Se connecter【瀬戸グループ社長令嬢、田村志織。現在は瀬戸グループのマーケティング第三部副部長を務める、美貌と才能を兼ね備えたプリンセス……】夕凪の箸が宙で止まった。全身が一瞬でこわばる。志織まで、修一の目に留まろうとしているのだろうか。それに今は、瀬戸グループのマーケティング第三部副部長だという。美貌と才能を兼ね備えている?たしかに見た目は悪くない。だが、才能?夕凪が初めて会ったころ、志織はすでに学校を中退しており、高校さえ卒業していなかった。その後、志織が田村家へ迎え入れられると、慎一郎は彼女を通信制大学へ入れた。本人がどれほど嫌がっても容赦せず、どうにか大学を卒業させたのだ。当時の夕凪には、慎一郎の目的がわからなかった。今になって、ようやくわかった。慎一郎は今日のために、志織を瀬戸グループへ入れる準備をしていたのだ。ただし、このときの夕凪は、まだ慎一郎の本当の狙いには気づいていなかった。慎一郎の計画と企みを悟るのは、もっとあとのことである。このときの夕凪の胸には、いくつもの感情が入り交じっていた。瀬戸グループの本当の令嬢である自分は、夜中まで残業する臨時スタッフに身を落としている。それなのに偽の令嬢は瀬戸グループへ入り、最初から副部長という地位を与えられ、何不自由なく働いているのだ。とはいえ、こうなったのは自分に服役歴があるからだった。いくら納得できなくても、今の夕凪にはどうすることもできない。夕凪はスマホの画面を消した。余計なことは考えず、目の前の夜食を食べることにした。翌朝目を覚ますと、喉は焼けつくように乾き、全身がだるくて力が入らなかった。頭もぼんやりしている。まずい。昨夜の残業で体が冷え、風邪をひいてしまったらしい。どうにか起き上がろうとしたものの、まるで力が入らない。仕方なく茜へメッセージを送り、午前中だけ休ませてほしいと頼んだ。午後になると、夕凪はつらい体を押して出社した。廊下へ出たところで、ちょうど茜と鉢合わせた。茜はハイヒールを鳴らして足早に歩きながら、手にした書類を次々とめくっていた。ちらりと夕凪を見たあと、すぐ書類へ視線を戻し、淡々と告げた。「ちょうどよかった。十分後に会議室で打ち合わせがあるわ」夕凪は急いでバッグを置くと、ノートとペンを手に会議室へ向
三年間刑務所にいただけで、世の中の価値観はずいぶん変わったように夕凪には思えた。大学を出たばかりのZ世代は、家でのんびりショートドラマやゲームを楽しみ、あくせく働くことにはまるで興味がないらしい。紫月には何を言っても響きそうにない。夕凪は説教を諦め、自分の設計図に集中することにした。夜になり、他の社員が全員退社したあとも、夕凪は一人で残業を続けた。「やっと終わった……!」顔を上げ、大きく伸びをする。パソコンの画面には、ようやく完成した設計図が映っていた。疲れきった夕凪の顔に、満足そうな笑みが浮かんだ。目が痛み、ひどく乾いている。手鏡を取り出して見ると、白目は充血して真っ赤になっていた。どうやら画面を凝視しすぎたらしい。外はとっぷりと暮れていた。夕凪は、夜の九時ごろだろうと見当をつけていた。ところがスマホを開き、思わず目を疑った。時刻は、なんとすでに午前一時を回っていた。ぐぅと腹の虫が鳴り、そこでようやく夕食さえ食べていないことに気づく。我ながら、本当によく働くものだ。夕凪は心の中で、そんな自分に拍手を送った。パソコンをシャットダウンし、オフィスの照明を消す。あとは寮へ帰るだけだ。空腹に耐えきれずオフィスビルを出ると、少し歩いた先に赤提灯の屋台が出ているのを見つけた。夕凪はパイプ椅子に腰を下ろし、温かいラーメンを一杯注文した。手際よく麺を茹でる店主、どんぶりから立ちのぼる温かな湯気、仕事帰りの疲れた顔で酒を飲むサラリーマンたち。そのありふれた光景を眺めているうちに、夕凪の胸は不意に温かな満足感で満たされた。なんて心地いいのだろう。これこそ、人々の息遣いが感じられる、生きた日常というものだ。かつて刑務所で送った日々とは違う。あそこにあったのは、冷たい床と無機質な壁だけだった。あの日々は、夕凪の心に拭いきれない傷を残した。そのトラウマは、この先も一生ついて回るのだろう。たった三年の服役で、夕凪は以前とはまるで別人のように変わってしまった。それでも、今はこれでよかったと思える。どん底の日々を乗り越え、ようやく人間らしい穏やかな暮らしを取り戻しつつあるのだから。警察が理紗を見つけ出し、彼女が罪を認めてすべての真相が明らかになれば、自分の殺人の冤罪も晴れるはずだ。そうしたら、胸を張っ
