تسجيل الدخول三久のわずかに持ち直していた心が、一瞬にして凍りついた。奈落の底に突き落とされるような絶望感で、視界がぐらりと揺れた。「なんて運が悪いのよ。どこに行ってもあいつに会うなんて」梨々香が、唇をほとんど動かさずに声を絞り出した。三久の瞳がわずかに震えたが、何事もないかのように懸命に装って口を開いた。「社長、こんなところで偶然ですね。また秦先生のところにいらしたんですか」「本当に『偶然』だな」由樹の口調には、どこか冷ややかな含みがあった。「お前も、また友人の付き添いか」三久の中で張り詰めていた糸が、少しずつだが確実に緩んでいった。「あっ」梨々香は反射的に強く頷いた。「そうなんです。あたしの付き添いで来てもらってて。酒井社長、お久しぶりです」三久と由樹が結婚していた二年間で、梨々香が由樹に会ったのは一度きりだった。体外受精が成功した日、梨々香は三久を連れ出して、朝まで一緒にお祝いするつもりでいた。ところが夜も更けた頃、由樹が三久を迎えに来た。マンションの前には、黒いロールスロイスが静かに停まっていた。当時、梨々香が住んでいたマンションを一棟買えてしまいそうなほどの超高級車だ。ほんの五分ほど停まっていただけなのに、住民用の掲示板にはすぐ写真が上がり、たちまち大騒ぎになった。いったいどんな大物が来たのかと、皆が好き勝手に噂していたものだ。「鈴木さん、どうも」由樹は薄い唇を開き、静かに軽く会釈した。彼を前にすると、あの気が強い梨々香でさえ、自然と態度を控えめにしてしまう。梨々香は内心、この男は見る目がない、三久より千歳みたいな女を選ぶなんて、と毒づいていたけれど、それでもこの男には、上に立つ者特有の圧倒的な威圧感があった。しかも所作は紳士的で品がある。梨々香は思わず背筋を伸ばしてしまった。挨拶を終えると、その場の空気は一瞬にして重く固まった。ガチャリと診察室のドアが開き、龍太郎が出てきた。四人の視線が、無言のまま交錯する。梨々香は三久の腕を組んだまま、小声でため息交じりに囁いた。「あら、こんなに若くてイケメンで、しかも腕もいい婦人科医だなんて、すごいじゃない!」「これは、うちの恩師の名刺です。できれば……」龍太郎は三久に軽く会釈したあと、由樹の前に歩み寄り、一枚の名刺をすっと差し出した。彼の声は
龍太郎は非常に聡明な男だった。前に会った時点で、龍太郎も気づいていたはずだ。三久が担当医を変えてもらうために、ここへ来ていたことに。その後、三久の担当は智宏に替わった。それなのに、巡り巡って、また龍太郎の診察を受けることになったのだ。三久は思った。おそらく龍太郎はすでに彼女の妊娠に気づいているが、由樹はまだ知らないはずだと。「ありがとうございます」「気にしないでください。医者として当然のことです」龍太郎は薄く微笑んだ。三久は階下に降り、一、二時間ほどかけて検査を受けたあと、結果の書類を受け取った。それを手に、再び階上の診察室へと向かった。その頃、龍太郎はその日の診療を終えようとしていた。最後の患者を診察している最中だった。三久は診察室の前でしばらく静かに待ち、その患者が診察を終えて出てきたのを見計らってから中へ入った。「秦先生」彼女は検査結果を龍太郎に手渡した。龍太郎はそれを受け取り、しばらく黙って目を通していた。やがて、わずかに眉をひそめる。「少し気になる数値が出ています。詳しく調べるために、追加の検査を受けた方がいいでしょう」三久は妊娠してから受けたあらゆる検査で、胎児がやや小さめであることを除けば、これまですべて順調だった。突然告げられた気になる結果に、すぐには事態を飲み込めなかった。「そ、それはどういう……」龍太郎は彼女を落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を続けた。「まずは落ち着いてください。今の段階では、あくまで可能性が示されただけです。実際には、詳しく調べても問題が見つからないこともあります」「もし何かあるとしたら……どんな可能性があるんですか」三久は息を詰めた。胸を強く締めつけられたようで、うまく息ができなかった。児童養護施設で暮らしていた子供たちの中には、身体に障害があったり、生まれつき障害のある子もいて、彼女はそれを見るたびに胸を痛めてきた。自分の子供にそんな問題があるなんて、なおさら受け入れられない。それでも……ずっと待ち望んできた、この世界でたった一人、自分と血のつながった愛しい存在なのだ。「染色体異常の可能性を示す所見が見られます。さらに検査をして可能性を否定できなければ、生まれてくる赤ちゃんにダウン症などの染色体異常があることも……」龍太郎は、三久が
