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紙は短く、情を尽くせず
紙は短く、情を尽くせず
Author: 南大頭

第1話

Author: 南大頭
新村紗綾(にいむら さや)は、足が不自由になった森田裕司(もりた ゆうじ)の世話を、三年もの間、片時も離れずに続けてきた。

結婚して最初の一年目、裕司は彼女を心底嫌っていた。

ちょっと足に触れただけで、彼女を家の外に閉め出し、九十九日も戻してくれなかった。

結婚二年目、裕司は彼女に対して冷たくもなく、温かくもない態度を取り続けた。

紗綾が毎日欠かさずリハビリのマッサージをしても、彼の口からは一言の感謝も返ってこなかった。

結婚三年目、紗綾はようやく裕司の足が回復するのを見届けた。

だがその瞬間、裕司が最初に取った行動は、初恋の相手を迎えに行くことだった。

……

「詩音、俺の足、治ったよ。帰ってきて。空港まで迎えに行く!」

見慣れたアイコンをチラ見して、嬉しさで涙ぐんでいた紗綾の笑顔は、瞬時に凍りついた。

裕司が自分を愛していないことなんて、紗綾はずっと前から分かっていた。

彼が愛しているのは、最初から最後まで、初恋の女性――中山詩音(なかやま しおん)だけだった。

三年前、大学を卒業した裕司と詩音は、それぞれ異なる道を選んだ。

裕司は家業を継ぐために国内に残り、詩音は夢を追って海外へ旅立った。

二人は別れたが、裕司の心は一度として詩音を手放したことはなかった。

その後、詩音は突然、海外で電撃結婚した。

その事実を知った裕司は受け入れられず、暴走して空港へ向かい、そのままアメリカまで飛んで奪い返すつもりだった。

けれど、その途中で事故に遭い、彼の両脚は動かなくなった。

もう二度と、自分の力で立ち上がることはできないと言われた。

その時、紗綾はまだ研修医だった。主任医師と共に、裕司の手術を担当した。

手術の後、かつては何もかもを持っていた裕司は、自分が障害者になった現実を受け入れられなかった。

彼は怒りっぽくなり、些細なことでキレては物を投げ、周囲に当たり散らした。

病院の医師も看護師も彼に近づけず、最も経験の浅い紗綾が、一人で対応することになった。

彼女は、近所にいそうな優しい雰囲気のある女の子で、自然と人の心に入り込むような親しみやすさを持っていた。

加えて、確かな医療技術と丁寧な対応力もあり、病院で唯一、裕司に近づける存在となった。

その後、裕司が退院した頃、彼の母が紗綾の元を訪れた。

彼女は紗綾に1億円を手渡し、「裕司に近づき、結婚を前提に彼の世話をしてほしい」と頼んできた。

ちょうど母親の治療費で困っていた紗綾は、迷うことなくその話を受け入れた。

病院を辞め、三年かけて裕司のそばに寄り添い続けた。

裕司が足の痛みで苛立つたびに、紗綾はその怒りをすべて受け止めた。

傷が痛む夜は、一晩中マッサージをして眠らなかった。

リハビリ中に彼が転んだ時は、必ず彼の下に自分の体を差し出して支えた。

誰もが不思議がった。突然現れたこの若い女性が、なぜ裕司にそこまで尽くすのかと。

でも、それを知っているのは紗綾だけだった。

彼女の大学四年間の学費は、すべて裕司の支援によるものだったのだ。

裕司は大学の慈善会の責任者で、紗綾は彼が支援していた多くの学生の中の、目立たない一人に過ぎなかった。

二人の距離は、まるで天と地ほどに遠いものだった。

だからこそ、紗綾は一度も自分から彼に近づこうなどとは思わなかった。

けれど、偶然にも、脚を失った裕司と再会してしまった。

そして彼女は、自らその距離を縮める決意をした。

自分のすべてを捧げてでも、彼のそばにいたかった。

紗綾は思っていた。これだけ長く尽くしていれば、いつかは裕司が自分の気持ちに気づいてくれるかもしれない、と。

だが――

その期待は、詩音に向けた一通の電話によって、あっけなく打ち砕かれた。

彼は回復した足の喜びを、真っ先に詩音に伝えた。

その姿を見た瞬間、紗綾の中で何かが音を立てて崩れた。

結婚して三年――

彼女は一度たりとも、裕司の心に入ることができなかったのだ。

毎年、七夕の日になると、裕司は一日中姿を消した。

紗綾がどれだけ心配して探しても、彼は絶対に戻ってこなかった。

後に知った。七夕は、裕司と詩音が恋人になった記念日だったと。

詩音と離れていても、彼は彼女との記念日を一つ残らず覚えていて、毎年欠かさずプレゼントを用意していた。

裕司には、決して開けてはいけない書斎があった。

ある日、掃除中に紗綾がうっかりその部屋に入ってしまい、裕司は彼女を家の外に閉め出し、夜通し雨の中に立たせた。

そこには、詩音の写真がびっしりと飾られていた。

その瞬間、紗綾は悟ったのだ。

自分がどれだけ尽くしても、裕司の心を動かすことは、永遠にできないのだと。

でも――それでも、良かった。

裕司の足が治った今、彼女の「任務」は、もう終わったのだから。

裕司が詩音と電話で喜びを分かち合っているうちに、紗綾は部屋の隅に移動し、静かに電話をかけた。

「お母さん、裕司の足、治ったよ。私の役目は終わった。だから、離婚するね」
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