Se connecter火災のあと、瀬里奈は何年も同じ悪夢を見ていた。
煙。
息のできない熱気。 炎の向こうにいる怜士。ここ数年になって、ようやく夢に出てくる回数も減っていた。
昨夜までは。
夢の中で、炎が突然消えた。
代わりに足元が崩れ、身体が冷たい海へ落ちる。
水面の向こうに怜士がいた。
瀬里奈が手を伸ばす。
けれど、その手は届かない。
「……っ!」
瀬里奈は飛び起きた。
息が荒い。
額にも、首筋にも汗が滲んでいた。
しばらくして、ようやく夢だったと分かった。
終わったはずの悪夢が、形を変えて戻ってきた。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
しばらくして、ここが船の自分の部屋だと分かった。
右手首が痛む。
見ると、昨日ついた赤い指の跡がまだ残っていた。
瀬里奈はベッド脇へ手を伸ばした。
小さなバッグ。
その時、チャイムが鳴った。
「西園寺様、お届け物です」
船内スタッフから渡されたのは、厚い封筒だった。
「二階堂様側からお預かりしております」
「ありがとう」
部屋へ戻り、テーブルの上に置く。
表には、
【挙式前確認書類】
と記されていた。
瀬里奈はしばらく見つめてから、封を開けた。
挙式後の住所。
資産管理。
西園寺ホテルへの支援方針。
何枚かめくったところで、瀬里奈の指が止まった。
【西園寺ホテル株式に関する議決権委任契約書】
見覚えのない書類だった。
父が残した信託の内容なら、瀬里奈も知っている。
婚姻成立後、信託されていた西園寺ホテルの株式は、瀬里奈へ移る。
父が決めたのは、そこまでだ。
けれど、目の前にある書類には、その先があった。
株式が瀬里奈へ戻った後、その議決権を二階堂側へ委任する。
契約当事者の欄には、
【甲:西園寺瀬里奈】
【乙:二階堂ホールディングス株式会社】
と記されている。
瀬里奈は一番下へ視線を落とした。
【発効日:婚姻成立時】
指先が止まった。
結婚した瞬間、父が自分へ戻してくれる株。
その瞬間に、この契約も発効する。
瀬里奈の脳裏に、展望ラウンジで聞いた会話が蘇った。
「他に選択肢がないからだ」
「西園寺のこと?」
「ああ」
「6日目には、ちゃんと花嫁になる」
瀬里奈はもう一度、契約書を見た。
――あの時、怜士が言っていたのは、これだったの?
夕方。
瀬里奈は書類を持って、クラウンラウンジへ向かった。
最上階の窓いっぱいに、沈みかけた太陽が広がっている。
怜士は窓際の席にいた。
向かいには梨花。
瀬里奈が来ても、梨花は席を立たなかった。
「何だよ」
怜士が言う。
瀬里奈は書類をテーブルへ置いた。
「これ、どういう意味?」
怜士は書類を一度見ただけで、グラスへ手を伸ばした。
「見たままだろ」
「これは父の信託条件じゃない」
怜士の手が止まる。
「父が決めたのは、結婚したら株を私に戻すところまでよ」
瀬里奈は議決権委任契約書をテーブルへ置いた。
「これは二階堂家が用意した契約でしょう?」
「ああ」
怜士はあっさり認めた。
「だったら何だ」
「私には一度も説明してない」
「今説明しただろ」
「結婚直前に、サインする書類の中へ入れて渡すことを、説明とは言わないわ」
怜士の眉が寄った。
「面倒な言い方するなよ」
「西園寺ホテルを助けるって、ずっと言ってたよね」
「助けるさ」
「私から議決権を取ることが?」
「取るんじゃない。任せてもらうんだ」
怜士は椅子の背にもたれた。
「今のお前には経営権もない。資金もない。結婚して株が戻ったところで、ひとりで何ができる?」
瀬里奈の指が、書類の端を押さえた。
「だから二階堂が動かす。それの何が悪い」
「西園寺ホテルは、なくならないの?」
「名前くらいは残せる」
名前くらい。
瀬里奈は怜士を見た。
「父のホテルとして?」
「まだそんなこと言ってるのか」
怜士が小さく息を吐いた。
「だから、お前には他に選択肢がないんだよ」
瀬里奈の目が止まった。
同じ言葉。
あの朝、航平に言っていた言葉だった。
「……そういうことだったの」
「何が?」
「あなたが、私には結婚をやめられないって言い切ってた理由」
怜士は答えなかった。
「瀬里奈さん」
梨花が柔らかい声で口を挟んだ。
「怜士は悪いことをしようとしてるんじゃないよ」
瀬里奈は梨花を見る。
「今の状態でホテルがなくなるより、二階堂家に任せたほうが安心じゃない?」
梨花は困ったように笑う。
「普通だったら、とっくに手放していてもおかしくないでしょう?」
瀬里奈は何も言わなかった。
「怜士と結婚すれば、西園寺って名前も残るんでしょう?だったら――」
「もういいわ」
梨花の口が止まった。
瀬里奈は怜士を見る。
「7年前から、そのつもりだったの?」
「何が」
「私と結婚する理由」
一瞬だけ、怜士の表情が変わった。
「また話を大袈裟にするな」
「答えて」
「親同士が決めた婚約だろ」
怜士はグラスを置いた。
「それに今さら理由なんてどうでもいい。結婚すれば全部まとまる」
「全部?」
「西園寺も残る。お前も困らない。俺たちも予定どおり結婚する」
怜士は瀬里奈を見た。
