登入『お兄ちゃんの……?』
誠也くんの瞳が、大きく見開かれた。 「うん。ほら、よく見てごらん?」 月瀬さんは安心させるように微笑み、手のひらに載せた木彫りの犬を差し出した。 誠也くんは迷うように何度も指を動かしてから、恐る恐る人形へ手を伸ばす。 透き通った小さな指先が、古びた木肌へ触れた。 その瞬間だった。 『あ……』 ぽろり、と。 誠也くんの大きな瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。 それをきっかけに、次から次へと大粒の涙が頬を伝っていく。誠也くんは慌てて目元を拭ったけれど、いくら拭っても止まらない。 『ぐすっ……。お兄ちゃんの……』 木彫りの犬を胸元へ抱き締め、その形を確かめるように何度も撫でる。 『お兄ちゃんを、感じる……!』 「これはね、竜也くんが、病院で一生懸命に病気と闘っている誠也くんのために、自分の手で彫ったものなの」 月瀬さんは、子どもへ絵本を読み聞かせるような優しい声で語りかけた。 「竜也くんが君へ届けたかった、愛のかたちなんだよ」 ――愛のかたち。 その言葉を聞いて、僕はもう一度、誠也くんの腕に抱かれた木彫りの犬へ目を向けた。 犬の身体はところどころいびつで、片脚も失われている。売り物として店に並んでいるような、綺麗に整った人形ではない。 それでも、なぜか温かい。 拙いながらも、彫った人の想いがそのまま形になったように見えた。 愛のかたちと呼ばれると、妙に納得できた。 けれど、同時に疑問も湧いてくる。 月瀬さんは、いったいどこでこの人形を手に入れたのだろう。 誠也くんが亡くなったのは、あのカルテによれば五十年以上も前だ。 それなのに、月瀬さんは誠也くんだけでなく、家族のことまで詳しく知っている。 誰かから聞いたのか。 けれど、その事情を知る人物が今も生きているとは考えにくい。 だとすれば――。 『お兄ちゃんが……僕のために?』 誠也くんの震える声に、思考を遮られた。 月瀬さんが、ゆっくり頷く。 「うん、そうだよ。だからね、誠也くん。君は決して、家族に見捨てられたわけじゃないの」 誠也くんの頬を、また一筋の涙が伝った。 「お父さんも、お母さんも、竜也くんも……どうしようもないくらい、君のことを愛していたんだよ」 『で、でも……!』 誠也くんは木彫りの犬を強く抱き締めた。 『それなら、どうして迎えに来てくれなかったの!? どうして誰も、僕に会いに来てくれなかったの……!?』 「……誠也くんの心の奥には、本当のことが残っているんだと思う」 月瀬さんの声に、深い悲しみが滲んだ。 「でも、あまりにも辛すぎたから……亡くなって霊になったとき、その記憶だけをうまく引き継げなかったのかもしれない」 記憶。 その言葉に、診察室で読んだカルテの一文が脳裏に蘇る。 『危篤状態の折、家族の――を知り――その後、容体急変。家族との面会は叶わず』 黒く塗り潰され、読むことのできなかった備考欄。 あそこに書かれていたのは、もしかすると――。 「君の家族はね、ちゃんと君に会いに来ようとしていたの」 月瀬さんは、誠也くんから目を逸らさなかった。 「でも、その途中で不慮の事故に遭ってしまった。だから、君のところまで来られなくなってしまったの」 『っ……』 誠也くんの身体が、びくりと震える。 見開かれた目の奥で、失われていた何かが少しずつ蘇っているように見えた。 「お父さんも、お母さんも、竜也くんも……最後まで君に会いたいと願っていたよ」 月瀬さんは、木彫りの犬へ視線を落とした。 「だから私は今、ここにいるの。三人から、君へ届けられなかった想いを託されたから」 その言葉に、迷いはなかった。 きっと月瀬さんは、本当に誠也くんの家族と会ったのだ。 ただし、生きている彼らとではない。 この世を彷徨い続けていた、三人の霊と。 『お兄ちゃん……』 誠也くんの腕に、力がこもる。 『お父さん……お母さん……っ』 もう、涙を止めることはできなかった。 誠也くんは何度も目元を擦るけれど、涙は指の隙間からとめどなく溢れてくる。 『う、うぇぇん……っ!』 とうとう堪えきれなくなったように、幼い泣き声を上げた。 『みんなに会いたい……! 僕も、みんなに会いたいよぉ……!』 「うん。会いたいよね」 月瀬さんは誠也くんの目線まで腰を落とし、そっと頭を撫でた。 「辛かったね。ずっと一人で待っていたんだもんね」 『うぇぇん……!』 「よしよし。もう大丈夫だよ」 泣きじゃくる誠也くんを、月瀬さんは優しく抱き寄せる。 「お父さんも、お母さんも、竜也くんも、向こうで君を待っているから。もうすぐ、みんなに会えるよ」 ついさっきまで、僕は誠也くんを恐ろしい霊だと思っていた。 身体を宙へ吹き飛ばされ、触れられれば何をされるか分からないと怯えていた。 けれど、今の僕の目に映っているのは――家族に会いたくて泣いている、たった七歳の子どもだった。 長い年月、迎えに来ない家族を待ち続けて。 