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18.幼い頃の約束

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-10-14 23:37:22

 ――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。

 そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。

 けれど、すぐには動かなかった。

 先に、やらなければならないことがあった。

「穂乃果」

「……なに?」

 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。

 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。

 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。

「やっぱり、お前は――」

「帰れ、って言うんでしょ?」

 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。

 その声は震えていた。

 けれど、弱くはなかった。

「……ああ」

 俺は短く認める。

「お前も分かってるだろ。この件を追いかけるってことは……」

 そこから先は、口に出さなくても分かるはずだった。

 秋崎叶。

 その婚約者。

 そして、白石孝之。

 少なくとも三人。

 もっと多い可能性だってある。

 顔を貼りつけた何か。

 叶を追い、婚約者を狂わせ、孝之さんの死にまで繋がっているかもしれない存在。

 確証なんてない。

 でも、確証がないから安全だなんて言える段階は、とっくに過ぎていた。

 これは危険だ。

 今まで読んだどんな怪談よりも、調査記録よりも、はっきりと危険だった。

「輝流」

 穂乃果が俺の名前を呼んだ。

「それなら、輝流も一緒に帰ろうよ……」

 正しい。

 彼女の言っていることは、何一つ間違っていなかった。

 見ず知らずの誰かのために、自分の命を危険に晒す必要なんてない。二十年前に死んだ女性。変死した家族。発狂した婚約者。そんなものは、俺たちが背負うべきものではない。

 警察に言えばいい。

 大人に任せればいい。

 そもそも何も見なかったことにして、この屋敷を出ればいい。

 それが、普通だ。

 正しい。

 けれど。

 俺の足は、もう出口の方を向いていなかった。

「穂乃果も知ってるだろ」

 俺は、自分でも驚くほど平坦な声で言った。

「俺は昔から、恐怖を感じない」

 穂乃果の目が揺れた。

「……輝流」

「不気味だとは思う。嫌なものだとも分かる。今の状況がまともじゃないことも分かってる」

 血の跡。

 勝手に開いた扉。

 老婆の霊。

 叶の日記に残された、顔を貼りつけた何か。

 それらを思い返しても、胸の奥にあるべき感情は湧いてこなかった。

 怖い。

 そう感じるはずの場所だけが、ぽっかりと抜け落ちている。

「でも、怖くはないんだ」

 いつからだったのか、はっきりとは思い出せない。

 幼い頃から、そうだった気がする。

 高い場所も、暗い場所も、大人たちが口を揃えて近づくなと言う山も、俺にはただそこにあるだけだった。

 ただ、そのあたりの記憶は妙に曖昧だ。

 霧の向こうに置き忘れてきたみたいに、思い出そうとすると輪郭がぼやける。

 それでも、ひとつだけ確かなことがある。

 俺は、恐怖を感じない。

 だからこそ、できることがあるのだと、どこかで思っていた。

 優しいからじゃない。

 放っておけないからでもない。

 そんな、きれいな理由じゃない。

 俺にとって世界は、ずっと色が薄かった。

 朝起きて、学校へ行き、くだらない話をして、家に帰る。

 同じような日々が、同じような顔をして流れていく。

 何もかもが、少し遠い。

 誰かが笑っていても。

 誰かが怒っていても。

 雨が降っていても、夕焼けが綺麗でも。

 全部、薄い膜の向こう側にあるみたいだった。

 でも、今は違う。

 この屋敷に入ってから、世界の輪郭がやけにはっきりしている。

 床に染みついた血の赤。

 老婆の白く濁った目。

 日記に残された叶の幸福。

 そして、それを踏み潰した何かの気配。

 嫌になるほど鮮明だった。

 赤い。

 血の色みたいに。

 俺の退屈な世界に、無理やり色を塗りつけてくる。

 危険だと分かっている。

 戻れなくなるかもしれないとも思う。

 それでも、胸の奥のどこかが、確かにこの先を見たいと言っていた。

 それはきっと、正義感なんかじゃない。

 破滅的な衝動。

 その言葉が、一番近かった。

「で、でも……」

 穂乃果は、それでも引かなかった。

