あれから、数日が経っていた。 日常は、何事もなかったかのように穏やかに僕の周りを流れていく。 けれど、僕の頭の中には、まだあの廃病院で体験した出来事の、 薄い霧のようなものがずっと残っているようだった。 現実感がどこか希薄で、ぼんやりとした不思議な感覚が消えないまま、 僕は、開いたままの教科書が置かれた机に肘をつき、ただ窓の外を眺めていた。 春の優しい風が、グラウンドの砂を運び、 校庭の木々の枝先の柔らかな新芽が、ふるふると小さく揺れている。 空は、西の端から少しずつ、美しい朱色に染まりはじめていて、 遠くの方で、体育館の大きなシャッターが、ギィィ…と重々しく軋む音が微かに聞こえてきた。 誠也くんの、あの最後の、どこか寂しげだった笑顔。 手術室の廊下に、氷のように漂っていた冷たい空気。 まだ身体のどこかに、あの場所の気配が、微かに残っているような気がしていた。 けれど、それよりもずっと強く、鮮明に僕の心に残り続けているのは── あの夜の、月明かりの下で見た、月瀬美琴の姿だった。 幼い子供の霊に怯えるでもなく、ただ静かに、その痛みに寄り添い、 救いの手を差し伸べようとする彼女。 そして、そのか細い唇から零れ落ちた「穢れた血」という、あまりにも重く、 そして謎めいた言葉が、今も、僕の胸の奥深くに、小さな棘のように引っかかったまま、消えずに残っていた。 「おーい、悠斗。お前、またボーッとしてんのか? もうすぐテストも近いってのに、余裕だなぁ」 軽い、からかうような声と一緒に、背中をポンと遠慮なく叩かれる。 「……うるさいよ、翔太。ちゃんと、僕だって色々やってるんだって」 「いやいや、どーだか。 さっきからお前の教科書、1ページも進んでねぇじゃんか」 翔太が、悪戯っぽく笑いながら僕の机の上を覗き込んでくる。 その、どこか能天気な顔を適当にあしらおうとした、ちょうどそのところで、 ふと、彼の口から聞き捨てならない言葉が飛び出した。 「あ、そだそだ。ついでに言うと、またあの美琴ちゃんがさ、 どっかの心霊スポットで目撃されたって噂、流れてきたぜ。 今回は……確か、風鳴《かざなり》トンネルだったかな」 「……え?」 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸が、嫌な感じで大きくざわついた。 風鳴トンネル── 確か、郊外
院長室には、静寂だけが残った。 月明かりが割れた窓から差し込み、廃病院の冷えた空気がゆっくりと流れを変えていく。 誠也くんは成仏した。 最後に見せた笑顔が、ゆっくりと薄闇に溶けて消えた。 もう、彼は一人じゃない。家族の元へ、戻れたんだ。 僕の胸には、不思議なほどの静けさが広がっていた。 きっと、あの過去を見たからだ。 誠也くんに、同情していたのだと思う。 だからこそ。 彼がようやく安らぎを得たのだと思うと、胸のつかえが取れるようだった。 僕はそっと息をつき、床に手をついた。 まだ、心臓の奥が微かに震えている…。 ――不思議な美琴の力。 紅い光が、誠也くんの過去を映し出し、そして彼を導いた…。 とても常人の力には思えない…あの不思議な力。 霊が視える僕にさえ、あの力がなんなのか、まったく見当もつかない。 「美琴…今の力は…?」 そう問いかけると、美琴は膝の上の木彫りの人形を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。 月明かりが彼女の横顔を淡く染め、長い睫毛の影が頬に落ちる。 「私は…巫女の血を引いています。」 「巫女…?」 驚きを隠せず問い返すと、美琴は静かに頷いた。 「はい。でも…“穢れた血”なんです。」 その言葉に、胸がざわりと揺れる。 「巫女が…なんで”穢れた血”だなんて…?」 彼女の表情が、ほんの一瞬だけ翳った。 まるで風が止まったみたいに、彼女の微笑みが薄れる。 「私の先祖は…禁忌を犯しました。」 それだけを告げ、美琴はそっと目を伏せた。 まるで、それ以上は語る必要がないと言うように。 何を聞いてはいけないのか。 何を踏み込んではいけないのか。 彼女の言葉の裏にあるものを、僕はまだ知らない。 でも、それでも。 「…それでも、美琴は。」 僕が言葉を探していると、彼女はふっと笑った。 「それでも、私はこの力を使います。」 「この血が穢れていたとしても、助けを求める人がいるのなら。」 その声には、確かな強さがあった。 夜風に乗って遠ざかっていく彼女の言葉を、僕はただじっと聞いていた。 *** 美琴が立ち上がると、床に転がる懐中電灯を拾い上げた。 「…先輩、そろそろ戻りましょう。」 そこの言葉を聞いて、
