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16.約束

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-22 11:00:00

 ──山口誠也──

 僕は、車の後ろの席に座っていた。

 手には、緑色のロボットのおもちゃ。

 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。

「誠也……」

 前の席から、お母さんの声が聞こえた。

「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」

 また、悲しそうな声だった。

 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。

「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」

「……誠也」

「そうだな」

 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。

「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」

「うん!」

 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。

 笑ってくれるかな、と思ったから。

 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。

 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。

 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。

 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。

 どうしてなんだろう。

 僕のかかった病気は、そんなに――。

「げほっ、げほっ……!」

 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。

「げほっ……ごほっ、ごほっ!」

 熱い何かが喉までせり上がってくる。

 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。

「誠也!?」

 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。

 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。

「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」

 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。

 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。

 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。

 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。

 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。

 咳がたくさん出て、時々、血も出る。

 一度咳が始まると、なかなか止まってくれない。

 そんなときは、お母さんとお父さんがすぐに薬を出し、水と一緒に飲ませてくれる。

 あの薬は、とても苦い。

 口の中にずっと嫌な味が残るから、僕はあまり好きじゃなかった。

 でも、ちゃんと飲まないと生きられないと聞いたから、嫌でも我慢して飲んでいる。

「……もう平気?」

 お母さんが、僕の顔を覗き込んだ。

「うん。大丈夫」

 本当は、胸の奥がまだ少し痛かった。

 けれど、そう言ったら、お母さんはもっと悲しい顔をすると思った。

 お父さんもお母さんも、まだ心配そうに僕を見ている。

 大丈夫だよ。

 心配しないで。

 僕は何度もそう言っているのに、この身体は時々、僕の言うことを聞いてくれなくなる。

 だから二人は、ずっと心配しているのだろう。

 もっと強い身体に生まれていたら、僕はもっといい子になれたのかな。

 お母さんを泣かせずに済んだのかな。

 お父さんも、あんなに疲れた顔をしなくて済んだのかな。

 それに――。

 お兄ちゃんとも、もっとたくさん遊べたのかな。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 車はそのまま、桜織病院へ着いた。

