LOGIN──山口誠也──
僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。 「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。 「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。 「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」 「……誠也」 「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。 「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」 「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。 「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。 「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。 「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。 「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がたくさん出て、時々、血も出る。 一度咳が始まると、なかなか止まってくれない。 そんなときは、お母さんとお父さんがすぐに薬を出し、水と一緒に飲ませてくれる。 あの薬は、とても苦い。 口の中にずっと嫌な味が残るから、僕はあまり好きじゃなかった。 でも、ちゃんと飲まないと生きられないと聞いたから、嫌でも我慢して飲んでいる。 「……もう平気?」 お母さんが、僕の顔を覗き込んだ。 「うん。大丈夫」 本当は、胸の奥がまだ少し痛かった。 けれど、そう言ったら、お母さんはもっと悲しい顔をすると思った。 お父さんもお母さんも、まだ心配そうに僕を見ている。 大丈夫だよ。 心配しないで。 僕は何度もそう言っているのに、この身体は時々、僕の言うことを聞いてくれなくなる。 だから二人は、ずっと心配しているのだろう。 もっと強い身体に生まれていたら、僕はもっといい子になれたのかな。 お母さんを泣かせずに済んだのかな。 お父さんも、あんなに疲れた顔をしなくて済んだのかな。 それに――。 お兄ちゃんとも、もっとたくさん遊べたのかな。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 車はそのまま、桜織病院へ着いた。 僕がこれまでに何度か入院したことのある、大きな病院だ。 お父さんが駐車場に車を止めると、二人は僕を残して外へ出た。 「誠也、少しだけ待っていてね。先生とお話ししてくるから」 「うん」 車の中で待っていると、病院の入口から白い服を着た人が出てきた。 いつもの、じいちゃん先生だ。 じいちゃん先生は、白い服に白い髪。 本当のおじいちゃんみたいに優しい顔で笑うから、僕はずっとそう呼んでいる。 車の中にいる僕へ気づくと、じいちゃん先生は大きく手を振ってくれた。 僕も嬉しくなって、ロボットを持っていない方の手を振り返す。 「何を話してるんだろう……」 窓が閉まっているから、外の声は聞こえない。 お父さんとお母さんは、じいちゃん先生へ何度も頭を下げていた。 じいちゃん先生は困ったように頭の後ろを掻きながら、「そんなに頭を下げなくていい」と言うみたいに両手を振っている。 しばらくすると、後ろの扉が開いた。 「誠也、お待たせ。もう大丈夫よ」 お母さんが僕へ手を差し出した。 「うん」 僕は緑色のロボットを持ったまま、車を降りようとした。 すると、お父さんが小さな紙袋から、見たことのないものを取り出した。 木でできた、ハンマーみたいなもの。 そこから紐が伸びていて、先には赤い玉がついている。 「誠也、そのロボットは少し大きいからな。入院している間は、代わりにこれを持っていくといい」 僕はロボットと、赤い玉のついたおもちゃを見比べた。 「これは、なぁに?」 「けん玉というおもちゃだよ、誠也くん」 じいちゃん先生が教えてくれた。 「けんだま?」 「ああ。ちょっと貸してごらん」 お父さんから受け取ったけん玉を、じいちゃん先生へ渡す。 じいちゃん先生は赤い玉を下へ垂らすと、膝を曲げて、ひょいっと持ち上げた。 こんっ。 赤い玉が、木のお皿に乗る。 もう一度、玉を跳ね上げる。 かんっ、こんっ。 右のお皿から左のお皿へ、赤い玉が次々と飛び移っていく。 「すごい!」 僕が手を叩くと、じいちゃん先生は得意そうに笑った。 「ははは、すごいだろう? 練習すれば、誠也くんにもできるようになるよ」 「やってみたい!」 「もちろん。ただし、けん玉は音が鳴るからね。自分の部屋以外では遊んではいけないよ?」 「うん、分かった!」 けん玉を返してもらい、僕は赤い玉を何度も眺めた。 これなら、病院にいる間も退屈しないかもしれない。 けれど僕が顔を上げると、お父さんとお母さんは、また寂しそうな顔をしていた。 「……先生。それでは、私たちはこれで失礼します」 お父さんが、深く頭を下げる。 「どうか……どうか、この子を助けてください」 お母さんも、消えそうな声でお願いした。 「顔を上げてください」 じいちゃん先生は、二人の肩へ優しく手を置いた。 「私にとっても、誠也くんは可愛い孫のような存在です。できる限りのことをします」 「ありがとう……ございます……」 「しかし、お二人とも、あまり眠れていないのでしょう? 目の下の隈がひどい」 じいちゃん先生の顔が、少しだけ怖くなった。 「誠也くんのためとはいえ、朝から晩まで働き続けていては、お二人の身体がもちません。どうか、ご自分の身体も大切にしてください」 じいちゃん先生は、僕の方を見て続けた。 「せっかく誠也くんが元気になっても、お父さんとお母さんに何かあれば、この子が悲しみますから」 じいちゃん先生は難しい話をしていた。 僕にはよく分からなかったけれど、お父さんとお母さんのことまで心配してくれているのは分かった。 やっぱり、じいちゃん先生は優しい。 「……はい。ですが、もう少しなんです」 お父さんが、握った手を震わせながら答えた。 「もう少しで、誠也に必要な治療費が――」 「あなた」 お母さんが、お父さんの言葉を止めた。 「今は誠也の前よ。笑って送り出しましょう」 「……そうだな」 二人は僕へ振り返ると、無理やり笑ったような顔をした。 そうだ。 僕はこれから、何日か分からない入院をする。 前に入院したときは、四十五日だったとじいちゃん先生が教えてくれた。 今度は、何日で帰れるのだろう。 「それじゃあ、誠也。お母さんたちは行くからね」 「うん! 誠也は大丈夫だよ!」 二人を安心させたくて、僕はできるだけ元気な声を出した。 「じいちゃん先生がお菓子をくれるから、どんなに辛いことだってへっちゃら!」 「こらこら。私がいつでもお菓子をあげると思ったら大間違いだぞ」 じいちゃん先生が困ったように笑う。 お父さんとお母さんも、少しだけ笑ってくれた。 本当は、辛い。 二人のそばから離れたくない。 帰らないで、と言いたい。 けれど僕がそばにいると、二人はずっと僕の心配をしてしまう。 たくさんお仕事をして、眠ることもできなくなってしまう。 だから僕は、早く病気を治さなければならない。 ちゃんと薬を飲んで、苦しい治療も我慢して、元気にならなければならない。 ……治るといいな。 「そうだ、誠也」 お父さんが、僕の頭を大きな手で撫でた。 「元気になって帰ってきたら、また海へ釣りに行こう」 「ほんと!?」 思わず大きな声が出た。 「絶対だよ!?」 「ああ。約束だ」 お父さんが小指を差し出す。 僕も小指を絡め、指切りをした。 「約束だからね!」 「ああ」 お父さんとお母さんは、もう一度僕の頭を撫でてから、車へ戻っていった。 お母さんは何度も振り返り、そのたびに手を振ってくれる。 僕も、けん玉を握っていない方の手を大きく振り返した。 やがて車が動き出す。 お父さんとお母さんを乗せた車は、少しずつ僕から遠ざかっていった。 小さくなって、角を曲がって、見えなくなってしまう。 それでも僕は、しばらく手を振り続けていた。 海へ釣りに行く約束ができたから、今度の入院もきっと頑張れる。 病気を治して、またお父さんとお母さんのところへ帰るんだ。 僕は赤い玉のついたけん玉を、胸の前でぎゅっと握り締めた。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう