけて、唇を噛みしめた。 「……出て行って」 「……わかりました」 テオドールは深く頭を下げ、 花をテーブルに置いたまま、 静かに店を出ていった。 ⸻
スザンヌ、動く 「スザンヌ様、王都の記録課からお返事が」 侍女が書状を持ってくる。 スザンヌは紅茶を片手に封を切った。 「……ふむ、やっぱりね」 文面を読み進めながら、唇の端が上がる。 「マルグリット・ド・リュミエール、 正式に“婚姻解消”と記録されてる。 現在は“マリー・グラン”の名で暮らしているそうよ」 侍女が目を丸くした。 「まぁ……侯爵夫人が、庶民の名前で?」 「ええ。どうやら静かに、楽しそうに暮らしてるみたい。 紅茶店に通って、花屋で買い物して……」 スザンヌは、カップを軽く揺らして香りを嗅いだ。 「幸せそうね」 侍女はためらいがちに口を開いた。 「では、侯爵様には……?」 「まだ言わないで。 あの子、自分で見つけなきゃ気づかないわ」 紅茶を飲み干し、 スザンヌは立ち上がった。 鏡の前で帽子をかぶりながら、独り言のように言う。 「どうしようかしらね。 放っておくのも、女の意地として悪くないけど……」 指先でブローチを整え、にやりと笑った。 「会いに行くのが一番だわね」 「えっ!? スザンヌ様、自ら!?」 「だって、気になるじゃない。 “白い結婚の元侯爵夫人”がどんな顔して幸せにしてるのか。 それに―― どんな女が、うちの愚かな甥より強かったのか、見てみたいもの」 そう言ってマントを翻し、 スザンヌは颯爽と屋敷を後にした。 鏡の前で帽子をかぶりながら、独り言のように言う。 「どうしようかしらね。 放っておくのも、女の意地として悪くないけど……」 指先でブローチを整え、にやりと笑った。 「会いに行くしかないわね。」 「えっ!? スザンヌ様、自ら!?」 「だって、気になるじゃない。 “白い結婚の元侯爵夫人”がどんな顔して幸せにしてるのか。 それに―― どんな女が、うちの愚かな甥より強かったのか、見てみたいもの」 そう言ってマントを翻し、 スザンヌは颯爽と屋敷を後にした。 屋敷の応接間。 時計の針が、静かに時を刻む。 テオドールは書類に目を通していたが、 ドアのノック音に顔を上げた。 「スザンヌ叔母上。 ……お帰りでしたか」 「ええ、ちょっと王都まで。 お茶を飲みにね」 軽い口調で言いながら、 スザンヌはゆ
翌日の午前。侯爵邸の玄関扉が勢いよく開く音が響き渡った。レディ・スザンヌが、紫の羽をあしらった帽子を片手に堂々と入ってくる。「執事! いますか!」慌てて姿を現した執事が深々と頭を下げた。執事「れ、レディ・スザンヌ……お戻りとは伺っておりますが……何かご用で?」スザンヌ「使用人全員を“今すぐ”集めなさい。 ひとり残らず。いいわね?」その場にいた侍女たちまで息を飲む。執事「……はっ!」屋敷に緊張が走った。いつもは静かな廊下を、召使い達が走り回る。ほどなくして、居間には使用人たちが整列させられた。⸻◆居間――尋問の場スザンヌは姿勢よく椅子に座り、扇子をテーブルに置いた。彼女の後ろには堂々と立つマシュウ卿の姿もある。スザンヌ「では―― マルグリット侯爵夫人が、この屋敷でどのように扱われていたのか。 一から、順番に答えてもらいます」使用人全員が硬直した。目線が泳ぎ、誰も口を開かない。スザンヌ「まあ……誰かが先に話せるはずよね?」重い沈黙。その沈黙を破ったのは、侍女頭だった。侍女頭「……奥様は、お部屋におこもりで……」スザンヌ「理由を聞いているのよ」侍女頭「ご主人様が戦地にいらしたので…… その……私どもも奥様のお顔を見たことがなく……」スザンヌ「それで?」侍女頭はしどろもどろになりながら続ける。侍女頭「ですので……奥様に特別お仕えすることも…… お食事は、廊下に……運んで……」スザンヌ「廊下に?」