Share

5.返して

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-08-20 13:06:09

  じり、じり、と。

  脳髄を直接焼くかのような蝉時雨せみしぐれが、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠けだるさの中にゆっくりと溶けていく。

  あぁ……暑い。

  ほんとうに、この季節は嫌いだ。

  机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。

  「浅生あさい〜!  悪い……!  今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」

  汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。

  「おい!  この間も浅生に来てもらっただろ!  今日はうちの練習試合だ、こっちが先約だ!」

  野球部の主将が、俺というこまを挟んで睨み合っている。

  「頼むって!  野球部も大変なのは分かるけど、こっちはマジで人が足りてないんだ!  キーパーが熱中症で倒れたんだよ!」

  サッカー部主将の切実な声に、野球部の主将がぐっと言葉を詰まらせる。

  「……ったく、しょうがねぇな。今回だけだからな」

  「サンキュ!!  助かる!」

  その熱量が、この茹だるような暑さの中で、ひどく億劫おっくうだった。

  「……おい。俺の意思いしはどこにいったんだ」

  俺が気怠く顔を上げると、二人が悪びれもなく笑った。

  「お前はいつも気だるそうだけど、なんだかんだ言って、最後は手伝ってくれるからな」

  はぁ……。返す言葉もない。

  期待きたいされることの面倒めんどうさと、それを断れない自分の性分しょうぶんに、うんざりする。

  「……わかったよ。サッカー部な?」

  「おう!  頼むぜ!」

  嵐のように、二人は去っていった。その喧騒が消えた机の前に、ひょっこりと智哉が顔を出す。

  「相変わらず人気者だねぇ、輝流は」

  「……うるさい。誰もこんな人気は望んじゃいない。

  「まぁまぁ、いいじゃねぇか!  じゃ、俺は先に帰るんで!」

  「おい、待てよ帰宅部」

  俺は、帰ろうとする智哉の肩を掴んだ。

  「お前も来いよ。体力作りのいい機会だろ?」

  すると智哉は、まるで世界の終わりでも見るかのような顔で、ぶんぶんと首を横に振った。

  「馬鹿野郎!  俺が応援なんて行ったら、勝負運が悪くなる呪いでチームを大敗させるぜ!?」

  胸を張って言うことではない。だが、本当に有り得そうなのが、こいつの恐ろしいところだ。絶望を知り尽くしたその面構えが、違う。

  「はぁ……。お前じゃ戦力にならないか」

  「おい!  言葉を選べ!  言葉を!!」

  「……下手くそ、だったもんな」

  「この野郎…っ!!」

 怒った様子を気にも止めず、俺は立ちあがろうとした。

 その時、智哉が俺に声を掛ける。

  「右足、気をつけろよ」

  「わかってるよ」

  その言葉に、右足の古傷が、一瞬だけうずいた気がした。

     *

  結果から言えば、俺はグラウンドを駆け、相手チームから二点を奪った。

  身体が憶えている。ボールを支配する感覚。敵を抜き去る瞬間の高揚。だが、心のどこかで、ひどく冷めている自分がいる。

  それが決定打となり、俺がかつて所属していたチームは、無事に勝利を収めた。

  「ひゅー!  流石だな、浅生!」

  チームメイトたちが肩を叩いてくる。その熱気が、どこか他人事のように感じられた。汗を拭い、俺はさっさと帰る準備を始める。

  「おい!  勝ったんだから打ち上げ行くぞ!  お前も主役だろ!」

  主将が快活に笑いながら、俺の腕を掴んだ。

  「……、悪いけどパス。俺はもう、サッカー部じゃないからな」

  俺の言葉に、周囲の喧騒が一瞬だけ、ぴたりと止まる。掴まれた腕を、そっと振り払った。

  気まずい沈黙の中、主将が真剣な眼差しを向けてくる。

  「……浅生。お前の場所は、いつでも残ってる。気が向いたら……帰ってこいよ」

  「ああ。気が、向いたらな」

  その言葉に永遠に来ない未来の色を乗せて、俺は一人、過去になったはずのグラウンドを後にした。

     *

 日が落ち切った田舎道は、驚くほど闇が深い。

 昼間はただの通学路にしか見えない道も、夜になるとまるで別物になる。等間隔に並ぶ街灯は頼りなく、その光の届かない場所では、田んぼも畦道も民家の影も、全部ひとつの黒に沈んでいた。

 遠くで蛙が鳴いている。

 耳に残っていた歓声も、ボールを蹴る音も、もうどこにもない。グラウンドの熱気から切り離された身体だけが、汗の乾ききらない気持ち悪さを引きずっている。

 右足が、少し重い。

 痛みというほどじゃない。ただ、古い傷がそこにあることを、忘れるなとでも言うように、奥の方で鈍く主張していた。

 道端に、ぽつんと自販機が佇んでいる。

 その蛍光灯が、ちか、ちか、と不規則に瞬いていた。白い光が点るたびに、周囲の闇が一瞬だけ押し退けられ、すぐにまた戻ってくる。

 俺は何となく足を止めた。

 喉が渇いていたわけじゃない。けれど、その光だけが妙に目についた。

 ポケットに手を入れようとして、指先が一瞬だけ止まる。

 黒い石。

 昨夜、田んぼに落としたはずなのに、なぜか家までついてきた、あの三角形の石。

 結局、今朝になっても意味は分からなかった。机の上に置いていたはずなのに、登校前には見当たらなくなっていた。気味が悪いと思うべきなのだろうが、俺はそれを誰にも話していない。