「何が不満なんだよ」
瀬里奈は答えなかった。
昨日、海へ落ちた。
怜士が選んだのは梨花だった。
それでも、まだひとつだけ残っていた。
この人が自分を愛していなくても。
父が残したホテルだけは、守ってくれる。
そのために、ここまで来た。
瀬里奈は書類へ目を落とした。
「……分かった」
怜士の肩から力が抜けた。
「最初からそう言えばいいんだよ」
梨花もほっとしたように微笑む。
「瀬里奈さん、きっとそのほうが――」
瀬里奈は書類を持ち上げた。
「これは預かるわ」
「ああ。式までにサインしておけ」
「分かった」
瀬里奈は席を立った。
夜。
瀬里奈は船内のビジネスラウンジで、1通の古いメールを開いていた。
1年前に届いたものだった。
差出人は、鷹司グループホテル事業戦略室。
西園寺ホテルへの資本提携の打診。
条件の中には、
【西園寺ブランドの継続】
【既存ホテルの歴史・文化的価値を尊重する】
という文言もあった。
当時、何度か面談を求められた。
瀬里奈はすべて断った。
西園寺ホテルを他人へ渡したくなかった。
それ以上に、
「俺がいる。西園寺は二階堂が立て直す」
怜士の言葉を信じていたから。
瀬里奈は古いメールを最後まで読んだ。
末尾には、短い一文が添えられている。
【今すぐご決断いただく必要はありません。西園寺の名を残したいというお気持ちが変わらない限り、いつでもご連絡ください】
その下に名前があった。
【鷹司蒼介(たかつかさ そうすけ)】
瀬里奈は返信ボタンを押した。
少し考えてから、文字を打つ。
【以前いただいた資本提携のお話について、改めてご相談させていただけないでしょうか】
それ以上は書かなかった。
今ここで、西園寺ホテルを誰かに託すと決めたわけではない。
ただ、一度断った話を、自分の目で確かめたい。
最後に名前を入れる。
西園寺瀬里奈。
送信。
【メッセージを送信しました】
瀬里奈は画面を見つめた。
これでいい。そう思って、パソコンを閉じかけた。
その瞬間。
静かなラウンジに、メールの通知音が響いた。
【新着メール、1件】
怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。瀬里奈は一度も出なかった。何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。どれも変わっていなかった。「……ただいま」誰もいない部屋に、小さく言った。寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。下の道を、自転車が通り過ぎていく。帰ってきたのだ。ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。瀬里奈は短い文を消した。そのまま蒼介との画面を開く。【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】送信してから、もう一文だけ添えた。【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。返事は、着替えを選んでいる間に届いた。【分かりました。今日はゆっくりしてください】瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。ここでは、誰に見られるわけでもない。髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。……冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。今日はもう、紅茶が冷める前
窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。怜士がどこに立っているのか、もう分からない。瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。「寒くありませんか」顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。「少しだけ」差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。「ありがとうございます」蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。さっき、皆の前で言った。結婚しません、と。もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。そう思った途端、窓の景色が滲んだ。声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。「すみません」「聞こえません」思わず彼を見る。蒼介はヘッドセットに軽く触れた。「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。