LOGIN彰人が席に着くと同時に、願乃は一切、彼に発言の余地を与えなかった。彼女は会議室をひと巡り見渡し、淡々と口を開く。「すでに皆さまご存じかと思いますが、私が帰国する以前、当社第二位株主であった氷室彰人は保有していた20%の株式をすべて現金化し、あわせて代表取締役社長の職を辞任しました。本日、私は最大株主としてここに戻り、氷室さんの決断を正式に承認します。これをもって、氷室さんはメディアグループの一員ではありません」彼女は顔を横に向け、彰人を見る。「氷室さん、ここまでです。この先は内部会議になりますので、ご退出ください」――ざわっ。会議室が一斉にどよめいた。これが願乃がメディアを率いる、その最初の一手だった。無駄がなく、冷静で、私情は一切ない。その姿に、誰もがかつての舞を重ねた。――なるほど。伊達にあの家の娘ではない。かつてはどこか柔らかく、守られる存在だった願乃は離婚という激変を経て、まるで別人のように生まれ変わっていた。彰人は願乃を見つめた。その瞳に浮かんでいたのは怒りではなく――明らかな賞賛と、抑えきれない驚きだった。――俺の願乃は成長した。――完全に、脱皮した。だから彼は腹を立てるどころか、穏やかに微笑み、紳士的に頷いた。「分かりました。では、周防社長のオフィスで待たせていただきます」願乃は黙って彼の背中を見送った。彰人が会議室を出ると、廊下から差し込む陽光が、彼の全身を照らした。なぜか、その光はどこか寂しさを帯びて見えた。――まるで、彼の時代がここで終わったかのように。願乃は横を向く。「モナ。会議室のドアを閉めて」モナは一瞬、動きを止めたが、すぐに歩み寄り、ドアへ向かった。背中越しに、去っていく彰人の姿を見つめると、なぜか視界が滲んだ。だが彼女は小さく首を振り、感情を押し殺し、メディアのその扉を静かに閉めた。――バタン。会議室は水を打ったように静まり返った。願乃の声は低く、しかし確かに響いた。「本日より、私がメディアの経営を直接指揮します。皆さまには、少しだけ時間をください。もし、氷室彰人と同様に株を現金化したい方がいらっしゃれば、一週間前の株価で、私が買い取ります。ただしその場合、今後――メディアグループ、栄光グループ、ならび
メディアグループの会議室には、大口から小口まで、株主たちがびっしりと席を埋めていた。彰人が持ち株を現金化し、完全に身を引いた。それはメディアに激震が走る出来事だった。同じように手放したいと考える株主は少なくなかったが、今この局面で売っても値はつかない。だからこそ、彼らは願乃の帰国を待っていた。彼女が舵を取り、どう判断するのか――それを聞くために。コツ、コツ、と。高いヒールの音が廊下に響く。願乃が会議室に入ってくると、視線を巡らせた。まだ来ていないのは彰人ただ一人。その姿を認めた途端、株主たちは一斉に不満を吐き出した。「周防さん、ようやく戻ってきてくれましたな」「これまで我々が氷室社長についてきたのは先代会長を信じていたからですよ。まさか、あんな形で皆を裏切るとは……」「せめて一言あれば、こちらも備えられた。それを、こそこそと売り抜けて……」「ニュースが出た途端、メディアの株価は一日で二百円も落ちたんですぞ。このまま有力な管理者が立たなければ、連続ストップ安ですよ」「我々はもう老い、配当だけを頼りに生きている。それすら奪うつもりなのか」「そうだ、そうだ。一人で腹いっぱいになって」「ツケは全部、こっちに押し付けやがって……」……当然、耳に入れたくない言葉はまだ続いた。願乃は軽く手を上げ、主席に腰を下ろした。――この人たちはずる賢くて、臆病だ。彰人は十分すぎるほど威圧してきた。辞職した今でさえ、まだ彼を恐れている。そう思った、そのとき。会議室の入口で、足音が止まった。小走りでやって来たモナが、願乃に耳打ちする。「周防さん、氷室さんがお見えです」室内が一気にざわめき、罵声が飛び交う。だが、彰人が姿を現した瞬間、誰一人として口を開けなくなった。会議室は水を打ったように静まり返った。彰人はすぐには入ってこなかった。入口に立ったまま、静かに室内を見渡す。――そして、願乃を見つめた。彼女が来ると知り、あえて選んだのは黒と白のクラシックなスーツ。それは願乃が最も好んでいた一着だった。ネクタイも、髪の整え方も、完璧だった。再会するまで、長い歳月が流れた。彼はすでに四十を越えている。願乃はわずかに疲れを帯びていたが、相変わらず鮮やかな美し
