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第七話:赤い服の女

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-09-26 17:53:33

茜色あかねいろの光がアスファルトを長く伸ばし、世界の輪郭が曖昧に溶けていく時間。断末魔のような鴉の声が、空に吸い込まれて消えた。

「よしっと……私は準備完了だよ」

穂乃果ほのかが、これから始まる冒険に心を躍らせるかのように、ぱんと一つ手を叩いた。

「まず、輝流は、この辺りで女の人を見たんだよね?」

「……そうだ。丁度あの自販機の所辺りだった」

俺は昨日通り過ぎた、点滅する自販機を指さしてそう告げた。

「うぉぉ……そんな話を聞いてると……今にもその霊が見えるんじゃないかって……気が気じゃねえよ……」

身体をぶるぶると震わせながら、智哉が俺の後ろに隠れる。

「この辺りで起きた事件……は、っと……」

穂乃果の指が、スマホの画面を滑る。古い新聞記事のスキャンデータや、郷土史家のブログまで、慣れた手つきで次々とタブを開いていく。だが、数分後、彼女は困ったように首を傾げた。

「うーん……特に、ないね。事故や事件の記録は、ここ数十年は一件も」

「手詰まりが早くないか……?」

「そうは言っても、本当にインターネット上には載ってないんだもん。もう少し、見てみるけど」

沈んでいく太陽と同じように、俺たちの高揚感もまた、ゆっくりと地平線の下に消えていくようだった。

「あ、そうだ。穂乃果、ついでに後でいいからこれも調べてくれないか?」

そう言って、俺はポケットからあのなみだ型の黒い石を取り出した。ポケットから出した途端、周囲の熱を吸い込むかのように、石の表面にじわりと水滴が滲む。

穂乃果の顔が怪訝なものになった。

「良いけど……なに? これ」

「先日、智哉と肝試しに行った帰りに、いつの間にかポケットに入ってた。多分だけど、社の掃除をした時に紛れたのかもしれねぇ」

「お前そんなもん持ち歩いてんのかよ……」

智哉の言葉より先に、穂乃果が目を丸くして叫んだ。

「輝流が……!? 社の掃除を……!?」

そんなに驚くことか……?

「ちなみに、実はこれ、一度落としたんだ。でも、いつの間にかポケットに戻ってた」

そう言い終えるより先に、二人は俺からさっと距離を置いていた。その視線が、まるで得体の知れない蟲でも見るかのように、俺の手の中の石に突き刺さる。

「そ、それほんと……?」

「捨てても戻ってくる……ってことか……?」

「ああ。智哉に押されて田んぼに落とした。でも、帰ったらまたポケットの中に入っててな」

「穂乃果ちゃん、これ、どう思う」

「うーん……怖いね……それに……」

穂乃果が、何かを思い出すように、眉をひそめる。

「これ、どこかで見た事がある気がするんだよねぇ……なんだろう……」

「俺もどこかで見たことある気がするんだが……」

脳裏の深い場所に引っかかった、忘れていた悪夢の断片のような感覚。二人がそう呟いた時、俺は話を本題に戻した。

「まぁ、今はそれよりあの女の人のことを調べようぜ」

それから俺たちは、陽が完全に落ちるまで、聞き込みや現場の調査を続けた。

***

夜の帳が、完全に町を覆い尽くす頃。

「流石に一日じゃ見つからないかぁ……」

穂乃果が、諦めたようにため息をついた。

「………そうだな」

「……少し、落ち込んでる?」

彼女の問いに、俺は少しだけ驚いた。

「穂乃果ちゃん、こいつはいつもこうだろ〜?」

「……いや。確かに、落ち込んでるのかもしれないな」

智哉が「ま、まじかよ」と目を見開く。退屈を憎んでいたはずの自分が、謎が解けないことに焦燥感を覚えている。その変化に、俺自身が一番戸い惑っていた。

「まぁ、私もおじいちゃんの資料でも見てみるね。そっちならなにか載ってるかもしれないから」

そんなやり取りをした、その時だった。

不意に、一際強い風が吹いた。

それは、この世の風ではなかったように感じられた。

鉄錆と、何か生き物が腐敗したような甘い匂いが混じった、吐き気を催すような悪臭。

生温く、そして、どこまでも血なまぐさい。

そんな鼻を突くような嫌な匂いが、俺たちの身体に、ねっとりと絡みついてきた。

智哉「な、何だこの匂い……っ」

穂乃果「……ほんとだ。なにか……臭うね」

えずく智哉の横で、穂乃果が顔をしかめて鼻を覆う。

古い鉄の匂いと、甘ったるい腐臭が混じり合った、臓腑を直接掴まれるような悪臭。

俺はこの匂いを知っていた。

「これは……多分、血の匂いだ」

そして、俺は気がついた。

他の二人にはまだ見えていない。だが、俺の目には、あの陽炎のように揺らめく空間の歪みの中心に、ぽつんと立つあかい点が、はっきりと見えていた。

昨日と、寸分違わぬ場所に。

あの女が、佇んでいる。

思考より先に、身体が動いていた。

あの時、聞けなかった『問い』の答えを、今ここで手に入れなければならない。

俺は駆けた。その女が佇む場所へと。

穂乃果「ちょ、輝流!?」

智哉「おいおい!! まじかよっ……!」

背後で響く二人の制止の声が、急速に遠ざかっていく。

女の背中は、すぐそこにあった。

「あの……すみません」

後ろ姿に、俺は話しかけた。

だが、反応はない。

なら、もう一度。

「すみません」

二度目の声が、スイッチだった。

まるで錆び付いたブリキの玩具のように、女はギ、ギ、ギ、と、骨と肉が無理に軋む音を立てて、振り返ろうとする。

首が、ありえない角度まで捻じれていく。

まるで、一度完全に壊れた人形を、無理やり動かしているかのようだ。

やがて、その顔が、俺と正面で向き合った。

最初に目に入ったのは、不自然に外側を向いた手の甲。折れた骨が、皮膚を突き破っている。

次いで、ありえない方向に折れ曲がった膝。

肌には、紫色をしたおびただしい数の死斑しはんが、禍々しい模様のように浮かび上がっていた。

そして、視線が顔へとたどり着いた時──思考が、停止した。

そこにあるべき顔のパーツは、まるで粘土を叩き潰したかのように、原型を留めていなかった。

潰れた眼窩から零れ落ちそうな、濁ったガラス玉のような瞳だけが、虚ろに俺を捉えている。

これが、あの悲痛な声の主の、成れの果ての姿。

無惨、という言葉すら、生ぬるい。

これは、絶対的な絶望の形だった。

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