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第10話

べつに
琴葉がよく通うカフェでは、彼女のスタンプカードにこっそりスタンプを足してもらった。

雨の日には、国文学科のある校舎の入口へ傘を一本置いた。

琴葉は、誰か親切な人が置いたのだと思ったかもしれない。

あるいは、一度も気づかなかったかもしれない。

それで構わなかった。

気づいてもらう必要などない。

琴葉が元気に過ごしていると分かれば、それだけでよかった。

3年生の頃、琴葉は恋人と別れたようだった。

長いあいだ、一人で図書館へ行き、一人で学食へ行き、一人でうつむきながら歩いていた。

遠くから見ていると、湊は胸を締めつけられた。

そばへ行き、「大丈夫?」と聞きたかった。

あのペンを返し、「実は1年の頃から気になっていた」と伝えたかった。

それでも、何もしなかった。

今の琴葉に必要なのは、別の誰かから向けられる好意ではなく、立ち直るための時間だと思ったからだ。

湊は、琴葉が立ち直るまで、そっと見守ることにした。

4年生になると、琴葉はまた笑うようになった。

新しい恋をしていたのかどうかは分からない。

ただ、スカートを履き、化粧をして、友人たちと出かけるようになった
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  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第12話

    ただ、こう言った。「琴葉は、何度も雨に濡れてきたから」それだけで、目の奥が熱くなった。「どうして……教えてくれなかったの?」湊は優しい目で私を見た。「琴葉が幸せなら、それでよかったから」とうとう涙がこぼれた。私は泣き虫ではない。遼と過ごした数年間には、何度も泣いた。それでも、人前で涙を見せたことはなかった。けれど、湊の言葉には耐えられなかった。私の知らないところで、もう10年近くも見守り続けてくれた人がいた。見返りも条件も求めず、私に知られることさえ望まず、ただ幸せでいてほしいと願ってくれていた。「ごめんなさい。何も知らなくて、私……」涙を拭いながら言うと、湊が遮った。声は変わらず穏やかで、優しかった。「謝らなくていい。好きになったのは俺だ。琴葉が申し訳なく思うことじゃない。嫌なら、無理にそばにいようとはしない。この縁談が負担なら、取りやめてもいい。両社にも琴葉にも迷惑はかけない。琴葉がどんな暮らしをしたいのか、それだけ教えてくれればいい。あとは俺が何とかする」何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。「湊……」「最後まで聞いて」湊が一歩、距離を縮めた。「琴葉。俺のことが、どうしても嫌というわけじゃないなら……俺にもチャンスをくれないか?」私は目を見開いた。「どれだけ待つことになっても構わない。ただ、待つことさえ許してもらえないのが怖い」その目は、黒く澄んでいた。期待と緊張と、傷つけまいとする慎重さが浮かんでいた。そして、遼の目には一度も見たことのないものがあった。真剣さ。誠実さ。私でなければ駄目だという思い。昨日の式で湊に手を握られたとき、彼の手のひらは汗ばんでいた。緊張しているのだろうと思っていた。何年も待ち続け、ようやく私が隣に立ったのだ。平静でいられるはずがなかった。ほかにも、さまざまな出来事を思い出した。偶然や幸運、当たり前の親切だと思ってきたこと。そのすべてが、私の知らないところで、湊が私を傷つけないよう、静かに、精いっぱい大切に想い続けてくれていた証だった。「分かった」自分の声が聞こえた。湊の目が、たちまち輝いた。「それは……」「チャンスをあげるって言ったの」私は彼を見つめた。「私自身

  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第11話

    あるとき、友人が何げなく口にした。「琴葉、最近、結婚式の準備をしてるらしい。でも、全部一人でやってるみたいだぞ。遼は何も手伝わないって」水を飲んでいた湊の手が止まった。「結婚式?」「琴葉と遼の式だよ。知らなかったのか?来月らしい」湊はグラスを置き、それ以上は何も言わなかった。その夜、家へ帰ると引き出しを開けた。中には、何十本もの黒いボールペンがぎっしり並んでいた。一本一本が、口にできなかった思いの数だった。一本を取り出し、紙に名前を書いた。藤崎琴葉。その文字を見ているうちに、ふと笑みがこぼれた。笑っているのに、目は赤くなっていった。もうすぐ彼女は結婚する。それなのに、自分はいつまで待っているつもりなのか。答えは分からなかった。ただ、式へ乗り込んで奪うことも、思いを告げて、琴葉がようやく手に入れた平穏を壊すこともできなかった。湊は、そういう人間ではなかった。待つことしかできない。琴葉が自分を必要としてくれる日を。一生必要とされなければ、一生姿を見せないつもりだった。ところが、その機会はあまりに突然訪れた。ある日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。出ると、懐かしい声が聞こえた。「久世さん?突然すみません。藤崎琴葉です」湊の手が震えた。「は、はい」琴葉は少しためらっていた。「一つ、聞きたいことがあるんです」「何でしょう」「久世家とうちは、仕事で提携していますよね。お父様が久世さんの縁談を探していると、父から聞きました」湊の鼓動が速くなった。「ええ」「それなら……私では駄目ですか?」聞き間違いかと思った。「今、何て?」「家同士の縁談です」琴葉の声は落ち着いていた。「まだお相手が決まっていないなら、私を候補にしてもらえませんか?」湊はスマホを握ったまま、バルコニーに立っていた。夜風が吹きつけ、目の奥が痛んだ。理由は尋ねなかった。遼はどうしたのかとも、何かあったのかとも聞かなかった。数秒黙ったあと、ただ一言、答えた。「ぜひ、お願いします」電話を切ってからも、長いことバルコニーに立っていた。やがてその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。泣いてはいなかった。ただ、目は真っ赤だった。何年も待ち続け