僕の意識は、あの壮絶な記憶の奔流から、 ゆっくりと、けれど確かに現実へと引き戻された。 目を開けると、頬に、一筋の熱い涙が伝っていくのが分かった。 隣を見ると、美琴もまた、長いまつ毛を伏せたまま、 その白い頬を静かに涙で濡らしていた。 彼女もまた、誠也くんの、あのあまりにも短い人生の記憶を、共に辿ってくれていたのだろう。 「……本当に……辛い過去でしたよね」 彼女の声は、ひどく小さく、 そして、心の底からの同情で、僅かに震えていた。 「うん…………」 僕もまた、同じように震え、そして掠れた声でしか答えることができない。 こんなにも小さな子供が、たった一人で、どれほどの大きな寂しさと恐怖を抱えたまま、 この冷たく暗い廃墟の地に、永い間、縛られてしまっていたというのだろう。 もう──僕の目に映る誠也くんの姿は、 先程までの、得体の知れない、恐ろしい霊的な存在なんかでは、決してなかった。 ただ、そこにいるのは、温もりを求める、いたいけな一人の男の子だった。 美琴の膝の上で、誠也くんは、今はもう穏やかに目を閉じている。 あのボロボロになった木彫りの犬の人形を、まるで宝物のように、 その小さな胸にぎゅっと抱きしめながら、 彼自身から発せられるかのような、温かく、そして清浄な光に、優しく包まれていた。 『……誠也……やっと、みんなに……会える、の……?』 その、か細く、そして期待に満ちた問いかけに、 美琴が、女神のような優しい微笑みを浮かべて、深く頷く。 「うん。もう、大丈夫だよ、誠也くん。 もう、何も怖がることはないよ」 まるで祈りを捧げるかのような、 静かで、けれど確かな力強さを秘めた声で、美琴は厳かに言葉を紡ぎ始めた。 「──浄魂の祈り……汝、汚れを知らぬ純なる魂よ── 今こそ全ての苦しみから解き放たれ、 浄土へと、穏やかに還りなさい…」 美琴のその詠唱に応えるように、彼女の身体から、 鮮やかで、けれどどこまでも優しい“紅い光”がふわりと広がり、 誠也くんの小さな身体を、まるで母親の温もりで包み込むかのように、やさしく、やさしく包み込んでいく。 月明かりが差し込む薄暗い院長室の中で、 その光に包まれた誠也くんの姿は、ゆっくりと揺らぎなが
院長室の中は、シンと静まり返った深い闇が、まるで底なし沼のように広がっていた。 辛うじて割れた窓の隙間から滲み入る、冷たく青白い月明かりだけが、 床の一部分を頼りなげに照らし出している。 その、ぼんやりとした光の中で、小さな子供の影── 誠也くんの霊が、ふわりと淡く揺れていた。 そして、その傍らには。 部屋の隅に置かれた、埃を被った古い革張りのソファに、月瀬美琴が静かに腰を下ろし、 まるで慈しむように、その膝の上で眠るかのような誠也くんの透明な髪を、そっと、繰り返し撫でていた。 彼女の白い指先が、淡い影のような誠也くんの髪に触れるたび、ゆるやかに空気が揺らめき、 まるで彼女自身の祈りが具現化したかのような、温かく、そして清らかな霊気が、 その場に満ちていくのを感じた。 「先輩、こちらへいらしてください」 美琴が、僕の気配に気づいてゆっくりと振り返り、 穏やかな、けれどどこか厳粛な声で僕を呼ぶ。 僕は無言で頷き、ゆっくりと彼女の隣へと進み、 そのソファの端に腰を下ろした。 ひやりとした古い革の感触と、 床からじんわりと這い上がってくる、この廃病院特有の夜の気配が、肌に染み込んでくる。 「……目を、閉じていただけますか」 美琴の、静かで、けれど有無を言わせぬ響きを持ったその一言に従って、 僕がゆっくりと目を閉じると── すぐに、僕の額に、ふわりと、羽毛のようにやわらかく、 そして温かい何かが、そっと触れた。 美琴の、指先だろうか。 