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第845話
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碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第846話
「お父さんだ！」澄んだ子供の声に、綾の思考は遮られた。輝に抱っこされた優希は、中から出てきた誠也に向かって手を振っていた。「お父さん！こっちだよ！」誠也と音々は、それぞれスーツケースを一つずつ押しながら中から出てきた。人混み越しに、綾と誠也の視線が合った。その瞬間、綾は訳もなく胸が締め付けられるのを感じた。綾は一歩前へ出た。誠也はまっすぐ彼女の前にやってきた。そして両手を広げ、綾を強く抱きしめた。人々が行き交う中、綾は顔を彼の胸に埋めた。すると瞬間的に彼の匂いに包まれた。誠也が戻ってきたんだ。「おかえり」綾の声は小さかったが、騒がしい空港の中でも、誠也にははっきりと聞こえた。誠也は喉仏を上下させ、綾の頭に優しくキスをした。この瞬間の安らぎは、何にも代え難いものだった。「ふんっ」二人のそばで、澄んだ子供の声が響いた。「お父さん、ずるい！」娘の抗議に、二人は思わず顔を見合わせた。そして同時に優希の方を向いた。輝に抱っこされた優希は、小さな手で腰に手を当て、ぷくっと膨らませた頬で不満そうに言った。「お父さんは母さんのことばっかり構って、私のことなんか構ってくれないじゃない！」彼女は焼きもちを焼いているのだ。誠也は苦笑しながら、優希を抱き上げた。彼は優希の鼻を軽くつまんで、低い優しい声で語りかけたが、焼きもちを焼いているからといって、彼女の機嫌を取るようなことはしなかった。そして真剣な顔で言った。「お父さんはお母さんが一番好きなんだ。お父さんがお母さんを好きじゃなかったら、優希も安人も生まれてこなかった。お父さんがお母さんを好きだからこそ、優希と安人のことも好きなんだよ」少し難しい話に、優希は頭を掻きながら言った。「つまり母さんはお父さんの中で一番ってこと？」誠也は唇の端を上げて、「その通り」と言った。綾は少し離れたところに立ち、誠也と子供の会話に口を挟まなかった。優希は本当は聞き分けがよく、ちゃんと説明すれば理解できる子だった。「わかった。私も母さんが一番好き！じゃあ、母さんが一番で、私は？お父さん、私は二番目だよね？」誠也は困ったように、安人の方を見た。安人はもう慣れたもので、父親に向かって手を振った。「そうそう、優希ちゃんが二番目だよ！」誠也は微
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第845話
「きちんと計算して？」誠也は堪忍袋の緒が切れた。要の胸ぐらを掴み上げた。「綾を操ろうとして、薬で視力を奪ったことを忘れたのか！挙句の果てに白血病にまで追い込んだんだぞ。医者として、どうしてそんなことができるんだ！綾は実験用のモルモットじゃないんだぞ！医学は人を救うためにある。あなたのような歪んだ欲望を満たすためにあるんじゃない！」要は彼を見据えて言った。「復讐のために、俺と綾の子供にも何かするつもりか？」「安心しろ。俺と綾は、あの子をちゃんと育てる」誠也は要を解放し、車椅子に座る彼を見下ろした。「要、あなたは運がいい。あんな崖から落ちても死ななかった。それはきっと、神様がまだあなたを生かしておく必要があると判断したんだろう。栗原さんから受け継いだ知識を、医学の発展のために使うんだ。あなたの娘を大切に育ててほしいなら、大人しくここにいろ。もし少しでも企みがあれば、彼女が痛い目に遭うことになるぞ」要は息を詰まらせた。「子供を人質にして、俺を脅迫するつもりか？」「脅迫なんてする必要があるか？」誠也は唇の端を上げた。「要、選ぶのはあなただ。あなたの態度次第で、あの子の人生が決まるんだ」要は目を閉じ、そして言った。「協力はする。だが、一度だけでも、彼女に会わせてはくれないか？」「綾がそれを許さないはずだ」要の顔から血の気が引いた。30秒ほどの沈黙の後、彼は突然笑い出し、涙を流した。「綾はあの子を、他の二人の子供と同じように愛してくれるだろうか？」「綾は冷酷な人間じゃない」誠也は低い声で言った。「それに、認めたくはないが、確かにあの子を姪同然に思っている。だが、今の俺と綾の関係を考えれば、俺は彼女の義理の父になる。だから、あの子をないがしろにすることはない。要、一つだけ覚えておけ。あなたが『死んだ』ことになれば、あの子は、あなたが父親であるという汚点から、完全に解放されるんだ」それを聞いて要は顔を覆い、苦しげな嗚咽を漏らした。かつて悪事を多く働いた男は、この瞬間、自分が犯した罪を深く悔いていた。犯した罪のせいで、彼は一生娘と名乗り合うことも、愛する人の許しを得ることもできないのだ。今は死ぬことさえも、要にとっての贅沢だった。誠也は、これが要にとって最大の罰だと感じていた。......3号室を出た誠也は、眉間