澄佳がそう言うと、翔雅は言葉を失った。「願乃を戻らせるって?正気か?願乃に、時価総額が兆規模の会社を背負わせるつもりか?そんなの無理に決まってるだろ。願乃は小さい頃から大事に育てられてきた。仕事の苦労なんて、味わったことがあるか?」……澄佳はなおも、窓の外の夜を見つめたまま、語りかけるように続けた。「じゃあ翔雅、聞くけど。彼が辞めたあと、周防家でその席に座れる人間が、他に誰がいる?両親?もう高齢よ。兄?彼は今、栄光グループを率いている。規模はすでにメディアの倍。それとも私?この身体で、あの重責を背負えると思う?残るのは願乃だけ。彰人はそこまで読み切っているのよ。最適解は最初から願乃しかなかった。見てなさい、彼女が戻れば、二人は必ず再び顔を合わせることになる。翔雅。私はこれまで、彰人をやり手のビジネスマンだと思ってきた。生まれつき、商売に向いた男だって。でも今は……恐ろしいほどに、計算高い男だと思っている。当時、彼があれほど容易く願乃を妻にできたこと。今となっては、少しも不思議じゃないわ」……改めて思い返してみると、確かにそうだった。彼はあまりにも自然に、人の信頼を手に入れていった。その才能そのものがすでに恐ろしい。澄佳は声を潜めて言った。「彼を見ていると、ある人を思い出すの。私の父よ。もし彰人が父と同じ出自を持っていたら……その思考はもっと複雑で、底知れないものになっていたでしょうね。資金を回収して身を引き、願乃を引き戻す。普通の人間に、そんなことができる?」翔雅は大きく頷いた。「前から思ってたよ。あいつ、どこかおかしい。一年以上、女にも手を出してないって聞いたし、ホルモンバランスでも崩れてるんじゃないか?」澄佳は一瞬言葉を失った。彼女は振り向きざま、きっと睨んだ。「あなたも、そこまでとは思わなかったわ」翔雅は歩み寄り、悪びれもせず妻を抱きしめた。真正面から見つめて言う。「俺たちも、もう一週間だぞ。このままじゃ、俺もホルモンが乱れて、理性を欠いた判断をしないとも限らない。株価のため、社員のため――澄佳、少し犠牲になってくれ……な?」女は言葉を失った。――こんな時に、そんなことを考える余裕があるのか。だが翔雅は実に楽観的だった。来たものに対処するだけだ。彰人はす
ほどなくして、正月がやって来た。気づけば、願乃が旅立ってから、すでに半年以上が過ぎていた。この半年のあいだに、鈴音は手術を受けた。それでも、彼女はしぶとく生き延びた。体調が回復すると、鈴音は毎日のように彰人にまとわりつき、別荘へ迎えに来てほしいと電話をかけ続けた。だが彰人は彼女の電話を取ることはなかった。代わりに、古びたリハビリ専門の療養病院に入院させ、世話役として麗子をつけた。月給百万円。麗子はそれだけで十分に満足していた。そうして、春が過ぎ、夏が来て、やがて秋冬が巡ってきた。彰人には願乃からの便りは一切なかった。顔を合わせることも、当然ない。結代の口からも、願乃の名前が語られることはほとんどなかった。そのうち彰人はどこか現実感を失っていった。結代の存在がなければ、自分は本当に願乃と愛し合い、結婚し、あの幸福を手にしていたのかどうかさえ、疑わしくなっていたかもしれない。正月になると、彰人は何度か周防家を訪れた。だが、そこに願乃の姿はなかった。――正月ですら、帰ってこない。やはり、俺に会いたくないのだろう。二度目の正月も、彼女は姿を見せなかった。そのとき、彰人は悟った。この先の人生で、自分が再び願乃を手に入れることはほぼ不可能なのだと。そう理解した夜、彼は長い時間、煙草を吸い続けた。数日後、彰人は密かに、自身が保有する株式を少しずつ現金化し始めた。