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過ぎ去った恋心は、海へと還っていく

過ぎ去った恋心は、海へと還っていく

By:  秋の残暑Completed
Language: Japanese
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七周年の結婚記念日。 須崎周作(すさきしゅうさく)は愛人を家に連れ帰ってきた。 その女は涙で目を潤ませ、私の前にいきなりひざまずいた。 「小林(こばやし)さん、愛に先も後もないわ。私と周作は心から愛し合っているの!どうか私たちを許してください!」 私は周作の方へ顔を向けた。 彼は心配そうに古井美和(ふるいみわ)を抱き上げ、いつもは潔癖な彼が、どうしたらいいのか分からないようにその涙をぬぐった。 そして顔を上げることなく、彼はこう言った。「美和は何もないまま俺に付いてきた。俺は彼女を裏切れない。安心しろ。美和には野心なんてない。ただ家にもう一人が増えるだけだ」 そう言い残し、彼は美和を抱いたまま寝室へと入っていき、扉を閉めた。 彼は忘れてしまったようだ。今日は私たちの結婚記念日だということを。 そして七年前も、何もないまま彼に付いていた少女がいたことを。 テーブルの上で「記念日おめでとう」と輝くライトを見つめながら、私は悟った。 もう、彼と私に未来はないのだと。

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Chapter 1

第1話

潮崎市、センター病院。

「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?主人は?早く呼んでサインをもらってください!」

朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。

呼び出し音は長く続いた。

受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。

「何?」

「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」

「暇じゃない」

彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。

「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」

「彰人さん、誰から?」

電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。

「どうでもいい相手だ」

彼の声が、急に優しくなった。

「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」

耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。

静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。

彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。

「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」

静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。

「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」

若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。

「それにしても、あなたの主人、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!

はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」

「ありがとうございます」

静奈は看護師から名刺を受け取った。

携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。

突然、ニュース速報がポップアップで表示された。

【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】

目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。

写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。

だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。

結婚して四年。

彼はいつも、氷のように冷たく無慈悲だった。

てっきり、それが彼の持って生まれた性格なのだとそう思っていた。

彼の心を動かすため、自分は従順で物分かりの良い「長谷川夫人」を必死に演じてきた。

しかし今、彼が堂々と他の女性を腕に抱き、世間に愛情を見せつけている姿を見て、ようやく悟った。

彼は本当に少しも自分を愛してなどいなかったのだ。

胸が締め付けられるように痛む。

静奈の目には、みるみるうちに涙が滲んだ。

もう、諦めなければ。

四年も続いたこの茶番を、終わらせる時が来たのだ。

静奈は予定より二日早く、退院手続きを済ませた。

医師は心配そうな顔で言った。

「体はまだかなり衰弱していますよ。もう少し入院していた方が……」

「家の用事がありまして」

「しばらくは絶対に安静にしてください。激しい運動は禁止、それから性行為は絶対に駄目ですよ。一週間後にまた検査に来てください」

「ええ、わかりました。ありがとうございます、先生」

静奈は汐見台という住宅街にある一軒家の邸宅に戻った。

家政婦の田所敦子(たどころ あつこ)は、あからさまに不機嫌な顔で彼女を責め立てた。

「若奥様、近頃はますます目に余りますね!何日も家を空けるなんて!若様がお知りになったら、お怒りになりますよ!」

敦子は長谷川家の家政婦という立場だが、その振る舞いは姑同然だった。

彼女は彰人のめのとであり、自分は特別な存在だと自負している。

彰人から寵愛を受けていない静奈のことなど、鼻から見下していた。

静奈は分かっていた。

敦子が自分に対してこのような態度を取るのは、彰人の指示ではないにしても、彼の黙認があるからだ。

でなければ、これほどまで傲慢になれるはずがない。

これまでは、彰人に気に入られようと、静奈は彼の周りの人間すべてに媚びへつらってきた。

敦子にいじめられ、見下されても、いつも腹の底に怒りを押し殺してきた。

しかし、もう我慢する必要はない。

静奈は敦子の頬を思い切り平手で打った。

その声は侮蔑に満ちていた。

「出過ぎた真似を!ただの雇われの分際で、誰に向かってそんな口を利いている!」

「なっ!」

敦子は顔を覆い、愕然とした表情で目を見開いた。まさか静奈が手を出すとは思ってもみなかったのだろう。

「私を叩いた……」

「叩かれて当然よ!何?まさか、やり返すつもり?」

静奈の冷え切った一言が、敦子を凍り付かせた。

いくら若様に疎まれていようと、彼女は長谷川家の大奥様が直々に選んだ人なのだ。

敦子は、込み上げる怒りを無理やり飲み込むしかなかった。

静奈は背を向け、二階へと上がっていく。

背後から、敦子の小声での悪態が聞こえてきた。

「顔が綺麗なだけで、何の役にも立たないくせに。どうせ若様からは見向きもされないんだわ。この家の若奥様の席なんて、すぐに他の人のものになるんだから!」

棘のある言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さる。

彼女は深呼吸をした。

もう、どうでもいい。

今日を限り、彰人に関するすべては、もうどうでもよくなるのだ。

自室に戻った静奈は、私物をすべてスーツケースに詰めた。

彼女の物は驚くほど少なく、スーツケース一つで十分だった。

スーツケースを持ち上げた瞬間、傷口が引きつれた。

腹部に激しい痛みが走り、冷や汗が雨のように流れ落ちる。

静奈は痛み止めを数錠飲んで、ようやく少し落ち着いた。

薬が効いてきたのか、彼女はベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。

深夜。

部屋に、大きな人影が入ってきた。

バスルームからシャワーの音が聞こえ、二十分ほどして、彰人が腰にバスタオルを巻いた姿で出てきた。

彼は彫刻のように整った顔立ちで、広い肩幅に引き締まった腰、そして力強く割れた腹筋のが男性的魅力を放っていた。

水滴が筋肉を伝い、緩く巻かれたタオルの内側へと消えていく。

彼は何も言わなかった。

まるで月に一回の事務的なことをこなすかのように、静奈のネグリジェの裾をめくり上げた。

眠っていた静奈は、痛みに体を震わせた。

「痛い……」

彼女は無意識に彼を押しのけた。

「やめて」

「拒むふりか?静奈、それが新しい手口か?」

低く、嘲るような声が頭上から降ってきた。

彰人は彼女から離れるどころか、報復するように続けた。

「月に一度の夫婦の営みは、お前がおばあさんに頼み込んで実現したことだろう?今更やめたいと?」

傷口が引き裂かれるような痛みに、静奈の目から涙がこぼれ落ちた。

彰人が自分を憎んでいることは分かっている。

数年前。

彰人の祖母である大奥様が、二人の結婚を強引に進めた。

結婚後、彰人が彼女に冷淡な態度を取り続けるのを見かねた大奥様が、月に一度は夫婦として同衾するよう、彼に命じたのだ。

その度に、彼はまるで道具でも扱うかのように、彼女で欲望を処理するだけだった。

四年間にも及ぶ結婚生活を思い返し、静奈の胸は痛みに満たされた。

細心の注意を払い、自分を殺して尽くしてきたというのに、彼の心からの愛情はひとかけらも手に入らなかった。

それならば、これ以上執着する必要がどこにあるだろう?

