LOGIN「社長、お呼びの方をお連れしました」柊吾が社長室に入り、峻に告げた。峻は表情を変えずに、短く頷いた。「通せ」「はい」柊吾に続いて、一人の女がおどおどと部屋に入ってきた。峻の目が女の顔を捉え――そこで、止まった。じっと女を見つめ続ける峻の様子に、柊吾は内心で首を傾げた。――なるほど、確かに顔は悪くない。だが所詮はクラブの清掃員で、おまけに声も出せない女だ。社長はいつからこういう趣味になったのだろう。ところが次の瞬間、峻はふいに視線を外し、柊吾に向かって静かに口を開いた。「連れてきたのは、この女か」柊吾は慌てて頷いた。「はい、間違いありません」峻の眉がすっと上がった。「声は、出せないんだな?」「はい」入室してから、美海は一言も発していなかった――演じているのは話せない女なのだから、当然だろう。だが仮に演技でなかったとしても、声など出せなかったに違いない。一介の清掃員が、こんな途方もなく広い社長室に足を踏み入れたのは生まれて初めてだ。足が地に着かないような心地で、圧倒されて言葉が喉に張りついていた。峻は頷くと、静かに席を立った。ゆっくりと美海の前まで歩み寄る。美海は息を呑んだ。間近で見上げるこの男は、想像以上に背が高く、そして信じられないほど整った顔立ちをしていた。全身から放たれる気品に、呼吸すら忘れそうになる。頭がくらくらして、頬がカッと熱くなる。美海は完全に見とれていた。――その時だった。ついさっきまで柊吾と話していた峻が、不意に美海へと視線を落とした。射抜くような目で睨みつけ、一段低くなった声で言い放つ。「お前――偽物だな」あまりに突然の一言だった。美海は不意を突かれ、反射的に両手を振った。「ち、違います!偽物なんかじゃ……!」――口が動いた瞬間、自分が何をしでかしたか悟った。だが、もう遅い。柊吾は絶句した。みるみるうちに顔色が変わり、目が見開かれる。――自分は、まんまと騙されていたのだ。「よくも騙したね!出て行け!」柊吾は怒りに任せて美海を部屋から叩き出した。そしてデスクの前に戻ると、顔を真っ赤にしてうつむいたまま、峻と目を合わせることができなかった。「申し訳ございません……完全に私の不手際です。今すぐクラウドに向かい、あの話せない――いえ、本当
実のところ、クラウドに話せない清掃員など一人もいない。以前、夕凪が客に絡まれたところを峻が助けた際、なぜか彼女を声が出せないのだと思い込んだ――この一件はクラブの清掃員たちの間で知れ渡っていた。つまり、御堂の人間が「話せない清掃員」を探しに来た時点で、誰もがそれは夕凪のことだと分かっていたのだ。にもかかわらず、美海が目先の大金に釣られて名乗り出て、理紗もそれを黙認した。夕凪の印象では、理紗はどちらかといえば面倒見のいい人だった。だから、これは明らかにおかしい。今回の件をきっかけに記憶を辿ると、これまで見過ごしていた小さな違和感が次々と浮かび上がってきた。思えば、瑠衣の指輪騒動以降、理紗の態度が目に見えてよそよそしく、冷たくなっていたのだ。一体いつ、何が原因であの人の機嫌を損ねたのか――夕凪には心当たりがまるでなかった。「夕凪、さっきは理紗さんの前だったから何も言えなかったけど……今からオーナーの司さんのところに行きましょう!前もあんたのこと守ってくれたじゃない。今度だってきっと力になってくれるわ。あの美海を引きずり下ろして、あんたの名前を届け出るのよ!」多恵はそう言いながら、夕凪の腕を引いて歩き出そうとした。夕凪は焦って引き止めた。冗談じゃない――せっかく虎口を逃れたのに、自分から飛び込んでどうする。「大丈夫です、多恵さん!あのお金、私はいりません。美海が欲しいなら、そのままあげちゃってください!」夕凪は必死に訴えた。「何言ってるの!百万円よ?千円や二千円の話じゃないのよ?本来あんたが受け取るはずのお金なのに、どうしていらないなんて……夕凪、普段はやられっぱなしで泣き寝入りするタイプじゃないでしょう。今日はどうしちゃったの……」多恵は半分怒り、半分いぶかしげに首をひねった。夕凪はこめかみがぴくりと引きつった。――これが「ありがた迷惑」というやつか。「多恵さん、本当にいらないんです……もう正直に言いますね。実は私、以前御堂の関係者とトラブルを起こしたことがある。御堂社長の高級車についていた飾りを、うっかり壊したことがあって……もし御堂グループの人に私だとバレたら、百万円もらうどころか、身ぐるみ剥がされるまで弁償させられます……」咄嗟に出まかせを並べ立てた。夕凪の怯えきった様子を見て
「滝本美海(たきもと みなみ)、だそうです」滝本美海――峻はペンを握る手をぴたりと止め、漆黒の瞳がかすかに揺れた。――あの女。滝本美海、というのか。脳裏に、あの二度の出来事が鮮やかに蘇る。どちらも彼女が客に絡まれていた場面で、気づけば自分が割って入っていた。振り返ってみても、自分でも腑に落ちない。涼崎市の財界で「冷徹無比な帝王」の異名を取るこの自分が――決断は迅速、手段は容赦なし。人助けなどという殊勝な性分とは、およそ縁遠い人間だ。それなのに、あの話せない女を見るたびに、胸の奥からわけのわからない衝動が込み上げてくる。守らなければ、と。誰にも傷つけさせてはいけない、と。なぜこうも心が動くのか、自分でもわからなかった。――障害を抱えながら必死に生きている人間だから、珍しく同情が湧いたのだろう。そう結論づけるしかなかった。だからこそ昨日、咄嗟にあの決定を下したのだ。障害者を助成の対象に加えろ、と。峻は頭の中の靄を振り払うように意識を切り替え、顔を上げた。柊吾に向けた声は、いつもどおり平坦だった。「なら、滝本美海を名簿に入れておけ」「かしこまりました」……深夜――夕凪が仕事を終えて寮に戻ったのは、午前三時を回った頃だった。疲れ果てた体を引きずるようにして部屋のドアを開けると、多恵が鬼のような形相で待ち構えていた。「夕凪!やっと帰ってきた!あんたがいつも黙って耐えてるからって、もう私、我慢の限界よ……!」怒りで声が震えている多恵を見て、夕凪はモップとバケツを静かに下ろした。「多恵さん、どうしたんですか?何かあったんですか?」多恵は声をひそめつつも、堰を切ったように話し始めた。「落ち着いて聞いてね。あの御堂グループの社長さんがね、涼崎市の障害を持つ方を五十人選んで、一人につき百万円の助成金を出すって言い出したの。百万円よ、百万円!しかもね、わざわざうちのクラブの『話せない清掃員』を名指しでリストに入れろって。今日の夕方、御堂から人が来て調べていったんだけど……ちょっと、夕凪?顔、真っ白よ?具合悪いの?」話している途中で、多恵は夕凪の異変に気づいた。顔からは一切の血の気が失せ、体が小刻みに震えている。今にも崩れ落ちそうだった。御堂グループの、社長――それは、御堂峻だ。峻は
夕凪も多恵の手を握り返し、穏やかに笑った。「大丈夫ですよ、多恵さん。自分のことは自分で守れます。あんな地獄を乗り越えてきたんですから……私はもう、前の私じゃありません」夕凪の視線は宙をさまよい、独り言のようにぽつりと続けた。「――あの頃の私は、愚かで無防備だった。そのせいで、あんなひどい目に遭ったわ。でも、もう二度と同じことは繰り返さない」いい人でいれば報われるなんて、もう信じない。自分から手は出さない。けれど、やられたら絶対に容赦しない。多恵はきょとんとして首をかしげた。「夕凪、今何か言った?」「いいえ。なんでもないです」夕凪ははっとして我に返ると、多恵に向かって柔らかく微笑んだ。この一件のあと、夕凪はもう指輪騒ぎを気にしてはいなかった。頭の中を占めていたのは、あの夜、涼崎署の取調室で見せられた写真に写っていたあの女のことだけだ。今はただ、夏目課長の調査結果を待つしかない。だから、理紗の変化にも気づかなかった。あの日の濡れ衣事件以来、理紗が自分を見る目が、どこか刺々しく、険しいものへと変わっていたことになど。一方、御堂グループ本社ビルの社長室。特別補佐の柊吾が、至急の決裁が必要な書類の束を峻に手渡した。峻はそれを受け取ると、一通一通に目を通しながら淡々と署名していく。ふと、彼の視線がある一枚の書類で止まった。「御堂グループ 社会貢献プロジェクト計画書……」低くその題名を読み上げる。「はい、社長」柊吾がすぐに説明を添えた。「そろそろ年末ですので、新しい年の慈善事業の計画を広報部がまとめたものです。とはいえ、中身は例年とほとんど変わりませんが……」柊吾は内心不思議でならなかった。本来なら、峻ほどの人物なら一目で「毎年と同じ、よくある企画」だと見抜いているはずだ。少額予算の小さな事業など、経営トップがいちいち気に留めるような案件ではない。それなのに、なぜ社長はこんなにも思案げな、判断に迷うような表情をしているのか――やがて峻は、何かを決心したようにきっぱりと言った。「広報部に伝えろ。この計画を修正して、身体的な障害を抱えた人たちへの支援も加えるんだ。涼崎市の中から、生活が苦しい障害者を五十人選び出せ。一人につき五十万……いや、百万円を一括で支給する」彼は揺るぎのない口調だった。「かし
理紗は険しい顔で廊下に出て、スマホの通話ボタンを押した。「どこにいる?」司の声が響く。理紗はぎくりとして、反射的に嘘をついた。「私……家で寝てましたけど……」司は冷たく問い詰めた。「本当に家にいるのか?」声のトーンが一段下がり、語気が鋭く尖る。理紗が何か言いかけた瞬間、ふとある考えが頭をよぎった。こんな真夜中にわざわざ電話をかけてきて、こんなことを訊くなんて……まさか……理紗は、今この寮で夕凪と同室にいる女性従業員たちの顔を思い浮かべた。そして、これまで司が夕凪に特別な目をかけていた場面の数々が、頭の中で一本の線で繋がった。理紗はすべてを悟った。――そういうことだったのね。胸の奥から込み上げる嫉妬と悔しさを必死に押し殺し、理紗は咄嗟に言葉を取り繕った。「……ちょうどご報告しようと思っていたところです。今、女性従業員の寮にいまして……」そして、先ほどの指輪騒ぎについて一部始終を伝えた。司は素っ気なく返した。「その程度のことで大騒ぎするな。指輪は客に返せ。この件はそれで終わりだ。従業員どもには口を閉ざすようきつく言っておけ。この件が少しでも俺の耳に入ってきたら、漏らした奴を即刻クビにする」言い終えると、そのまま一方的に電話が切れた。理紗の心臓がどくんと跳ねた。やはり思った通りだ。寮に司の息がかかった者がいるからこそ、こんなにも早く情報が伝わっていたのだ。しかも、あの薄汚れた女を庇うために、ここまで露骨に動くとは。理紗の胸に重い塊がつかえたように、息が詰まった。この一件は、理紗の心に抜けない深い棘となって突き刺さった。理紗が暗く沈んだ顔で部屋に戻り、渋々司の『不問に処す』という指示を伝えようとした、その矢先だった。夕凪がスマホを取り出し、冷ややかに笑って口を開いた。「瑠衣が私を罠にはめた証拠なら、ここにあるわ。盗んだのは私じゃない――仕組んだのは彼女よ」部屋中の全員が息を呑んだ。瑠衣は顔を歪め、金切り声を上げた。「何でたらめ言ってんのよ!」だが、夕凪が再生した動画を見て、全員が言葉を失った。そこには、昼間、誰もいなくなった隙を狙って瑠衣がこっそり寮に戻り、夕凪の布団の下にダイヤの指輪を忍ばせる姿がはっきりと映っていたのだ。瑠衣は口を開けたまま、凍りついた。理紗も数秒間呆
「マジであの子がやったの……?」「さっき瑠衣が言ってたじゃん。拾ったんじゃない、『盗んだ』のよ。立派な犯罪じゃない。捕まったら刑務所行きで前科者よ」清掃員たちが口々に囁き合い、蔑むような目が夕凪に集まった。「あんたなの?」理紗の視線がようやく夕凪に据えられた。その目は底が見えないほど暗く、深い。真っ赤な口紅を引いた唇が、意味ありげにゆるりと弧を描いた。夕凪が口を開くより先に、多恵がずいと前に出た。「ちょっと待ちなさいよ。瑠衣、あんたどうしてベッドの下に指輪があるって分かったの?自分で隠しておいて、この子になすりつけてるんじゃないでしょうね?」多恵は鋭い目で瑠衣を問い詰める。その声には、隠しきれない軽蔑がにじんでいた。暖房のない部屋で体は芯まで冷え切っていたが、夕凪の胸の奥に熱いものがこみ上げた。目頭が一瞬で熱くなる。刑務所に入れられてから今日まで、人の冷酷さばかりを思い知らされてきた。けれど、暗闇の隙間から差し込む一筋の光のように、温もりをくれる人もいた。例えば圭吾や多恵……だが瑠衣は、顔色ひとつ変えなかった。「ゆうべ、この目で見たのよ」瑠衣はしゃあしゃあと語り出した。昨夜、お腹を壊して夜中に目が覚めた時、暗がりの中で夕凪が自分のベッドの下にこそこそと何かを押し込んでいるのを見たのだと。その場では気にも留めなかったが、たった今理紗から指輪の話を聞いた瞬間、あれがそうだったのだと思い当たったのだという。そこまで理路整然と語られては、さすがの多恵も言葉に詰まった。瑠衣の話に不自然な点はなく、何より指輪は実際に夕凪のベッドの下から出てきたのだ。それでも多恵は引き下がれなかった。すがるような目で理紗を見る。「理紗さん、夕凪はこんなことをする子じゃありません。絶対にしません……どうか信じてやってください」瑠衣が鼻で笑った。「証拠も出てるのに、まだ信じるって?多恵さん、この女に騙されてるんじゃないの?とっくに分かってたのよ、こいつは腹の底が真っ黒だって……」「ふざけんじゃないわよ!いい加減なこと言うんじゃない!夕凪は絶対にそんな子じゃない!」普段は温厚な多恵が、顔を真っ赤にして声を荒げた。理紗の顔が冷たく引き締まった。「黙りなさい。動かぬ証拠が出てきた以上、言い逃れはできないわ。事実