  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第10話

    琴葉がよく通うカフェでは、彼女のスタンプカードにこっそりスタンプを足してもらった。雨の日には、国文学科のある校舎の入口へ傘を一本置いた。琴葉は、誰か親切な人が置いたのだと思ったかもしれない。あるいは、一度も気づかなかったかもしれない。それで構わなかった。気づいてもらう必要などない。琴葉が元気に過ごしていると分かれば、それだけでよかった。3年生の頃、琴葉は恋人と別れたようだった。長いあいだ、一人で図書館へ行き、一人で学食へ行き、一人でうつむきながら歩いていた。遠くから見ていると、湊は胸を締めつけられた。そばへ行き、「大丈夫?」と聞きたかった。あのペンを返し、「実は1年の頃から気になっていた」と伝えたかった。それでも、何もしなかった。今の琴葉に必要なのは、別の誰かから向けられる好意ではなく、立ち直るための時間だと思ったからだ。湊は、琴葉が立ち直るまで、そっと見守ることにした。4年生になると、琴葉はまた笑うようになった。新しい恋をしていたのかどうかは分からない。ただ、スカートを履き、化粧をして、友人たちと出かけるようになった。グラウンドの反対側から、友人と一緒にトラックを歩く琴葉を見つめていた。夕暮れの光の中、彼女の影だけが長く伸びていた。大学1年から4年まで、校舎でも図書館でも、晴れの日も雨の日も、一人の人間がずっと見守っていたことを、琴葉はおそらく一生知らない。つけ回したわけでも、覗き見していたわけでもない。ただ遠くから、静かに、邪魔をせずに見守っていただけだった。まるで星を眺めるように。手に入らないと分かっていても、遠くから眺められるだけで幸せだった。卒業後、琴葉の近況を耳にすることはなくなった。湊は地元へ戻って家業に入り、毎日、会議や会食、さまざまな仕事に追われた。いつかは琴葉を忘れられると思っていた。けれどある日、文具店の前を通りかかると、ふと思い立ったように店へ入り、黒いボールペンを一本買った。キャップに猫のシールはなかった。同じシールは、もう売られていなかったからだ。新しいペンを、猫のシールが貼られた一本と並べて引き出しへしまった。引き出しの中は、少しずつペンで満たされていった。それでも忘れられないのだと、湊は思い知った。……

  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第9話

    それだけ告げ、私は背を向けた。後ろから遼が呼んでいた気がしたが、振り返らなかった。ホテルを出て、入口の噴水の前を通りかかったとき、思わず足を止めた。湊がそこにいた。花壇の縁に寄りかかり、コーヒーを片手に立つ姿は、気負いがなく絵になっていた。私の顔がたちまち熱くなった。湊が遼との会話を聞いていたのか、どこまで聞こえていたのか分からない。反射的に言い訳をした。「ど、どうしてここにいるの?さっきのは遼を断るために言っただけだから、気にしないで」湊は何も言わずに私を見つめた。居心地が悪くなり、言葉を重ねた。「本当よ。深く考えないで。私たちは家同士の都合で結婚しただけだって、分かってる。だから、私は……」「琴葉」湊が私の名を呼んだ。私は顔を上げた。朝の光を背にした彼の表情は、よく見えなかった。それでも、笑っているように思えた。「実は俺も、琴葉が望んでいるような愛し方を、ずっとしてきたつもりだ」声はとても穏やかだった。「ただ、君が気づいていなかっただけだ」木々の隙間からこぼれた日差しが、湊の肩を照らしていた。冗談とは思えないほど、その表情は真剣だった。「湊、どういう……」「大学1年の頃から、ずっと琴葉が好きだった」……大学1年の9月。キャンパスには、まだ夏の暑さが残っていた。湊が校舎へ入ろうとしたとき、階段の近くで一人の女子学生とぶつかった。彼女が抱えていた本が傾き、床へ散らばった。慌てて拾いながら何度も謝ると、彼女は「大丈夫」と答えた。その声は、秋の風のように柔らかかった。最後の一冊を拾って顔を上げたとき、初めて彼女の顔を見た。色白で小柄な女性だった。瞳は明るく、笑うと目立たないえくぼが二つできた。彼女は本を受け取り、「ありがとう」と言って去っていった。湊はその背中が階段の向こうへ消えるまで、その場に立ち尽くしていた。何秒かして、手に一本のペンが残っていることに気づいた。彼女が落としたものだった。返す間もなかった。どこにでもある黒いボールペンで、キャップには小さな猫のシールが貼ってあった。湊はそのペンを机の引き出しへしまい、一度も捨てなかった。やがて、彼女の名を知った。国文学科の藤崎琴葉。二人は同じ校舎で授業を受けてい