彼が持つメディアの二〇%の持ち株は静かに市場へ流され、すべてが完璧に処理された。名義変更の書類にすら、誰一人気づかなかった。だが、願乃が保有する四〇%は絶対的な支配権を持つ株だ。もしメディアの経営が揺らげば――それは彰人が去ることを意味する。そうなれば、願乃は戻らざるを得ない。メディアを引き継ぐために、帰国せざるを得ない。両親の苦労を思えば、彼女がそれを見捨てるはずがない。しかも、そんな展開はほとんど誰も予想しない。――よほど、彰人が正気を失っていない限りは。だが、彼はそれをやった。周防家全体を敵に回すことを承知の上で。彼は恐れていた。願乃が戻ってこないことを。イギリスに定住してしまうことを。事実、願乃はイギリスで長く暮らすつもりでいた。本来なら、結代も連れて行く予定だ
しばらく、モナはどう返せばいいのか分からなかった。ただ一つ分かったのは氷室社長の運はどうやら一気に尽きてしまったらしい、ということだけだ。前半生は正直かなり悲惨だった。だが周防さんと結婚してからはまるで運気が開けたように出世街道を駆け上がった。それなのに、不甲斐ない。大切にもしなかった。よりによって、昔の幼なじみと関係を持つなんて。女の心の闇がどれほど深いか、分からなかったのだろうか。結果はこれだ。離婚した矢先に、大病を患うことになる。モナは自分は決して人の不幸を喜んでいるわけじゃない、ただ心配しているだけなのだと思い込もうとした。そう、きっと心配しているのだ。間違いない。医師との話を終え、モナは病室の扉を押して中へ入った。彰人はすでに目を覚ましており、ベッドの背に身を預けたまま、静かに何かを考え込んでいるようだった。その姿を見た瞬間、胸がきゅっと痛み、モナは足早に近づいて布団を整え、声を落として言った。「先生もおっしゃってました。手術さえすれば大丈夫な病気です。ただ、これからは気持ちを切り替えて、あまり思い詰めないこと。お仕事も無理は禁物です。術後は少なくとも半年は静養が必要だそうですよ」だが彰人は天井を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「願乃がイギリスへ行くらしい」二年。それはあまりにも大きな変数だった。若くして離婚した女性。しかも、あれほど美しく、性格も良く、人に好かれ、家柄まで申し分ない。三百六十度、死角のない条件だ。優秀な男性と出会うことなど、たやすいだろう。帰国するとき、彼女は男を連れて戻ってくるのではないか――彰人は突然、何かに取り憑かれたように布団を跳ね除け、声を荒らげた。「退院する。周防本邸へ行く。願乃に会いに行くんだ」モナは必死に止めた。だが、止まらない。最後には思い切って、上司の頬を平手で打ち、そのまま腰を抱えてベッドに押し倒し、首元を強く押さえつけた。「落ち着いてください!あなたと周防さんは、もう離婚しているんです。やり直したいなら、まずは身体が大事でしょう。今の女性は誰だって結婚の質を求めるんですから!」彰人は荒く息をしながら、モナを睨みつけていた。しばらくして、彼の手の力がゆっくりと抜け、だらりと落ちた。モナは慌てて
願乃は静かに頷いた。「ええ。イギリスに行くの。少し、自分を磨いてくるわ」そう言った瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。彼女はとても若い頃に彰人と出会い、そのまま人生を共にした。その後、学業を深めることもなく、慈善活動に関わる上流夫人たちの輪の中で生きてきた。その生活は穏やかで、華やかで、まるで童話のようだった。周囲から見ても、そして何より自分自身が幸運だと思っていた。――まさか、三十を過ぎてから、再び外の世界へ出ることになるなんて。彼女はイギリスへ渡り、月に一度は帰国して結代に会うつもりでいる。彰人の顔色ははっきりと青ざめていた。ちょうどその時、店員が近づき、小声で尋ねる。「お客様、コーヒーはいかがなさいますか?」彰人は手を上げた。指先がわずかに震えている。