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4.ポケットにあったもの

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-08-20 13:05:34

「いやー、それにしても智哉くんは相変わらずいいリアクションするねっ!」

 鳥居の影から姿を現した穂乃果は、悪戯が成功した子どもみたいに、にひっと口角を上げた。

 月明かりに照らされたその顔は、見慣れたものだった。見慣れているのに、こんな場所で見ると少しだけ現実感が薄い。神鳴山の闇の中から、いつもの幼馴染がひょっこり出てくる。普通なら安心する場面なのかもしれないが、直前まであの石仏どもの視線を浴びていたせいで、どうにも頭の切り替えがうまくいかなかった。

 俺は智哉が消えていった山道を指差す。

「あの怖がりをこれ以上怖がらせてやるなよ。見ろ。山の中にまで入って行っちまった」

「あはは。でも、ずっとここで待ってたんだから、それくらいはいいでしょっ?」

 穂乃果は頬をぷくっと膨らませる。

 その仕草はいつも通りだった。学校帰りに寄り道を咎められた時も、俺が適当に返事をした時も、こいつはよくこんな顔をする。けれど、口調の軽さに反して、その目の奥にはまだ緊張の名残があった。

 俺はようやく、そこに気づいた。

「……俺たちが山に入ってから、ずっと待ってたのか?」

「そうだよ? だって、心配だったんだもん」

 当然みたいに言われて、返す言葉が一瞬だけ遅れた。

 神鳴山は、地元の人間なら誰でも知っている禁足地だ。冗談半分で名前を出すことはあっても、本当に夜中に入る奴なんてまずいない。ましてや、こんな麓でひとり待つなんて、普通に考えれば笑えない。

 それを、こいつはしていた。

 俺と智哉が戻ってくるまで。

「……そうか。悪いことしたな」

 頭を掻きながら言うと、穂乃果は少しだけ目を丸くした。それから、ふっと力が抜けたように笑う。

「無事に戻って来れたみたいだし、ほっとしたよぉ……」

 その苦笑に、妙な居心地の悪さを覚えた。

 心配されることに慣れていない、というより、心配されるほどのことをしたという実感が、今さら遅れて足元から這い上がってきたのかもしれない。

 そうしていると、背後の山道から、情けない声が近づいてきた。

「お、おい……。さっきの声、なんだったんだよ……?」

 戻ってきた智哉は、半泣きの顔でこちらを見ていた。膝に手をつき、肩で息をしている。どうやら途中で我に返って、引き返してきたらしい。

 穂乃果はすばやく俺の背中に回り込むと、ぴたりと隠れた。

「おい。俺を盾にするな」

「しーっ」

 いや、隠れる気があるなら声を出すな。

 智哉が不審そうに首を傾げる。その瞬間、穂乃果は俺の横から勢いよく顔を出した。

「じゃーん! 私でした!」

「ええっ!? な、な、なんで穂乃果ちゃんがここに!?」

 智哉の声が裏返る。

 穂乃果は満足げに胸を張った。

「ふふ。素敵な反応だったよ!」

「褒められてる気がしないんだけど!?」

「鳥居のところまで、俺たちの後をつけてたんだってさ」

 俺が補足すると、智哉は口をぱくぱくさせた。

「じゃ、じゃあ最初から……?」

「うん! 最初から二人のやりとり、鳥居を潜るまでは見てたよ!」

「な、なんだよぉ……。じゃあ、俺の情けない姿を見ちまったわけかぁ……」

 智哉の肩が、見るからにしょぼんと落ちる。

「いや、多分、情けないところはもともと知ってただろ」

「追い打ちやめろよ!?」

 俺が言うと、穂乃果も困ったように笑った。

「あはは……。ごめんね。それは、その通りかも……」

「穂乃果ちゃんまで!?」

 智哉の情けない叫びが、夜の麓に響いた。

 さっきまでの神鳴山の空気が、少しだけ遠ざかった気がした。鳥居の向こうにはまだ深い闇がある。石仏たちの視線も、あの妙に澄んだ社の静けさも、消えたわけじゃない。

 けれど、智哉が騒ぎ、穂乃果が笑っている。

 それだけで、世界はずいぶん普通に戻ったように見えた。

     *

 田んぼ道に出ると、空気の匂いが変わった。

 湿った土と、夜露を含んだ草の匂い。遠くで蛙が鳴いている。山の中ではあれほど重く感じた闇も、街灯の頼りない光が混じるだけで、ただの夜に戻っていた。

 穂乃果と智哉は、少し前を歩いている。

 智哉がさっきの悲鳴について必死に言い訳をし、穂乃果がそれを笑いながら聞いていた。いつもの二人だ。そこに混ざる気にはならず、俺は数歩後ろから、黙ってついていく。

 ふと、ズボンのポケットに手を入れた。

「ん?」

 指先に、硬いものが触れた。

 スマホでも鍵でもない。もっと小さくて、冷たい。俺は足を止め、ポケットの中のそれを摘まみ出した。

「……なんだこれ」

 掌の上に乗っていたのは、三角形をした黒い石だった。

 ただの石、に見えなくもない。けれど、妙に表面が滑らかで、月明かりを吸い込むような鈍い艶があった。炭の欠片にも、黒曜石にも似ている。だが、俺はこんなものをポケットに入れた覚えがない。

 山頂の社を掃除していた時に、入り込んだのか。

 そう考えてみたが、納得はできなかった。埃や蜘蛛の巣ならともかく、こんな形の石が、勝手にポケットへ入るものだろうか。

「……社の掃除した時に、紛れたのか?」

 石を見つめながら呟いた、その時だった。

 ばしん、と背中に強い衝撃が走った。

「うおっ」

 反射的に手元が跳ねる。

 黒い石が指の間から抜け落ちた。拾おうと身を屈めるより早く、それは道端の草をかすめ、暗い田んぼの中へぽちゃんと落ちた。

 水面が小さく揺れる。

 月の欠片みたいな波紋が、ゆっくり広がって消えた。

「ど、どうした? 輝流がそんな声出すなんて……」

 智哉が振り返っていた。どうやら、さっき背中を叩いたのはこいつらしい。本人に悪気はなさそうで、むしろ俺の反応のほうに驚いている。

 穂乃果も心配そうにこちらを見る。

「輝流?」

「いや……なんでもない」

 俺は田んぼの暗がりから目を離した。

 わざわざ探すほどのものじゃない。そう思った。そう思うことにした。

「そうかぁ……? まあ、ならいいけど……」

 智哉は首を傾げながらも、また歩き出した。

 俺もその後に続く。

 だが、指先にはまだ、あの石の冷たさが残っていた。

     *

 家に帰る頃には、日付が変わりかけていた。

 玄関で靴を脱ぎ、できるだけ音を立てないように階段を上がる。自室の扉を閉めた瞬間、体の奥に溜まっていた疲れがどっと押し寄せてきた。

 鞄を床に置き、椅子に腰を下ろす。

 山の空気。社の静けさ。石仏の目。智哉の叫び声。穂乃果の笑顔。

 全部が妙に遠い。数時間前の出来事のはずなのに、もう夢の中の映像みたいに輪郭がぼやけている。

 その時だった。

 ころん、と小さな音がした。

「ん……?」

 何かがポケットから落ち、机の下へ転がっていった。

 俺は眉をひそめ、椅子から少し身を乗り出す。床に手を伸ばし、机の脚の陰に入り込んだそれを拾い上げた。

 掌を開く。

「……は?」

 そこにあったのは、三角形をした黒い石だった。

 田んぼに落としたはずの、あの石だった。

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