ログイン――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。
そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。 けれど、すぐには動かなかった。 先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。 その声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 「……ああ」 俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この件を追いかけるってことは……」 そこから先は、口に出さなくても分かるはずだった。 秋崎叶。 その婚約者。 そして、白石孝之。 少なくとも三人。 もっと多い可能性だってある。 顔を貼りつけた何か。 叶を追い、婚約者を狂わせ、孝之さんの死にまで繋がっているかもしれない存在。 確証なんてない。 でも、確証がないから安全だなんて言える段階は、とっくに過ぎていた。 これは危険だ。 今まで読んだどんな怪談よりも、調査記録よりも、はっきりと危険だった。 「輝流」 穂乃果が俺の名前を呼んだ。 「それなら、輝流も一緒に帰ろうよ……」 正しい。 彼女の言っていることは、何一つ間違っていなかった。 見ず知らずの誰かのために、自分の命を危険に晒す必要なんてない。二十年前に死んだ女性。変死した家族。発狂した婚約者。そんなものは、俺たちが背負うべきものではない。 警察に言えばいい。 大人に任せればいい。 そもそも何も見なかったことにして、この屋敷を出ればいい。 それが、普通だ。 正しい。 けれど。 俺の足は、もう出口の方を向いていなかった。 「穂乃果も知ってるだろ」 俺は、自分でも驚くほど平坦な声で言った。 「俺は昔から、恐怖を感じない」 穂乃果の目が揺れた。 「……輝流」 「不気味だとは思う。嫌なものだとも分かる。今の状況がまともじゃないことも分かってる」 血の跡。 勝手に開いた扉。 老婆の霊。 叶の日記に残された、顔を貼りつけた何か。 それらを思い返しても、胸の奥にあるべき感情は湧いてこなかった。 怖い。 そう感じるはずの場所だけが、ぽっかりと抜け落ちている。 「でも、怖くはないんだ」 いつからだったのか、はっきりとは思い出せない。 幼い頃から、そうだった気がする。 高い場所も、暗い場所も、大人たちが口を揃えて近づくなと言う山も、俺にはただそこにあるだけだった。 ただ、そのあたりの記憶は妙に曖昧だ。 霧の向こうに置き忘れてきたみたいに、思い出そうとすると輪郭がぼやける。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 俺は、恐怖を感じない。 だからこそ、できることがあるのだと、どこかで思っていた。 優しいからじゃない。 放っておけないからでもない。 そんな、きれいな理由じゃない。 俺にとって世界は、ずっと色が薄かった。 朝起きて、学校へ行き、くだらない話をして、家に帰る。 同じような日々が、同じような顔をして流れていく。 何もかもが、少し遠い。 誰かが笑っていても。 誰かが怒っていても。 雨が降っていても、夕焼けが綺麗でも。 全部、薄い膜の向こう側にあるみたいだった。 でも、今は違う。 この屋敷に入ってから、世界の輪郭がやけにはっきりしている。 床に染みついた血の赤。 老婆の白く濁った目。 日記に残された叶の幸福。 そして、それを踏み潰した何かの気配。 嫌になるほど鮮明だった。 赤い。 血の色みたいに。 俺の退屈な世界に、無理やり色を塗りつけてくる。 危険だと分かっている。 戻れなくなるかもしれないとも思う。 それでも、胸の奥のどこかが、確かにこの先を見たいと言っていた。 それはきっと、正義感なんかじゃない。 破滅的な衝動。 その言葉が、一番近かった。 「で、でも……」 穂乃果は、それでも引かなかった。 青ざめた顔で、震える指で、それでも俺を見ている。 逃げたいはずなのに。今すぐこの家から出たいはずなのに。 その目だけは、逸らさなかった。 「俺なら大丈夫だ」 俺はそう言った。 「何かあっても、俺はこの選択を後悔しない」 言い切った直後だった。 脛に、三度目の痛みが走った。 「いてっ!!?」 思わず片足を引く。 「おま、ちょっと蹴りすぎだぞ!」 「そんな馬鹿なこと言わないでよ!」 穂乃果の声が、書庫の奥で震えた。 怒っていた。 泣きそうだった。 そして、正しかった。 だから俺は、すぐに言い返せなかった。 「後悔とか……本当にこの先、輝流までそんなことになるみたいな前提で話すの、やめて!」 「うっ……」 さすがに、今のは分が悪い。 俺が黙ると、穂乃果は一度だけ深く息を吸った。怖さを押し込めるように、胸元で手を握る。 「……今回は、私も最後まで調査する」 その声は、まだ震えている。 「でも、叶さんの件が解決したら、もうこの件に関しては深掘りしない。そう約束して」 「……」 「返事っ」 「わ、分かったよ」 俺が答えると、穂乃果はようやく少しだけ息を吐いた。 肩から力が抜ける。けれど、完全に安心したわけではないのだろう。まだ俺の袖を掴んだままだった。 「それじゃあ、叶さんのお母さんの記録、早く探そ。もう夜だよ?」 穂乃果はそう言って、机から少し離れようとした。 その背中を見て、俺は思わず訊いていた。 「……穂乃果は怖いのに、どうしてそこまで俺に付き合うんだよ?」 穂乃果の足が、ぴたりと止まった。 書庫の奥に、また静けさが戻る。 さっきまでの怪異の気配とは違う。 もっと近くて、痛い沈黙だった。 