夕凪には、紫月が何を言っているのかさっぱりわからなかった。「私が知るわけないじゃないですか。それに、副社長だって言っていたでしょう?おじさんかもしれないって……」夕凪は毎日、設計案のことで頭がいっぱいだった。他のことに気を配る余裕などない。まして、その副社長と自分には何の接点もなかった。ところが紫月はたちまち目を輝かせ、声を弾ませた。「おじさんなんかじゃありません!若くて、ものすごくイケメンなんですよ!」それでも夕凪には、まだ話が見えなかった。「もう、神崎グループの若き後継者、神崎修一(かんざき しゅういち)に決まってるじゃないですか!今回涼崎市に視察に来るご本人ですよ。京央大学を出て三年海外留学した後、二年前に神崎に入社して、わずか一年で、その先見の明と決断力、実務能力を認めさせ、株主たち全員を納得させたんですよ。それで株主の方から副社長に推す声が上がって、満場一致で決まったんです!」紫月は指を折りながら熱っぽく説明した。頬は興奮で真っ赤になり、瞳はきらきらと輝いている。まるで修一が見知らぬ誰かではなく、自分の恋人であるかのようだった。夕凪は気のない声で「そうですか」とだけ返した。「それで、その神崎修一とこの人がどう関係あるんです?まさか、この人が彼の恋人なんですか?」夕凪は画面に映る星海グループの社長令嬢を指差した。紫月はぎょっと目を見開き、信じられないという顔をした。「夕凪さん、冗談はやめてくださいよ!相手はあの神崎修一ですよ?京央の上流階級のお嬢様たちがこぞって狙ってる人なんです。それに、私にとっても理想の王子様なんですから。この女性を恋人扱いするなんて、私の推しに対する冒涜です!」夕凪はますますわからなくなった。「この人は星海グループの社長令嬢なんでしょう?それでも神崎修一には釣り合わないんですか?」神崎修一という男は、いったいどれほどの大物なのだろう。星海グループといえば涼崎市でも指折りの大企業で、桐生グループと肩を並べるほどの力を持っているというのに。紫月は呆れたような顔をした。「釣り合うわけないじゃないですか。京央の名家のお嬢様たちだって、みんな彼の恋人の座を射止めようと必死なんですよ。でも彼、そんな人たちには見向きもしないんです。これまで恋人の存在を公にしたこと
詩乃は御堂グループへ入社し、柊吾とともに峻のアシスタントを務めていた。だが、わずか三日で、峻は詩乃を自分のそばから外すと決めた。無能な人間を、近くに置いておくつもりはない。清音に免じて、チャンスは与えた。それを生かせなかったのは詩乃自身だ。峻を恨む筋合いはない。自分も、清音の思いを裏切ってはいない。「本当に申し訳ありません……社長、信じてください。もう二度と間違えません……!」詩乃は峻の性格をよく知っている。冗談ではなく、一度口にしたことは必ず実行する男だ。目を真っ赤にし、涙を流しながら訴えた。峻はようやく顔を上げたが、その表情は氷のように冷たいままだった。「書類のミスのほかに、自分が何をやらかしたのか、わかっているか?」詩乃は戸惑い、茫然とした。峻はペンを置き、椅子の背にもたれて告げた。「俺とお前は、ただの雇用関係だ。それなのに、社内で俺たちの関係を誤解する者がいても、お前は一度も否定しなかったな」詩乃の胸が大きく揺れた。こぼれ続けていた涙も、不自然に止まった。峻がそんなことまで知っているとは思わなかった。仕事ばかりの彼に、社内の噂など耳に入らないと高をくくっていたのだ。