「ブルーマウンテンを一杯、お願いします」店員は空気を察し、すぐにその場を離れた。やがてコーヒーが運ばれてくる。だが彰人は口をつけなかった。低い声で、ぽつりと漏らす。「願乃……もし、俺が後悔しているって言ったら……まだ、間に合うだろうか」そう言って、彼女を見つめた。その瞳には、隠しきれない乞うような色があった。願乃はそっと顔を背けた。彼女は実に単純な人間だ。一度決めたことは決定だ。始まりも、終わりも――例外はない。願乃はコーヒーカップを手に取り、ひと口含もうとしたが、すぐに冷たさに気づき、結局、静かに置いた。彰人の胸に、冷たいものが広がる。男としてのプライドと矜持が、鈴音のことが報復だったなどと語ることを許さなかった。そんなことを言えば、あまりにも無様だ。それに――言ったところで意味はない。願乃の決意は揺るがない。彰人は少し考え、静かに言葉を選んだ。「願乃、お前を引き止めるつもりはない。ただ、これだけは信じてほしい。俺は一分たりとも、お前と離婚したいと思ったことはなかった。すべては、やむを得ない選択だったんだ。鈴音の病状が落ち着くか、あるいは……彼女がいなくなったら、その時こそ、お前を取り戻すつもりだった。お前が海外に行きたいなら、止めない。外の世界を見てきなよ。若い女の子は外へ出るべきだ」――彼は彼女を「若い女の子」と呼んだ。これが彰人という男だ。離婚してなお、情の深さ
澪安は書斎で煙草を一本吸い、心を落ち着けてから寝室に戻った。だがベッドには慕美の姿がない。眉をひそめて歩を進め、クローゼットを覗くと、彼女が中で衣類を整えていた。澪安はしばらくその様子を眺め、扉に寄りかかったまま口を開いた。「ここには毎日二時間、家政婦が入ることになっている。料理ができないなら、別に手配しようか」慕美は手を止め、小さな声で答えた。「要らない。自分で片づけたいの」「他人がいるのは、好きじゃない?」「ええ……一人に慣れているから」澪安はそれ以上言わなかった。――どうせこの部屋はいずれ彼女の名義になる。だが「分かれる」という未来を思い浮かべ
慕美は淡々と笑みを浮かべた――本気にしてはいない。欲しいのは二千万円。叔母の命をつなぐ、その金だけだ。西園寺に身を差し出すのであって、澪安のためではない。すべてが終われば、背を向けて立ち去るつもりだった。もちろん、屈辱はある。だが今回、彼女は――澪安に売られたのだ。……夜更け。慕美は病院に足を運んだ。叔母は眠っており、痛みに耐えた後の疲労が顔に刻まれている。起こさぬよう、脱ぎ捨てられた衣を手に取り、共用の洗面所で黙々と洗う。深夜、月光が白く射し込む。疲労は骨の髄まで沁みていた。だが叔母が倒れて以来、彼女には「疲れた」と口にする資格すらなかった。――あ
慕美――まるで職場を一掃するために現れたようだった。結果、彼女は係長に任命され、結花はその後の仕事が一気に忙しくなり、給料も二段階引き上げられた。一斉に息を呑む中、澪安は慕美を腕に抱いたまま、取り巻きに囲まれて歩き出す。美月はその姿を見つめ、爪を掌に食い込ませ、嫉妬と怒りで気が狂いそうになった。父親の存在を気にしなければ、今すぐにでもこの女を引き裂いていただろう。――これほどの後ろ盾を隠しておいて、私をこんな目に遭わせるなんて。だが、いくら憤っても無駄だ。人には運というものがある。……数分後、澪安は慕美をトップフロアへと連れて行った。この姿のままでは外を歩か
澄佳はしゃがみ込み、そっと彼のセーターをめくった。「傷口、見せて」彼が家の使用人に薬の処置をさせるはずもなく、大抵は自分で適当に済ませていることを澄佳は知っていた。ここ数日でどれほど治っているのか、気になって仕方がない。翔雅の胸中は柔らかくも、密かな喜びで満ちた。——やはり彼女は気にかけてくれている。彼はあっさりセーターを脱ぎ、半ば横になって見やすくした。セーターを脱げば、鍛え抜かれた腹筋があらわになる。その左腹には七、八センチほどの傷痕があり、まだ完全に塞がってはおらず、薄紅色の生々しい肌が覗いていた。澄佳は指先でそっと触れ、顔を上げて問う。「まだ痛むの?」