「彰人、離婚よ……」

静奈が言い終わる前に、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。

彰人は、夜中に電話がかかってくることを非常に嫌う。

しかし、その電話には驚くほど優しく応じた。

「どうした?」

「彰人さん、一人だと怖いの。会いに来てくれない?」

受話器から、甘えたような女の声が聞こえる。

「わかった」

彼は一瞬のためらいもなく承諾した。

その声には、静奈が一度も聞いたことのない優しさが滲んでいた。

「すぐに行くから、二十分だけ待ってて」

電話が切れる。

彰人は、ためらうことなく彼女の上から体をどけた。

そして、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

数分後、階下から車が走り去る音が聞こえた。

涙が枕を濡らす。

静奈は、白くなった指でシーツを固く握りしめた。

愛すると、愛さないとでは、これほどまでに違うのだ。

翌朝。

静奈は離婚協議書をテーブルの上に残し、スーツケースを引いて家を出た。

その瞬間、腹部に骨の髄まで染み込むような痛みが走り、体の下から暖かい何かが流れ出る感覚があった。

太ももを伝って、足元へと落ちていく。

ふと下を見る。

そこには、衝撃的なほどの血だまりが広がっていた。

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mogo
mogo
クズ男テンプレのダイジェスト版だった。 駆け抜けるように早い展開のクズ男。
2025-09-24 01:45:37
3
0
松坂 美枝
松坂 美枝
心の底からクズざまあな話だった
2025-09-23 11:20:39
3
0
7 Chapters
第1話
七周年の結婚記念日。須崎周作(すさきしゅうさく)は愛人を家に連れ帰ってきた。その女は涙で目を潤ませ、私の前にいきなりひざまずいた。「小林(こばやし)さん、愛に先も後もないわ。私と周作は心から愛し合っているの!どうか私たちを許してください!」私は周作の方へ顔を向けた。彼は心配そうに古井美和(ふるいみわ)を抱き上げ、いつもは潔癖な彼が、どうしたらいいのか分からないようにその涙をぬぐった。そして顔を上げることなく、彼はこう言った。「美和は何もないまま俺に付いてきた。俺は彼女を裏切れない。安心しろ。美和には野心なんてない。ただ家にもう一人が増えるだけだ」そう言い残し、彼は美和を抱いたまま寝室へと入っていき、扉を閉めた。彼は忘れてしまったようだ。今日は私たちの結婚記念日だということを。そして七年前も、何もないまま彼に付いていた少女がいたことを。テーブルの上で「記念日おめでとう」と輝くライトを見つめながら、私は悟った。もう、彼と私に未来はないのだと。テーブルの上のケーキは溶けている。使用人が心を込めて用意してくれたディナーも、すでに冷めてしまっている。私はスマホを取り出し、冷たいテーブルに向かって写真を撮った。だが、どれだけ加工しても温かみのある写真にはなれなかった。自嘲気味に笑い、私はスマホを閉じようとした。ちょうどそのとき、美和のSNSがポップアップした。【これから正妻になるわ!】添えられた写真には、彼女と一人の男性が車内で手をぎゅっと握り合って座っている姿が写られている。私は一目で分かった。あれは周作の車だ。そして美和が座っている場所は、かつて周作が「永遠に君だけを乗せる」と約束してくれた助手席だ。私は笑って「いいね」を押し、コメントした。【おめでとう、愛人業は楽しい?】視線を上げ、私は閉じられた主寝室の扉を見つめた。彼女の反応を見たい気もした。その時、扉が突然開き、周作が水気を帯びたまま出てきた。ちょうどシャワーを浴びたばかりで、全身にタオルを巻いただけだ。その胸には至る所にキスマークが残っている。私の視線に気付くと、彼は甘やかすように微笑んだ。「美和がちょっとふざけただけだ。気にするなよ」彼は顔を私の頬に近づけ、キスをしようとした。私はそれを動じ
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第2話
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第3話
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第4話