顔を赤くしたり青くしたりしながら、詩乃は言葉に詰まった。「わ、私は……」詩乃は、峻も自分に好意があるから、特別に社長付きアシスタントとして採用してくれたのだと思い込んでいた。だが、目の前の冷酷な顔を見て、そんな勘違いはとても口にできない。「本当に、私が間違っていました。これからは二度と……」「これからはない。出て行け」峻は短い言葉で、有無を言わさず会話を打ち切った。取るに足らない相手と、これ以上言葉を交わすつもりはなかった。詩乃は涙を浮かべたまま、不満を押し殺して部屋を出た。一方の夕凪は、自分が帰った直後に、詩乃が峻のアシスタントを外されたことなど知る由もなかった。実際、この処分は夕凪とは何の関係もない。詩乃自身が仕事でミスを犯したためだ。そもそも詩乃の関心は、初めから仕事には向いていなかった。ようやく峻のそばで働けるようになり、恋を進展させる絶好の機会だと思っていたのだ。ネットで男心を惹くテクニックをいくつも調べ、熱心にメモまで取っていた。だが、その成果を一つも試せないまま、呆気なくチャンスは
オフィスへ戻った峻は、すぐに人事部長へ電話をかけた。「しゃ、社長、どのようなご用件でしょうか」人事部長は戸惑った。グループのトップである峻は事業全体を統括しており、人事部の細かな実務に直接口を出すことなど、これまで一度もなかったからだ。峻は険しい顔で、冷たく命じた。「総務部長の鳥島だ。直ちに解雇しろ」「えっ?」人事部長は事情がわからず、言葉を失った。総務部の部長が、いったい何をして峻を怒らせたというのか。しかも峻は、自ら電話をかけて処分を命じている。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻は、普段から感情を表に出さず、いかなる時も冷徹に物事を処理する。何が起ころうと、少しも動じない男だった。それが今日に限って、一介の部長を解雇するためだけに、わざわざ自ら電話をかけてきたのだ。人事部長はしばらく呆然とし、峻が何を考えているのか見当もつかなかった。峻は用件だけを告げ、電話を切った。ちょうどそのとき、社長室のドアがノックされ、詩乃が入ってきた。峻は顔を上げ、淡々と一瞥した。詩乃は峻と目が合うと頬を赤らめ、胸を高鳴らせながら、恥ずかしそうにうつむいた。だが、聞こえてきたのは氷のような冷たい声だった。「昨日、お前が提出した書類には、二箇所もミスがあった。お前にアシスタントの仕事は任せられない。人事部へ行って、他部署への異動を申請しろ」詩乃は体を震わせ、はっと顔を上げた。みるみる顔色が青ざめていく。「も、申し訳ありません、社長!私の不注意でした。どうかもう一度だけチャンスをください。今度こそ必ず……!」峻は顔も上げず、冷たく答えた。「チャンスなら、とっくに与えたはずだ」三日前、清音の父である憲一が死を盾にとって峻に迫り、詩乃を彼のアシスタントとして雇うよう懇願してきたのだ。前の晩に清音の夢を見たのだという。清音はあの世でも峻のことが忘れられず、彼の身の回りの世話をする人がいないことを心配して泣いていたらしい。そこで憲一は、清音に面影が似ている詩乃を峻のそばに置き、世話をさせれば、亡き娘も安心できると考えたのだ。峻は不快そうに眉をひそめ、最初は取り合わずにその場を立ち去った。だがその一時間後、清音の母・沙代が墓前で泣き崩れ、気を失って倒れたという知らせが届いた。峻が慌てて墓地へ駆け