侍女頭「……お返事がない日もありましたので……」スザンヌ「返事がなければ、床に置いて戻った、と?」侍女頭は顔を青ざめさせ、うなずくしかなかった。⸻スザンヌは、扇子を“ぱちん”と閉じた。スザンヌ「あなたたち、それで“お仕えしていた”つもりなの?」誰も顔を上げない。スザンヌ「洗濯は? 掃除は? 衣服の世話は?」侍女のひとりが弱々しく答える。若い侍女「……たまに……」スザンヌ「“たまに”!?」部屋の空気が震えた。執事までも冷や汗を拭う。執事「れ、レディ・スザンヌ……まことに申し訳ございません……」スザンヌ「申し訳、とは誰に? 私に? この家に? 違うでしょう――“いなくなった奥様に”よ」沈黙。誰も反論できない。した途端、全てがバレる。⸻スザンヌは
夕暮れのリビング。レディ・スザンヌは帰宅するなり、足音も豪快に、帽子をソファに投げ落とした。「聞いて、あなた! 今日はもう、腹が立つなんてもんじゃないの!」新聞を読んでいた夫――マシュウ卿は、眼鏡をずり上げて、「また何か騒ぎかね」と静かに向き直る。「騒ぎじゃ済まないわ! あの子よ、テオドール!!」「……甥の話か。今度は何があった?」スザンヌは紅茶のポットを乱暴に置き、身を乗り出した。「王命での結婚よ? “夫婦として国を支えよ”って、あの王妃陛下までおっしゃったのに―― 結婚式もお披露目もなく、そのまま戦地へ行って、 帰ってきたら離婚されていたのよ!」マシュウは、新聞を静かに閉じた。ゆっくり、両眉が上がる。「……なんだと?」「まだよ! もっとひどいの!」スザンヌは、指を折りながら怒涛の勢いで続ける。「三年間、一度も手紙なし! 贈り物もなし! 誕生日も祝ってない! 顔も見てない! 会ったことすら、ない!!」「……会ったことが、ない?」「ないのよ! まったく! 書類の婚姻だけで、そのまま三年! で、離婚届だけ置かれて、はい終わり!」マシュウは額を押さえた。「スザンヌ…… あいつ、戦地ではどれだけ働いていた?」「さあね。でも今日、あの子の部下に聞いたわよ」スザンヌの声が、急に落ちる。「“侯爵様は、寝落ちる兵の代わりに見張りにつき、 倒れた騎士の代わりに地図を引き、 夜明けまで指揮と救護と事務を全部ひとりでやっていました” ですって」「…………」マシュウの表情が、一瞬で深く沈む。スザンヌもまた、怒りの中に痛みを滲ませた。「“侯爵様は三年間、一度も休暇を取りませんでした。 食事もまともに取らず、 手紙を書く時間があれば、誰かの傷を縫っていました” って……。 どう思う?」マシュウはゆっくり息を吐いた。「……あいつは、真面目すぎる。 愚直に、命令だけを守るのが悪い癖だ」「そうよ!」スザンヌはカップを強く握った。「でもね、だからといって―― “妻を三年も放っていい理由にはならない”のよ!」「……ああ、その通りだ」スザンヌの声は怒りと痛みが混ざり、震えていた。「戦場で死ぬ覚悟があったのかもしれない。 恋なんて自分には似合わないと、勝手に諦めていたのかもしれない。 でも――」
王命による結婚――それが、テオドールの始まりだった。自分の意思ではなく、国の命令。「戦場に出る前に、身を固めておけ」上からのたった一言で、名も顔も知らぬ伯爵令嬢と婚姻書類に署名し、そのまま戦地へ赴いた。帰ってきてみれば、妻はいない。教会の記録には、淡々と“離婚済み”の印。そんな男は、決して珍しくなかった。⸻■「戦地帰還者支援室」役所の片隅に申し訳程度に作られた相談窓口。薄い壁、金属の椅子、どこか落ちつかない蛍光灯。テオドールは重い足取りでそこへ向かった。鎧より重たく感じる書類の束を握りしめて。「ええと……どのコースをご希望ですか?」若い受付係が事務的な調子で書類をめくる。指先だけはやたら軽やかだ。「……家庭再建、で」「はい、かしこまりました。 