Mag-log inそれから、しばらくのあいだ。
胸に溜め込んでいた想いを抑えきれないように、誠也くんは泣き続けた。 小さなすすり泣きが、夜空へ昇っていく。 月瀬さんは何も急かさず、誠也くんのそばに寄り添っていた。僕も少し離れたところに腰を下ろし、その声が静まるのを待った。 やがて激しかった泣き声は、途切れ途切れの嗚咽へ変わっていく。 『ぐすっ……』 「誠也くん」 月瀬さんが、濡れた瞳を覗き込むように顔を寄せた。 「もしかして、最後に何か心残りがあるんじゃないかな?」 誠也くんは木彫りの犬を胸に抱いたまま、俯いてしまう。 『……たい』 「なぁに?」 月瀬さんが優しく聞き返す。 誠也くんは躊躇うように唇を震わせ、消え入りそうな声で答えた。 『最後に、もう一度だけ……遊びたい』 ――遊びたい。 それが、何十年ものあいだ孤独に耐えてきた、小さな男の子の最後の願いだった。 幸い、この病院は広い。 ボール遊びでも追いかけっこでも、それなりに遊べる場所はあるだろう。 もっとも、これほど古い廃病院に、都合よく使えるボールが転がっているとは思えない。追いかけっこなら何もなくてもできるけれど――僕には、それよりも一つ、試してみたい遊びが浮かんでいた。 誠也くんは、ずっと寂しかった。 どれだけ声を上げても誰にも気づいてもらえず、誰かが来ても、その人たちに誠也くんの姿は見えない。 そうして、長い年月をたった一人で過ごしてきた。 それなら――。 「かくれんぼなんて、どうかな?」 僕の言葉に、誠也くんが顔を上げた。 『かくれんぼ……?』 「うん。この病院なら隠れる場所もたくさんあるだろうし」 それだけが理由ではなかった。 誰にも見つけてもらえなかった寂しさが、誠也くんをこの世へ縛りつけているのなら。 最後に僕たちが必ず彼を見つけ出すことで、その孤独を少しでも和らげられるのではないか。 そう思ったのだ。 ……もっとも、この広い病院から小さな男の子を捜し出すのは、相当大変そうだけれど。 そこは、根性でどうにかするしかない。 僕の意図を察したのか、月瀬さんの表情がぱっと明るくなった。 「とても素敵な提案ですね」 それから、誠也くんへ笑顔を向ける。 「どうかな、誠也くん。かくれんぼ、してみる?」 『うん……』 誠也くんの顔にも、少しずつ笑みが戻っていく。 『やりたい!』 もう一度溢れそうになった涙を、小さな腕でごしごしと拭う。 先ほどまで身体を覆っていた薄暗い影は、いつの間にかほとんど消えていた。 木彫りの犬を胸に抱き、嬉しそうに笑う姿は、まるで本当に生きている七歳の男の子のようだった。 「それじゃあ、誠也くん」 月瀬さんが、そっと小指を差し出す。 「最後のかくれんぼをしようか」 『うん!』 「僕たちはここで数を数えるから、その間に隠れておいで」 僕も誠也くんへ笑いかけた。 「とっておきの場所に隠れるんだよ。どこに隠れても、僕たちが必ず見つけるから」 『分かった!』 誠也くんは屋上の扉へ駆け出しかけて、途中でこちらを振り返った。 その顔に、一瞬だけ不安が過ぎる。 『絶対……絶対に、見つけてね?』 「うん。約束する」 僕が頷くと、誠也くんは安心したように笑った。 『じゃあ、隠れてくる!』 木彫りの犬を大切そうに抱えたまま、屋上の扉へ飛び込む。 小さな身体は鉄扉をすり抜け、その向こうへ消えていった。 ぱたぱたと弾むような足音だけが、階段の下へ遠ざかっていく。 「……ははっ」 思わず、笑みが零れた。 ついさっきまで僕たちを睨み、物を投げつけていた霊と同じ子には、とても思えない。 「先輩、ありがとうございます」 月瀬さんが、深く頭を下げる。 「あの子がずっと抱えていた、『誰かに見つけてほしい』という願いに気づいてくださって」 「いや、そんな大したことじゃないよ」 少し気恥ずかしくなり、僕は頬を掻いた。 「あれくらいの子が、何十年も一人でいたんだ。だったら最後くらい、誰かにちゃんと見つけてもらいたいんじゃないかって思っただけだから」 「それでも、とても優しい考えだと思います」 そう言って微笑んだ月瀬さんだったけれど、その視線はすぐに僕の後ろへ移った。 屋上の中央に鎮座する、あの古びた社へ。 