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第659話

Author: 風羽
翔雅はその夜、真琴と二度身体を重ねた。

深夜、真琴は疲れ果てて眠りにつき、翔雅はひとり浴室で汗を流したあと、リビングのバルコニーに出て煙草をくゆらせる。

淡い煙は夜風に攫われ、どこか知らぬ空へ消えていく。

月光の下、白い浴衣姿の男はデッキチェアに身を預けていた。

肉体は満たされているはずなのに、胸の奥にはどうしようもない空虚が広がっている。

見上げれば、新月の細い光。

思い浮かぶのは真琴の肢体ではなく、芽衣と章真の幼い顔だった。

——こんな夜は、どうしても子どもたちに会いたくなる。

背後から、柔らかな腕が彼を抱き締めた。

真琴が目を覚まし、ベッドに彼がいないことに気づいて裸足でやってきたのだ。

艶やかな桜色のシルクの寝間着をまとい、男の髪先に指を滑らせながら囁く。

「何を考えてたの?」

翔雅は口を濁し、彼女の頬を軽く叩いた。

「別に。どうして眠らないんだ?」

真琴は微笑み、甘えるように寄り添う。

「眠るのが惜しかったの。翔雅、久しぶりだったわね。さっき……すごくよかった。若い頃よりも、ずっと」

彼は苦笑でやり過ごす。

——かつて澄佳には、よく茶化して言葉を投げたものだったのに。

腕にあるのは昔の恋人、そして未来の妻のはずなのに、心のどこかで無理をしている。

女の勘は鋭い。

真琴は彼の心ここにあらずの様子に気づき、誰を想っているかも悟っていた。

それでも何も言わず、彼の首に腕を回して甘える。

「ねえ……私たちのスタジオの名前、もう決めようよ。『真耀』ってどう?真琴と翔雅を合わせたみたいで、すごくいいと思うの」

翔雅は特に気にも留めず頷いた。

その名が「星耀」と一文字違いであることに、気づきもしない。

……

三日後、相沢真琴の個人事務所【真耀エンターテインメント】が設立された。

翔雅が全面的に後ろ盾となり、彼女ひとりのために動く贅沢な組織。

立ち上げ直後から大手ブランドの契約が次々と舞い込み、真琴の地位とイメージは一気に高まった。

一方その頃——

星耀エンターテインメントの本社ビル。

澄佳は珍しく出社していた。

半月後にはドイツで二度目の手術を受けることが決まっており、周防家の面々も同行する予定だ。

澪安は複数の会社を抱えて多忙だが、子どもたちも一緒に行く。

周防夫人や周防寛夫婦も高齢ながら、最後になる
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