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第五話:怪異

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-08-20 13:06:09

じり、じり、と。

脳髄を直接焼くかのような蝉時雨せみしぐれが、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠さけだるさの中にゆっくりと溶けていく。

あぁ……暑い。

ほんとうに、この季節は嫌いきらだ。

机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。

浅生あさい〜! 悪い……! 今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」

汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。

「おい! この間も浅生に来てもらっただろ! 今日はうちの練習試合だ、こっちが先約だ!」

野球部の主将が、俺というこまを挟んで睨み合っている。

「頼むって! 野球部も大変なのは分かるけど、こっちはマジで人が足りてないんだ! キーパーが熱中症で倒れたんだよ!」

サッカー部主将の切実な声に、野球部の主将がぐっと言葉を詰まらせる。

「……ったく、しょうがねぇな。今回だけだからな」

「サンキュ!! 助かる!」

その熱量が、この茹だるような暑さの中で、ひどく億劫おっくうだった。

「……おい。俺の意思いしはどこにいったんだ」

俺が気怠く顔を上げると、二人が悪びれもなく笑った。

「お前はいつも気だるそうだけど、なんだかんだ言って、最後は手伝ってくれるからな」

はぁ……。返す言葉もない。

期待きたいされることの面倒めんどうさと、それを断れないことわれない自分の性分しょうぶんに、うんざりする。

「……わかったよ。サッカー部な?」

「おう! 頼むぜ!」

嵐のように、二人は去っていった。その喧騒けんそうが消えた机の前に、ひょっこりと智哉ともちかが顔を出す。

「相変わらず人気者だねぇ、輝流あきるは」

「……うるさい。誰もこんな人気にんきは望んじゃいない。

「まぁまぁ、いいじゃねぇか! じゃ、俺は先に帰るんで!」

「おい、帰宅部」

俺は、帰ろうとする智哉の肩を掴んだ。

「お前も来いよ。体力作りのいい機会だろ?」

すると智哉は、まるで世界の終わりでも見るかのような顔で、ぶんぶんと首を横に振った。

「馬鹿野郎! 俺が応援なんて行ったら、呪いのろでチームを大敗させるぜ!?」

胸を張って言うことではない。だが、本当に有り得そうなのが、こいつの恐ろしいおそところだ。絶望ぜつぼうを知り尽くしたその面構えが、違う。

「はぁ……。お前じゃ戦力にならないか」

「おい! 言葉を選べ! 言葉を!!」

「……下手くそ、だったもんな」

「……!!」

立ち上がった俺の背中に、智哉がぽつりと呟いた。

「右足、気をつけろよ」

「……おう」

その言葉に、右足の古傷ふるきずが、一瞬だけうずいた気がした。

***

結果から言えば、俺はグラウンドを駆け、相手チームから二点を奪った。

身体が憶えている。ボールを支配する感覚。敵を抜き去る瞬間の高揚。だが、心のどこかで、ひどく冷めている自分がいる。

それが決定打けっていだとなり、俺がかつて所属していたチームは、無事に勝利を収めた。

「ひゅー! 流石だな、浅生!」

チームメイトたちが肩を叩いてくる。その熱気が、どこか他人事のように感じられた。汗を拭い、俺はさっさと帰る準備を始める。

「おい! 勝ったんだから打ち上げ行くぞ! お前も主役だろ!」

主将が快活に笑いながら、俺の腕を掴んだ。

「……、悪いけどパス。俺はもう、サッカー部じゃないからな」

俺の言葉に、周囲の喧騒が一瞬だけ、ぴたりと止まる。掴まれた腕を、そっと振り払った。

気まずい沈黙の中、主将が真剣な眼差しまなざしを向けてくる。

「……浅生。お前の場所は、いつでも残ってる。気が向いたら……帰ってこいよ」

「ああ。気が、向いたらな」

その言葉に永遠えいえんに来ない未来の色を乗せて、俺は一人、過去かこになったはずのグラウンドを後にした。

***

日が落ち切った田舎道は、驚くほどやみが深い。等間隔に並ぶ街灯も、その光は弱々しく、まるで闇に喰われかけているかのようだ。

道端に、ぽつんと自販機が佇んでいる。その蛍光灯が、ちか、ちか、と不規則に点滅てんめつを繰り返していた。

不意に、視線しせんを感じた。

まるで闇に縫い付けられるような、粘つくような感覚。

俺は、ゆっくりと後ろを振り返る。

なんだ、あれは。

道の向こう、街灯の頼りない光の中に、|赤い服を着た女が、じっと、こちらを見ている。遠いはずなのに、その顔の凹凸までが見えるような、異常な感覚。

俺は一瞥いちべつすると、何も見なかったかのように、先程と変わらないペースで歩き出した。ポケットの中、あの黒い石が、氷のように冷たくなっている。

こつ……

べちゃ……

すぐ後ろから、水に濡れた裸足で地面を擦るような、湿った水音みずおとが聞こえる。まるで、水底から上がってきたばかりのような。

俺が一歩進むと、その足音あしおとも、同じ間隔かんかくで、一つ響く。

こつ……

べちゃ……

こつ……

べちゃ……

俺は、足を止めた。

すると、背後の水音みずおとも、ぴたりと止まる。

(……もしかして、これがいわゆる、幽霊ゆうれいってやつか?)

恐怖きょうふは、なかった。

むしろ、この退屈たいくつな日常に差し込んだ、初めての亀裂きれつに。

心の底で、冷たい興奮こうふんが、静かに芽生えるのを感じていた。

変質者か、本物の怪異かいいか。

どちらにせよ──。

口の端が、勝手に吊り上がるのを感じた。

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