 青ざめた顔で、震える指で、それでも俺を見ている。

 逃げたいはずなのに。今すぐこの家から出たいはずなのに。

 その目だけは、逸らさなかった。

「俺なら大丈夫だ」

 俺はそう言った。

「何かあっても、俺はこの選択を後悔しない」

 言い切った直後だった。

 脛に、三度目の痛みが走った。

「いてっ!!?」

 思わず片足を引く。

「おま、ちょっと蹴りすぎだぞ!」

「そんな馬鹿なこと言わないでよ!」

 穂乃果の声が、書庫の奥で震えた。

 怒っていた。

 泣きそうだった。

 そして、正しかった。

 だから俺は、すぐに言い返せなかった。

「後悔とか……本当にこの先、輝流までそんなことになるみたいな前提で話すの、やめて!」

「うっ……」

 さすがに、今のは分が悪い。

 俺が黙ると、穂乃果は一度だけ深く息を吸った。怖さを押し込めるように、胸元で手を握る。

「……今回は、私も最後まで調査する」

 その声は、まだ震えている。

「でも、叶さんの件が解決したら、もうこの件に関しては深掘りしない。そう約束して」

「……」

「返事っ」

「わ、分かったよ」

 俺が答えると、穂乃果はようやく少しだけ息を吐いた。

 肩から力が抜ける。けれど、完全に安心したわけではないのだろう。まだ俺の袖を掴んだままだった。

「それじゃあ、叶さんのお母さんの記録、早く探そ。もう夜だよ?」

 穂乃果はそう言って、机から少し離れようとした。

 その背中を見て、俺は思わず訊いていた。

「……穂乃果は怖いのに、どうしてそこまで俺に付き合うんだよ?」

 穂乃果の足が、ぴたりと止まった。

 書庫の奥に、また静けさが戻る。

 さっきまでの怪異の気配とは違う。

 もっと近くて、痛い沈黙だった。

 穂乃果は背を向けたまま、小さく呟く。

「それも、忘れちゃったの?」

「えっ?」

 穂乃果はゆっくり振り返った。

 少し怒っていて、少し泣きそうで、それでもどこか覚悟を決めたような顔をしていた。

「これをさ、叶さんの日記の前で言うの、すごく嫌だし……するべきじゃないと思う」

 彼女の視線が、机の上の日記へ一瞬だけ落ちる。

 叶が幸せを綴り、そのまま途切れてしまった日記。

 その前で、未来の話をする。

 それがどれほど残酷に見えるか、穂乃果にも分かっているのだろう。

 でも、彼女は続けた。

「でも、言わせて」

「……ああ」

「私、輝流と結婚するって約束したんだよ?」

 息が、少し止まった。

 忘れていたわけじゃない。

 ただ、子供の頃の約束なんて、普通は成長するにつれて薄れていくものだと思っていた。砂場で作った城みたいに、雨が降れば崩れて、誰も気にしなくなるものだと。

 でも穂乃果は、今もそれを覚えていた。

 この血と埃の匂いがする書庫で。

 叶の日記の前で。

 震えながら、それを言った。

「もちろん、子供の頃の夢だってことも分かってる」

 穂乃果は慌てるように言葉を足した。

「だから、輝流にもし好きな人ができたりした時は、その時は引き下がるつもり。でも……」

「それはない」

 ほとんど反射だった。

 穂乃果が目を丸くする。

「えっ……?」

「俺が穂乃果以外の誰かを好きになるなんて、そんなことはあり得ない」

 言ってから、自分でもずいぶんはっきり口にしたなと思った。

 でも、嘘ではない。

 穂乃果は俺を見ている。

 俺がどこか壊れていることも、危うい場所へ足を向けてしまうことも、見て見ぬふりをしない。怖がりながら、怒りながら、それでも隣に立とうとする。

 そんなやつを、俺は他に知らない。

「そ、そんなはっきり言われるのは……それはそれで恥ずかしいんだけど……っ」

 穂乃果の頬が、暗がりの中でも分かるくらい赤くなった。

 さっきまで泣きそうだったくせに。

 忙しいやつだ。

「はぁ……」

 俺は小さく息を吐いた。

 まったく。

 そんなことを言われたら、追い返せるわけがない。

 俺だって、穂乃果のことはちゃんと異性として好きだ。

 ただ、それをどう扱えばいいのか分からないだけで。

 他の女子とは違う。

 穂乃果は、ちゃんと俺を見てくれる。

 俺の空っぽなところも、危ないところも、何もかも見たうえで、手を伸ばしてくる。

 なら、俺もその手を無視できない。

「……そうだな」

 俺は叶の日記を静かに閉じた。

「その約束があるなら、さっさと調査を終わらせて、二人で元の生活に戻るか」

 穂乃果は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく頷いた。

「……うん」

 まだ頬は赤いままだった。

 でも、さっきより少しだけ、震えは収まっている。

 俺たちは並んで、書庫の棚を探し始めた。

 叶の母親が残した記録を見つけるために。

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