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第844話
誠也はドアを閉めた。二人は見つめ合った。誠也は背筋を伸ばし、崖っぷちに立たされていた頃の面影は消えていた。要は、彼の変化を見抜いた。妻子の存在が誠也に自信を与えているようだった。一方、自分はまるで生き地獄を味わっているようだった。要は唇を歪めた。「誠也、俺たちはお父さんの血を引いているのに、なぜあなたと俺の人生はこんなにも違うんだ？」「自業自得だろ」誠也は冷淡な表情で言った。「彼の悪いところは病気みたいなものだ。病気なら治療できる。だが、そのためには、自分が間違っていると認めなければならない。悪いところを病気として受け入れる必要がある。しかし、あなたはそう思っていない。今までの行動がそれを証明している」「今はあなたが勝者だから、そんなことが言えるんだ」要は皮肉っぽく笑った。「あなたが綾を無理やり船に連れ込んで式を挙げたことを忘れたのか？」要に言われなければ、誠也はそのことをすっかり忘れていた。彼は要を見て、冷たく唇を上げた。「綾を拉致しようとしたのはあなたの手下だろ。俺は間一髪で駆けつけて、そいつらと揉み合ったんだ」もう少し遅かったらと思うとゾッとした。もし間に合わなかったら、綾が連れ去られて、どうなっていたか想像もつかなかった。精神的なショックが大きすぎたのか、綾を助けた後、誠也は発作を起こした。そして、船の上で、あんなことをしてしまった......今、思い出しても、胸が痛んだ。彼は、綾を刃物で突きつけられるほど追い詰めていた......幸い全てが終わって、今は良かったと思っている。今では綾との誤解も解け、船の上での出来事は、もう蒸し返したくなかった。綾にあの辛い記憶を思い出させたくないからだ。二人は、辛いこと、苦しいことをたくさん経験してきた。誠也は今後、綾には穏やかに暮らしてほしいと心から願っていたのだ。誠也は考えを巡らせ、要に向き直った。「こんな話をするなら、もう帰るよ」要は、彼を睨みつけた。「誠也、俺が負けたと思っているのか？負けてない！いいことを教えてやろう。俺と綾の間には子供が一人いるんだ！」誠也は唇を固く結んで、彼を見つめた。要は、若美が妊娠している子供は、自分と綾の子供だと信じ込んでいる。未だに綾のことを忘れられず、子供のことも諦められずにいる。「あ
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第843話
確かに、あの男の医学的な才能は稀に見るものだ。誠也は感情に流されるような男ではない。ましてや、大局に関わるような重要なことにおいてはなおさらだ。彼は軽く頷いた。「二人でコソコソ何話してるの？」音々が祐樹と誠也の方へ歩いてきて、二人を見つめた。祐樹は言った。「説得してたんだよ。あいつが碓氷さんに会いたがってるって、何度も言ってくるからな」音々は誠也の方を向いて尋ねた。「明日、帰るんでしょ？」誠也は静かに答えた。「ああ、今日出発する。向こうに着くのは昼間だから、綾と子供たちが迎えに来てくれるのにちょうどいい」「もう、デレデレしないでくれる？」音々は呆れたように言った。「それで、普通の飛行機で帰るつもりなの？」「最近規制が解除されたばかりで、プライベートジェットはまだ許可が下りないんだ。だから普通の飛行機にする」「じゃあ、私も一緒に行きましょう」音々は言った。「北城には久しぶりに行ってないから、美味しいものが食べたいの」誠也は彼女の考えていることが手に取るように分かった。「北城の美味しいものが食べたいのか、それとも、星城市にいる誰かに会いたいのか？」音々は言葉を失った。「輝は昨日、北城に着いたそうだ」誠也は唇の端を少し上げて言った。「音々、あなたの狙いは見え見えだぞ」「そうよ、私は岡崎さんに会いたくて行くのよ。何か文句ある？」音々は鼻を鳴らした。「私たちはもうキスもしたし、一緒に寝たこともあるんだから、会うくらい別に構わないでしょ！」祐樹は驚いて、音々を見た。「音々、あなたと岡崎さんはいつそんな関係になったんだ？」音々は眉をひそめ、兄の慌てふためく様子を見て、思わず笑った。「お兄さん、意外と純情なのね！」祐樹は絶句した。音々は兄の肩を叩いた。「もう、私は32歳よ！恋愛の一つや二つ、普通でしょ？」祐樹は何も言えなくなった。「俺と一緒に来るなら、必要な書類を用意しておけ。俺は先に3号室に行く」そう言うと、誠也は3号室へ向かって歩き出した。誠也が去った後、祐樹は音々に尋ねた。「音々、あなたと岡崎さんは真剣に付き合っているのか？」「真剣に付き合うって、そんなんじゃないわよ！」音々は兄の真剣な様子を見て、思わず笑った。「あの時はたまたまただのよ。それに、一緒に寝たって言っても、ただ同じ布団で寝ただけ