自分は見捨てられたのだと思い込み、その寂しさを怒りへ変えることしかできなかった。 それだけだったのだ。 やがて、月瀬さんが僕を振り返った。 「先輩。もう大丈夫です」 「……え?」 「誠也くんの中にあった誤解は、解けました。これで、悪霊へ変わってしまう心配もないと思います」 「……そっか」 胸の奥に張りつめていたものが、ようやく緩んでいく。 同時に、僕は嫌というほど思い知らされた。 月瀬さんは、本物の霊能力者なのだ。 霊を恐れず、その苦しみに目を向け、迷うことなく手を差し伸べる。 自分よりも幼い霊を相手にするときは、きちんとその目線まで腰を落とす。 相手を霊としてではなく、一人の人間として見ている。 そんな彼女の姿を、僕はずっと昔にも見たことがあった。 ――母さんだ。 泣きじゃくる誠也くんへ寄り添う月瀬さんの横顔が、記憶の中の母さんと重なった。 『悠斗。霊はね、怖くないのよ』 幼い頃に聞いた声が、今になって鮮明に蘇る。 『怖い姿をしていても、怒っていても、ちゃんと理由があるの。だから、最初から怖いものだと決めつけてはいけないわ』 それなのに、僕はずっと霊を避けてきた。 見えないふりをして。 声が聞こえても、気づかないふりをして。 助けを求められていると分かっていても、自分には関係がないのだと言い聞かせてきた。 それが明日からすぐに変わるとは思えない。 僕は今だって霊が怖いし、進んで関わりたいとも思えない。 それでも――僕は、忘れかけていた母さんの在り方を思い出してしまった。 「先輩」 月瀬さんの声に、僕は顔を上げた。 「私から、一つだけお願いがあります」 「……なんだろう?」 月瀬さんは腕の中で泣き続ける誠也くんへ目を向けた。 「今だけは、この子を幽霊としてではなく……寂しさのあまり、感情の行き場を失ってしまった一人の子どもとして見てあげてください」 僕も、誠也くんを見る。 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、兄の形見を胸いっぱいに抱き締めている、小さな男の子。 もう、その姿を怖いとは思えなかった。 「……分かった」 「ありがとうございます」 月瀬さんが、柔らかく微笑む。 その笑顔を見たとき、僕の胸の奥で固まっていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。──櫻井悠斗── 「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄
その後、僕たちは誠也くんを見つけるため、二手に分かれて病院内を捜すことになった。 月瀬さんは一階から、僕は上の階から。「何かあったら、すぐに私を呼んでくださいね」 別れる直前、月瀬さんにはそう念を押された。 そして僕は今、二階のナースステーションを捜している。「誠也くーん。どこにいるのかなぁ……?」 わざとらしく声を響かせながら、机と机の間を歩いていく。 隠れている誠也くんへ、僕が近くまで来ていることを知らせるためだ。 ……まさか、こんなふうに霊と遊ぶ日が来るなんて思いもしなかった。 僕にとって、霊とは危険な存在だった。 いや――今でも、その考えが完全に変わったわけではない。 強い恨みや悪意を持った霊は、人を簡単に傷つける。つい先ほどだって、僕は誠也くんに吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたばかりだ。 ただ、それだけが霊のすべてではないことも、今日初めて知った。 あれほど恐ろしく見えた誠也くんも、本当は家族を待ち続けていた、寂しがり屋の七歳の男の子だったのだから。 それでも僕は、母さんのように霊へ手を差し伸べることができない。 僕が、霊を恐れない母さんとは正反対の考えを持つようになった理由。 それは、十年前にまで遡る。 ――僕と母さんは、何かに襲われた。 あの日の記憶は、今も途切れ途切れにしか残っていない。 僕へ迫ってきた、得体の知れない何か。 咄嗟に僕を抱き寄せた母さんの腕。 そして、僕を庇うように立ちはだかった背中。 次に覚えているのは、白い病室の天井だった。 母さんは僕を守った代わりに、その日から一度も目を覚ましていない。 十年間、ずっと。 鼻に残る消毒液の匂い。 冷たく、どこまでも続くように思えた病院の廊下。 そして枕元から聞こえてくる、 ピッ、ピッ、という無機質な機械音。 何度呼びかけても、母さんの瞼が開くことはなかった。 手を握っても、握り返してくれない。 あの日以来、病院も霊も、僕にとっては母さんを奪った記憶と切り離せないものになった。 だから僕は、今でも霊が怖い。 誠也くんのような子もいると分かっていても、その恐怖だけは簡単に消えてくれそうになかった。「……って、今は捜すことに集中しないと」 僕は小さく頭を振り、過去の記憶を追い払った。 * 机の下。 倒れた棚の隙間。