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第604話

Author: 風羽
その言葉を口にしたとき、慕美はほとんど彼の前にひれ伏すようだった。

あまりにも卑屈で、あまりにも尊厳がなかった。

澪安は一瞬、幻を見た気がした。

——そうだ、あれが九条慕美であるはずがない。彼女は誇り高く、男に仕えるために身を屈めるような女ではなかった。

無意識に力のこもった掌を離し、ズボンのポケットから札入れを取り出すと、数枚の紙幣を抜いて差し出した。心ばかりのチップのつもりだった。

慕美はそれを受け取り、小さな声で囁く。

「ありがとうございます、周防さま」

その顔を見ていると、澪安の胸に妙な苛立ちが募った。手を振り、支配人に告げる。

「全員下げろ。今夜は女はいらん」

支配人は慕美を見つめ、複雑な表情を浮かべた。彼女が九条の姓を持つことを知っている。なぜ彼女は、この機を逃すのか……

やがて女たちが引き揚げると、部屋には古くからの仲間だけが残った。

空気は軽くなり、宴司が翔雅にそっと目を送る。その眼差しが求めていることは言葉にせずとも明らかだった。

翔雅は薄く笑みを浮かべ、部屋の奥のソファに腰を下ろした。

煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込みながら、冷ややかな視線を宴司に向ける。

「電話で俺を主役だのなんだの持ち上げておいて、結局は土地の口利きか。どうだ、宴司。人の力がなきゃ、一人では歩けないのか?」

宴司は肩をいからせて叫んだ。

「翔雅、あのとき女を横取りされたこと、まだ根に持ってんだからな!」

翔雅は鼻で笑った。

「おまえが嫁にしたがった女は十や二十じゃない。結局ひとりも手に入らなかったじゃないか」

やり合う声が飛び交う中、澪安は吸い終わった煙草を灰皿に押しつけ、もう一本取り出した。

宴司はすぐにライターを取り出し、掌で火を覆いながら差し出す。

澪安は黒い瞳でじっと見下ろした。

宴司は苦笑して肩を竦める。

「そんな目で見るなよ……その顔、男の俺でも惚れちまう」

澪安は小さく笑みを浮かべ、煙草に火を移すと、仰向けに煙を吐き出した。

やがて視線を落とし、低く告げる。

「東郊の土地は商業指定じゃない。他に押さえた奴がいる。だが北の方にひと区画ある。開発向きだ。気に入れば秘書に案内させる。値段は市場価格で構わん」

宴司は満足げにうなずく。

「助かる。ありがとうよ」

そう言って、翔雅にも笑いかける。

翔雅は意に
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