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5話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 07:55:52

火災のあと、瀬里奈は何年も同じ悪夢を見ていた。

煙。

息のできない熱気。

炎の向こうにいる怜士。

ここ数年になって、ようやく夢に出てくる回数も減っていた。

昨夜までは。

夢の中で、炎が突然消えた。

代わりに足元が崩れ、身体が冷たい海へ落ちる。

水面の向こうに怜士がいた。

瀬里奈が手を伸ばす。

けれど、その手は届かない。

「……っ!」

瀬里奈は飛び起きた。

息が荒い。

額にも、首筋にも汗が滲んでいた。

しばらくして、ようやく夢だったと分かった。

終わったはずの悪夢が、形を変えて戻ってきた。

カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

しばらくして、ここが船の自分の部屋だと分かった。

右手首が痛む。

見ると、昨日ついた赤い指の跡がまだ残っていた。

瀬里奈はベッド脇へ手を伸ばした。

小さなバッグ。

その時、チャイムが鳴った。

「西園寺様、お届け物です」

船内スタッフから渡されたのは、厚い封筒だった。

「二階堂様側からお預かりしております」

「ありがとう」

部屋へ戻り、テーブルの上に置く。

表には、

【挙式前確認書類】

と記されていた。

瀬里奈はしばらく見つめてから、封を開けた。

挙式後の住所。

資産管理。

西園寺ホテルへの支援方針。

何枚かめくったところで、瀬里奈の指が止まった。

【西園寺ホテル株式に関する議決権委任契約書】

見覚えのない書類だった。

父が残した信託の内容なら、瀬里奈も知っている。

婚姻成立後、信託されていた西園寺ホテルの株式は、瀬里奈へ移る。

父が決めたのは、そこまでだ。

けれど、目の前にある書類には、その先があった。

株式が瀬里奈へ戻った後、その議決権を二階堂側へ委任する。

契約当事者の欄には、

【甲:西園寺瀬里奈】

【乙:二階堂ホールディングス株式会社】

と記されている。

瀬里奈は一番下へ視線を落とした。

【発効日:婚姻成立時】

指先が止まった。

結婚した瞬間、父が自分へ戻してくれる株。

その瞬間に、この契約も発効する。

瀬里奈の脳裏に、展望ラウンジで聞いた会話が蘇った。

「他に選択肢がないからだ」

「西園寺のこと?」

「ああ」

「6日目には、ちゃんと花嫁になる」

瀬里奈はもう一度、契約書を見た。

――あの時、怜士が言っていたのは、これだったの?

