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17.残された言葉たち

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-10-13 21:40:21

 部屋の中は、嫌なほど静かだった。

 古い紙の匂い。

 埃の積もった机。

 閉じられた日記。

 それらの全部が、俺たちの前で黙っている。

 けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。

 むしろ逆だ。

 ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。

「……一回、整理しよう」

 俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。

「整理……?」

「ああ。このままだと、情報が多すぎる」

 俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。

「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」

「うん……」

「その時点では、まだ気のせいかもしれないと思ってた。でも七月一日には、はっきり“何かが自分を見ている”って書いてる。しかも、家の中には入ってこない。外から覗いていた」

 穂乃果が、自分の肩を抱くようにして頷く。

「それで、七月六日……」

「姿がはっきり見えるようになった」

 俺は日記の最後のページへ視線を落とした。

「身体に、いくつもの顔が張りついている。叶さんはそう書いてる」

「それって……おじいちゃんのメモにあった言葉と同じだよね」

「ああ」

 顔を貼りつけた何か。

 叶が見たもの。

 婚約者が見たもの。

 そして、白石孝之が手がかりだと考えたもの。

 同じものだ。

 そう考えるのが自然だった。

「次に、叶さんのお母さんだ」

「お母さん……」

「叶さんが“身体に顔がある”って話した途端、顔色を変えた。遠くへ行け、この町から離れろ、と言ってる」

 穂乃果が、唇を噛んだ。

「つまり、お母さんは知ってたんだよね」

「たぶんな」

 俺は頷く。

「少なくとも、ただの幻覚だとは思わなかった。叶さんに何が迫ってるのか、ある程度は分かっていたんだと思う」

「でも……だったら、どうしてもっと早く逃げなかったんだろう」

「そこが分からない」

 俺は日記の表紙を指で軽く叩いた。

「叶さんは七月七日に新婚旅行へ行く予定だった。でも実際には、それを取りやめて、婚約者と他県へ引っ越そうとしていた」

「逃げようとしてた……ってことだよね」

「ああ。旅行じゃなくて、避難に近い」

 新婚旅行の延期。

 急な引っ越し。

 母親の忠告。

 そして、その翌日に起きた人身事故。

 並べるほど、事故でも自殺でもなくなっていく。

 穂乃果はスマホの画面を見つめたまま、震える声で言った。

「でも、世間では自殺ってことになった」

「新婚旅行を取りやめたことにショックを受けた、ってな」

「そんなの……変だよ」

 穂乃果の声が、少しだけ強くなった。

「だって叶さん、こんなに幸せそうだった。怖いことが起きてたのは分かるけど、それでも婚約者さんと逃げようとしてたんでしょ? だったら、自分から死ぬ理由なんて……」

「ない」

 俺は短く答えた。

 少なくとも、この日記を読んだあとでは、そうとしか思えなかった。

 叶は死にたかったわけじゃない。

 生きるために逃げようとしていた。

 なのに、死んだ。

「それで、婚約者も十日後に自殺してる」

 俺が言うと、穂乃果の顔がさらに青ざめた。

「その人も……見てたんだよね。“顔を貼りつけた何か”を」

「ああ」

「叶さんだけじゃなかったんだ……」

「たぶんな」

 叶が死んだことで終わったわけじゃない。

 それは婚約者のところへ行った。

 発狂する声。

 悲鳴。

 近づいてくる、顔を貼りつけた何か。

 そこまで来ると、もう偶然ではなかった。

「じゃあ……その何かは、叶さんを追ってたんじゃなくて」

 穂乃果は、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。

「叶さんに関わった人も、追ってた……?」

 俺はすぐには答えられなかった。

 考えたくない。

 けれど、今までの情報を並べれば、そういう可能性が一番高い。

「少なくとも、婚約者は巻き込まれてる」

「おじいちゃんも?」

 穂乃果の声が、かすれた。

 俺はスマホに映った白石孝之のメモを見る。

 この件を深掘りするな。

 顔を貼りつけた何か。

 まずは、これを調べる必要がある。

 白石孝之は、そこに踏み込んだ。

 そして、のちに変死している。

「……その可能性はある」

 穂乃果は何も言わなかった。

 代わりに、俺の服を握る手に力がこもる。

 俺は息を吐き、もう一度だけ情報を頭の中で並べ直した。

「叶さんは、顔のある何かを見た」

「うん」

「母親は、それが何なのか知っていた」

「うん……」

「叶さんは逃げようとした。でも七月七日に死んだ」

「……うん」

「婚約者も同じものを見て、十日後に死んだ」

「うん」

「孝之さんは、その事件を追った。そして、たぶん同じものに近づいた」

 穂乃果は、小さく息を呑んだ。

「じゃあ、次に知るべきなのは……」

「ああ」

 俺は、日記の最後の白紙ページから目を離した。

「叶さんのお母さんが何を知っていたのか、だ」

 その時、部屋の奥で、かすかに床が軋んだ。

 俺たちは同時に振り向く。

 そこには誰もいない。

 けれど、空気だけが冷たくなっていた。

 まるで、今の答えを待っていた何かが、ようやく動き出したみたいに。

 俺は日記を閉じ、穂乃果を背中側へ庇う。

「……探そう」

「何を?」

「母親の記録だ」

 穂乃果は怖がっていた。

 それでも、逃げようとはしなかった。

 小さく頷き、震える声で言う。

「うん。たぶん……それが一番、大事だと思う」

 俺も同じことを考えていた。

 叶が最後に頼った相手。

 叶を逃がそうとした人間。

 そして、白石孝之に「深掘りするな」と告げた人物。

 秋崎叶の母親。

 彼女が何を知っていたのか。

 この家には、まだその答えが残っている。

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