Share

第三話:謎の石仏

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-08-20 13:04:56

「……ふぅ。綺麗になったな」

やしろを見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。

「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」

智哉ともちかの声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな安堵あんどが滲んでいた。

風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。

この不思議な静寂しじまの中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この禁足地きんそくちに俺を誘ったのだろうか。

「そういえば、智哉」

「ん?」

「なんでお前、そんなに怖がりなのに、こんな山で肝試しなんてやろうと思ったんだ?」

俺の問いに、智哉は少しだけ黙り込んだ。その視線は、夜空の星屑ほしくずの海を彷徨い、やがて、自嘲と、ほんの少しの期待きたいが混じり合った、歪な笑みをその口元に浮かべる。

「……俺はさ、輝流が言ったように、才能ゼロだから」

「……」

「親父みたいに霊は視えないし、仏様の難しい話とか、全く分からなくてさ。……だから、ここに来て、そういうヤバい体験の一つでもすれば、もしかしたら……何かが、開花するんじゃないかって。そう、思ったんだよ」

その言葉が、喉の奥に張り付いたガラスの破片のように、息をするたび鈍い痛みとなって胸に広がった。自分にないものを渇望かつぼうし、自分ではない誰かになろうとするその姿が、ひどく危うく見えたから。

「……馬鹿か、お前は」

「え……」

「霊能力者の才能がないなら、別の才能を信じろ。人には、得手不得手がある。光の当たる場所が、それぞれ違うだけだ。日陰でしか咲けない花があるだろ。無理して日に当たったら、お前みたいなのはすぐ干からびる」

それは、俺の偽らざる本心だった。

「おぉぉぉぉ〜……|輝流ぅぅ……! お前、やっぱ世界一良い奴だぁぁぁ……!!」

感極まった智哉が、両手を広げて突進してくる。俺はそれを、ひらりと半身を引いて躱した。

「おま、避けんなって!」

「男と抱き合う趣味はない」

「なんだよそれ! じゃあ穂乃果ちゃんならいいのかよ!?」

穂乃果ほのか

その名前を心の中で転がすと、春の陽だまりひだまりのような、どこか気恥ずかしい温かさが胸に広がる気がした。

「……ああ。穂乃果は、可愛いしな」

「くそう……!! 俺もあんな可愛い子と|縁を結びてぇ……!」

本気で嘆く智哉の横で、俺は夜空を見上げた。

「……いい相手が、見つかるといいな」

「棒読みっ!!!」

智哉のツッコミが、静かな山頂に響く。二人の笑い声が、満天の星空に、そっと溶けていった。

***

「……よし、七時半か。そろそろ下りるか」

俺がそう呟くと、智哉は名残惜しそうに一度だけ星空ほしぞらを見上げてから、こくりと頷いた。山頂を支配していた不思議な安寧あんねいに背を向け、俺たちは再び、深く濃い森のやみへと足を踏み入れる。

下りは、登りとは違う種類の緊張感があった。自分の全体重が爪先にかかり、落ち葉に隠れた石や木の根に、何度も足を取られそうになる。スマホのライトが照らす円の中だけが、かろうじて俺たちの世界だった。

その、時だった。

ライトの光が、道端に佇む黒い影を不意に捉えた。

「……?」

それは、苔むした石仏せきぶつだった。首を少し傾げ、どこか悲しむような顔で、闇の中にじっと座している。

そして、一つだけではなかった。

歩を進めるたびに、次々と闇の中から仏たちが姿を現す。道の両脇を、まるで俺たちを見送るみおくるかのように、おびただしい数の石仏が、弔いの行列のように並んでいた。

「なぁ……」

「うぉ!! い、いきなり話しかけんなよ……!」

「ビビりめ」

「うっせぇ! 誰だってビビるだろ、こんなの!」

「……なんでこんなに仏像があるのか、聞いたことあるか?」

「知るかよ! そもそも普段この山に入る奴なんていねぇだろ! 俺も初めて見たぜ……」

智哉の声が、恐怖に上擦っている。それも無理はない。ライトの光が揺れるたび、石仏たちの表情が、まるで生きているかのように変化して見えるのだ。

怒りに顔を歪ませた憤怒相ふんぬそう。頬に涙の跡が刻まれた慈悲相じひそう。何かを悔やむかのように、固く目を閉じた顔。

それはまるで、この山で還れなくかえれなくなった者たちの、永い無念むねんを石に刻みつけたかのようだった。

ん……?