下りのエレベーターの中には、三久と千歳の二人だけだった。「ねえ。妊娠してること、どうして公表しないの?」ここ数日、結婚式の詳細を話し合ううちに、千歳の抱えていた不安は少しばかり和らいでいた。それでも彼女は機会を見つけて、三久と少し話をしたいと考えていたのだ。腹を割って、三久のお腹の子について直接問い質したかった。三久には、千歳がいったい何を考えているのかさっぱり分からなかった。今に至るまで、由樹の前で三久の妊娠を暴露していないのだから。だが、千歳がすでに真実を知っていることだけは、彼女の態度から確信していた。「ちょうどいい機会が見つからなくて」千歳はエレベーターの金属の壁に映る三久の顔を、射抜くようにじっと見据えた。「ちょうどいい機会が見つからないの?それとも、わざと隠してるの?私の知る限り、あんたは独身よね。その子……誰の子なの?」三久は数秒ほど沈黙し、ゆっくりと顔を上げて淡々と千歳を見つめ返した。「村上さんも安心してください。この子は、社長とはまったく関係ありません」三久がそこまではっきりと言い切るのを聞いて、千歳の張り詰めていた気持ちは少し和らいだ。それでも千歳は完全に油断することはできなかった。もし三久がわざとそう言って自分の警戒を緩めさせ、その隙を突いて由樹の子を産もうと企んでいるのだとしたら?ポーン、と音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。外には何人かの社員が待っていた。「村上さん、早坂さん」「村上さん!」千歳が振り返ると、瞬時に愛想の良い笑顔を取り戻し、笑いながら他の社員たちと気さくに挨拶を交わした。その裏に潜む不信感を、三久ははっきりと感じ取っていた。彼女の唇の端に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。コーヒーを買って戻ると、千歳はすぐにオフィスに戻って由樹の傍らに付き添った。三久は皆にコーヒーを配り終えると、無言で自分の仕事に取りかかった。その後二日連続で、千歳は毎日欠かさず会社にやって来た。以前のように三久をあれこれとこき使うことはなくなっていたが、まるで泥棒でも見張るかのような態度で三久を絶えず警戒し、由樹を「奪われる」のではないかとひどく気に病んでいた。数日後、妊婦健診のために三久は休みを取り、ようやく毎日監視されているような息苦しい日々から一時的に逃れることができた。
一週間後、由樹は村上家の面々と顔を合わせ、結婚式の詳細を話し合った。三久はその場には同席しなかったが、後にニュースの報道を通して、最終的に決まった内容を知ることとなった。結婚式は西戸グランドホテルであげることになり、ウェディングドレスは海外の有名デザイナーによるオーダーメイド。その価格は数億円にも上るという。「酒井があんなに羽振りがいいって知ってたら、あなたが結婚した時、何も要求しなかったのはまずかったんじゃないの」梨々香はそのニュースを見るなり、すぐさま三久に電話をかけてきた。「何億もするドレスに金銀宝石でしょ?離婚した後に中古で売ったって、あたしたちが一生遊んで暮らせるくらいの額になるわよ」三久は温かい飲み物をカップに注ぎ、ゆっくりと口に運んでいた。あの雨に打たれた日から軽い風邪をひいており、なかなか治りきらず、今日まで長引いていた。彼女の眼差しは、手元を照らす暖色の光にかすかに揺れていた。背後には明かりのついていないリビングが広がり、一面薄暗くがらんとしている。その静けさが、いっそう彼女の孤独を際立たせていた。「確かに、多少は要求しておくべきだったかもね」そうしていれば、愛菜の治療費のあてもつき、あの絶好の機会をつかんで彼から離れることもできただろうに。「ねえ、結納金として贈られる金額って、いくらだと思う?」梨々香は急に興味をそそられたらしい。「どうせ何十億ってレベルなんでしょ?だって村上は酒井の一番の宝物だったわけだし」三久は少しずつ温かい飲み物をすすった。「さあね」酒井家はお金にまったく困っていない。いくら用意したところで、彼らにとっては単なる形式にすぎないのだ。由樹にせよ摩美にせよ、千歳に対して世間から見劣りするような対応をするはずがない。二人の結婚式の日取りが決まり、三久の心の中は複雑に絡み合いながらも、どこかふっと軽くなったような気もしていた。会社のグループチャットでは、社員全員が由樹と千歳の結婚をこぞって祝福していた。千歳はその祝福の一つひとつに丁寧に応え、次期社長夫人という立場で親しげな言葉を返していた。朝の眩しい日差しが百栄ビルを照らし、ビル全体を輝く金色の光で染め上げていた。三久がエレベーターを降りると、ちょうど社長室の半開きのドアの向こうに、ひときわ華やかな人影があるの