先ほどから、彼女は何度もあの社を気にしている。 「ところで……月瀬さん」 「はい?」 「さっきから、どうしてあの社を見ているの?」 僕が尋ねると、月瀬さんの表情から笑みが消えた。 「……先輩。誠也くんがこの病院に閉じ込められてしまった理由が、分かりました」 「閉じ込められた理由?」 「確かに、誠也くんには強い未練がありました。ですが、何十年ものあいだ、この場所から離れられなかった原因はそれだけではありません」 月瀬さんはそう告げると、社へ向かって歩き出した。 「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」 慌てて、そのあとを追う。 「先輩、こちらを見てください」 月瀬さんが指し示したのは、社の正面にある小さな扉だった。 「……なに、これ」 扉を覆い尽くすように、無数の御札が貼りつけられている。 一枚や二枚ではない。 黄ばんだ札が幾重にも重なり合い、扉の隙間さえ見えないほど、びっしりと貼り巡らされていた。 墨で書かれた文字は滲み、すでに読めない。それでも、そこからは人を寄せつけまいとする異様な執念が感じられた。 ぞわりと、腕の肌が粟立つ。 なんだ、これは。 どうして、ここまで狂気じみた数の御札が――。 「先輩は、霊能力についてどのくらいご存じですか?」 月瀬さんは御札を見つめたまま尋ねてきた。 「えっと……ごめん。僕は霊が見えるだけなんだ。何か特別なことができるわけでもないし、詳しい知識もほとんどなくて」 「でしたら、今後のためにも覚えておいた方がよいかもしれません」 「今後のため……?」 その言葉に妙な引っ掛かりを覚えたけれど、月瀬さんは構わず説明を続けた。 「確かに、御札には霊が嫌がる力や、邪気を祓う力があります。ですが、紙や文字だけで力を持つわけではありません」 月瀬さんは一枚の御札へ指を掛けると、躊躇なく引き剥がした。 ばりっ、と乾いた音が響く。 「御札とは、記された言葉を器として、術者の霊力と意思を封じたものです。そこへ真に力を宿らせるのは、術者が込めた想いなんですよ」 「言葉に、力が宿る……」 なんとなく、理解できる気がした。 言葉は人を傷つけることもあれば、癒やすこともある。 言葉には不思議な力が宿っているのだと、幼い頃、母さんから聞いたことがあった。 昔から言霊という言葉があるように、口にしたものや文字に記したものには、目に見えない何かが宿るのだと。 当時の僕は、それをただの喩えだと思っていた。 けれど月瀬さんは今、それを文字どおりの力として語っている。 「言葉は、人の心を傷つけることも、救うこともできます。それは、霊に対しても同じです」 月瀬さんは剥がした御札へ目を落とし、そこに残された何かを読み取るように目を細めた。 「この御札を貼った方は、霊を正しく祓うのではなく、ただこの場所へ封じ込めようとしたようです」 細い指に力が込められる。 びりっ、と音を立て、御札が真っ二つに裂けた。 その瞬間、社を包んでいた空気が僅かに軋んだ。 「おそらく、悪霊を外へ出さないためだったのでしょう。ですが、御札に込められた命令は、善い霊と悪い霊を区別してはくれません」 月瀬さんは、扉を埋め尽くす御札を見上げた。 「これほど多くの御札を貼り重ねた結果、社を中心として病院全体を覆う結界が生まれてしまった。そして、この病院にいた魂はすべて、外へ出られなくなったのです」 「じゃあ、誠也くんは……」 「はい。未練だけで留まっていたのではありません」 月瀬さんの声に、僅かな怒りが混じったように聞こえた。 「あの子は、誰かが作った結界によって、この病院へ無理やり縛りつけられていたんです」 誠也くんは自分から離れなかったのではない。 家族に会いたいと願いながらも、何十年ものあいだ、ここから出ることを許されなかったのだ。 そう考えた途端、胸の奥が苦しくなった。 「……月瀬さんって、本当に詳しいんだね」 僕が呟くと、月瀬さんは不思議そうに首を傾げた。 「私は巫女ですから」 ――巫女? 巫女って……あの巫女? 「ちょ、ちょっと待って。理解が追いつかない」 ただでさえ、霊能力者だと聞かされたばかりなのだ。 