今、道の中央に佇む、ひときわ大きな地蔵と、確かにが合った、気がした。

他の石仏が無数の苔に覆われているのに、その地蔵だけが、まるで真新しいかのように滑らかな肌をしている。ライトの光の中心で、その石の瞳が、ぬらりと湿った光を帯びた気がした。

心臓が、肋骨の裏で一度だけ、冷たく跳ねる。

粘つくような視線が、首筋に絡みついてくる。

「……仏像と目が合う怪談とかって、あるのか?」

「おまっ!!!! マジでふざけんなよ!? こんなおっかねぇ場所で怪談話とか正気か!? ぶっ飛ばすぞ!?」

「……キレすぎだろ。気になっただけだ」

「いま俺は極力こいつらを見ないようにしてんだぞ!! マジでやめろ!!」

はぁ……。智哉の剣幕に、俺は内心でため息をついた。本当は、俺自身も感じていたのだ。あの視線に射抜かれた瞬間から、背中にまとわりつくような、冷たい何かなにかの存在を。

それから数十分、俺たちは無言で山を下り続けた。

ようやく麓の明かりが見え始め、鳥居のシルエットが闇に浮かんだ、その時。

「くぅぅぅぅぅん……」

獣の鳴き声なきごえのような、か細い声が、どこからか聞こえた。

「ひっ……! な、なんか聞こえなかったか……!?」

「……ああ。確かに聞こえたな」

「何でお前そんなに冷静なんだよ!!! お前がこえーよ!!」

智哉がパニックに陥る。

そして、今度はもっとはっきりと、声が響いた。

まるで、すぐ耳元で囁くかのように。

とも…………ちかぁ……|くぅん……」

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

絶叫と共に、智哉が踵を返す。今下りてきたばかりの闇の中へと猛然と駆け出し、その背中はあっという間に闇に呑まれていった。

残された静寂の中、俺はただ、静かにため息をつく。

「……はぁ。悪ふざけがすぎるぞ、穂乃果」

俺の言葉に応えるように、鳥居の影から、くすくすと笑い声が聞こえる。

「えへへ」

やがて、その闇の中から、月明かりに照らされて、見慣れた少女がひょっこりと姿を現した。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Latest chapter

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十六話:見ただけでも呪われる

     静寂という名の絶望が、俺たちを支配していた。  そっと置いた俺の手の下で、親友の肩が微かに震えている。それだけが、智哉がまだ石になってしまったわけではないことの、唯一の証明だった。  無機質な心電図の電子音だけが、まるで止まってしまった時を無理やり進ませる秒針のように、冷たく、正確に、響き続けている。 「……智哉」  喉に張り付いた声を、なんとか絞り出す。 「燈子に……なにがあったんだ?」  自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているように現実感がない。いっそ、このまま悪い夢であってくれと、心のどこかでまだ願っていた。だが、目の前の光景が、ガラスの向こうの親友の妹が、それが叶わぬ祈りだと突きつけてくる。  何が起きたのか、知らなければならない。目を逸らすことは、もう許されない。 「わ、わかんねぇ……」  ようやく聞こえた智哉の声は、ひび割れたガラスみたいにか細く、頼りなかった。虚ろな瞳はガラスの向こう側を彷徨い、どこにも焦点を結ばない。 「わかんない…?  様子が普段と違ったりはしなかったのか?」  言葉の一つ一つを、薄氷を踏むように慎重に選ぶ。今のこいつに、ほんの少しでも追い打ちになるようなことは言いたくなかった。 「ああ……全くいつもと同じ様子だった。朝だって、普通に『行ってきます』って…。……それなのに…っ」  言葉尻が、嗚咽に変わる。再び震えだした肩を、俺はもう一度、強く握りしめた。それ以外に、かけてやれる言葉が見つからない。 (燈子……)  視線をガラスの向こうに戻す。  無数のチューブに繋がれ、痛々しい包帯で巻かれた小さな身体。  数日前、海の家ではしゃいでいた、あの笑顔が脳裏をよぎった。カレーを頬張り、少し焼けた肌で無邪気に笑っていた、かけがえのない思い出。その眩しい記憶が、目の前の残酷な現実とのコントラストで、胸を鋭く抉っていく。  こんなことになるなんて、誰が想像できただろう。  心電図の音だけが、俺たちの間の重苦しい沈黙を埋めていた。  どれほどの時間が経っただろうか。十数分が、まるで数時間にも感じられた、その時だった。  コン、コン。  静寂に慣れた耳に、控えめなノックの音がやけに大きく響いた。  放心状態の智哉は反応しない。俺は壁に寄りかからせていた重い身体を起こし、ぎこちない足取りで扉へと向かった

