Home / ホラー / 縁が結ぶ影 / 13.最後のかくれんぼ

Share

13.最後のかくれんぼ

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-20 12:14:13

 それから、しばらくのあいだ。

 胸に溜め込んでいた想いを抑えきれないように、誠也くんは泣き続けた。

 小さなすすり泣きが、夜空へ昇っていく。

 月瀬さんは何も急かさず、誠也くんのそばに寄り添っていた。僕も少し離れたところに腰を下ろし、その声が静まるのを待った。

 やがて激しかった泣き声は、途切れ途切れの嗚咽へ変わっていく。

『ぐすっ……』

「誠也くん」

 月瀬さんが、濡れた瞳を覗き込むように顔を寄せた。

「もしかして、最後に何か心残りがあるんじゃないかな?」

 誠也くんは木彫りの犬を胸に抱いたまま、俯いてしまう。

『……たい』

「なぁに?」

 月瀬さんが優しく聞き返す。

 誠也くんは躊躇うように唇を震わせ、消え入りそうな声で答えた。

『最後に、もう一度だけ……遊びたい』

 ――遊びたい。

 それが、何十年ものあいだ孤独に耐えてきた、小さな男の子の最後の願いだった。

 幸い、この病院は広い。

 ボール遊びでも追いかけっこでも、それなりに遊べる場所はあるだろう。

 もっとも、これほど古い廃病院に、都合よく使えるボールが転がっているとは思えない。追いかけっこなら何もなくてもできるけれど――僕には、それよりも一つ、試してみたい遊びが浮かんでいた。

 誠也くんは、ずっと寂しかった。

 どれだけ声を上げても誰にも気づいてもらえず、誰かが来ても、その人たちに誠也くんの姿は見えない。

 そうして、長い年月をたった一人で過ごしてきた。

 それなら――。

「かくれんぼなんて、どうかな?」

 僕の言葉に、誠也くんが顔を上げた。

『かくれんぼ……?』

「うん。この病院なら隠れる場所もたくさんあるだろうし」

 それだけが理由ではなかった。

 誰にも見つけてもらえなかった寂しさが、誠也くんをこの世へ縛りつけているのなら。

 最後に僕たちが必ず彼を見つけ出すことで、その孤独を少しでも和らげられるのではないか。

 そう思ったのだ。

 ……もっとも、この広い病院から小さな男の子を捜し出すのは、相当大変そうだけれど。

 そこは、根性でどうにかするしかない。

 僕の意図を察したのか、月瀬さんの表情がぱっと明るくなった。

「とても素敵な提案ですね」

 それから、誠也くんへ笑顔を向ける。

「どうかな、誠也くん。かくれんぼ、してみる?」

『うん……』

 誠也くんの顔にも、少しずつ笑みが戻っていく。

『やりたい!』

 もう一度溢れそうになった涙を、小さな腕でごしごしと拭う。

 先ほどまで身体を覆っていた薄暗い影は、いつの間にかほとんど消えていた。

 木彫りの犬を胸に抱き、嬉しそうに笑う姿は、まるで本当に生きている七歳の男の子のようだった。

「それじゃあ、誠也くん」

 月瀬さんが、そっと小指を差し出す。

「最後のかくれんぼをしようか」

『うん!』

「僕たちはここで数を数えるから、その間に隠れておいで」

 僕も誠也くんへ笑いかけた。

「とっておきの場所に隠れるんだよ。どこに隠れても、僕たちが必ず見つけるから」

『分かった!』

 誠也くんは屋上の扉へ駆け出しかけて、途中でこちらを振り返った。

 その顔に、一瞬だけ不安が過ぎる。

『絶対……絶対に、見つけてね?』

「うん。約束する」

 僕が頷くと、誠也くんは安心したように笑った。

『じゃあ、隠れてくる!』

 木彫りの犬を大切そうに抱えたまま、屋上の扉へ飛び込む。

 小さな身体は鉄扉をすり抜け、その向こうへ消えていった。

 ぱたぱたと弾むような足音だけが、階段の下へ遠ざかっていく。

「……ははっ」

 思わず、笑みが零れた。

 ついさっきまで僕たちを睨み、物を投げつけていた霊と同じ子には、とても思えない。

「先輩、ありがとうございます」

 月瀬さんが、深く頭を下げる。

「あの子がずっと抱えていた、『誰かに見つけてほしい』という願いに気づいてくださって」

「いや、そんな大したことじゃないよ」

 少し気恥ずかしくなり、僕は頬を掻いた。

「あれくらいの子が、何十年も一人でいたんだ。だったら最後くらい、誰かにちゃんと見つけてもらいたいんじゃないかって思っただけだから」

「それでも、とても優しい考えだと思います」

 そう言って微笑んだ月瀬さんだったけれど、その視線はすぐに僕の後ろへ移った。

 屋上の中央に鎮座する、あの古びた社へ。

 先ほどから、彼女は何度もあの社を気にしている。

「ところで……月瀬さん」

「はい?」

「さっきから、どうしてあの社を見ているの?」

 僕が尋ねると、月瀬さんの表情から笑みが消えた。

「……先輩。誠也くんがこの病院に閉じ込められてしまった理由が、分かりました」

「閉じ込められた理由?」

「確かに、誠也くんには強い未練がありました。ですが、何十年ものあいだ、この場所から離れられなかった原因はそれだけではありません」

 月瀬さんはそう告げると、社へ向かって歩き出した。

「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」

 慌てて、そのあとを追う。

「先輩、こちらを見てください」

 月瀬さんが指し示したのは、社の正面にある小さな扉だった。

「……なに、これ」

 扉を覆い尽くすように、無数の御札が貼りつけられている。

 一枚や二枚ではない。

 黄ばんだ札が幾重にも重なり合い、扉の隙間さえ見えないほど、びっしりと貼り巡らされていた。

 墨で書かれた文字は滲み、すでに読めない。それでも、そこからは人を寄せつけまいとする異様な執念が感じられた。

 ぞわりと、腕の肌が粟立つ。

 なんだ、これは。

 どうして、ここまで狂気じみた数の御札が――。

「先輩は、霊能力についてどのくらいご存じですか?」

 月瀬さんは御札を見つめたまま尋ねてきた。

「えっと……ごめん。僕は霊が見えるだけなんだ。何か特別なことができるわけでもないし、詳しい知識もほとんどなくて」

「でしたら、今後のためにも覚えておいた方がよいかもしれません」

「今後のため……?」

 その言葉に妙な引っ掛かりを覚えたけれど、月瀬さんは構わず説明を続けた。

「確かに、御札には霊が嫌がる力や、邪気を祓う力があります。ですが、紙や文字だけで力を持つわけではありません」

 月瀬さんは一枚の御札へ指を掛けると、躊躇なく引き剥がした。

 ばりっ、と乾いた音が響く。

「御札とは、記された言葉を器として、術者の霊力と意思を封じたものです。そこへ真に力を宿らせるのは、術者が込めた想いなんですよ」

「言葉に、力が宿る……」

 なんとなく、理解できる気がした。

 言葉は人を傷つけることもあれば、癒やすこともある。

 言葉には不思議な力が宿っているのだと、幼い頃、母さんから聞いたことがあった。

 昔から言霊という言葉があるように、口にしたものや文字に記したものには、目に見えない何かが宿るのだと。

 当時の僕は、それをただの喩えだと思っていた。

 けれど月瀬さんは今、それを文字どおりの力として語っている。

「言葉は、人の心を傷つけることも、救うこともできます。それは、霊に対しても同じです」

 月瀬さんは剥がした御札へ目を落とし、そこに残された何かを読み取るように目を細めた。

「この御札を貼った方は、霊を正しく祓うのではなく、ただこの場所へ封じ込めようとしたようです」

 細い指に力が込められる。

 びりっ、と音を立て、御札が真っ二つに裂けた。

 その瞬間、社を包んでいた空気が僅かに軋んだ。

「おそらく、悪霊を外へ出さないためだったのでしょう。ですが、御札に込められた命令は、善い霊と悪い霊を区別してはくれません」

 月瀬さんは、扉を埋め尽くす御札を見上げた。

「これほど多くの御札を貼り重ねた結果、社を中心として病院全体を覆う結界が生まれてしまった。そして、この病院にいた魂はすべて、外へ出られなくなったのです」

「じゃあ、誠也くんは……」

「はい。未練だけで留まっていたのではありません」

 月瀬さんの声に、僅かな怒りが混じったように聞こえた。

「あの子は、誰かが作った結界によって、この病院へ無理やり縛りつけられていたんです」

 誠也くんは自分から離れなかったのではない。

 家族に会いたいと願いながらも、何十年ものあいだ、ここから出ることを許されなかったのだ。

 そう考えた途端、胸の奥が苦しくなった。

「……月瀬さんって、本当に詳しいんだね」

 僕が呟くと、月瀬さんは不思議そうに首を傾げた。

「私は巫女ですから」

 ――巫女?

 巫女って……あの巫女?

「ちょ、ちょっと待って。理解が追いつかない」

 ただでさえ、霊能力者だと聞かされたばかりなのだ。

 そこへ、さらに巫女という情報まで加わり、僕の頭は完全に混乱していた。

「じゃあ、月瀬さんの霊能力や、その知識は……」

「はい。巫女として身につけたものです」

 月瀬さんは、まるで当たり前のことを話すように答えた。

 けれど、僕にとっては当たり前どころか、何一つ理解の追いつかない話だった。

     ────────────

 ――永劫の刻の中で、妾はただ眺め続けている。

 生まれては消えゆく、無数の命のきらめきを。

 喜びも、悲しみも、怒りも。

 そのすべては時の|大河《たいが》へ溶けてゆく、ほんの些細な揺らぎにすぎぬ。

 ひとつの小さな魂が、妾にとっては瞬きほどの時を、ただ待ち続けていた。

 届かぬ声を上げ、叶わぬ願いを抱き、暗闇の中で凍えながら。

 それもまた、この世に無数と存在する、ありふれた悲劇の一つ。

 だが――。

 今宵、三つの糸が交わった。

 母の悲しみを継ぐ者。

 一族の宿命を、その身に負う者。

 そして、永い孤独に凍え続けた者。

 彼らが選んだのは、祓うことでも、封じることでもなかった。

 ただ共に遊ぶという、あまりにも人間らしく、あまりにも尊い選択。

 涙を流し、手を取り、|微笑《ほほえ》み合う。

 その温もりこそが、凍てついた魂を溶かす唯一の光なのだと――あの子らは、すでに知っていたのだろうか。

 ああ、愛おしき子らよ。

 その優しさは、やがて訪れる過酷な運命を照らす灯火となるか。

 それとも、自らの身を焦がす業火となるか。

 今はまだ、誰も知らぬ。

 ……さあ、始めなさい。

 永い夜の終わりを告げる、最後のかくれんぼを。

 その結末を、妾は静かに見届けよう。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 縁が結ぶ影   47.動き出す針

    「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく

  • 縁が結ぶ影   46.私に任せてください

     夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張

  • 縁が結ぶ影   45.巫女の役目

    「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江

  • 縁が結ぶ影   44.拒絶

     そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて

  • 縁が結ぶ影   43.変わる心

     その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕

  • 縁が結ぶ影   42.鬼が出る場所

              ──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status