 智哉に話せば騒ぐ。

 穂乃果に話せば、たぶん本気で心配する。

 どちらも面倒だった。

 だから、見なかったことにした。

 そうするには、少しばかり存在感がありすぎたが。

「……」

 不意に、背後から視線を感じた。

 生ぬるい夜風の中に、そこだけ針のように冷たいものが混じる。

 鋭い。

 ただ見られているというより、睨まれている。背中の一点を、じっと、息もせずに覗き込まれているような感覚だった。

 俺は振り返った。

 街灯の薄い光。畦道。黒く沈んだ田んぼ。少し離れたところに立つ電柱。

 誰もいない。

「……変だな」

 呟いた声は、思ったより乾いていた。

 疲れているのかもしれない。久しぶりに走ったせいで、身体だけじゃなく感覚まで少し狂っている。そう考えれば、説明はつく。

 説明がつくだけで、納得はできなかったが。

 俺は自販機の前を通り過ぎ、また歩き出した。

 こつ、とスニーカーの底がアスファルトを叩く。

 そのすぐ後ろで、

 べちゃ。

 濡れた音がした。

 足が止まりかける。

 だが、完全には止めなかった。

 こつ。

 べちゃ。

 こつ。

 べちゃ。

 まるで、濡れた裸足でアスファルトを歩いているような音だった。

 近い。

 いや、近すぎる。

 俺の一歩のすぐ後ろを、誰かの足音が追ってくる。速くも遅くもならない。こちらの歩幅にぴったり合わせるように、同じ間隔で、同じ距離を保っている。

 こつ。

 べちゃ。

 こつ。

 べちゃ。

 鼓動が、ほんの少しだけ速くなる。

 怖い、という感情はまだなかった。むしろ、頭の奥が静かに冴えていく。異常だと理解した瞬間、余計な熱が削ぎ落とされるような感覚があった。

 昨夜の山。

 石仏の目。

 ポケットに入り込んだ黒い石。

 そして、今。

 見なかったことにしたものが、見ろ、と背中に爪を立ててくる。

 俺は足を止めた。

 後ろの音も、止まった。

 夜が、急に深くなる。

 蛙の声が遠ざかり、自販機の点滅する光だけが、ちか、ちか、と頼りなく瞬いていた。

 ゆっくりと振り返る。

 そこに、女が立っていた。

 赤い服を着ていた。

 いや、赤い服だったのかは分からない。月明かりと街灯の薄い光の中で、その服はべったりと濡れているように見えた。胸元から腹、袖口、裾まで、暗い染みが広がっている。

 血だ。

 そう理解するまでに、一拍かかった。

 女は裸足だった。

 白い足の裏から、ぬめるような赤黒いものが地面へ滲んでいる。さっきから聞こえていた音は、それがアスファルトを踏む音だったのだと、嫌でも分かった。

 長い髪が顔を隠している。

 その隙間から、片方の目だけが覗いていた。

 こちらを、見ている。

 瞬きもせず。

 息もせず。

 俺だけを。

 女の唇が、ゆっくりと動いた。

 声は、出なかった。

 けれど、何を言おうとしているのかだけは、なぜか分かった気がした。

 返せ。

 そう言われた気がした。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十六話:か細い生命の灯火

    静寂は、絶望によく似ていた。  病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。  そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。  その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。  ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。  ピッ、ピッ、ピッ。  無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」  喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」  自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。  悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。  だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。  無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。  知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。  知らなければならない。  何が起きたのか。  どうして、こんなことになったのか。  もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」  ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。  虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」  言葉を選ぶ。  薄氷を踏むみたいに、慎重に。  今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」  そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」  言葉の先が、嗚咽に変わる。  震えが強くなる。  俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。  何かを言ってやりたかった。  大丈夫だ、とか。  助かる、とか。  そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。  でも、言えなかった。  今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十五話:燈子に起きた悲劇

     ――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十四話:黒い木箱

    「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十三話:死よりも辛いこと

    憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十二話:紅色の御守り

    再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十一話:山姥への説得

    対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   20.泥と暗闇

     泥は、思ったより冷たかった。  スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。  それでも、俺たちは探し続けていた。  かつて線路が走っていた場所。  もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。  ここで、叶は死んだ。  そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。  手記には、そう書かれていた。 「……くそ」  俺は畦道の端にしゃがみ込み、ラ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   3.謎の石仏

    「……ふぅ。綺麗になったな」 社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。 「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」 智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな|安堵《あんど》が滲んでいた。 風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。 この不思議な|静寂《しじま》の中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この|禁足地《きんそくち》

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   2.頂上の社

      舗装された道は、とうの昔に闇に溶けて消えた。今はもう、月明かりすら拒む木々の合間を縫う、湿った獣道が続くだけだ。腐葉土の甘い匂いと、土の生々しい気配。それはまるで、山そのものの呼吸が、濃密な空気となって肺腑を満たしていくかのようだった。   一歩、また一歩と足を踏み出すたび、心臓が肋骨の裏でやかましく脈打つ。その音だけが、自分がまだこの世界の輪郭の内側にいることを証明しているようだった。   「はぁ……っ、はぁ……!  おい、輝流……!  少し、待てって……!」   ほとんど悲鳴に近い声が、背後で揺れる。振り返れば、智哉が

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   1.神鳴山

     白く焼けたアスファルトが、陽炎の中で揺らめいていた。  耳の奥では、飽和した蝉時雨が鳴り続けている。窓を閉め切った教室の中にいても、その音はどこからか染み込んできて、脳の芯までじわじわと痺れさせた。  汗で肌に張りつくワイシャツの感触が、気持ち悪い。  息をするだけで、体の奥に熱が溜まっていく気がした。  夏。  この季節が、どうしようもなく嫌いだった。  思考も身体も、何もかもが熱に溶けて、輪郭を失っていく。何かをする気力も、何かを考える集中力も、全部まとめて削られていく。  その気怠さの象徴みたいに、教室の窓の向こうには、一つの|山塊《さんかい

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status