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第842話
綾は毎日規則正しい生活を送っていた。穏やかな日々が過ぎていく。そんなある日、国際ニュースでL国で疫病が発生したと報じられた。綾は誠也に電話をかけるが、繋がらない。彼女は心配で一睡もできなかった。夜が明け、ようやく誠也から電話がかかってきた。「俺は無事だ。だけど、ここで封鎖されてしまって、しばらく戻れないんだ」綾は一人、部屋で夜を明かしていた。目は充血し、声は震えていた。「誠也、どうか無事でいて」それ以上何も言わず、ただこう告げた。「必ず生きて帰ってきて」電話の向こうで、誠也は綾がどれほど心配しているかを感じていた。しかし、彼女はそれを隠そうとしていた。きっと、自分に心配をかけまいとしているのだろう。「綾、心配かけて悪かった。俺は大丈夫だ。ニュースは大げさに報じている。ここはそこまで酷くないし、それに俺たちはずっと基地の中にいる。中島先生の研究ももうすぐ成功する。すぐに帰れる」綾は深呼吸をして、小さな声で、しかし力強く言った。「ええ、信じてる。待ってる」......9月に入った。梨野川の土手に咲くキンモクセイの花が満開を迎えた。しかし、誠也はまだ戻ってこない。綾は待ち続けていた。L国の疫病は鎮静化した。どうやら、ある研究所が開発した特効薬が功を奏したらしい。そして、その研究所こそ、誠也が今回投資していた場所だった。祐樹もそこにいた。9月8日、綾は誠也から電話を受けた。明日、帰国するという連絡だった。綾は張り詰めていた緊張が解け、鼻の奥がツンとした。「何時の飛行機？子供たちと一緒に出迎えに行くよ」「後でフライト情報を送る」誠也の声は低かった。「サプライズで現れようと思ったんだが、お前をこれ以上待たせたくない。心配をかけるのも一日でも短くしたいから」「この電話がサプライズよ」綾はスマホを握りしめ、熱いものが込み上げてきた。「誠也、私と子供たちが、あなたを迎えに行くね」それを聞いて誠也の胸は締め付けられた。彼の声はさらに優しく、低くなった。「ああ」-L国。研究基地。誠也は名残惜しそうに電話を切った。祐樹は彼を見て、からかい気味に言った。「今回帰国したらすぐに結婚式するつもりですか？」誠也は彼の方を向き、少しだけ口角を上げた。「そうしたいですが、それは綾
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第841話
大輝は眉をひしかめた。「そんなに簡単に妊娠するわけ......」「二人目を望むなら、ちゃんと計画を立てて、最後まで責任を持って」真奈美は薬の袋を開け、錠剤を取り出し、大輝の目の前でそれを口に放り込むと、水を注ぎに行った。そして、水で薬を流し込んだ。コップを置いてから、真奈美は続けた。「大輝、あなたが二人目を焦っているのは知っている。それに、今、内心で淡い期待を抱いていることも。もし私が妊娠したら、堕ろす理由もないし、あなたは子育てを口実に私を専業主婦に戻そうとしているんでしょ」図星を突かれ、大輝の顔色は変わり、固まってしまった。彼は口を開こうとしたが、何も言葉が出てこなかった。真奈美は怒ってはいなかったが、事態がそこまで発展することを彼女が許すわけにもいかなかった。「大輝、あなたに私を愛し、気遣ってほしいなんて要求しない。だから、あなたも私に理想の妻像を押し付けないで。お互いに一歩引いて、うまくやっていくのはどう？」その言葉に大輝は拳を握りしめた。二人は見つめ合った。沈黙する中、緊迫した空気が流れた。しばらくして、大輝は拳を解いた。「わかった」「ありがとう」真奈美は振り返り、デスクに戻って仕事に戻った。大輝は彼女を見ながら尋ねた。「体はいつ診てもらうんだ？」「明日は大丈夫のはずよ」真奈美は言った。「もしあなたが時間があるなら、明日にでも行きましょう」「ああ」大輝は尋ねた。「昼は一緒に食べるか？」「やめておくよ」真奈美はキーボードを叩きながら言った。「午後は会議がいくつか入っているの。しばらく会社を離れていたから、今の状況を把握しておかないと」真奈美は仕事に関しては、常に有無を言わさないタイプだったのだ。それを聞いて、大輝はそれ以上何も言わなかった。......夜9時過ぎ、綾はようやく誠也から電話を受けた。そして、誠也がL国に行っていたことを知った。L国の治安は国内に比べてはるかに悪かった。誠也の電話は電波が悪く、声が途切れ途切れだった。綾は不安げに眉をひそめた。「どうしてそんなに電波が悪いのかしら？」「もうすぐ基地に着く。この辺りはかなり田舎だから......電波が悪いんだ」誠也の声は途切れ途切れだった。「これから数日間は連絡が取れないかもしれない。心配しないでく
