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11.託されたもの

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2026-07-18 20:15:30

 月瀬さんと共に歩く廃病院は、一人で彷徨っていたときとは明らかに違っていた。

 ――先輩のことは、私が必ずお守りしますから。

 そんなことを年下の女の子に言わせてしまった情けなさは、今も胸に突き刺さっている。

 けれど同時に、月瀬さんが本当に霊能力者なのだということを、僕は身をもって感じていた。

 彼女のそばにいるだけで、空気が違う。

 一人で歩いていたときは、廊下の闇すべてがこちらを窺っているように思えた。どこから何が飛び出してくるか分からず、息をすることさえ怖かった。

 けれど今は、月瀬さんの周りだけ空気が澄んでいる。

 肌にまとわりついていた冷気も、闇の奥から向けられていた無数の気配も、彼女を避けるように遠ざかっているのだ。

 単に、一人ではなくなったから安心しているだけなのかもしれない。

 それでも、彼女のそばにいれば何者にも触れられない――そんな見えない何かに守られているような感覚が、確かにあった。

 月瀬美琴さん。

 彼女は一体、何者なのだろう。

「先輩」

 屋上へ続く階段を上りきったところで、月瀬さんが足を止めた。

 正面には、錆に覆われた重そうな鉄扉がある。

「恐らく、誠也くんはこの先にいます」

「この先って……屋上?」

「はい」

 この扉を開けば、屋上へ出る。

 僕は院内の案内図に書かれていた、奇妙な表記を思い出した。

 ――『屋上:社』

 病院の屋上に、社。

 見間違いかとも思ったけれど、あの意味もようやく分かるのだろうか。

「それでは、開けますよ」

「うん。お願い」

 僕の返事を聞くと、月瀬さんは小さく頷き、鉄扉へ手を掛けた。

 力を込めて押す。

 きぃぃ……。

 錆びた金属同士を無理やり擦り合わせるような音が響き、扉がゆっくりと開いていく。

 隙間から冷たい風が吹き込み、僕の前髪を揺らした。

 そして扉の向こうには、病院の屋上とは思えない異様な光景が広がっていた。

 ひび割れたコンクリートの中央に、色褪せた小さな鳥居が立っている。

 さらにその奥には、古びた社が鎮座していた。

 長いあいだ雨風に晒されてきたのだろう。屋根は黒ずみ、注連縄も朽ちかけている。それでも周囲だけは、病院の一部ではないような異質な空気に包まれていた。

 下から見上げたときには、鳥居も社もまったく見えなかった。

 そして、その鳥居の前に――あの少年がいた。

 誠也くんだ。

 小さな身体で膝を抱え、座り込んでいる。

 扉の開く音に気づいた誠也くんが、ゆっくりと顔を上げた。

 僕と月瀬さんを捉えた瞳が、鋭く細められる。

『……来ないで』

 幼い声が、耳ではなく頭の奥へ直接響いた。

 怯えている。

 けれど、追い詰められた小動物が必死に牙を剥くような、強い威嚇も込められていた。

 僕が思わず足を止める一方で、月瀬さんはゆっくりと歩き始めた。

 一歩、また一歩。

 あの霊へ、迷いのない足取りで近づいていく。

「大丈夫。私は怖い人じゃないよ」

 驚かせないように、子どもを宥めるような優しい声だった。

「君を傷つけに来たんじゃないからね」

 月瀬さんの歩みは止まらない。

 誠也くんは、もうすぐ悪霊になってしまうかもしれない。

 そう言ったのは、月瀬さん自身だ。

 なのに、どうしてあんなに平然と近づけるんだ。

 本当に大丈夫なのか――。

 今すぐ引き止めたいのに、声を上げれば誠也くんを余計に刺激してしまいそうで、何も言えなかった。

 今の僕にできるのは、ただ見守ることだけだった。

「誠也くん。少しだけ、私の話を聞いてくれるかな?」

 いつもの丁寧な口調を崩し、月瀬さんは語りかける。

 誠也くんの目が、すうっと細められた。

『来ないでッ!!』

 激しい叫びが響いた、その直後。

 社の前に供えられていた古びたコップが、カタカタと震え始めた。

 小刻みだった振動は次第に激しくなり、コンクリートを叩く音が屋上に鳴り響く。

 それでも、月瀬さんは立ち止まらない。

「ずっと寂しかったんだよね」

 あと少しで手が届くところまで近づき、月瀬さんは悲しそうに微笑んだ。

「もう大丈夫だよ。君に、渡したいものがあるの――」

 けれど、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 激しく震えていたコップが、突然宙へ跳ね上がる。

 そして弾丸のような勢いで飛び、月瀬さんの肩へ叩きつけられた。

「っ……!」

 鈍い音とともに、月瀬さんの身体が大きく揺らぐ。

「つ、月瀬さん!?」

 僕は反射的に駆け寄ろうとした。

 けれど、月瀬さんがこちらを振り返り、静かに首を横へ振る。

 来ないで。

 言葉はなくても、その意味は伝わってきた。

 だけど、本当にこのままでいいのか。

 僕には分からない。

 ただ一つ分かるのは、あれほど強くぶつけられても、月瀬さんが木彫りの犬だけは決して手放さなかったということだった。

「ごめんね。怖い思いをさせてしまって」

 痛みに顔を歪めながらも、月瀬さんはさらに一歩を踏み出した。

「今までずっと、苦しかったよね。悲しかったよね」

 拒絶されても、傷つけられても、言葉を投げかけ続ける。

 誠也くんの怒りではなく、その奥に隠された痛みへ寄り添うように。

「でも、もう大丈夫」

 月瀬さんは誠也くんの前へしゃがみ込み、その瞳をまっすぐに見つめた。

「君の姿は、私にちゃんと見えているよ。君の声も、聞こえているからね」

 そして、そっと手を伸ばした。

 指先が、誠也くんの小さな肩へ触れる。

 煙のように揺らめく身体をすり抜けることなく、その手は確かに彼を捉えていた。

『……っ! こ、来ないでよ!』

 誠也くんが怯えたように身を捩る。

『なんで……なんで、僕に触るの!?』

 必死にその手を振り払おうとするけれど、月瀬さんは動じなかった。

 それどころか、逃げようとする小さな身体を両腕で優しく包み込んだ。

『えっ……?』

 誠也くんの口から、困惑した声が零れる。

「もう大丈夫。怖くないよ」

 月瀬さんは背中をあやすように、ゆっくりと撫でた。

「ひとりで、よく頑張ったね」

 その瞬間、屋上を満たしていた重苦しい気配が僅かに薄れた。

 カタカタと震えていた供え物も、ぴたりと動きを止める。

 あれほど激しく僕たちを拒絶していた誠也くんが、月瀬さんの腕の中で呆然としている。

 彼女は、本当にあの霊の怒りを鎮めてしまったのだ。

「言ったでしょう? 私は、あなたに届けたいものがあるの」

 月瀬さんは誠也くんからゆっくりと身体を離すと、大切に握っていた木彫りの犬を差し出した。

 誠也くんは、それを不思議そうに見つめる。

 まだ完全に警戒を解いたわけではない。

 けれど、先ほどまで瞳に宿っていた激しい怒りは、明らかに弱まっていた。

『……これは?』

「これはね――」

 月瀬さんは木彫りの犬を見つめ、優しく目を細めた。

「君のお兄ちゃん、山口竜也くんが、君に届けてほしいと私へ託してくれたものだよ」

 その名前を聞いた瞬間、誠也くんの瞳が大きく揺れた。

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