だが、弘樹の思惑は完全に外れた。「お前こそ何様のつもりだ。人を口汚く罵り、最低の振る舞いをしておいて。今すぐ出て行け。明日から二度と、この会社に顔を見せるな!」峻は顔を険しくし、怒りに満ちた目で弘樹を睨みつけた。弘樹は言葉を失った。茜と紫月も驚き、峻と夕凪を交互に見比べた。弘樹はしばらく呆然としていたが、ようやく自分がとんでもない地雷を踏んだのだと理解した。顔から血の気が引き、膝から崩れ落ちそうになる。自分の頬を何度も平手打ちしながら、必死に許しを請うた。「申し訳ありません、社長!社長のお知り合いだとは存じ上げず……私が愚かでした。どうか今回だけは、お許しください……!」茜と紫月は、さらに目を見開いた。二人の視線が、峻と夕凪の間を何度も行き来する。そのとき峻は、夕凪の顔がさっと青ざめるのを見た。夕凪は、創博に自分の素性を隠しているらしい。周りの人間は、あいつが刑務所に入っていたことも知らないのだろう。どうやって採用されたのかはわからない。だが、ここで自分が夕凪の正体を明かせば、彼女が仕事を失うことだけは確かだった。夕凪はうつむき、拳を固く握っていた。全身の血が凍りついたようだった。胸の奥から湧いた寒気が、体中へ広がっていく。峻は自分を憎んでいる。夕凪は、彼がこの絶好の機会を逃すはずがなく、必ず正体を暴露して仕返しをしてくると思った。もう、終わりだ。夕凪が絶望しかけたとき、峻は弘樹へ向き直り、冷たく言い放った。「俺はこの女など知らない。だが、相手が誰であろうと、お前が勝手に侮辱していい理由にはならない」その声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。夕凪は自分の……元妻だ。たとえ今は別れていようと、かつて自分の妻だった女だ。そんな女が、取るに足らない他人に罵られるのを、黙って見ていられるはずがない。そう言い残すと、峻は夕凪を二度と見ず、冷たい表情のまま立ち去った。「申し訳ありません、社長……どうか、お許しを……!」弘樹は泣きながら追いすがったが、峻は振り返りもしなかった。しばらくして、茜と紫月はようやく我に返った。紫月は胸を押さえた。「びっくりした……夕凪さんが御堂社長のお知り合いなのかと思いました。もしかして、本当に……」「そんなわけないでしょう」茜が鼻で笑い
「ふざけんな!たかが掃除のおばちゃんの分際で、俺に楯突こうってのか。ただで済むと思うなよ……!」惟人が激昂して腕を振り上げ、力任せに打ち下ろしてきた。夕凪の背後は壁だった。逃げ場などどこにもない。迫ってくるその手を、目を見開いたまま見つめることしかできなかった。「唐沢さん、相手はただの清掃員ですよ。そこまで熱くなることはないでしょう」ちょうどその時、ドアを押し開けて司が入ってきた。にやにやと笑いながら。司の姿を見て、惟人の腕が宙で止まった。彼は忌々しげに舌打ちして、手を下ろした。司が、早く行けとばかりに夕凪へ目配せをした。夕凪ははっと我に返った。顔面は蒼白だった
夕凪は静かに首を横に振った。多恵はほっと息をついた。「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」夕凪の胸が、また小さく震えた。そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。夕凪はたまらず目頭が熱
「はい、間違いありません」夕凪が力強く頷いた。若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」圭吾は厳しい顔で深く頷いた。「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」「了解しました」……涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した
それにしても、なぜ峻はあんなことを言ったのだろう。「正式に娶った妻」だと?夕凪はすでに離婚協議書を置いてきた。峻が判を押しさえすれば、所定の手続きを経て二人の婚姻は終わる。晴れて自由の身になれるはずだ。それこそ、峻がずっと望んでいたことではないのか。――ふいに、背後でVIPルームの重い扉が内側から引き開けられた。夕凪はびくりと身を竦め、我に返るや否や逃げ出そうとした。「待て」呼び止められた。しかも、この低く冷たい声はまさか……?聞き間違えるはずがない。あの人、峻だ!夕凪の頭の中が真っ白になり、足が凍りついた。一歩も動けない。背筋が棒のように硬直し、指先から急速に