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6話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 07:57:13

差出人は、鷹司蒼介。

ほんの数分前に送ったばかりだった。

【ご連絡、拝見しました。西園寺ホテルを、ご自身の手で残したいというお気持ちが変わっていないのであれば、まだお話しできることはあります】

瀬里奈は、その一文をもう一度読んだ。

ご自身の手で。

二階堂が出してきた契約書にはなかった言葉だった。

メールは続いている。

【明日20時でしたら時間を取れます。一度、お話ししませんか】

瀬里奈は少し考えてから返信した。

【ありがとうございます。

現在、クルーズ船上におります。船内から通話できますので、明日20時でお願いいたします】

送信。

画面右下の時刻は、すでに22時を回っていた。

陸にいれば、1日を終える時間だ。

けれど、この船では違う。

夕食を終えた乗客たちはラウンジやカジノへ流れ、日付が変わる頃まで生演奏やショーが続く。

夜が深くなってから、もう一度船が目を覚ます。

瀬里奈はパソコンを閉じた。

今夜は、すぐに眠れる気がしなかった。

部屋へ戻る途中、エレベーターホールの案内板で足を止めた。

【23:30ミッドナイト・ガラショー】

中央劇場。

開演前にはアトリウムで生演奏とカクテルサービスもあるらしい。

乗船してから、怜士と結婚式に関係のない予定を選んだことがあっただろうか。

瀬里奈はしばらく案内板を見ていた。

それから、自分の部屋へ戻った。

クローゼットを開く。

並んでいる服のほとんどが、首元を覆うものだった。

一番奥に、濃紺のドレスがある。

肩から鎖骨にかけて、緩やかに開いたデザイン。

買ったものの、一度も着ていなかった。

瀬里奈はハンガーから外し、鏡の前で身体に合わせた。

左の首筋から肩へ続く火傷の痕が、一部見える。

一瞬、いつものストールへ手を伸ばしかけた。

手が止まる。

昨日までなら、怜士がどう思うかを先に考えていた。

今夜は、それを考える理由が思いつかなかった。

23時を過ぎても、中央アトリウムは眠る気配がなかった。

3層分の吹き抜けを囲むように金色の照明が灯り、中央では弦楽四重奏が演奏している。

ガラス張りのエレベーターがゆっくり上下し、その向こうには夜の海。

階段の下にはシャンパンタワー。

カジノへ向かう人。

劇場へ向かう人。

グラスを片手に音楽を楽しむ人。

瀬里奈は足を止めた。

乗船してから、この船をこんなふうに見たのは初めてだった。

結婚式。

怜士。

梨花。

そればかりを見ていた。

けれど、この船には、それとは何の関係もなく夜を楽しんでいる人たちがいる。

音楽が1曲終わった。

拍手が吹き抜けいっぱいに広がる。

瀬里奈も小さく手を叩いた。

「瀬里奈さん?」

声に振り返る。

梨花だった。

肩を大きく出したアイボリーのドレス。

梨花の視線が、瀬里奈の首元で止まった。

「それ……」

瀬里奈は何も言わない。

「傷、見えてるよ?」

「ええ」

「え?」

「知ってる」

梨花が一瞬、言葉を失った。

「でも今日は人も多いし……」

「そうね」

瀬里奈は近くを通ったスタッフからシャンパンを受け取った。

「無理して見せなくてもいいと思うよ。昨日のことがあったからって――」

「無理してないわ」

瀬里奈は梨花を見る。

「着たかったから着ただけ」

グラスへ口をつける。

梨花の目が、ほんの少し細くなった。

「何の話だ?」

怜士がやってきた。

瀬里奈を見るなり、眉を寄せる。

「お前、その服――」

「似合わない?」

「そういう話じゃない」

「ならいいわ」

「瀬里奈」

呼び止める声を残し、瀬里奈は時計を見た。

「もうすぐショーが始まるから」

ひとりで劇場へ向かった。

劇場へ続く通路には、すでに人の列ができていた。

途中でスタッフが頭を下げる。

「申し訳ございません。ただいま演出機材の搬入中のため、こちらの通路を一時閉鎖しております」

乗客たちが足を止めた。

「劇場へお越しのお客様は、こちらからご案内いたします」

壁と一体になっていた扉が開いた。

その向こうは、先ほどまでの華やかな船内とはまるで違う。

白い壁。

飾り気のない床。

リネンカート。

食器を運ぶスタッフ。

細い通路の先には、乗務員用のエレベーターが見えた。

瀬里奈は少しだけ目を見開いた。

ホテルのバックヤードとよく似ている。

客からは見えないところに、もうひとつの建物がある。

子供の頃、西園寺ホテルでも何度も見た景色だった。

「足元にお気をつけください」

スタッフに促されて進む。

途中、壁に船内図が貼られていた。

現在地。

劇場。

マリーナデッキ。

客室フロア。

それらを縦につなぐサービス階段。

瀬里奈は自然と目で追った。

すぐに列が動き、数十秒後には再び豪華な船内へ出た。

23時30分。

劇場の照明が落ちた。

暗闇の中に、深い青の光が広がる。

舞台いっぱいに映し出されたのは、夜の海だった。

ダンサーたちが波のようにうねり、その中央を、ひとりの女が走る。

追いかけるように何人もの手が伸びる。

次の瞬間。

女の身体がふわりと持ち上がった。

何人ものダンサーに支えられながら、青い光の上を高く舞う。

海の中にいたはずなのに。

まるで、そのまま空へ飛んでいくようだった。

客席から小さな歓声が上がる。

瀬里奈はひとりで、その姿を見上げていた。

怜士も梨花もいない。

それが寂しいとは思わなかった。

舞台を見て。

音楽を聴いて。

面白ければ笑い、終われば拍手をする。

たったそれだけの時間が、久しぶりだった。

結婚式のために乗った船。

ずっとそう思っていた。

けれど今夜初めて、この船には怜士とは関係のない景色も、音も、時間もあるのだと知った。

ショーが終わった時には、日付が変わっていた。

乗客たちと一緒に劇場を出る。

ガラス窓の向こうでは、月明かりが海に細い道を作っていた。

スマートフォンが震えた。

メールだった。

鷹司蒼介。

先ほどの日時確認への返信だった。

【お約束の20時、承知しました】

その下に、もう一文あった。

【一点だけ確認させてください。

今も、西園寺ホテルを手放すおつもりはありませんか】

瀬里奈は立ち止まった。

短く返信する。

【ありません】

迷わなかった。

すぐにメールが返ってきた。

【そうですか】

そして、その下。

【変わっていなくて、安心しました】

瀬里奈の指が止まった。

変わっていなくて――?

鷹司蒼介とは、一度も会ったことがないはずだった。

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