LOGIN──櫻井悠斗──
目の前の扉が、軋んだ音を立てて開いた。 暗闇を切り裂くように、白い光が差し込んでくる。ライトの光をまともに浴びた僕は、眩しさに耐えきれず顔を背けた。 「えっ……!? さ、櫻井先輩……!?」 驚きに弾んだ声が、静まり返った廊下に響く。 この声――聞き覚えがある。 まさか。 恐る恐る顔を上げると、ライトを下ろした少女の姿が闇の中から浮かび上がった。 桜翁の前で出会った、一年生の少女。 ――月瀬美琴さんだった。 「月瀬さん……!?」 どうして彼女がここにいるんだ。 疑問ばかりが頭の中を駆け巡り、何一つ答えにたどり着かない。 月瀬さんは急いで僕のそばまで来ると、床に座り込んでいる僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。 「先輩、大丈夫ですか? どうして、このような場所に……?」 戸惑いを滲ませながら、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。 それは、こっちの台詞なんだけど……。 そう言いかけて、口を閉じた。 月瀬さんが扉を開けてくれなければ、あのまま僕がどうなっていたか分からない。まずは僕から事情を話すべきだろう。 「実は、僕の幼なじみがここへ入り込んだみたいなんだ。昨日から家にも帰っていないらしくて……それで、僕が探しに来たんだよ」 「……そういうことでしたか」 月瀬さんは納得したように頷いた。 「ところで、その……月瀬さんは、どうしてこんなところへ?」 「私は、こちらを届けに来たんです」 「届ける……?」 月瀬さんは肩に掛けていた鞄を開き、中を探り始めた。 やがて取り出したのは、白いハンカチに包まれた小さな何かだった。 膝の上で丁寧に布を広げる。 中から現れたのは、木彫りの犬だった。 表面は黒ずみ、全身に深い傷が刻まれている。片脚も途中から折れて失われていた。それでも、丸みを帯びた素朴な形からは、誰かの手で大切にされてきたような温かさが感じられた。 これを届けに来たって……誰に? こんな廃病院にいる相手なんて――。 「それよりも、先ほど……ものすごい音が聞こえましたけど」 「うっ……」 心臓がぎくりと跳ねた。 きっと、僕が霊に吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたときの音だ。 けれど、正直に話していいものなのだろうか。 霊に襲われました――なんて口にしたところで、普通なら信じてもらえるはずがない。 「こ、転んじゃって……あはは……」 考えた末に口から出たのは、自分でも呆れるほど下手な嘘だった。 一体どう転べば、あれほど大きな音が鳴るのか。 言ってしまった以上、もう引き返せない。どうにか信じてくれと祈りながら笑ってみせたものの、月瀬さんの表情は変わらなかった。 「ええと……それは、嘘ですよね?」 やっぱり駄目だった。 「…………」 「…………」 気まずい沈黙が、僕たちの間に落ちる。 遠くで、どこからか水滴の落ちる音がした。 どうやって誤魔化そう。 必死に次の言葉を探していると、月瀬さんが静かに口を開いた。 「先輩には、幽霊が見えているのですよね?」 「……え?」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 月瀬さんは、冗談を口にした様子もなく僕を見つめている。 「私にも、ここにいる方々の姿が見えています。ですから、先輩が何を隠そうとしているのか、何となく分かってしまうんです」 その瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。 僕と母さん以外にも、霊が見える人がいる。 僕と同じものを見て、同じ声を聞くことのできる人が、今、目の前にいる。 誰かに説明することも、信じてもらおうとすることもなく、僕の見ている世界を分かってくれる人がいる。 その事実だけで、胸の奥に凝り固まっていた何かが、ほんの少しほどけたような気がした。 「月瀬さんも、霊が……見えるの?」 「はい。ですから、私には隠さなくて大丈夫ですよ」 月瀬さんの声は穏やかだった。 「先ほどの音も、霊の仕業だったのですよね?」 「う、うん。実は、ここにいる男の子の霊と出くわしてさ。いきなり吹き飛ばされて、扉に叩きつけられたんだ」 「なるほど……」 月瀬さんはわずかに眉を寄せ、何かを考えるように木彫りの犬へ視線を落とした。 それ以上深く聞かれると、情けない姿をすべて話すことになりそうだ。 僕は慌てて話題を変えた。 「あ、あのさ。届けに来たって言ってたけど……それ、誰に?」 尋ねると、月瀬さんは木彫りの犬を両手で包み込んだ。 まるで壊れやすい宝物を守るような、とても優しい手つきだった。 「この病院に留まり続けている男の子――山口誠也くんにです」 「……誠也くんに?」 つい先ほどまで僕を追い詰めていた、あの男の子。 どうして月瀬さんが、その名前を知っているんだ。 けれど、木彫りの犬を見つめる彼女の横顔に、嘘をついているような様子はなかった。 月瀬さんは間違いなく、誠也くんのことを知っている。 「ですが、急がなければなりません」 先ほどまでの穏やかな声が、僅かに重くなった。 「あの子は、あまりにも長いあいだ、この世に留まり続けています。積み重なった寂しさは、やがて怒りへ変わり……今では、深い恨みになりかけています」 木彫りの犬を握る彼女の指先に、わずかに力がこもる。 「ですから、一刻も早く見つけ出して、あるべき場所へ還してあげなければなりません」 「還すって……」 霊を、あるべき場所へ還す。 とても、僕より年下の高校一年生が口にするような言葉とは思えなかった。 まるで、本物の霊媒師みたいだ。 「でも、そんな……霊能力者みたいなこと、本当にできるの?」 「できます」 僕の疑いを断ち切るように、月瀬さんは即座に答えた。 そして、真っ直ぐに僕の目を見つめる。 「私は、先輩がおっしゃった通り――霊能力者ですから」 その言葉には、一切の迷いがなかった。 「霊能力者……」 あまりに予想外の告白に、それ以上の言葉が出てこない。 「先輩は、お友達を捜しに来たのですよね?」 「う、うん」 「でしたら、なおさら誠也くんを先に見つけなければなりません」 月瀬さんの表情が、さらに険しくなる。 「先輩のお友達を助けなければなりません。けれど同時に、誠也くんをこれ以上、この病院へ囚われたままにしておくこともできないのです」 静かな口調だった。 けれど、その声には隠しきれない焦りが滲んでいた。 「誠也くんが理性を保っていられる時間は、もうほとんど残されていません。このまま完全に悪霊となってしまえば、先輩のお友達を助けることも難しくなります」 「それは……!」 翔太の顔が脳裏に浮かんだ。 こんな場所へ一人で乗り込んできて、僕にできたことは何もない。 けれど月瀬さんは、誠也くんを助ける方法を知っている。 少なくとも、僕なんかよりずっと、この場所で何をすべきなのか分かっている。 「ですから、先輩」 月瀬さんが立ち上がり、僕へ手を差し伸べた。 「今は、私と一緒に誠也くんを捜しましょう。ついてきてください」 廃病院の闇の中で、その小さな手だけが、妙にはっきりと見えた。 「少なくとも、私のそばにいてくだされば大丈夫です。先輩のことは、私が必ずお守りしますから」 年下の女の子に守ると言われるのは、さすがに少し情けない。 それでも今の僕に、意地を張っている余裕なんてなかった。 「……分かった。月瀬さんを信じるよ」 差し出された手を取る。 その手は細く、驚くほど柔らかかった。 けれど、闇と冷気に閉ざされたこの病院で触れたその温もりは、不思議なくらい心強かった。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう