LOGIN結婚式を目前に控えたある日、ブライダルプランナーと会った。 「藤崎様、タキシードは新郎様の採寸に合わせてご用意しております。本当にサイズを変更してよろしいですか?」 私はうなずいた。 「はい。新郎が替わったので」 2日後には、私・藤崎琴葉(ふじさき ことは)と黒川遼(くろかわ りょう)の結婚式が予定されていた。 式場を決めたのも、招待状をデザインしたのも、ウェディングドレスとタキシードを選んだのも、すべて私一人だった。 遼にも一緒に考えてほしいと頼むたび、彼はうんざりしたように言った。 「知ってるだろ。俺、そういう演出とか好きじゃないんだ。そんな細かいことで、いちいち俺を呼ばないでくれ」 ところが昨日、彼のパソコンから、昔のプロポーズを撮影した動画を見つけた。 5時間に及ぶ映像のうち、4時間は遼が会場を念入りに飾りつける様子だった。 残りの1時間、彼は用意したすべてを興奮気味に相手へ見せて回り、最後にひざまずいて言った。 「美羽、俺と結婚してくれ」 美羽――相沢美羽(あいざわ みう)。 遼からは、幼い頃からの友人だと聞かされていた。 今では私の親友でもあり、結婚式ではブライズメイドを務めてもらうはずだった。 新しいサイズを伝え、運ばれていくタキシードを見送っていると、なぜか涙が止まらなくなった。 プランナーは驚き、慌ててティッシュを差し出した。 「藤崎様、どうなさいました?」 私は涙を拭った。 「何でもありません。式に間に合うよう、できるだけ早く直してください」
View Moreただ、こう言った。「琴葉は、何度も雨に濡れてきたから」それだけで、目の奥が熱くなった。「どうして……教えてくれなかったの?」湊は優しい目で私を見た。「琴葉が幸せなら、それでよかったから」とうとう涙がこぼれた。私は泣き虫ではない。遼と過ごした数年間には、何度も泣いた。それでも、人前で涙を見せたことはなかった。けれど、湊の言葉には耐えられなかった。私の知らないところで、もう10年近くも見守り続けてくれた人がいた。見返りも条件も求めず、私に知られることさえ望まず、ただ幸せでいてほしいと願ってくれていた。「ごめんなさい。何も知らなくて、私……」涙を拭いながら言うと、湊が遮った。声は変わらず穏やかで、優しかった。「謝らなくていい。好きになったのは俺だ。琴葉が申し訳なく思うことじゃない。嫌なら、無理にそばにいようとはしない。この縁談が負担なら、取りやめてもいい。両社にも琴葉にも迷惑はかけない。琴葉がどんな暮らしをしたいのか、それだけ教えてくれればいい。あとは俺が何とかする」何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。「湊……」「最後まで聞いて」湊が一歩、距離を縮めた。「琴葉。俺のことが、どうしても嫌というわけじゃないなら……俺にもチャンスをくれないか?」私は目を見開いた。「どれだけ待つことになっても構わない。ただ、待つことさえ許してもらえないのが怖い」その目は、黒く澄んでいた。期待と緊張と、傷つけまいとする慎重さが浮かんでいた。そして、遼の目には一度も見たことのないものがあった。真剣さ。誠実さ。私でなければ駄目だという思い。昨日の式で湊に手を握られたとき、彼の手のひらは汗ばんでいた。緊張しているのだろうと思っていた。何年も待ち続け、ようやく私が隣に立ったのだ。平静でいられるはずがなかった。ほかにも、さまざまな出来事を思い出した。偶然や幸運、当たり前の親切だと思ってきたこと。そのすべてが、私の知らないところで、湊が私を傷つけないよう、静かに、精いっぱい大切に想い続けてくれていた証だった。「分かった」自分の声が聞こえた。湊の目が、たちまち輝いた。「それは……」「チャンスをあげるって言ったの」私は彼を見つめた。「私自身
あるとき、友人が何げなく口にした。「琴葉、最近、結婚式の準備をしてるらしい。でも、全部一人でやってるみたいだぞ。遼は何も手伝わないって」水を飲んでいた湊の手が止まった。「結婚式?」「琴葉と遼の式だよ。知らなかったのか?来月らしい」湊はグラスを置き、それ以上は何も言わなかった。その夜、家へ帰ると引き出しを開けた。中には、何十本もの黒いボールペンがぎっしり並んでいた。一本一本が、口にできなかった思いの数だった。一本を取り出し、紙に名前を書いた。藤崎琴葉。その文字を見ているうちに、ふと笑みがこぼれた。笑っているのに、目は赤くなっていった。もうすぐ彼女は結婚する。それなのに、自分はいつまで待っているつもりなのか。答えは分からなかった。ただ、式へ乗り込んで奪うことも、思いを告げて、琴葉がようやく手に入れた平穏を壊すこともできなかった。湊は、そういう人間ではなかった。待つことしかできない。琴葉が自分を必要としてくれる日を。一生必要とされなければ、一生姿を見せないつもりだった。ところが、その機会はあまりに突然訪れた。ある日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。出ると、懐かしい声が聞こえた。「久世さん?突然すみません。藤崎琴葉です」湊の手が震えた。「は、はい」琴葉は少しためらっていた。「一つ、聞きたいことがあるんです」「何でしょう」「久世家とうちは、仕事で提携していますよね。