私はふと、私たちが最も愛し合ったあの頃のことを思い出した。両親は無理やり私を海外に連れて行こうとした。空港で、周作は私の手をぎゅっと握り、離そうとしなかった。その手のひらは熱く、言葉はあまりに心を動かすものだった。私は本気で信じてしまった。両親と絶縁してでも、彼と一緒にいると決めたのだ。私と周作は、本当にあの言葉の通りだった。「先に愛を語る者は先に愛を裏切り、愛に感動された者は愛を諦めきれず」手の中の離婚受理証明書を見つめ、私はそっと息を吐いた。涙は止まらず、頬を伝って落ちていった。あの、全力で一人のために世界と戦った夏は、終わったのだ。私と周作の十年もまた、終わった。私はスマホを開き、飛行機のチケットを予約した。翌日の昼、私は出発の準備をしている。そのとき、美和と周作が家にやってきた。玄関に入るや否や、美和は抑えきれない興奮を目に浮かべた。まだ妊娠が目立たないお腹を押さえ、得意げに私を見つめながら言った。「小林さんのおおらかさのおかげで、私と周作の子どもは、小林さんに感謝しなければならないね!」私は口角を歪めた。「どういうこと?愛人のくせに、子どもがいい人生を送れると思ってるの?」周作がそばにいないため、美和は偽装をやめた。彼女はその善人ぶった仮面を剥がし、鋭く私を睨みつけながら言った。「愛人だってどうってことないでしょ。周作が貧しかった頃はあなたが支えてきたけど、彼は今、私を愛しているの。結局、このゲームの敗者はあなたよ!」確かに彼女の言う通りだ。私は負けた。徹底的に、完全に負けた。私の十年にわたる恋は、彼と他の女の妊娠と出産に換わったのだ。「私が敗者だからって、あなたが勝者とは限らないでしょ」美和は口元を吊り上げ、笑った。「じゃあ、周作のあなたへの最後の愛を壊してあげる」私が反応する間もなく、美和は自分のお腹に向かって強く拳を振り下ろした。すると、真っ赤な血が彼女の白いスカートを染めていった。美和は地面に倒れ、顔色を蒼白にして私を見上げた。「小林さん、私を殴らないで!私にはまだ子どもがいるの!」背後には、叫び声を聞きつけて駆けつけた周作がいた。彼は私のお腹に蹴りを入れた。「何をしているんだ、お前!離婚に同意したのはおとなしくなったと、
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第5話
周作は焦燥しながらICUの前で待っている。頭の中には、さきほど星乃からかかってきた電話のことがぐるぐると渦巻いている。苛立ちは抑えきれない。彼女は、せめて自分が美和の件を片付けてからにしてくれないのか。もう少し大らかでいられないのか。自分は上場会社の社長だぞ。恋人が何人かいたところで何が悪い。周作はネクタイをゆるめ、その柄に目を落とした。ふいに、それが星乃から六周年の記念日に贈られた物だと思い出した。慌ててスマホを取り出したとき、彼はようやく気づいた。自分が美和を家に連れて帰ったあの日は、二人の七周年記念日だったのだ。唇を引き結び、彼の胸の奥に一瞬だけ罪悪感がよぎった。やがて医者が現れ、母子ともに無事だと告げた。周作は安堵の息を吐き、スマホを取り出して星乃に折り返そうとした。だが、コールは長く続くだけで、ついに繋がることはなかった。彼の胸の奥に不安が広がった。もう一度かけようとしたとき、美和が彼の手を引き止めた。涙をため、美和は空に揺れる百合のような儚い表情で言った。「周作、小林さんを責めないで。わざとじゃなかったの。ただ、あなたと赤ちゃんを愛しすぎているだけなのよ!」周作の動揺は瞬く間に霧散した。その瞳に、冷ややかな嘲りが閃いた。「美和、君は優しすぎるんだ。だから星乃は何度も図に乗って、君を害そうとする。このままではもっとひどくなる。今回こそ、きちんと痛い目を見せなければ!彼女が君に謝りに来ない限り、俺は絶対に許さない!」だが待てど暮らせど、星乃は姿を見せなかった。電話にも一切応じなかった。周作の胸には、どうしようもない空虚感が広がっていった。美和は一週間入院した。のち、ようやく彼の促しで退院した。周作の運転する車は飛ぶように進んでいる。彼の心には星乃に会うことしかない。妊娠中の美和のことなど、目にも入らないのだ。家に着くと、リビングはがらんどうで床がぴかぴかに磨かれている。立ち止まることなく、彼は星乃が住んでいた小さめの部屋に入った。すると、彼は思わず息を呑んだ。美和も後を追ってきた。目に映るのは、やはり空っぽの部屋だ。星乃に属するものは、何ひとつ残されていない。胸騒ぎに突き動かされ、彼は主寝室へ急いだ。七年間、星乃と共に暮らした部屋だ
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第6話
「心配するな。すべて準備してある。君は子を盾にして正妻になればいいだけさ!」周作の手は震え、自らの頬を激しく打ちつけた。妻に対して、この数日自分がしてきたことを思い返しながら、彼は何度も何度も自分を打った。通りかかった看護師に止められ、彼はその場に崩れ落ち、声をあげて泣いた。もう、あの馴染み深い腕に抱きしめられることはないのだ。看護師は不器用に彼を慰めるしかなかった。周作は病室の扉を蹴破った。美和と医者は恐怖に顔を引きつらせ、こちらを見た。美和は転げ落ちるように医者の膝から離れ、涙に濡れた顔で訴えた。「周作、やっと来てくれたのね!この医者に乱暴されて、私たちの子が……」周作は鬼のような目で医者を睨みつけた。逆上した医者は叫んだ。「おい、お前のように使い古された女が、まだ俺を陥れようとするのか!須崎社長、これは全部彼女の色仕掛けです!彼女は偽の妊娠を装うために、俺に協力させたんですよ!」周作は美和の首を力いっぱい掴み、その惨めな姿を見下ろした。こんな女に騙されていた自分が、どれほど愚かだったのか。その日の午後、医者と美和は共に牢屋に送られた。周作はまたしても星乃に電話をかけた。だが、いつもと同じ、繋がることはない。彼ははっきりと悟った。星乃はもう帰ってこないのだ。かつて全身全霊で自分を愛してくれた彼女を、自分の手で失ったのだ。……あの日、掃除に来た清掃員に見つかり、私は病院へ運ばれた。胃潰瘍の再発だ。医者は「これ以上の無理はできない」と強く言った。私は黙ってうなずいた。その日の午後、私は飛行機に乗った。両親が暮らすF国へ向かった。外交官の両親を持つ私は、十八歳のときに周作と出会った。一目で恋に落ち、どうしようもなく彼を愛してしまった。両親は猛反対した。「何も持たない男と一緒になれば、苦労するだけだ」と。たとえ彼が成功しても、妻を捨てる可能性は否定できないと。それでも私は恋に溺れていた。当時の自分は、心も視線も彼だけに向け、夢見ていた大学進学さえ捨てた。彼と一緒にいるために、私は国内に残って彼の起業を支えた。両親は失望のあまり、絶縁を言い渡した。今回F国に来たのは、許しを得るためではない。ただ、心から思っている人をもう一度見るためだ。私は両
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第7話
長く続いた穏やかな日々のせいか、最初に周作を見たとき、私は一瞬誰だか分からなかった。その赤く充血している目に、かつての端正さはない。だが、私を見つけた瞬間、彼の瞳はぱっと光を帯びた。かつては、私も同じように彼を見つめていた。だが今の私は、その腕をそっと避けただけだ。周作は、抱きしめ損ねても気にしないようだ。彼はただ、涙を流しながら瞬きもせず私を見つめている。「星乃、やっと見つけた。君に会いたくて気が狂いそうだった!星乃、一緒に帰ろう。もう古井美和の正体が分かった。あの女はただの卑しい人間だった。君を陥れたこともあったが、もう牢屋に入れた。妊娠も嘘だった。俺の財産を騙し取ろうとしただけだ。星乃、俺は間違っていた。君が望むことなら何でもする。一緒に帰ろう!」私は無表情のまま、周作の顔を見つめた。もし昔なら、この言葉を聞いて泣き崩れていたかもしれない。だが今は、ただ可笑しく思えるだけだ。私を傷つけたのは、美和ではなく、彼自身なのに。私を殴り、蹴ったのは彼自身だったのに。私の言葉を信じず、美和の言葉をそのまま死刑宣告のように突きつけたのも彼だった。私は首を振った。「もう戻れない。あなたが彼女と寝た日から、私たちに未来はなかったのよ」周作は信じられないという顔をした。「星乃、俺は本当に間違っていたんだ。君はあんなに俺を愛してくれていたじゃない?俺たちはあんなに愛し合っていたのに、どうして戻れないんだ?」私の手を掴もうと、彼が飛びかかってきた瞬間、背後から明彦は彼を蹴り飛ばした。明彦は慌てて私に駆け寄り、私の頭からつま先まで確かめながら言った。「星乃、大丈夫?こいつに何かされた?」私は首を振り、逆に明彦の手を強く握った。そして周作の目が裂けそうなほど見開かれる中、私はつま先立ちして明彦に口づけた。「違う!違うんだ、分かったぞ、星乃。これは俺への復讐だろう?俺がしたことを許せなくて、わざとこんな芝居を……俺は間違っていた!殴るなり罵るなりしてくれ!」私は鼻で笑った。「あなたが古井美和を選ぶのは許されるのに、私がほかの人と一緒にいるのは駄目?どういう理屈?それに、もう離婚届まで出したでしょ。私たちは完全に無関係だ。言っておくけど、どうか自重してください。私の夫の心を乱さないで」明彦は私を
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