……着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。カーテンも、テーブルの水も揺れていない。瀬里奈は入口で立ち止まった。海ではない。窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」蒼介の声に振り向いた。「そこまで、すみません」言ってから、機内での言葉を思い出した。彼の眉がわずかに上がる。「……ありがとうございます」今度は頷いてもらえた。ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったような静かな表情に戻っていた。「結婚式は、いつですか」「明後日です」蒼介は一度だけ頷いた。「分かりました。こちらでも、それまでに確認できることを整理します」「お願いします」それ以上、結婚について聞かれることはなかった。通話が終わる。暗くなった画面を見ながら、瀬里奈は小さく息を吐いた。翌日の夕方。船長主催のキャプテンズ・ディナーが開かれた。スイート客と招待されたVIPだけが入れるメインダイニングには、シャンデリアの光が降り注ぎ、窓の向こうには黒い海が広がっている。入口では船長が1組ずつ客を迎え、記念撮影を終えた人々がシャンパンを手に席へ向かっていた。船がゆっくり揺れるたび、天井のクリスタルが細かな光を散らす。ピアノと弦楽器の生演奏。磨かれた銀のカトラリー。白い花の向こうを、正装したスタッフが音もなく行き交う。窓の外では、船が残す白い航跡だけが、月明かりの下で長く伸びていた。明日は結婚式。そのために乗船した親族や、両家と長く付き合ってきた人々も多かった。瀬里奈がテーブルへ向かうと、梨花が怜士の隣に立っていた。「あ、瀬里奈さん」梨花はにこやかに振り返る。「まだ体調、完全じゃないでしょう?私が怜士の隣に座るから、瀬里奈さんは端でゆっくりしたら?」海へ落ちたことを気遣っているような口調だった。「ありがとう」瀬里奈は微笑んだ。「でも今日は、私にご挨拶くださる方も多いから。自分の席に座るわ」梨花の笑顔がわずかに止まった。「そう……だよね」瀬里奈は、自分の名前札が置かれた席へ座った。以前なら、場を乱したくなくて譲っていたかもしれない。今日は、その必要が分からなかった。船長の乾杯が終わると、何人もの人が瀬里奈へ声をかけた。「瀬里奈ちゃん、いよいよ明日だな」「ありがとうございます」「お父様がいたら、きっと喜んだだろう」胸の奥が少しだけ痛んだ。父なら、今の自分に何と言うだろう。瀬里奈は笑顔を崩さず、頭を下げた。別の女性が懐かしそうに目を細める。「小さい頃はホテルのロビーを走っていたのにね。結婚したら、少しはホテルのことから離れて休めるでしょう?」瀬里奈は一瞬だけ言葉を選んだ。「いいえ。これからも関わっていくつもりです」「あら、そうなの?」「はい。まだ、やりたい
ベッドで目を覚ました時には、もう10時を回っていた。瀬里奈はスマートフォンを手に取る。今夜20時。鷹司蒼介との通話。その予定を確認し、ベッドを出た。遅めのブランチを取るため、プールデッキ横のレストランへ向かった。白いパラソルの向こうには、どこまでも海が広がっている。怜士たちはすでにテーブルにいた。「昨夜、ひとりでショーに行ったんでしょう?」梨花が聞く。「ええ」「寂しくなかった?」「思っていたより、ずっと楽しかったわ」航平が笑った。「へえ。瀬里奈さん、急にひとり旅満喫してるじゃん」「ひとり旅ではないけど」「怜士への当てつけ?」瀬里奈は顔を上げた。「ひとりでショーを見るだけで、誰かへの当てつけになるの?」航平の笑顔が止まった。「いや、そういう意味じゃ……」「ならよかった」瀬里奈は何事もなかったようにメニューへ視線を戻した。「瀬里奈さん、昨日からちょっと雰囲気変わったよね」梨花の目が、瀬里奈の首元へ向く。今日もハイネックではない。火傷の痕が少し見えていた。「そう?」「うん。服も――」「瀬里奈」怜士が遮った。「昨日の書類、今日中にサインしておけ」「まだ確認が終わってないわ」「何を確認することがあるんだよ」「私が署名する書類でしょう?」瀬里奈は彼を見る。「私が確認するわ」怜士の眉が寄った。「昨日説明しただろ」「説明されたことと、私が確認することは別よ」以前なら、まず「分かった」と答えていた。けれど今は、その一言が出てこなかった。「昨日から何なんだよ」航平が笑う。「まだ海に落ちたの怒ってるんじゃない?」瀬里奈は彼を見る。「怒ってはいないわ」「じゃあ何?」「一度海に落ちたら、自分の足元くらい自分で確認したくなるものよ」航平は黙った。怜士と梨花は顔を見合わせる。まだ、少し拗ねているだけだと思っているようだった。午後、瀬里奈は部屋で資料を整理した。父の信託資料。1年前の鷹司グループからの提案書。二階堂から求められている議決権委任契約。議決権を二階堂側へ委任すること。発効日は婚姻成立時であること。挙式前に署名を求められていること。必要な部分だけを整理し、契約の趣旨が分かる資料にまとめた。父のホテルの情報を、相手が鷹司だからといって無造作に渡すつもりはない。開示して