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十五話:燈子に起きた悲劇

     ――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十四話:黒い木箱

    「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十三話:死よりも辛いこと

    憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十二話:紅色の御守り

    再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十一話:山姥への説得

    対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第四十六話:呪われた巫女

    静まり返った和室に、俺の告白が、乾いた音を立てて落ちた。櫻井さん夫婦は、驚きもせず、ただ静かに俺の言葉を受け止めてくれている。やがて、悠斗さんが、諭すように、そして慎重に言葉を選びながら、俺に尋ねてきた。「差し支えなければ……その時のことを、もう少し詳しく教えてくれるかな?」「はい……。俺、実は小さい頃に、一度だけ、神鳴山に入ったことがあるんです」「山に? それは……何故? 確か、この町では、昔から神鳴山は禁忌の地と呼ばれていたはずだけど……」悠斗さんの言う通りだ。だが、幼い頃の俺にとって、その禁忌は、ただの挑戦状でしかなかった。「……小さい子特有の、無鉄砲さ、ですね。周りの友達

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第四十九話:小さな棘

    「……ありがとう、ございます」どこか夢見心地のまま、俺は絞り出すように礼を述べた。右手の中に握りしめた紅い勾玉が、まるで生きているかのように、じんわりと熱を帯びている。手のひらに伝わる不思議な温かさは、悠斗さんと、そして美琴さんの想いそのものであるかのように感じられた。「神鳴山へ入るということ。それは、この町において、今も禁忌とされていることだよ」悠斗さんが、厳しくも諭すような声で言う。その瞳は、ただの専門家ではない、幾多の霊災を乗り越えてきた者の深みを湛えていた。「町の皆さんに余計な不安を与えないよう、誰にも見られず、慎重に行動するんだ」「その御守りが君を護ってくれることは、私が

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第三十七話:夏の海で

     「よし、部屋も確認したしな! 俺たちはとっとと着替えるぞぉぉ!!」 『千鳥』の間に荷物を置くやいなや、智哉がバンザイをするように大きく伸びをしながら言った。俺も頷き、早速Tシャツに手をかける。男子二人の着替えなど、あっという間だ。 「おーし、準備万端! って、女子はまだかー! 海が俺を呼んでるぜー!」 襖の向こうで着替えている穂乃果と燈子に向かって、智哉が急かすように呼びかける。その声が、どこか弾んでいる。 それから、数分後。 「ごめんごめん、お待たせ!」 という穂乃果の声と共に、襖がすっと開かれた。 その瞬間、俺は、思わず息を呑んだ。 「どう?? 似合うでしょ?」 少

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第二十二話:すれ違う心

    「昨日……何か、あったのか?」 俺の問いかけに、穂乃果の肩が小さく揺れた。腕の中の子ウサギを抱きしめたまま、その顔は深く俯いてしまう。長いまつ毛が、影を落としていた。 俺は、それ以上の言葉をかけなかった。 ただ、隣で静かに待った。 飼育小屋の穏やかな空気の中、ウサギたちが餌を食む音だけが聞こえる。数分が、まるで数時間のように感じられた。 やがて、穂乃果が、絞り出すような声で口を開いた。 「実はさ……智哉くんの事で…昨日、葵と、喧嘩しちゃって……」 「なに? 智哉のことで?」 思わぬ名前に、俺は聞き返した。穂乃果は、こくりと小さく頷く。そこから先は、堰を切ったように、震える声

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status