そこへ、さらに巫女という情報まで加わり、僕の頭は完全に混乱していた。 「じゃあ、月瀬さんの霊能力や、その知識は……」 「はい。巫女として身につけたものです」 月瀬さんは、まるで当たり前のことを話すように答えた。 けれど、僕にとっては当たり前どころか、何一つ理解の追いつかない話だった。 ──────────── ――永劫の刻の中で、妾はただ眺め続けている。 生まれては消えゆく、無数の命のきらめきを。 喜びも、悲しみも、怒りも。 そのすべては時の|大河《たいが》へ溶けてゆく、ほんの些細な揺らぎにすぎぬ。 ひとつの小さな魂が、妾にとっては瞬きほどの時を、ただ待ち続けていた。 届かぬ声を上げ、叶わぬ願いを抱き、暗闇の中で凍えながら。 それもまた、この世に無数と存在する、ありふれた悲劇の一つ。 だが――。 今宵、三つの糸が交わった。 母の悲しみを継ぐ者。 一族の宿命を、その身に負う者。 そして、永い孤独に凍え続けた者。 彼らが選んだのは、祓うことでも、封じることでもなかった。 ただ共に遊ぶという、あまりにも人間らしく、あまりにも尊い選択。 涙を流し、手を取り、|微笑《ほほえ》み合う。 その温もりこそが、凍てついた魂を溶かす唯一の光なのだと――あの子らは、すでに知っていたのだろうか。 ああ、愛おしき子らよ。 その優しさは、やがて訪れる過酷な運命を照らす灯火となるか。 それとも、自らの身を焦がす業火となるか。 今はまだ、誰も知らぬ。 ……さあ、始めなさい。 永い夜の終わりを告げる、最後のかくれんぼを。 その結末を、妾は静かに見届けよう。最後の光が消えてから、どれほどの時間が流れたのだろう。 僕は天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。 誠也くんたちが昇っていった場所には、もう何もない。ひび割れた天井と、長い年月をかけて広がった黒い雨染みが残されているだけだ。 それでも、あの白い光はまだ瞼の裏に焼きついていた。「先輩、お疲れさまでした」 隣から聞こえた声に、ようやく顔を向ける。 月瀬さんは神楽鈴を鞄へ戻すところだった。涙の跡が頬に残り、肩もわずかに落ちている。声は普段と変わらなかったけれど、その顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。「月瀬さんこそ。僕は……何もしてないけどね」 自分でも困るくらい、乾いた笑いが漏れた。 誠也くんを見つけたのも、凍りついていた心を解いたのも、最後に家族のもとへ送り届けたのも、すべて月瀬さんだ。 僕はただ、その隣で見ていただけだった。「いいえ」 月瀬さんは鞄を閉じる手を止め、まっすぐ僕を見た。「『かくれんぼをしよう』と、最初に提案してくださったのは先輩です」「でも、月瀬さんには分かってたんでしょ? 誠也くんが、本当は見つけてほしがってたこと」「想いを読み取れることと、その子に必要な手を差し伸べられることは、同じではありません」 月瀬さんは、誠也くんが眠っていたソファへ目を向けた。「私は誠也くんを、救うべき御魂として見ていました。けれど先輩は、私の言う通り寂しくて誰かと遊びたがっている、ひとりの男の子として見てくださった」「それは……」「術で魂の縛めを解くことはできます。ですが、閉ざされた心を無理に開くことはできません。最後にこちらの手を取るのは、その御魂自身です」 そこで、月瀬さんは再び僕を見た。「誠也くんが私たちを信じ、手を伸ばしてくれたのは、先輩が一緒に遊んでくださったからです。それに、最後にかけた言葉も――あの子が自分の人生を受け入れるために、必要なものでした」「でも、僕じゃなくても……」「どうか、『僕でなくてもできた』と、ご自分のしたことまで消してしまわないでください」 柔らかな声だった。 それなのに、今度は言い返せなかった。 僕の言葉を聞いたときに浮かべた、誠也くんの笑顔を思い出す。 僕が自分の言葉を否定してしまえば、あの子が受け取ってくれた想いまで嘘にしてしまうような気がした。「……ありがとう、月瀬さ
──櫻井悠斗── 「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