 僕がこれまでに何度か入院したことのある、大きな病院だ。

 お父さんが駐車場に車を止めると、二人は僕を残して外へ出た。

「誠也、少しだけ待っていてね。先生とお話ししてくるから」

「うん」

 車の中で待っていると、病院の入口から白い服を着た人が出てきた。

 いつもの、じいちゃん先生だ。

 じいちゃん先生は、白い服に白い髪。

 本当のおじいちゃんみたいに優しい顔で笑うから、僕はずっとそう呼んでいる。

 車の中にいる僕へ気づくと、じいちゃん先生は大きく手を振ってくれた。

 僕も嬉しくなって、ロボットを持っていない方の手を振り返す。

「何を話してるんだろう……」

 窓が閉まっているから、外の声は聞こえない。

 お父さんとお母さんは、じいちゃん先生へ何度も頭を下げていた。

 じいちゃん先生は困ったように頭の後ろを掻きながら、「そんなに頭を下げなくていい」と言うみたいに両手を振っている。

 しばらくすると、後ろの扉が開いた。

「誠也、お待たせ。もう大丈夫よ」

 お母さんが僕へ手を差し出した。

「うん」

 僕は緑色のロボットを持ったまま、車を降りようとした。

 すると、お父さんが小さな紙袋から、見たことのないものを取り出した。

 木でできた、ハンマーみたいなもの。

 そこから紐が伸びていて、先には赤い玉がついている。

「誠也、そのロボットは少し大きいからな。入院している間は、代わりにこれを持っていくといい」

 僕はロボットと、赤い玉のついたおもちゃを見比べた。

「これは、なぁに?」

「けん玉というおもちゃだよ、誠也くん」

 じいちゃん先生が教えてくれた。

「けんだま?」

「ああ。ちょっと貸してごらん」

 お父さんから受け取ったけん玉を、じいちゃん先生へ渡す。

 じいちゃん先生は赤い玉を下へ垂らすと、膝を曲げて、ひょいっと持ち上げた。

 こんっ。

 赤い玉が、木のお皿に乗る。

 もう一度、玉を跳ね上げる。

 かんっ、こんっ。

 右のお皿から左のお皿へ、赤い玉が次々と飛び移っていく。

「すごい!」

 僕が手を叩くと、じいちゃん先生は得意そうに笑った。

「ははは、すごいだろう? 練習すれば、誠也くんにもできるようになるよ」

「やってみたい!」

「もちろん。ただし、けん玉は音が鳴るからね。自分の部屋以外では遊んではいけないよ?」

「うん、分かった!」

 けん玉を返してもらい、僕は赤い玉を何度も眺めた。

 これなら、病院にいる間も退屈しないかもしれない。

 けれど僕が顔を上げると、お父さんとお母さんは、また寂しそうな顔をしていた。

「……先生。それでは、私たちはこれで失礼します」

 お父さんが、深く頭を下げる。

「どうか……どうか、この子を助けてください」

 お母さんも、消えそうな声でお願いした。

「顔を上げてください」

 じいちゃん先生は、二人の肩へ優しく手を置いた。

「私にとっても、誠也くんは可愛い孫のような存在です。できる限りのことをします」

「ありがとう……ございます……」

「しかし、お二人とも、あまり眠れていないのでしょう? 目の下の隈がひどい」

 じいちゃん先生の顔が、少しだけ怖くなった。

「誠也くんのためとはいえ、朝から晩まで働き続けていては、お二人の身体がもちません。どうか、ご自分の身体も大切にしてください」

 じいちゃん先生は、僕の方を見て続けた。

「せっかく誠也くんが元気になっても、お父さんとお母さんに何かあれば、この子が悲しみますから」

 じいちゃん先生は難しい話をしていた。

 僕にはよく分からなかったけれど、お父さんとお母さんのことまで心配してくれているのは分かった。

 やっぱり、じいちゃん先生は優しい。

「……はい。ですが、もう少しなんです」

 お父さんが、握った手を震わせながら答えた。

「もう少しで、誠也に必要な治療費が――」

「あなた」

 お母さんが、お父さんの言葉を止めた。

「今は誠也の前よ。笑って送り出しましょう」

「……そうだな」

 二人は僕へ振り返ると、無理やり笑ったような顔をした。

 そうだ。

 僕はこれから、何日か分からない入院をする。

 前に入院したときは、四十五日だったとじいちゃん先生が教えてくれた。

 今度は、何日で帰れるのだろう。

「それじゃあ、誠也。お母さんたちは行くからね」

「うん! 誠也は大丈夫だよ!」

 二人を安心させたくて、僕はできるだけ元気な声を出した。

「じいちゃん先生がお菓子をくれるから、どんなに辛いことだってへっちゃら!」

「こらこら。私がいつでもお菓子をあげると思ったら大間違いだぞ」

 じいちゃん先生が困ったように笑う。

 お父さんとお母さんも、少しだけ笑ってくれた。

 本当は、辛い。

 二人のそばから離れたくない。

 帰らないで、と言いたい。

 けれど僕がそばにいると、二人はずっと僕の心配をしてしまう。

 たくさんお仕事をして、眠ることもできなくなってしまう。

 だから僕は、早く病気を治さなければならない。

 ちゃんと薬を飲んで、苦しい治療も我慢して、元気にならなければならない。

 ……治るといいな。

「そうだ、誠也」

 お父さんが、僕の頭を大きな手で撫でた。

「元気になって帰ってきたら、また海へ釣りに行こう」

「ほんと!?」

 思わず大きな声が出た。

「絶対だよ!?」

「ああ。約束だ」

 お父さんが小指を差し出す。

 僕も小指を絡め、指切りをした。

「約束だからね!」

「ああ」

 お父さんとお母さんは、もう一度僕の頭を撫でてから、車へ戻っていった。

 お母さんは何度も振り返り、そのたびに手を振ってくれる。

 僕も、けん玉を握っていない方の手を大きく振り返した。

 やがて車が動き出す。

 お父さんとお母さんを乗せた車は、少しずつ僕から遠ざかっていった。

 小さくなって、角を曲がって、見えなくなってしまう。

 それでも僕は、しばらく手を振り続けていた。

 海へ釣りに行く約束ができたから、今度の入院もきっと頑張れる。

 病気を治して、またお父さんとお母さんのところへ帰るんだ。

 僕は赤い玉のついたけん玉を、胸の前でぎゅっと握り締めた。

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