夕方。

瀬里奈は書類を持って、クラウンラウンジへ向かった。

最上階の窓いっぱいに、沈みかけた太陽が広がっている。

怜士は窓際の席にいた。

向かいには梨花。

瀬里奈が来ても、梨花は席を立たなかった。

「何だよ」

怜士が言う。

瀬里奈は書類をテーブルへ置いた。

「これ、どういう意味?」

怜士は書類を一度見ただけで、グラスへ手を伸ばした。

「見たままだろ」

「これは父の信託条件じゃない」

怜士の手が止まる。

「父が決めたのは、結婚したら株を私に戻すところまでよ」

瀬里奈は議決権委任契約書をテーブルへ置いた。

「これは二階堂家が用意した契約でしょう?」

「ああ」

怜士はあっさり認めた。

「だったら何だ」

「私には一度も説明してない」

「今説明しただろ」

「結婚直前に、サインする書類の中へ入れて渡すことを、説明とは言わないわ」

怜士の眉が寄った。

「面倒な言い方するなよ」

「西園寺ホテルを助けるって、ずっと言ってたよね」

「助けるさ」

「私から議決権を取ることが?」

「取るんじゃない。任せてもらうんだ」

怜士は椅子の背にもたれた。

「今のお前には経営権もない。資金もない。結婚して株が戻ったところで、ひとりで何ができる?」

瀬里奈の指が、書類の端を押さえた。

「だから二階堂が動かす。それの何が悪い」

「西園寺ホテルは、なくならないの?」

「名前くらいは残せる」

名前くらい。

瀬里奈は怜士を見た。

「父のホテルとして?」

「まだそんなこと言ってるのか」

怜士が小さく息を吐いた。

「だから、お前には他に選択肢がないんだよ」

瀬里奈の目が止まった。

同じ言葉。

あの朝、航平に言っていた言葉だった。

「……そういうことだったの」

「何が?」

「あなたが、私には結婚をやめられないって言い切ってた理由」

怜士は答えなかった。

「瀬里奈さん」

梨花が柔らかい声で口を挟んだ。

「怜士は悪いことをしようとしてるんじゃないよ」

瀬里奈は梨花を見る。

「今の状態でホテルがなくなるより、二階堂家に任せたほうが安心じゃない?」

梨花は困ったように笑う。

「普通だったら、とっくに手放していてもおかしくないでしょう?」

瀬里奈は何も言わなかった。

「怜士と結婚すれば、西園寺って名前も残るんでしょう?だったら――」

「もういいわ」

梨花の口が止まった。

瀬里奈は怜士を見る。

「7年前から、そのつもりだったの?」

「何が」

「私と結婚する理由」

一瞬だけ、怜士の表情が変わった。

「また話を大袈裟にするな」

「答えて」

「親同士が決めた婚約だろ」

怜士はグラスを置いた。

「それに今さら理由なんてどうでもいい。結婚すれば全部まとまる」

「全部?」

「西園寺も残る。お前も困らない。俺たちも予定どおり結婚する」

怜士は瀬里奈を見た。

「何が不満なんだよ」

瀬里奈は答えなかった。

昨日、海へ落ちた。

怜士が選んだのは梨花だった。

それでも、まだひとつだけ残っていた。

この人が自分を愛していなくても。

父が残したホテルだけは、守ってくれる。

そのために、ここまで来た。

瀬里奈は書類へ目を落とした。

「……分かった」

怜士の肩から力が抜けた。

「最初からそう言えばいいんだよ」

梨花もほっとしたように微笑む。

「瀬里奈さん、きっとそのほうが――」

瀬里奈は書類を持ち上げた。

「これは預かるわ」

「ああ。式までにサインしておけ」

「分かった」

瀬里奈は席を立った。

夜。

瀬里奈は船内のビジネスラウンジで、1通の古いメールを開いていた。

1年前に届いたものだった。

差出人は、鷹司グループホテル事業戦略室。

西園寺ホテルへの資本提携の打診。

条件の中には、

【西園寺ブランドの継続】

【既存ホテルの歴史・文化的価値を尊重する】

という文言もあった。

当時、何度か面談を求められた。

瀬里奈はすべて断った。

西園寺ホテルを他人へ渡したくなかった。

それ以上に、

「俺がいる。西園寺は二階堂が立て直す」

怜士の言葉を信じていたから。

瀬里奈は古いメールを最後まで読んだ。

末尾には、短い一文が添えられている。

【今すぐご決断いただく必要はありません。西園寺の名を残したいというお気持ちが変わらない限り、いつでもご連絡ください】

その下に名前があった。

【鷹司蒼介(たかつかさ そうすけ)】

瀬里奈は返信ボタンを押した。

少し考えてから、文字を打つ。

【以前いただいた資本提携のお話について、改めてご相談させていただけないでしょうか】

それ以上は書かなかった。

今ここで、西園寺ホテルを誰かに託すと決めたわけではない。

ただ、一度断った話を、自分の目で確かめたい。

最後に名前を入れる。

西園寺瀬里奈。

送信。

【メッセージを送信しました】

瀬里奈は画面を見つめた。

これでいい。そう思って、パソコンを閉じかけた。

その瞬間。

静かなラウンジに、メールの通知音が響いた。

【新着メール、1件】

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