  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第8話

    ビュッフェで果物を何種類か皿に取り、窓際の席へ座った。その途端、目の前に影が差した。顔を上げると、遼が立っていた。目の下には濃いくまがあり、顎には無精ひげが生えている。一晩中、眠れなかったようだった。私と目が合うと、その瞳が一瞬明るくなり、すぐに曇った。「琴葉」「黒川さん、何か用?」名字で呼ばれた遼の唇が、かすかに震えた。彼は歩み寄り、私の前で立ち止まった。「琴葉、悪かった」声は別人のようにかすれていた。「こんな言葉じゃ軽すぎる。俺も、何の償いにもならないと思ってる。それでも言わせてほしい。ほかに何を言えばいいのか、分からないんだ」私は黙ったまま彼を見た。「一晩中、考えた。俺たちが一緒にいた何年ものことを、何度も思い返した。考えれば考えるほど、自分がどれだけ最低だったか分かった。琴葉の優しさを当然だと思い、してくれることに甘えきってた。招待状をきちんと見たこともなかった。式で使うものを、一つだって真剣に選ばなかった。チョコレートアレルギーのことさえ忘れてた」声が震え始めた。「美羽には5時間かけてプロポーズを用意したのに、琴葉には『結婚するか』の一言で済ませた。あれは、俺が大人になって、派手な演出を好まなくなったからだと思ってた。でも今になって、そんな態度が琴葉を傷つけてたんだって、やっと分かった」「黒川さん、私は……」「最後まで聞いてくれ」遼は私を遮った。「昨日、美羽とは縁を切った。あいつがしたことだけが理由じゃない。美羽への気持ちは、もうとっくに過去のものだったからだ。琴葉、今、俺が好きなのは琴葉だ。愛してるのも琴葉だけだ」大きく息を吸った。「俺にそんな資格がないのは分かってる。それでも、もう一度だけ機会をもらえないか?」かつて愛した人を見つめた。初めて出会った日の遼は、濃紺のシャツを着てカフェの前に立っていた。肩に日差しを受けて立つ姿を見て、胸が一度、大きく跳ねた。付き合い始めた頃は、毎日欠かさずメッセージを送った。遼から「わかった」と一言返ってくるだけで、一日中幸せだった。ドレスを試着した日、鏡の前に一人で立った。周りの花嫁には新郎が付き添っていたのに、私だけが一人だった。あのプロポーズ動画を見つけた夜は、一晩中泣いた。「遼」私の声は、自分で

  • 結婚式前日、私は新郎を別の男に替えた   第7話

    「言え」「美羽の胃痛、仮病かもしれない。昨日、廊下で電話してるのを聞いたんだ。『今回だけ協力して。どうしても諦められないの』って」遼は勢いよく立ち上がった。「何だって?」「美羽は……お前が思ってるような人じゃない」拓海は苦しそうに続けた。「昔、お前のプロポーズを断ったのは、その頃、元彼とよりを戻してたからだ。そいつと別れてから後悔したけど、そのときにはもう、お前は琴葉さんと付き合ってた。今になって、お前が琴葉さんと結婚すると知ったから……」最後まで聞かず、遼はその場をあとにした。病院へ戻ると、美羽はまだ病室にいた。遼を見るなり、彼女の表情が明るくなった。「遼、戻ってきてくれたの?」「美羽、聞きたいことがある」「何?」「本当に胃が痛かったのか?」美羽の笑みが固まった。「どういう……意味?」「拓海から全部聞いた」遼は低い声で言った。「胃痛は仮病だった。誰かに協力を頼んだ。諦めきれなかったんだな。結婚式の日に俺を病院まで付き添わせて、琴葉を待ちぼうけにしたかったんだろ」美羽の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「遼、私は……」「なぜだ?」遼は彼女の言葉を遮った。「昔、俺がひざまずいて結婚してほしいと頼んだとき、お前は結婚したくないと言った。今度は俺が別の人と結婚しようとしたら、後悔していると言う。美羽、お前は何がしたいんだ?」美羽の目から涙がこぼれた。「あなたが欲しいの」「でも、お前は俺を選ばなかった」遼の声に苦みがにじんだ。「あのとき俺を選ばなかったくせに、今度は誰とも結婚するなって言った。お前が欲しいのは俺じゃない。ただ、ほかの女に取られるのが嫌なだけだ」「違う!」「もういい」遼は目を閉じた。「美羽とは子どもの頃からの友達だ。だから、これ以上ひどいことは言いたくない。でも、今日限りで連絡を取るのはやめよう」美羽は呆然とした。「遼?」彼は振り返らなかった。病院を出ると、入口に立ち、曇った空を見上げた。琴葉のことを思い出した。初めて料理を作ってくれた日、彼女は不慣れな手つきで台所に立っていた。見た目は今ひとつの料理を出し、おそるおそる遼の顔を見て、「おいしい?」と聞いた。「まあまあ」と答えると、琴葉は笑って、「じ

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