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6.欠落

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-09-25 17:36:02

 翌日の教室は、昨日と同じように暑かった。

 開け放たれた窓からは、朝から遠慮のない蝉の声が流れ込んでくる。扇風機が首を振るたびに、ぬるい風が教室の後ろまで届いて、机の上に広げられたプリントの端をかすかに揺らした。

 俺の席は、教室の左側後方。

 その机を囲むようにして、智哉と穂乃果が立っていた。

「お、お、お、お前……そのタイミングで振り返ったのかよ!?」

 智哉の声が、朝の教室にやけに大きく響いた。

「ああ」

「ああ、って! お前、ああで済む問題じゃないだろ!? なぁ、穂乃果ちゃん!?」

 智哉が縋るように隣の穂乃果を見る。

 穂乃果は鞄を胸の前で抱えたまま、少し青ざめた顔をしていた。いつもの柔らかい雰囲気は残っているが、肩がわずかに強張っている。

「血だらけの女の人って……浅生くん、怖くなかったの……?」

「まあな」

 俺は窓の外へ視線を向けた。

 グラウンドの向こうで、体育の準備をしている生徒たちが見える。白いシャツが陽射しに滲んで、どこか現実感が薄かった。

「だって、元は同じ人間だろ。死んでるか生きてるかの違いでしかないし」

 言った瞬間、二人の沈黙が落ちた。

 智哉が、ゆっくりと穂乃果の方を見る。

「……穂乃果ちゃん。どう思う?」

「いやー……。さすがに私は、振り返るなんてできないかな……」

「そうだよな。そうだよな。それが普通だよな!!」

 智哉は全力で頷いた。まるで自分の正気を確認するような勢いだった。

 穂乃果は困ったように笑ってから、もう一度俺を見た。

「そ、それで……その後、どうなったの?」

「消えていったよ。目の前で、すうっと」

「ぎゃあああああああああっ!!」

 智哉の絶叫が、教室を真っ二つに裂いた。

 ざわついていたクラスの空気が、一瞬で止まる。前の席で話していた女子も、黒板の前にいた男子も、プリントを配っていた委員長も、全員の視線が智哉に集まった。

 智哉は固まった。

 それから、ぎこちなく背筋を伸ばす。

「こ、こほん……」

 何事もなかったように咳払いをしたが、無理がありすぎた。

 俺はため息をつき、頬杖をつく。

 それにしても、と。

 教室中から向けられる視線の中で、俺はぼんやりと思った。

 やはり、俺はどうしようもないほど壊れているのだろう。

 人が生きるために必要な恐怖。危険から遠ざかるための本能。普通なら、昨夜のあれを見た時点で声を上げるか、逃げ出すか、あるいは足が竦むのだと思う。

 智哉の反応が大袈裟なんじゃない。

 穂乃果が怯えるのが普通なんだ。

 なのに、俺は。

 ――みんな、こんな風に怖がってるのに、俺は何も感じない。

 血だらけの女が目の前に立っていた。

 裸足で、濡れた足音を立てながら、俺の後ろをついてきた。

 その顔を見た。目も、見た。

 それでも俺の中に湧いたのは、恐怖ではなかった。

 ただ、奇妙な引っかかりだけが残っている。

「うーん……」

 穂乃果が、少し考えるように小首を傾げた。

「その女の人を見て、本当に、怖さを感じなかったの?」

「ああ」

 俺は短く答える。

 けれど、それだけでは何かが足りない気がして、少しだけ言葉を継いだ。

「でも、なんでか苦しそうに見えた。それは、気になってるかもしれない」

 穂乃果の目が、わずかに揺れた。

 怖がっていたはずなのに、その表情から怯えが薄れていく。代わりに、俺の言葉の奥にあるものを探すような、静かな眼差しが向けられた。

「浅生くんはさ」

 穂乃果は、ゆっくりと言った。

「きっと、その人を助けたいんじゃないかな?」

 俺は、思わず眉を寄せた。

 ――俺が……?

 見ず知らずの、|幽霊《ひと》を?

「……それは違うだろ。相手は知らない誰かだ。そんな感情にはならない」

「ううん」

 穂乃果は首を横に振った。

 強く否定する声ではなかった。けれど、不思議と揺らがない声だった。

「私は、浅生くんが本当はすごく優しいの、知ってるから」

 胸の奥が、妙にざらついた。

 そういう言葉は苦手だ。

 面と向かって言われると、どこに視線を置けばいいのか分からなくなる。

「そうだなぁ」

 智哉がうんうんと頷いた。

「口は悪いし、気怠そうだし、基本ひねくれてるけど、お前がいい奴なのは俺も保証するぜ!」

「余計な情報が多いな」

「褒めてんだよ!」

 智哉が胸を張る。

 穂乃果は小さく笑っていた。

 その二人を見て、俺は心の中で呟く。

 ――買いかぶりだ。

 俺は、そんな人間じゃない。

 幽霊が苦しそうに見えたから気になっている。ただそれだけだ。助けたいとか、救いたいとか、そんな綺麗な感情じゃない。

 自分でも説明のつかないものを、そのまま放っておけないだけだ。

 そう思った、その時だった。

「ねぇ、浅生くん」

 穂乃果が、少し身を乗り出した。

「一度、その女性のこと、調べてみない?」

 助けたい、という言葉には実感が湧かなかった。

 けれど。

 気になる、というのなら。

 それは、間違いなくそうだった。

 俺は、あの赤い服の女が気になっている。

 あの女が何者なのか。

 なぜ俺の前に現れたのか。

 そして、どうしてあの時、俺に向かって「返せ」と言ったように見えたのか。

「それに、なんで急に浅生くんに霊が見えるようになったのか、それも気になるしね」

 穂乃果は続けた。

「私、過去に起きた事件とか調べるの、得意だから。おじいちゃんの資料に何かあるかも。力になれるよ」

「お、おいおい……まじかよ……」

 智哉が顔を引きつらせる。

「なんか、とんでもない方向に話が行ってねぇか……?」

 その反応が、たぶん正しい。

 普通なら、関わらない。

 見なかったことにする。

 気のせいだったと片づける。

 けれど俺は、昨日の夜からずっと、あの女の目を忘れられずにいる。

 恐怖ではなく。

 不安でもなく。

 ただ、喉の奥に小さな骨が刺さったように、ずっと引っかかっている。

「……わかった」

 俺は窓の外から視線を戻した。

「一度、詳しく調べてみよう」

 穂乃果の顔が、ぱっと明るくなる。

「うん!」

 智哉は露骨に肩を落とした。

 俺は少しだけ意地悪く、そちらを見る。

「智哉は……混ざらなくてもいいぞ」

「お前なぁ……!」

 智哉の顔が引きつった。

「お前らがそんなことをするって話を聞いたら、引き下がれるわけないだろ……!」

 その声は震えていた。

 けれど、不思議と逃げる気配はなかった。

 穂乃果が小さく笑う。

 俺も、少しだけ口元を緩めた。

 教室の外では、蝉が鳴いている。

 いつもと同じ夏の音。

 いつもと同じ朝。

 けれど、俺たちの日常はもう、昨日と同じ形には戻らないのだと、どこかで分かっていた。

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