お父様が久世さんの縁談を探していると、父から聞きました」湊の鼓動が速くなった。「ええ」「それなら……私では駄目ですか?」聞き間違いかと思った。「今、何て?」「家同士の縁談です」琴葉の声は落ち着いていた。「まだお相手が決まっていないなら、私を候補にしてもらえませんか?」湊はスマホを握ったまま、バルコニーに立っていた。夜風が吹きつけ、目の奥が痛んだ。理由は尋ねなかった。遼はどうしたのかとも、何かあったのかとも聞かなかった。数秒黙ったあと、ただ一言、答えた。「ぜひ、お願いします」電話を切ってからも、長いことバルコニーに立っていた。やがてその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。泣いてはいなかった。ただ、目は真っ赤だった。何年も待ち続け
琴葉がよく通うカフェでは、彼女のスタンプカードにこっそりスタンプを足してもらった。雨の日には、国文学科のある校舎の入口へ傘を一本置いた。琴葉は、誰か親切な人が置いたのだと思ったかもしれない。あるいは、一度も気づかなかったかもしれない。それで構わなかった。気づいてもらう必要などない。琴葉が元気に過ごしていると分かれば、それだけでよかった。3年生の頃、琴葉は恋人と別れたようだった。長いあいだ、一人で図書館へ行き、一人で学食へ行き、一人でうつむきながら歩いていた。遠くから見ていると、湊は胸を締めつけられた。そばへ行き、「大丈夫?」と聞きたかった。あのペンを返し、「実は1年の頃から気になっていた」と伝えたかった。それでも、何もしなかった。今の琴葉に必要なのは、別の誰かから向けられる好意ではなく、立ち直るための時間だと思ったからだ。湊は、琴葉が立ち直るまで、そっと見守ることにした。4年生になると、琴葉はまた笑うようになった。新しい恋をしていたのかどうかは分からない。ただ、スカートを履き、化粧をして、友人たちと出かけるようになった。グラウンドの反対側から、友人と一緒にトラックを歩く琴葉を見つめていた。夕暮れの光の中、彼女の影だけが長く伸びていた。大学1年から4年まで、校舎でも図書館でも、晴れの日も雨の日も、一人の人間がずっと見守っていたことを、琴葉はおそらく一生知らない。つけ回したわけでも、覗き見していたわけでもない。ただ遠くから、静かに、邪魔をせずに見守っていただけだった。まるで星を眺めるように。手に入らないと分かっていても、遠くから眺められるだけで幸せだった。卒業後、琴葉の近況を耳にすることはなくなった。湊は地元へ戻って家業に入り、毎日、会議や会食、さまざまな仕事に追われた。いつかは琴葉を忘れられると思っていた。けれどある日、文具店の前を通りかかると、ふと思い立ったように店へ入り、黒いボールペンを一本買った。キャップに猫のシールはなかった。同じシールは、もう売られていなかったからだ。新しいペンを、猫のシールが貼られた一本と並べて引き出しへしまった。引き出しの中は、少しずつペンで満たされていった。それでも忘れられないのだと、湊は思い知った。……
それだけ告げ、私は背を向けた。後ろから遼が呼んでいた気がしたが、振り返らなかった。ホテルを出て、入口の噴水の前を通りかかったとき、思わず足を止めた。湊がそこにいた。花壇の縁に寄りかかり、コーヒーを片手に立つ姿は、気負いがなく絵になっていた。私の顔がたちまち熱くなった。湊が遼との会話を聞いていたのか、どこまで聞こえていたのか分からない。反射的に言い訳をした。「ど、どうしてここにいるの?さっきのは遼を断るために言っただけだから、気にしないで」湊は何も言わずに私を見つめた。居心地が悪くなり、言葉を重ねた。「本当よ。深く考えないで。私たちは家同士の都合で結婚しただけだって、分かってる。だから、私は……」「琴葉」湊が私の名を呼んだ。私は顔を上げた。朝の光を背にした彼の表情は、よく見えなかった。それでも、笑っているように思えた。「実は俺も、琴葉が望んでいるような愛し方を、ずっとしてきたつもりだ」声はとても穏やかだった。「ただ、君が気づいていなかっただけだ」木々の隙間からこぼれた日差しが、湊の肩を照らしていた。冗談とは思えないほど、その表情は真剣だった。「湊、どういう……」「大学1年の頃から、ずっと琴葉が好きだった」……大学1年の9月。キャンパスには、まだ夏の暑さが残っていた。湊が校舎へ入ろうとしたとき、階段の近くで一人の女子学生とぶつかった。彼女が抱えていた本が傾き、床へ散らばった。慌てて拾いながら何度も謝ると、彼女は「大丈夫」と答えた。その声は、秋の風のように柔らかかった。最後の一冊を拾って顔を上げたとき、初めて彼女の顔を見た。色白で小柄な女性だった。瞳は明るく、笑うと目立たないえくぼが二つできた。彼女は本を受け取り、「ありがとう」と言って去っていった。湊はその背中が階段の向こうへ消えるまで、その場に立ち尽くしていた。何秒かして、手に一本のペンが残っていることに気づいた。彼女が落としたものだった。返す間もなかった。どこにでもある黒いボールペンで、キャップには小さな猫のシールが貼ってあった。湊はそのペンを机の引き出しへしまい、一度も捨てなかった。やがて、彼女の名を知った。国文学科の藤崎琴葉。二人は同じ校舎で授業を受けてい