ご相談内容は……“戦地に行っている間に、妻が離婚していた”ですね? ああ、こちら、よくあるケースです」“よくあるケース”。その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがきしりと音を立てた。「……そうか」声は平静を装っているのに、手だけが微かに震えていた。⸻やってきた相談員は、にこやかではある。しかし、その目は一度たりともテオドールを見ない。書類の上を、忙しない指が動いているだけだ。「奥様と離婚……はいはい、確認しました。で――復縁をご希望ですか?」「……制度上できないと聞いている」「まあ、そうなんですよねぇ。 じゃあ次のステップに進みましょう」「……ステップ?」「ええ、“再婚を前提とした生活設計見直しコース”です。 この状況からどうリスタートするか、という内容でして」テオドールは言葉を失った。「……私は、再婚の話など――」「奥様がいなくなったのはお気の毒でしたね。 でも、人生は続きます。前向きに行きましょう」相談員の声は明るい。まるで“壊れた時計の修理”をすすめているような軽さだ。「……」(何を聞かされているんだ、俺は)⸻テオドールは椅子を引いた。金属が擦れる音が、妙に大きく響く。「……結構だ」「えっ? もうよろしいんですか? はい、では次の方どうぞー!」あっけらかんとした声。引き留める気配は一切ない。まるで最初から、テオドールという“相談者”など存在していなかったかのように。⸻外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。空はやけ
教会の控え室。 古い木の机の前で、司祭が書類をめくっていた。「では……白い結婚の解消について、あらためてご説明しますね」淡々とした声だったが、どことなく優しい。テオドールは正面で座り、表情を引き締めている。 ただ、その目には疲れと焦りが滲んでいた。「白い結婚というのは、形式上の結婚です。 三年間、夫婦としての交流がない場合――婚姻は自然に無効になります」司祭は紙をそっと置いた。「奥さまは、三年間ずっとお一人でした。 姿を見せず、手紙も送らず、声もかけないとなれば…… 神様から見ても“夫婦ではなかった”と判断されるのは当然です」テオドールの喉が動く。「……つまり、私はもう夫ではないと?」「はい。すでに正式に解消されています」短く、しかしはっきりとした返事だった。しばらく沈黙が続く。 その後、司祭は書類を整えながら、ふと問いかけた。「三年も会いに行かなかったのに…… 今になって奥さまを探されるのは、どうしてでしょう?」テオドールは息を飲んだ。「……放置したつもりはなかった」「ですが奥さまから見れば、三年間“夫として存在しなかった”わけです。 どんな理由があっても、結果だけは変わりません」司祭の声はやわらかいのに、言葉は鋭かった。紙を閉じる音が静かに響く。「もうひとつ。 白い結婚が解消されたあと、同じ相手と“元に戻る”ことはできません。 一方だけが望んでも不可です。 再びご縁を結べるのは――」司祭は静かに微笑んだ。「お互いが“本当に望んだときだけ”。 義務でも、気まぐれでも、情けでもいけません。 神はそのあたり、案外きびしいのですよ」テオドールの唇がかすかに震える。「……そうか」「ええ。どうか、お間違えのないように」テオドールは立ち上がり、礼を言って部屋を出た。外に出ると、光が眩しかった。(……三年。 俺は、何をしていたんだ……)午後の風だけが、静かに彼を抜けていった。遠く離れた港町では、 マルグリット――いや、“マリー”がちょうど紅茶を注いでいた。「新しい茶葉、当たりね。香りがいいわ」まったく別の時間を、 まったく別の人生を生きているふたり。 それでも、偶然はまだ彼らをすれ違わせるつもりでいる。 教会でのすれ違い教会の鐘が、昼の時を告げていた。テオ