穂乃果は背を向けたまま、小さく呟く。 「それも、忘れちゃったの?」 「えっ?」 穂乃果はゆっくり振り返った。 少し怒っていて、少し泣きそうで、それでもどこか覚悟を決めたような顔をしていた。 「これをさ、叶さんの日記の前で言うの、すごく嫌だし……するべきじゃないと思う」 彼女の視線が、机の上の日記へ一瞬だけ落ちる。 叶が幸せを綴り、そのまま途切れてしまった日記。 その前で、未来の話をする。 それがどれほど残酷に見えるか、穂乃果にも分かっているのだろう。 でも、彼女は続けた。 「でも、言わせて」 「……ああ」 「私、輝流と結婚するって約束したんだよ?」 息が、少し止まった。 忘れていたわけじゃない。 ただ、子供の頃の約束なんて、普通は成長するにつれて薄れていくものだと思っていた。砂場で作った城みたいに、雨が降れば崩れて、誰も気にしなくなるものだと。 でも穂乃果は、今もそれを覚えていた。 この血と埃の匂いがする書庫で。 叶の日記の前で。 震えながら、それを言った。 「もちろん、子供の頃の夢だってことも分かってる」 穂乃果は慌てるように言葉を足した。 「だから、輝流にもし好きな人ができたりした時は、その時は引き下がるつもり。でも……」 「それはない」 ほとんど反射だった。 穂乃果が目を丸くする。 「えっ……?」 「俺が穂乃果以外の誰かを好きになるなんて、そんなことはあり得ない」 言ってから、自分でもずいぶんはっきり口にしたなと思った。 でも、嘘ではない。 穂乃果は俺を見ている。 俺がどこか壊れていることも、危うい場所へ足を向けてしまうことも、見て見ぬふりをしない。怖がりながら、怒りながら、それでも隣に立とうとする。 そんなやつを、俺は他に知らない。 「そ、そんなはっきり言われるのは……それはそれで恥ずかしいんだけど……っ」 穂乃果の頬が、暗がりの中でも分かるくらい赤くなった。 さっきまで泣きそうだったくせに。 忙しいやつだ。 「はぁ……」 俺は小さく息を吐いた。 まったく。 そんなことを言われたら、追い返せるわけがない。 俺だって、穂乃果のことはちゃんと異性として好きだ。 ただ、それをどう扱えばいいのか分からないだけで。 他の女子とは違う。 穂乃果は、ちゃんと俺を見てくれる。 俺の空っぽなところも、危ないところも、何もかも見たうえで、手を伸ばしてくる。 なら、俺もその手を無視できない。 「……そうだな」 俺は叶の日記を静かに閉じた。 「その約束があるなら、さっさと調査を終わらせて、二人で元の生活に戻るか」 穂乃果は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく頷いた。 「……うん」 まだ頬は赤いままだった。 でも、さっきより少しだけ、震えは収まっている。 俺たちは並んで、書庫の棚を探し始めた。 叶の母親が残した記録を見つけるために。静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く
泥は、思ったより冷たかった。 スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。 それでも、俺たちは探し続けていた。 かつて線路が走っていた場所。 もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。 ここで、叶は死んだ。 そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。 手記には、そう書かれていた。 「……くそ」 俺は畦道の端にしゃがみ込み、ラ
「……ふぅ。綺麗になったな」 社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。 「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」 智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな|安堵《あんど》が滲んでいた。 風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。 この不思議な|静寂《しじま》の中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この|禁足地《きんそくち》
舗装された道は、とうの昔に闇に溶けて消えた。今はもう、月明かりすら拒む木々の合間を縫う、湿った獣道が続くだけだ。腐葉土の甘い匂いと、土の生々しい気配。それはまるで、山そのものの呼吸が、濃密な空気となって肺腑を満たしていくかのようだった。 一歩、また一歩と足を踏み出すたび、心臓が肋骨の裏でやかましく脈打つ。その音だけが、自分がまだこの世界の輪郭の内側にいることを証明しているようだった。 「はぁ……っ、はぁ……! おい、輝流……! 少し、待てって……!」 ほとんど悲鳴に近い声が、背後で揺れる。振り返れば、智哉が
白く焼けたアスファルトが、陽炎の中で揺らめいていた。 耳の奥では、飽和した蝉時雨が鳴り続けている。窓を閉め切った教室の中にいても、その音はどこからか染み込んできて、脳の芯までじわじわと痺れさせた。 汗で肌に張りつくワイシャツの感触が、気持ち悪い。 息をするだけで、体の奥に熱が溜まっていく気がした。 夏。 この季節が、どうしようもなく嫌いだった。 思考も身体も、何もかもが熱に溶けて、輪郭を失っていく。何かをする気力も、何かを考える集中力も、全部まとめて削られていく。 その気怠さの象徴みたいに、教室の窓の向こうには、一つの|山塊《さんかい