今夜、由樹の会食の席には哲朗が同席していた。三久が研を送り届けて帰路につく頃には、雨足はさらに強まっていた。道中では玉突き事故まで起きていた。これ以上運転を続ける気にはなれず、三久は車を安全な場所に寄せて停め、雨脚が弱まるのを待つことにした。由樹から電話がかかってきたのは、ちょうどそうして待機している時のことだった。着信に出たものの、折悪く救急車とパトカーが甲高いサイレンを鳴らして通り過ぎ、サイレンの音で由樹の声がほとんどかき消されてしまった。「社長?」周囲が少し静かになったのを見計らい、三久は呼びかけた。「今どこにいる」由樹が低い声で尋ねる。「帰宅途中です」由樹は窓の外で激しく降りしきる雨を見つめ、険しい目つきになった。「先に車を停めておけ」「前の方で事故が起きていて、すでに安全な場所に停めてあります」三久は表情を引き締めた。由樹の緊迫した口調が、単なる仕事の話をするためのものではないと気づいたからだ。「神崎が橋本社長に電話して、大野を解雇しろと言ってきた」由樹は端的に用件だけを告げた。車窓に映る三久の顔が、突然曇った。「神崎社長はどうしてそんなことを」三久と洲人の間に、いったい何があるのか、由樹にはよく分からなかった。だが、二人の間に何かおかしな因縁があることだけは確かだった。「二度とお前の私事で仕事に支障をきたすな。今回限りだ」由樹の声は、さらに鋭く冷たいものになった。「今回は俺の方で片づけておく」そう言い捨てるなり、彼は電話を切った。三久がまだ状況を飲み込めないうちに、耳元にはすでに通話終了を知らせる無機質な音が響いていた。――片づけるって……橋本社長に、大野さんをクビにしないよう話をつけるってこと?私のために?しばらくして、ようやく彼女は気づいた。由樹がわざわざ電話をかけてきたのは、彼女に助けが必要かどうか確かめるためだったのだ。由樹の目には、三久と研が特別な関係にあるように見えているのだろう。しかし彼女がまだ何も答えないうちに、由樹はすでに彼女の代わりに決断を下してしまっていた。決めたなら決めたでいい。だが、なぜあんなにも怒っているように聞こえるのだろうか。まるで三久の方から懇願して、彼にそうさせたかのように。雨音がしとしとと車体を叩き、彼女の
「どうやら、私と食事に行くのは嫌みたいですね。いいですよ、また別の日に誘います。でも花はもう買ったんですから、受け取ってください。花に罪はありませんから」押しつけがましさはなく、あくまで紳士的な態度だった。三久は花を押し返した。「受け取れません。気をつけて帰ってくださいね」もったいないからと一度受け取れば、次もまた同じことが起きる。「じゃあ、家まで送りましょうか?」何度も断られるとは思っていなかったのか、研の笑顔がわずかにこわばった。三久は肩にかけた鞄を掛け直した。「大野さん、あなたさえよければ、私たちならきっと良い友人になれると思います」彼女は研を評価していた。貧しい家の出でありながら実力で這い上がってきた研には、彼女自身と同じ粘り強さと芯の強さがあった。同じビジネスの世界にいる者同士、後ろ盾のない者たちが助け合うことには、互いにとって意味がある。研は聞きたかった。もし自分が友人になることを望まなかったら、どうするのかと。けれど三久の表情を見て、その答えを悟った。もし彼がこのまま押し通せば、二人は友人にすらなれない。「すみません、困らせてしまって。じゃあ、この花は受け取ってください。私たち……これからは友達ということで」差し出された花は、もはや意味合いが変わっていた。三久は快く受け取った。彼女が研の言葉に答えるより早く、周りからいくつかの驚きの声が上がった。会社の若手社員たちが、驚いて見ていたのだ。「帰ってくださいね」三久が唇を開き、そう言った矢先、突然、激しい雨が降り出した。雨足は強く、あっという間に服を濡らしていく。三久はすぐに会社の入り口へと引き返し、雨宿りをした。研もその後についてきた。スマホを取り出して確認すると、天気予報では今夜は大雨で、この先二時間はやみそうにないとあった。「どうやって来たんですか?」彼女は研に尋ねた。研は気まずそうに答えた。「タクシーで」彼の役職では、まだ社用車はあてがわれていない。以前は車を持っていたが、母親の治療費のために手放していた。退勤ラッシュに加えて雨まで降っているとなると、タクシーはすぐには捕まらないだろう。「送っていきます」三久は車のキーを取り出した。研は頷いた。「ありがとうございます。お手数をおかけします」三久は彼を連れて会社
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべき
リビングにいる全員が反応する間もなく、二階から足音が響いた。由樹の母、酒井摩美(さかい まみ)が急ぎ足で降りてきた。五十近いとは思えない、三十代にしか見えないほど若々しい体型だ。真紅のショールを羽織っただけで、氷点下の外気も厭わず玄関へ向かった。眩しいほどのヘッドライトが消え、三久の目にようやく全体が映った。由樹と並んで車を降りてきたのは、千歳だった。三久の前ではいつも澄ました顔をしている摩美が、千歳に親しげに腕を組まれたまま笑っている。由樹は穏やかな顔でトランクを開け、いくつかの紙袋を取り出しながら、ふたりが話し込むのを静かに待っていた。絵に描いたような理想の家族の光
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」