その感覚は、なぜだろう、 心の奥底に仕舞い込んでいた、遠い日の記憶を呼び覚ますようで、 どこかひどく懐かしくて、そして、ささくれ立っていた僕の心を、 静かに、優しく包み込んでくる。 ドクン……。 胸の奥深くで、何かが、今までとは違うリズムで、確かに脈打ったのを感じた。 美琴の、澄み切った声が、僕の意識の深い闇の中へと、 まるで清らかな水が一滴ずつ染み込むように、やさしく響いてくる。 「──刻還しの響(ときかえしのひびき)……汝、過ぎし時の断影よ。 我がこの静かなる祈りに応え、 その魂に刻まれし記憶の深淵を、今こそこの眼(まなこ)に映し出せ──」 途端に、僕の身体全体が、淡く、けれど力強い赤い光にふわりと包まれた。 瞼を閉じているはずなのに、その鮮烈な光が、目の裏にま
僕は、重い決意と共に、あの地下へと続く「倉庫」の入口に再び辿り着いた。 目の前に広がるのは、やはり底なしの闇へと誘うかのような、不気味な螺旋階段。 手すりには、何十年もの時をかけて紡がれたであろう、分厚く古びた蜘蛛の巣がびっしりと垂れ下がり、 そこから吹き上げてくる空気は、明らかに地上とは異質で、重たく、そしてひんやりとしていた。 まるで、この世の全ての光と温もりを拒絶しているかのようだ。 でも、今の僕は……ほんの少しだけれど、以前の僕とは違っていた。 誠也くんが、ただ僕たちを怖がらせようとするだけの存在ではないのかもしれないって、 美琴の真っ直ぐで優しい姿を見て、ほんの少しだけ、そう思えるようになったんだ。 怖さは、もちろん、まだ身体の芯にこびりついている。 だけど、もう、それだけじゃない。彼を理解したいという気持ちが、確かに芽生えていた。 ゆっくりと、一度深く深呼吸をして、僕はその暗闇へと続く最初の一歩を、慎重に踏み出した。 そして、もう一歩。また、一歩。 ぎしり、と年季の入った階段が軋むたびに、胸の奥で心臓がドクンと大きく跳ねたけれど、 僕はそれを必死に押し殺して、ただひたすらに、冷たい闇の下へと降りていった。 *** 長い螺旋階段をようやく降りきると、目の前に、まるで金庫室の扉のような、 分厚く巨大な鉄の扉が音もなく立ちはだかっていた。 錆び付いた取っ手に全体重をかけるようにして横へと引くと、 ゴゴゴゴ……という、腹の底に響くような重い金属音を立てて、扉はほんのわずかだけ、その重い口を開いた。 途端に、濃密な埃の混じった、淀んだ空気が、僕の顔へと勢いよく吹き付けてくる。 懐中電灯の震える光が、その隙間から差し込んだ先に、何か黒い人影のようなものが見えた。 「……っ!」 僕は息を呑み、半ば転がり込むようにして、その薄暗い空間へと駆け寄る。 そこにぐったりと倒れていたのは、紛れもなく、僕の友人である翔太だった。 その傍らには、見慣れた顔が他にも三人…… いつもバカをやっている、クラスメイトたちだ。 間違いなく、昨日、あの動画配信をしていた三人組だった。 僕は急いで一人一人の傍に駆け寄り、震える指で首筋に触れて脈を確認する。 (…良かった。全員……ちゃ
誠也くんの、影のようだった輪郭が、ふわりと嬉しそうに揺れた。 そして、本当に久しぶりに浮かべたのであろう、どこまでも無邪気な子供の笑顔が、その小さな顔に浮かび、 弾むような、小さな声が手術室に響く。 『うんっ! じゃあ……おもいっきり隠れるからね! 絶対に見つけてね!』 カタ、カタ、カタタ……。 まるで小鳥が飛び跳ねるような、軽やかな小さな足音が遠ざかり、 誠也くんの小さな影は、あっという間に手術室の薄闇の中へと、楽しそうに溶けて消えていく。 静寂が戻った、埃っぽい廃病院の手術室の中で、僕たちはゆっくりと立ち上がった。 床に転がっていた懐中電灯の光が、足元を頼りなげになぞり、 その動きに合わせて、床に積もった古い埃がふわりと柔らかく宙に舞い上がる。 *** 「……もう、隠れ終わったかな、誠也くん」 僕がそう呟くと、美琴が隣で悪戯っぽく首をかしげて、小さく微笑んだ。 「もう少し待っていてあげてくださいね。先輩は、少しせっかちさんですっ」 その、どこか親しげで、穏やかな声に、さっきまで僕の心を支配していた、 張り詰めたような緊張感が、ふっと、春の雪解け水のように和らいでいくのを感じた。 “かくれんぼ”──。 それは、この暗く冷たい廃病院で、たった一人、永い間、家族を待ち続けていた誠也くんが、 心の底から望んだ、たったひとつの、そしてあまりにも切ない願い。 一体、どれだけの孤独な時間を、彼はここで過ごしてきたのだろう。 どれだけの夜を、この暗くて冷たい、誰もいないはずの病院で、 ただひたすらに……自分の名前が、大好きな家族の声で呼ばれるのを、待ち続けていたのだろうか。 そう思うと、胸の奥が、またきゅっと締めつけられるように痛んだ。 「美琴……さっきの、あの犬の人形だけど……」 僕がふと声をかけると、美琴は、自分が手にしていた、あの片足のもげた木彫りの犬の人形を、 まるで壊れやすい宝物でも扱うかのように、そっと優しく撫でた。 「この人形は……少し前、桜織市の町外れにある、古い国道の脇道で拾ったものなんです」 彼女の静かな声が、手術室の重い闇の中へと、ゆっくりと溶けていくようだった。 「誠也くんのご両親は、彼が肺結核だと分かった当時、 その高額な医療費を稼ぐため
『来るな!!!!』 まるで獣の威嚇のような、幼い、けれど鋭く尖った叫び声が、 埃っぽい手術室の空間を、びりびりと激しく切り裂いた。 そして──ガチャンッ!! バリンッ! 壁際の手術台に置かれていたのであろう、錆びた金属製の医療用トレイが、 まるで意思を持ったように宙を高く舞い上がり、鋭い風切り音を立てて、 一直線に、僕の前に立っていた美琴の、その華奢な肩口へと叩きつけられた。 「っ……!」 美琴は、しかし、その暴力的な投擲を避けようとはしなかった。 「美琴っ!? 大丈夫!?」 衝撃で、彼女の小さな肩がびくりと大きく震えたのが分かったけれど、 彼女はそのまま、真っ直ぐに、部屋の隅で黒い影となって佇む誠也くんの姿を見つめていた。 その瞳には、恐怖の色よりも、むしろ深い哀れみと、そして何かを理解しようとする真摯な光が宿っているように、僕には見えた。 彼女へと一歩踏み出す。 懐中電灯の光が、打たれた彼女の左腕をぼんやりと照らし出す。制服の上からでも、痛みが走ったのが分かった。 それでも彼女は、僕へと静かに首を横に振り、大丈夫だというように小さく微笑んでみせた。 『……ここ……ここは、誠也の場所だったのに……なんで??』 その声は、まだ幼さを残しながらも、どうしようもないほどの怒りと、そして深い寂しさが、ぐちゃぐちゃに絡まり合っているかのようだった。 『……誠也……何も、悪いことなんてしてないよ。ただ……ただずっと、ここで……待ってるだけなのに……』 その小さな肩が、小刻みに震えている。 その、悲痛な言葉の一つ一つが、まるで部屋全体の壁や床にじわじわと染み込んでいくかのように、重く響いた。 美琴が、ゆっくりと、その場に膝をついた。 まるで、怯える彼を刺激しないように…細心の注意を払うかのように。 誠也くんの、その真っ黒な瞳の高さまで視線を下ろし、 彼女は、そっと、慈しむような眼差しで、彼と視線を合わせる。 「うん……君がずっと寂しかったこと、そして今も、とても不安なこと、 私たちには、ちゃんと分かってるよ」 その言葉には、ただ同情するだけではない、彼の存在そのものを肯定しようとする、あたたかで、そして力強い心が宿っていた。 この、氷のように冷たい手術室の空気の中で、
「先輩……!?」 まぶしい光と同時に飛び込んできたのは、聞き覚えのある、けれどこんな場所で聞くはずのない、少女の声だった。 (……え……?) 混乱し、眩しさに目を細めながら、声の主を視界に捉えようとする。 そこに立っていたのは── 夕暮れの桜並木で偶然出会った、どこか儚げで、けれど強い意志を秘めた瞳を持つ、不思議な雰囲気をまとう少女。 僕の通う学校の後輩……月瀬美琴、その人だった。 「美琴……!? なんで、ここに……!」 驚きと、そして激しい戸惑いが、僕の胸の奥でぐるぐると渦を巻く。 こんな場所で、彼女と再会するなんて…… 数時間前の僕には、想像すらできなかった。 「どうして、先輩がこんなところに……?それになんだかものすごい音が聞こえましたけど…。」 美琴は、どこか不安げな表情で、けれど真っ直ぐに僕を見つめている。 その、揺るぎない視線に僅かに息をつきながら、僕は少しだけ肩をすくめて、努めて平静を装い答えた。 「それは、こっちのセリフだよ……実は、友達を、探しに来たんだ」 「お友達を……ですか?」 美琴は、心配そうに眉をひそめ、首を傾げた。 「そう。昨日の夜、面白半分でここに侵入した、配信者達の中に、僕の友人がいた可能性があって…… そいつが、未だに家に帰ってきてなかったから……もしかすると、何かあったんじゃないかって思ってさ」 「配信、ですか……?」 彼女は、事態が飲み込めない、というように、キョトンとした表情で僕を見つめる。 「今朝、学校でも少しだけ話題になっていたみたいなんだ。 生配信中に、何かの……霊らしきものが、はっきりと映ってしまった、と」 「そう……ですか」 美琴は、どこか納得したように小さく呟き、そっと視線を落とした。 その手に、ボロボロな小さな木彫りの人形が握られているのが目に入る。 塗装は剥げ、犬の足が一本もげてしまっている。 けれど、長い年月を経ても失われない、どこか温かみのある形。 「美琴は……一体、どうしてここに?」 僕が改めてそう尋ねると、彼女は、先程までの不安そうな表情から一変し、静かに、そして決意を込めた口調で答えた。 「私は……これを、届けに来たんです」 「それを……届けに、って……?」 一瞬、僕は美琴の
僕は、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。 誠也くんの遺した手紙の、あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 右手の薄暗い廊下を進むと、やがて、まるで冥府への入り口のように、重々しい鉄製の扉が、ぽっかりと黒い口を開けていた。 そこから吹き上げてくる空気は、明らかにこれまでとは質が違う。 まるで、濃密な死の気配そのものが、淀んだ風となって肌を撫でるような感覚。 自然と、僕の足はそこでぴたりと止まった。 (……ここは、噂に聞いていた、地下倉庫への入口、か) “院長が、何かおぞましいものを地下倉庫に隠していた”。 そんな、この病院にまつわる数ある黒い噂の一つが、不意に頭をよぎる。 懐中電灯の震える光を差し込んでみても、その奥は底なしの闇に包まれていて、何も映し出すことはできない。 それでも、まるで氷のように冷たく、そして湿った空気が、確かに僕の肌を粟立たせるように撫でていった。 (……ここは、後だ。先に、他の場所を探してからにしよう……) ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇に未練を残すように振り返り、そして|踵《かかと》を返した。 ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、僕は二階へと向かった。 ───────────────────── 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、そして濃密な気配が漂っていた。 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混ざり合ったような、鼻の奥をツンと刺激する独特のにおい。 廊下の両脇には、小さな個室の患者部屋、そして突き当たりには比較的大きな共同部屋。 その奥には、重々しい扉で閉ざされた手術室と、隣接するレントゲン室が、並んでいる。 どの部屋も、現代ではもう見ることのない、時代に取り残されたかのような、|陰鬱《いんうつ》で古びた造りだった。 僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。 きぃぃ……ぃぃ。 鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。 部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけが、ぽつんと置かれている。 壁紙は広範囲にわたって剥がれかけていて、その下のコンクリ